白い砂漠の戦場で出会った、機関銃の女神
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この星は朝を知らず、夜を好む。そして、寒い。岩場に設けたベースキャンプで休息をとるにも、いつだって火が欠かせない。
そもそもなぜ、ぼくはこの星に来たのか。誰かのためじゃない。自分のためだ。高給と緊張感が欲しかった。なんとも俗物的な発想だと思いはするけれど、当初の目的はほんとうにそれだけだった。当初。そう、当初だ。いまは違う。いまは戦うことそのものに意味と意義を見出している。戦うことこそがぼくの人生。男に生まれてきた以上、うん、男だったら最後まで戦い抜かなくちゃ。男なんだから顎を引いて前を睨まなくちゃ。神様はいつもぼくの頭の中で「前を向け、前を向け」と告げてくる。無視できないくらいの大きな声で。幸か不幸か、ぼくには伴侶も恋人もいない。身軽だ。だから、自分のことは自分で決められる。自分で決める。あるいはそうあることだけがぼくの矜持――と言っても、差支えはないのかもしれない。
今日はだいぶん、手ひどくやられた。追加の兵が来るまでには時間がかかる――いや、追加なんて来ないのかもしれない。ぼくたちの側は常にそんな危なっかしさを抱えていて、だから現実問題として、今日明日の命なのかもしれない。なにがあっても後悔しない自信はある――自信があるというだけだけど。
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命からがら生き残った日の夜、上から通達があった。兵の数が少なくなってしまったから部隊を減らし、ばらし、その分、一つの隊のメンバーを分厚くするという。再編成。といっても、ぼくの部隊はぼくを入れてたったの十人。
ぱちぱちぱちと火が焚かれる中、申し訳程度に自己紹介をして、食事に戻る。最近はコーンスープしか飲んでいない。まともな補給路なんてない。痩せ細るわけだ。あばらもとっくに浮いている。カレーが食べたいなぁと思う。もう口にすることはないのだろうというのはわかっている。だからこそ苦笑、ぼくは食べたい。
腰掛けにするにはちょうどいい赤い岩に座っているぼくは、マグカップに口をつけ、スープをすする。お世辞にもおいしいとは言えない。がささと足元に黒蠍が寄ってきた。無視した。でも、がさがさがさと進んだところで隣の人物がすぐにブーツの底で踏み潰し、絶命させた。隣の人物――焦げ茶色のマフラーで口元をすっぽりと覆っている、若すぎるくらい若い女性だ。兵の数は多くはないけれど、初めて見る女性だった。鋭い目つきが格好のいい美人さん。黒く長い髪をアップに結っていて、それなら短く切ってしまったほうが邪魔にならないだろうと勧めてあげたくもなるのだけれど、それは無駄口に過ぎないから、実際、口に出すのはやめておいた。
女性は機関銃を抱えたまま、先ほどから眠ろうとしている。特段の理由はないのだけれど、とにかく美しいからだろうか、無駄口は叩かないと決めたにもかかわらず、ぼくは「食事はとらないの?」と話しかけてしまった。すると女性は小さくこくりと頷いて、だけどにこりともせず。
「燃費がいいんだね、ぼくもだけど。っていうか、蠍なんて放っておけばいいのに」
女性が「刺されたら厄介」と言った。思いのほか高い声で、よく通った。「やるかやられるか。蠍も一緒」と続けた。「違う?」と問いかけてきた。
ぼくは肩をすくめてみせた。
「違わない」
「でしょ?」
「うん」
「きみ、名前は?」と訊ねると、女性は「エミリー」と答えた。「ぼくはコウ。明日からよろしく」と手を差し出した。きょとんとしたような顔をしてから握手に応じてくれた。
それから女性――エミリーはマフラーを下げ、口元を空気に晒した。薄く、かたちのいいリップだった。なにを言うのかと思うと、「スープ、ちょうだい」と幼げな口調で吐いた。応じてやる。マグカップを両手で持って、スープをすすった。真っ白な頬が陶器のようにとてもきれいで、ぼくはついうっとりしてしまう。変な言い方かもしれないけれど、そう感じてしまうこと自体、ちょっと心外だった。ひとに興味なんてないのがぼくであるはずだから。
「エミリーはどうして、この星に来たの?」
「戦いたかったの」
「誰のために?」
「自分のために」
「ぼくとそっくりだ」笑顔を作ってみせた。「強く生きていこうって考えた場合、兵士っていう選択肢は、悪くないよね」
「そう思う」エミリーがマグカップを返してきた。「はい。どうぞ」
残りをすすって、ぼくは「間接キスだね」と俗っぽいことを言い、エミリーは「そうだね」と笑――ったりはしなかった。虚ろな眼差しを向けてくるだけだった。あまりに生気が感じられない瞳だったので、かえって印象に残った。
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白い砂漠の戦場を、エミリーと一緒に駆けた。壕に身を潜め、銃撃と砲撃がやんだところで反撃に打って出る。機を見計らっては前線を押し上げる。ぴゅぅぴゅぅぅと吹きすさぶ風が砂塵を巻き上げ、すこぶる視界が悪い。でもそれはいつものこと。慣れっこだ。やがては退く、ぼくたち。物量が違いすぎる。耐え忍ぶ時間が長くなる。橋頭保を築かせるわけにはいかないという常套句。また撃つ。撃ち返される。「ひゃあぁ」と頭を抱えながら壕へと逃げおおせる。
迫撃砲が近くに着弾した。ヤバい、ヤバい、ヤバい。部隊の誰もがそう感じたはずだ。なのに、エミリーは壕を飛びだした。前傾姿勢で走ってゆく。ここまで命知らずな女性は初めて見た。ちょっと意外――というより、ゆるせない。向こう見ずすぎるから許容できない。目の前で死人は見たくない。女性のものなら、なおのこと。
「エミリー! ダメだ、戻って!」
引き返してこない。ひゅぅるりひゅるりと鳴る風の音に声がかき消されている可能性もあるけれど――ううん、聞こえていても、無視して突っ込んでいってしまうような気がする。そういうコなんだ、エミリーは。
後を追いながら、再び「エミリー!」と叫ぶ。炸裂音からして戦車からの砲撃だ。エミリーのすぐ目の前に弾は落ち、その細い身体はふわりと浮いた。あっという間に、ぼくのずっと後方にまで吹き飛ばされた。慌てて身を翻す。走った。仰向けに放り出された彼女を見下ろす。身体には欠落した部分があって、それは左の前腕だった。力尽くでぶちっと引きちぎられたみたいになっている。
苦しげに呻くエミリーを肩に担ぎ上げ、歯を食いしばって退却する。悔しい。退かなければいけないことも、エミリーが左腕を失ったことも、全部全部。後ろでは重々しい着弾の音、いくつも何度も。たぶん、部隊はもうダメだ。前線だって下げなければならなくなる。死にたくなければ、このあたりが潮時なのかもしれない。
聞いたこともないような大声で、エミリーが「銃!」と怒鳴った。
「銃がどうしたの!」
「機関銃! 落としてきた! 拾いに戻る! まだ戦える!」
なんて馬鹿な奴なのだろう。
でも、間違いなく戦士だ、美しい。
彼女の言葉を無視して進む。砂に足を取られる。とにかく走りづらい。それでも、精一杯、前へ、前へ。ベースキャンプはまだ遠い。追いつかれてもしょうがない。殺されてもしかたない。そう思いながらもひた走る――。
「下ろして!」
「下ろさない!」
「どうして!」
「きみのことが好きだから!」
「聞こえない!」
「きみのことが好きなんだ!」
それきり、エミリーの声はやんだ。
――運よくキャンプにまでたどり着くと、腕の止血もそこそこに、テントの中で、エミリーを勢いよく、それでいて不格好に抱いた。最中、彼女はぼくの目を見つめたまま、「どうして?」をくり返した。ひとの気持ちなんていうものはいつだって衝動的だ。好きになることの理由なんて何一つとして説明できないのだから、ぼくは答えず、夢中で事に集中した。繋がり、一つになっているときに感じた温かさと誇らしさは、いつまで経っても忘れはしないだろう、忘れるもんか。
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昼は戦場に赴き、夜になるとエミリーとセックスをした。日課と呼ぶには野暮ったすぎるし、ルーチンワークと言うと事務的すぎる。身体を重ねるあいだ、ぼくたちはたがいの気持ちのいいところを探り当てることに躍起になるとともに、それぞれの気持ちを理解しようとした。尊いコミュニケーション。酒に酔ってテントを覗いてきた同僚の男を、エミリーはハンドガンで撃った。他愛のないことなのに殺した。その理由はよくわからない、わからない一方で、わかる気もする。少なくとも言えるのは、エミリーの真白な肢体はなによりきれいだということだ。
これまで眠ったことなどほとんどなかったというエミリーは、テントの中、ぼくの腕枕の上だと眠れるのだと言う。ほんとうに、すやすや眠った。ぼくはぼくで、彼女の安らかな寝顔を見てからでないと寝つけなくなった。心の底に安堵を得たかった。ひとの心はいつだって正直だ。まずくはない程度のコーンスープと、擦り切れていながらも暖かい毛布。ぼくたちに必要なものは、たがいの身体以外にはそれだけだった。
「コウ、正直に言うね? 痛いの……」
言われなくても、そうであろうことくらいは見当がつく。エミリーの左腕の傷は腐りつつある。だからぼくにも、用意している言葉というものがあって。
その夜も二人で毛布に入っている中、ぼくはエミリーに「故郷に、帰りなよ」と伝えた。彼女は「えっ」と目を大きくした。
「驚くようなこと?」
ぼくは髪を撫でてやって、頬にチュッとキスをやってから微笑んだ。エミリーは強く抱きついてきた。「嫌、いや……」と拒みながら、ぎゅぅぅっとしがみついてくる。
「コウに会えたから、自分を確認できた。コウに会えたから、自分を愛そうと思った。ダメ? こんなセリフじゃ、響かない?」
「だったら、ぼくと一緒に帰ろう」
「うん。それなら平気。すぐに帰ろう?」
「冗談だよ。無理」
「どうして?」
「たくさん殺したから。ぼくはひとより、ひとを殺すことに長けてる。もう引き返せないんだ」
「だったらわたしも――」
ぼくはまた、頬にキスを浴びせて、そしたら彼女はぶるっと震えて。
怖い怖いと、彼女は言って――。
「ぼくは男で、きみは女性だから」
「理由になってない」
「理由なんて、要らないから。故郷に帰って。お願い。次に生まれ変わることがあったらきみとちゃんと結婚して、そしたらそのときは、静かに幸せに、ああ、本でも読んで暮らしたいなぁ……」
「コウ……」
「泣かないで、エミリー。ぼくなんかのために泣かないで」
生きるよ。
答えを出して、戻る。
ぼくは彼女に、力強くそう伝えた。
約束までするつもりは、到底、なかったけれど。
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エミリーは故郷に戻ってくれた。それが星へと帰る最後の宇宙船だった。白い砂漠に残されたぼくたちには、もはや退くことはゆるされない。せいぜいお国のために戦って散るだけだ。
ぼくは駆ける。もう何度目なのか、壕から壕へとすいすい潜み、苦しいながらも前進し、敵にダメージを与えるべく機関銃をぶっ放す。この星には今日も朝なんて来ない。仲間は目減りを続ける。ぼくの精神も擦り減り続ける。それでも戦う。なんのため? それはきっと、やっぱりきっと、自分のため。
死ぬまで戦え。
確かな声で今日もそう謳うのは、ぼくが知っている神様だ。だったら、だったら――従うしかない。この世に神なんていない。それがわかっていても、ぼくは戦う。ひとは戦うために生まれてきた。ぼくもそのうちの一人なのだから。
このあたりでいっとう高い小山の上に立つ。隣に仲間が寄ってきた。「俺には黄金の蝶が見えるんだ」とか、意味不明なことを言ってきた。「それってほんとう?」とぼくは訊き、それから大きな声で笑ってやった。誰もが正常な精神状態ではいられない状況、戦場。それでも戦闘の果てに見えたものが黄金色の蝶々であるなら、素敵なことだと思った。
パラパラパララッという軽快な斉射音。蝶を見た男は顔まで銃弾に晒され、みっともなく膝をつき、前のめりに倒れた。ぼくは素早く地に伏せる。身を平べったくして、弾丸の出所を見極める。――ダメ、囲まれている。一点突破。ぼくは撃つ。逃走を図る。逃げる。逃げる? なんのため? エミリーにまた会うために? 難しい選択だった。心の中で何度だって確かめる。ぼくは兵士で、エミリーは女のコで――。
「もう戦うな!」
突如として、そんな声が響いた。低い声。でも、女性の声だろうと見当がついた。もう戦うな? なにをいまさら。もはやわかり合う、わかり合える余地なんか微塵もないのに。
「もう戦うな!」
しつこい。苛立ち、実際に「しつこいなぁ!」と叫んでやった。
「出てこい! 撃ったりしない! 殺し合いはもうまっぴらなんだ!」
対してぼくは、「それを証明したいなら、そっちから顔を出したらどうでしょーか!」と主張した。すると、すらりと背の高い一人の兵士が黒いヘルメットを取りつつ、視認できる位置まで前に出た。やがては目の前まで歩いてきた。女性だと思っていたのだけれど、中性的な美貌の持ち主だった。彼、彼女――あるいはどちらでもないかもしれないその人物は涙を流しながら、ぼくに抱きついてきた。
「もう、やめよう……?」
思いやりに満ちた言葉ではあるもののそれは無意味であることを知りながら、ぼくは「いいよ」と返事をした。「私はジャックだ」と名乗ったその人物はすんすんと泣いた。そのうち首筋にきゅっと唇を押し当ててきて、そのせいでぼくは場違いにも官能的な声を上げそうになった。ジャックはいい匂いがする人物で、だからぼくに安らぎばかりをもたらした。
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ジャックは男だった。だけど、ぼくと寝たいと言い、だけどぼくは抱かなかった。ぼくは"そういったこと"について造詣が深くなく、すなわち、"男性とのやり方"についてはわからなかった。ぼくの戦いぶりを以前から目に留めていてくれたらしいことには感謝したかった。ひとから評価されて不本意であるはずがない。
テントの中でジャックは起き上がり、茶色い毛布で前を隠し、ぼくのほうを見て「ふふ」と笑んだ。細い身体はつくづく男性っぽくない。目の毒だとすら思わされた。
「いいの。なにをされても、なにをされなくても、私はあなたのことが好きだから。コウ、知っている? この星なんて、戦略的な観点から言うと、なんの価値もないことを」
「うん、知ってる」
ぼくは苦笑した。
そんなことくらい、重々、承知している。
「私はもうやめたい」ジャックは一転、悲しげだ。「私は大尉。それなりに重要な立場にある。でももう、やめたい」
「ジャックは優しいね」ぼくは贅沢品――枕元のコーヒーをすすった。「きみの国が勝つ。この星はきみの国のものになる」
「それがわかっていて、どうしてコウは戦うの?」
「簡単だよ。ぼくはそうすることしか知らないからだ」
「抱いてなんて、もう言わない。ただ、私と来て? 夢を見せてあげる」
「夢。いい言葉だよね。でも、ダメ」
「どうして?」
「どうしても」
するとジャックは暗い目をして。
「コウ、どうして生きたがっている?」
「ジャックにはそう映るの?」
「うん。大切なひとのことは、忘れられないってことでしょう?」
否定はしないし、できなかった。
「あなたが私のもとを去ろうというなら、私はきみを殺そうと思う」
それを聞いて、ぼくは笑った。厚手のビニールのテントの中にあっても、その声はきちがいのうるささをもって響いた。
「ジャック、おかしな話だね。きみはぼくを助けようとしてくれたのに」
「私はそれくらい、コウ、あなたのことが――」
「きみはきれいだ。だけど、女じゃない」
「差別する気?」
「するよ。きみは決して、ぼくの愛するひとにはならないんだ」
ぼくは機関銃を抱えた。のそのそと外に出たところで、きちんと服を着た。穏やかな夜で、空を見上げるといくつも星が見えた。きれいだった。
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これが最後の戦いだ――ということを理解した。せざるを得なかった。敵方は金も兵力も潤沢らしい。ついに人型のオートマトンまで投入してきた。殲滅戦だ。その名に恥じぬ成果を、戦果を、名もなき機械が上げてゆく。安っぽい機関銃の弾では抜けるはずもない。それでも前に、前へと進む。味方が一人、また一人と倒れゆく。
思い返す、これまで過ごしてきた時間を。
過去にときをともにしたニンゲンを。
かあさんはぼくの無鉄砲さを心配したけれど、とうさんはむしろ、歓迎してくれたっけ。男ならそれくらい強気であったほうがいいんだって笑ってくれたっけ。ぼくが兵になると言った折、妹は泣いたっけ。優しい彼女はにいさんは馬鹿だと言って泣いてくれたんだっけ。犬を飼っていたっけ、二匹、猫も飼っていたっけ、三匹。犬は揃ってぼくのことが苦手で、ぼくとは散歩にでるのも嫌がったっけ。でも、猫には懐かれていたなぁ、ベッドで横になっていると鼻面のすぐそこに身を寄せてきたくらいだから。手でよけても改めて寄ってきたくらいだから。
優しく、また心に残る思い出ならいくつもある。でも、それにすがりたくない。生きているのだから、前に進みたい。前へ、前へ、ひたすら前へ。
敵にはもう敵わない。
エミリーに会うことも、もう、叶わない。
戦いに身を投じ続けた事実だけ残せれば、それでいい。
エミリー、どうかきみは――きみたちだけは幸せに。
走る、走る。
せめて、最後に爪痕くらいは残したい。
迫る、迫る、ジャックの喉元を目がけて。
ジャックと目が合ったところで、後ろからの斉射に遭った。
弾丸は後頭部まで舐めたので、「ああ、もうダメなんだ」と悟るしかなかった。
ジャックが悲痛そうに顔をゆがめたのがわかった。見えた、その様が。ジャックは「コウ!」と叫んだ。ぼくは愛してもらったことに感謝の意を込めて、「ありがとう!」とだけ口を動かした。「ありがとう!」だけを言い放った。ぼくたちは「ありがとう!」だけをわかち合った。
ジャックが白い砂を蹴り、ばたばたと丘を駆け上がってくる。
泣きじゃくっている。
ぼくは生において、愛を知ることができた。
だからもう、幸せでしか――なかったよ。
――その旨、心の中でみーんなに伝えて、ぼくはいよいよ事切れた。
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わたしは星から星へと転々とし、いまの居場所に至った。子が一人いる。目鼻立ちが彼によく似た鼻っ柱の強い女のコ。コンビニエンスストアで流行りのアニメの一番くじを引きたいとせがむ。奮発して引かせてやった。見事、主人公のフィギュアをゲットし、ご満悦の様子。「ママ、見て見て!」と自慢してくる。
わたしはかつて、白い砂漠の戦場で、男のコと恋に落ちた。その事実は変わらないし、変えられない、そのままであっていい。いまでもときどき彼のことを思い出しては激しい自慰に耽ることがある。彼がもたらしてくれた悦は、彼によってしかもたらされないし、再現もされない。脚の付け根にやった右の中指に唇で触れ、その先がぬめりと湿っているのを知り、そんな最中に子が「ママ、ママ……」と寝言を言うのを聞くと、つい涙をこぼしてしまう。ほんとうにほんとうに、これだけは、娘に伝えたい。あなたの父親は立派だった。そこになんの憂いがあるのだろう、と。
この土地は、地球の、ニッポンの、東京の、蒲田、という。京浜東北線が走っていれば、東海道線も行き来する。駅前はいつも混雑していて、治安がよいとは言い難い。それでも、"あの星"よりはずっとましだ。誰も機関銃なんて持っていない。
「ママ、マーマ、ねぇ、マーマ」
「チグサ、なあに?」
「ねぇ、マーマ」
「だから、なあに?」
「わたしのパパはどうして帰ってこないの?」
わたしは答える。
「戦士だからよ」
そう。彼の魂はいまでもまだ、召される先を見ることなく、きっとどこか遠くの地で戦っている。
空を見上げる。
寒い空気はない。
もうすっかり春だ。
あの日、懸命に駆け回った寒々しい砂漠のことなど感じさせない、思い出させないだけの平和さと暖かさが、ここにはある。
「コウ……」わたしは数多の星を仰ぎつつ、左の目尻から一筋の涙を伝わせる。「コウ、とっても愛してる……」
涙は止まることなく、だから娘を不安がらせてしまった。
わたしは娘に笑んでみせ、気分を入れ替える。
コウのことを思い返すときだけは、前向きでいたい。
「ママ、マーマ」
「なあに?」
「チグサは幸せだよ?」
「うん。わたしも幸せ」
コウはわたしに優しさをくれた。
コウはわたしに"愛"を教えてくれた。
だけど、添い遂げてはくれなかった。
それでもわたしは満足している。
彼がたった一人残したオンナとして、誇りを持って生きている。
星々の吐息。
この星もまた、ヒトを乗せて、深い呼吸をくり返している。