アラウンドなんとか4
【登場する人】
・申 香绿:アラサー地下アイドル。日本のアイドルに憧れて遥々来るが売れてない。十年弱はいるので日本語は問題ない。コンビニでバイトをしながら生き長らえている。
・アヤタカさん:若めに見えるアラフォーリーマン。食生活が不健康。喫煙者なのでもっと不健康。香绿に惚れて色々拗らせている、裏でカオリと名付けて呼んでいる。
いつも通りに出社した筈のオフィスの空気は、普段と違いざわざわして、落ち着かなくて、みんなが苛々していた。
原因は既に連絡が回ってきて把握している。
システムエラーで会社のサーバーがダウン、俺の部門は勿論の事、他も困り果てているそうな。今のご時世、会社のパソコンやその他端末類は本社支社問わず全て繋がっている。それを繋げている根幹の調子が悪くなったらどうなるか……想像に容易い。
今頃、上の階にいるシステム部はてんてこ舞いで作業をしているに違いない。出来る事なら手伝ってやりたいが、俺はその手の専門家ではない。大学だって文系だったしな。
今日は仕事にならないので帰っていいですよ、なんて事も有り得ない。俺達はシステムが直り次第、滞っていた仕事を片付けなければならない。
故に復旧するまで待機という訳だ。デスクの掃除が捗るな。
…………今日の約束、どうするかな。
遅れるとだけ伝えておくか。いっそ後日にするべきか、いやでも今を逃したら……。
あと一時間で復旧出来たとして、昼休みを返上してぶっ通しで作業をしたとしても……オフィスの白い壁に掛けられた時計と握り締めたスマホを交互に見ながら、根っからの文系なりに必死こいて計算をする。
折角取り付けた約束を後日に回したくない。仕事も後日に回したくない、だって今日は金曜日だ。土日を挟ませる訳にはいかない。
あーもう考えるのはやめだ、最終的には根性でやるしかねえ!
***
こういう事をするから、上が現場に根性論を押し付けるんだな。まあ俺は事務方なんだが……。
システム部が必死こいて頑張ってくれたお陰で、出社から三時間程の遅れで俺達も仕事に戻れた。それでも遅れは遅れ、定時退社なんてとんでもない。普段から定時でなんて帰ってないが。
カオリこと香绿には『二時間だけ遅らせてくれ』とメッセージを送り、そこから昼休みにはいつも向かう彼女が勤めるコンビニにも行かずぶっ通しで仕事を続けて……今に至る。
現在午後九時、アラフォーと言われる年齢に足を突っ込んでいる俺の肩や目は『休ませろ』と訴えているが、今日はこれの為に鞭打ったんだ。寧ろここからが本番だ。
待ち合わせに指定した、互いの職場から最寄りの駅の三番出口。
遠目にも分かる派手な髪色が、ぽつんと如何にも若い子が着そうなワンピースと物が入るのか分からん程小さなバッグを両手に、ぼんやり視線を空に彷徨わせて待っていた。
流石に今日はアイドル仕様のツインテールじゃないよな、当たり前か。夜会巻き、だとか言いそうな感じに結い上げている。少し大人っぽくてこれはこれで……なんて言ってる場合じゃないな。
俺は小走りで彼女に駆け寄り、ぽんと肩を叩く。
「ごめんな、急に時間遅らせて。待っただろ?」
ハッとした表情の直後、カウンター越しでも画面越しでもない笑顔と明るい声が迎えてくれる。
「ううん、のんびり準備出来たし大丈夫!」
そしてここで俺は更に自らの失態に気付く。最初に予約していた店は、行けそうにないからキャンセルしたんだ。で、その後すぐ仕事に戻ったし何もやっていない、考えてもいない。自分から誘った癖に……やらかした。
「……あのさ、何が食べたいとか、ある?」
走った所為で乱れたスーツを整えながら、苦笑まじりに聞いてみる。アイドルアカウントの呟きやら、普段メッセージのやり取りからも、寛容そうな子ではあると思うんだが。俺の好感度が下がらないか心配だ。
「んん、考えてなかった。あや……えーと、隆さんが好きなところ行こ」
「……っ、好きなところ……そこ、とか」
不意に名前で呼ばれて一瞬焦った俺は、反射的に視界の隅に映る仕事帰りに時々寄る焼き鳥屋を指差す。
もう少し気を利かせるべきだったか、と内心頭を抱える前にぱっと明るい声がそれを掻き消し、一緒に疲れも吹き飛ばしてくれる。
「焼き鳥屋さん! 私、つくね好きだよー。二人ならすぐに入れるよね」
「カウンターとかになったら、ごめんな」
友達にしては近く、恋人にしては遠い絶妙な距離感で、赤提灯のぶら下がる店へと歩いていく俺達。他人から見ればどう見えるんだろう、良くて客と同伴のお姉ちゃんかね。
「カウンターとか気にしないから、大丈夫だよ」
「そっか、なら良かった」
考えてみれば、この子は何年もアンダーグラウンドな場所でとはいえ、アイドルの活動を続けている。いかにもな冴えない男と肩を並べて笑顔で写る画像を、ネットにあげているのを何枚も何枚も見た。
俺とカウンターで並んで飯を食うくらい、どうって事ないのかもしれない。
でもあれは営業。俺とはプライベート。ステージが違う、個人的に連絡先を聞き出せた俺の方が……そう言い聞かせながら、焼き鳥でご機嫌にしてくれる彼女と共に年季の入った暖簾を潜る。
幸いと言うべきか、二人席が空いていたので俺達は向かい合わせで居酒屋によくある木製の机を挟む。
そして手書きで書いたのをそのままコピー機にかけて印刷した『本日のおすすめ』やら、定番のメニューが載った冊子を相手に向けてやる。
へえ、希少部位ソリレスの炙り焼き。いいな、食いたい。
「外食久しぶりだから嬉しいなー、好きなの頼んでいい?」
逆さの文字を眺めるその向こうでは、そわそわした様子でメニューと俺の顔を行き来する視線が。ここでケチくさい事言える訳がない。
「勿論、待たせたし腹も減ったろ」
そもそも惚れた相手だし。その上、外食自体が久しぶりなんて言われちゃあ……もう幾らでも飲み食いして欲しい。俺は「お通しです」と配られた切り干し大根の煮物をちまちまとつまみながらそう思う。
カオリはどうやら酒はあまり強くないらしい。俺が生ビールのジョッキを何杯か空ける中、杏露酒の水割りで薄っすら耳を染めて気の緩んだ笑みを何度も浮かべる。
こんなのでアイドルの活動は大丈夫なのか。裏の努力はネット上からは全く見えないが、酒の入る接待とかあるんじゃないのか。
「酒、弱いなら居酒屋じゃない方が良かったか……?」
「あい? そんな事ないよ、居酒屋のご飯好きだよー。おいしいし。お酒は滅多に飲まないから、強くないだけ。お茶飲んどくよ」
緩慢な動きで手を挙げようとする相手より早く、近くのお姉さんを呼び止め、俺は空のジョッキを揺らして追加のビールと烏龍茶を頼む。
仮にもアイドルとは思えない隙の多さだ。今はプライベートだから……いや、プライベートでも隙が多いのはダメだろ。
コンビニのレジ対応、一方的に追い掛けているアイドル活動用のアカウント、数日前から始まったメッセージでのやり取りでは知り得なかった彼女を知っていく。
そしてアルコールが回る頭で芽生えていく感情。このままコンビニに通いながらコソコソとネット上で動向を追い掛けている場合じゃない、と。
ご機嫌に好きだと言っていたつくねに齧りついては咀嚼する一連の動作を肴に、俺はジョッキの底に溜まる程しかないビールを飲み干しては腹を括る。
***
「ありがとう、ごちそうさまでした!」
「いや、こちらこそ。楽しかったよ」
店を出ると程良くアルコールの回った肌を夜風が心地良く撫ぜる。腕時計に視線を落とすと午後十一時を過ぎた頃。まだ終電まで時間はあると思うが、そろそろお開きにしないとな。
その前に……。駅へと戻る道すがら、今日の予定が決まった即日に買いに走った物が潜む鞄へと目を落とす。
本来、こういう場では何をどうしたら良いんだ。今まで築いた関係が、殆ど受け身だった事をここに来て思い知る。付き合った相手も全部向こうからだ。
要するに俺は年齢と顔の割に、男としての経験値が低い! 告白の切っ掛けとは、そもそも男からはなんと言って関係を発展させればいいのか。更に言えば今の距離感で言っても許されるのか。
俺の同僚達は一体どうやって結婚まで持ち込めたのかサッパリ分からん。でも、分からんなら分からんなりにやるしかない。
疎らに人が通り過ぎていく某駅三番出口。まだ酔いが覚めきらぬ頭で、俺はカオリの肩を掴むと半ば強引に自分の方を向かせ、鞄に潜めさせていたラッピングされた小箱を押し付けた。
中身はアクセサリーだ。女の子へのプレゼントといえばという物を選んだつもりだ。デザインは可愛げがあった。
「あのさ、急に言って申し訳ないんだが、俺と結婚を前提に付き合って欲しい」
前フリもへったくれもない上に母国語でもない俺の言葉に、カオリは一瞬ぽかんとした顔を向けるも、内容を理解するとひっくり返した声をあげる。
「えっ、えええ!えーと……その、私、あや、隆さんに釣り合う人じゃないよ! バイトで生活してるようなのだし、国籍だって違うし、他にも……」
慌てた様子で並べ始める自分のデメリット。色々気にしている事が伺えるが、そんな事は今更だ。俺は逆プレゼンを遮り、きっぱりと言い放つ。
「国籍が違うくらい名札見りゃ分かるし、平日昼間にしょっちゅうコンビニで顔合わせてりゃ、それで生計立ててるのくらい想像付くだろ」
「……あ、ほんとだ」
実に素直。俺の言い分に慌てていたのが、しゅんと空気の抜けた風船のように萎む。そして相手が言い返せそうにないところで、畳み掛けるのが俺。悪い大人だ、自覚はある。
「全部分かった上で付き合いたいし、ずっと日本に居て欲しいから結婚前提って言ったんだけどな。それにこんなに惚れ込んだのは、か、香绿が初めてだよ」
危ない。大事なところでカオリって言い掛けた。裏で勝手に名前付けて呼んでたなんてバレたら恥ずかしくて、その場で穴を掘って埋まるしかない。
完璧とは言えないが、伝えたい事は言葉にしたつもりだ。
酒の力も相まって、大事なプレゼンの時よりも遥かに早く心臓が脈打つ。どんな返答であれ、待っている時間は過ぎるのが遅い。もうひと呼吸して落ち着こうと思った刹那、派手な髪色が深々と頭を下げる。
「えーと、ふつつかもの? ですが、よろしくお願いします」
そして上げられた顔はカウンター越しとも画面越しとも違った、少し照れが混じった笑み。
今日を頑張って良かった。根性で乗り越えたトラブルも、長々と燻らせていた劣情も全てこの一瞬で報われたぞ。ありがとう世界、ありがとう地球。この世の生き物全てに感謝したい。
全力で拳を握る俺は心の中で留めておいて、クールを装い、駅の案内板に視線を向ける。
「俺こそ、よろしくな……あ、そろそろ帰るよな。電車、どっちの方面?」
「ん、電車乗らないよ。私、近くだから歩いて帰るよー」
改札まで送ろうと思っていたのに。いやいやそれよりもだ。
「おいおい、こんな時間に歩いて帰るなんて危ないだろ。タクシー代渡すから、それ乗っていきな」
海を隔てたこの子の実家はここよりも治安がいいのか? もう日付も変わる頃合いだってのに、妙齢の女がひとりで歩いて帰るなんて。
口煩く言葉が飛び出す前に俺は財布を開けて、目に入った五千円札を、渡した小箱を掴む手の隙間に捻じ込んだ。
「歩いてひと駅くらいだし、それにこんなに」
受け取れないとは言わせない。相手の台詞に被せ、勢いに任せて叱り付ける。
「馬鹿! アイドルしてるなら、もっと自分を大事にしろ!」
タクシー代を断られるのは初めから予想済みだ。遠慮して首を横に振るカオリの手首を掴んで、俺はタクシー乗り場へとぐいぐい引っ張っていく。
「えっえっ?」
困惑する相手を並んで客を待つ車の後部座席に押し込み、運転手のオッサンに扉を閉めるよう合図する。
「はい、お疲れさん!」
ぱたんと自動で扉の閉まったタクシーからは流石に降りはしないだろう。向こうも諦めたのか、指で道を示しているみたいだ。
まったく、節約志向なのは偉いんだが、もう少し自分の身を案じた行動して欲しいもんだ。
ロータリーから大通りへと消えていくタクシーの光をある程度追ったところで、俺はホッとひと息吐いて……ある事実にさっと血の気が引くのを感じた。
待てよ、俺……カオリが地下アイドルしてるのめちゃくちゃ知ってる前提で喋ってたな。本人の口からは一切聞いてないのに。やばい、まずい。なんでアイドルの事を知ってるのか聞かれたら、なんて答えたらいいんだ。
制服に付けてた名札の名前を覚えて検索かけたら見つけました、が事実なんだがアウトだよな。
折角ただの常連客から付き合うまで漕ぎ着けたのに、俺は更なる問題を作ってしまった。
あーくそ、疲れた時はもう少し酒の量を控えよう……。