アラウンドなんとか3
【登場する人】
・申 香绿:アラサー地下アイドル。日本のアイドルに憧れて遥々来るが売れてない。十年弱はいるので日本語は問題ない。コンビニでバイトをしながら生き長らえている。
・アヤタカさん:若めに見えるアラフォーリーマン。食生活が不健康。喫煙者なのでもっと不健康。親に嘆かれながらも独身貴族している。
・鈴木くん:20半ばの売れないバンドマン。香绿の同僚。夢を追いかけてる割には、冷めた思考している。お人好し。
鈴木くん視点
うわ。と声が出そうになるのを俺は抑えた。すごい、えらい。
だって釣り銭取りに、裏行って戻って来たら、いくら顔整って小綺麗にしてるっつっても、三十半ばはいってそうなオッサンが、同期のアラサー店員に自分の名刺を渡してやがるって。
渡された方は深く考えないまま受け取ったんだろうし、渡した方は俺に見られても、大して気にした様子も無く店を出て行くし……なんなんだ。
「あ、鈴木くーん。見て見て、アヤタカさんが名刺くれたよー」
ご機嫌な様子で、俺のところに歩み寄って報告してくるシェンさん。見てたから知ってます、って塩対応する訳にもいかない。
何故ならこの人は、何年も地下アイドルとかいう世界に居ながら、心が荒んでもスレてもいない稀有なメンタルの持ち主だから。
多分根っから明るく前向きな人なんだろう。何年も同じ職場に居るので、それなりに理解はしている。
「IDも書いてるの」
店からすぐ近くにある、CMでも名前を聞く企業のロゴが入った名刺。シェンさんの言う通り、隙間部分に手書きで、緑の某アプリのIDと思しき英数字が羅列してあった。しかもご丁寧に赤字で。
アヤタカさん、誰かさんがいつも飲んでる野菜ジュースもついでに買うようになったなあ、なんて思ったらまさかこんな。中高生みたいな距離の縮め方だ。
「バイトの女子大生も、偶に連絡先書いたメモとか貰ってますけど、みんな捨ててるじゃないすか」
レジに小銭を補充しながら、溜め息まじりにご機嫌なアラサーに声を掛ける。仮にもアイドル稼業してる癖に、なんでこの程度ではしゃぐかな。
「えー、折角アヤタカさんと仲良くなれそうなのに、私は捨てたくないよー」
好感度高いじゃん。よかったな、アヤタカさん。顔が良いと多少の粗があっても許されるんだな、としみじみ思う。
「後で送ってみよ。お金持ちの知り合い、嬉しいな」
シェンさんは胸ポケットに貰った名刺を突っ込んで、しれっと下衆い欲が透けた発言をしてくれる。確かに有名企業で働いてるなら、金は持ってそうだ。こんなところに居る俺達より潤った財布に違いない。
それにしても、名札見れば明らかに日本人じゃない、トウが立ってそうな女を狙うかね。人の好みってよく分からんな。
喋っていてもお互い細かい作業をしながら、会話は続いていく。俺はビニール袋やらレシートのロール紙やら、忙しいと補充する暇がない物をカウンターの下へ。
「そういや、アヤタカさんの本名ってどんなんです?」
俺の台詞にタブレットで発注や在庫を確認していたシェンさんの指が止まった。
「見てなかった」
見とけよ。と内心突っ込みながら、柔らかいラインに膨らむ胸ポケットから名刺を取り出す様に視線が奪われる。
男の性なのか、こんなところを注視する自分が嫌だ。制服からでも、身体の凹凸はそれなりに分かるものだから、つい。
「綾辻……たか? アヤタカさんだ」
「りゅうさん、でしょ。英語の方だと“Ryu”になってますよ」
読み上げる名刺の裏側は、英語表記の両面使えるグローバルなタイプの名刺だ。その名前の部分は“Ryu”と見えた。表は見えないので漢字は不明だが。
「普通の名前だね」
シェンさんはしれっと表側も俺に見せてきた。“綾辻 隆”か……なるほど、これは『アヤタカさん』とも言いたくもなる。
「そりゃあ、俺の年代でもキラキラした名前少ないのに、更に上ならもっと居ないですよ」
アヤタカさん、幾つかは分かんないけど、俺らよりは上なのは確実そうだし。
「鈴木くん、下の名前なんだっけ」
悪気の無い声が、ちくりと胸を刺す。
この流れだと来ると思った。名前の事は自分でも負い目があるので、あまり触れられたくない。
堅実に生きろと名付けた親の願いとは程遠い、コンビニでバイトをしながらバンド活動に勤しむ生活。そんな自分の名前を見る度に憂鬱になる。
「覚えてないならいいんで、それ終わったら休憩に行ってください」
相手に悪気が無い事なんて重々分かってる癖に、刺々しい物言いをしてしまった。大人げ無いな、俺。
内心溜め息を吐いて後悔するも、稀有なメンタルの持ち主には何もダメージは通らなかったのか。タブレットを手にしたまま、何事もなかったかのように通り過ぎる。これまた悪気の無い一言を添えて。
「思い出した、堅吾くんだ」
幾ら好きじゃないっつっても、自分の名前は自分の名前だから、不意に呼ばれるとドキッとするのが悔しい。
この悔しさを何にぶつければいい……仕事だ。だって今は仕事中なんだから。
***
「アヤタカさんの連絡、結局どうしたんですか」
日も落ちた時間帯。共用の端末でタイムカードも切って、私服姿になったシェンさんが帰る間際を見計らって、俺は声を掛けてみる。
あの人の本名は知ったものの、ここでは例のあだ名が浸透してしているので『アヤタカさん』と呼ぶ。オッサンの本名なんてどうでもいいし。
仕事終わりの少し気の抜けた顔が、スマホを片手にへらっとした笑みを見せる。
「あ、メッセージ送ったよ。今度ご飯行こうって返って来た。美味しいもの食べてくるねー」
大手に勤めてる人だし、色々と店くらいは知ってそう……って、んん? 食べてくる?
「え、行くの決まったんすか」
驚きのあまり声がひっくり返りそうになりつつ、平静を装って話を続ける。昼間に名刺渡してから夜になっただけの間に、話がえらく進んだな。
「うん、今週の金曜日に。仕事終わったら一緒に晩ごはん食べるよー」
え、はや。何を考えるよりも真っ先にこの言葉が過ぎった。あのオッサンは顔の割にめちゃくちゃ飢えているのか? 今週の金曜日って三日後じゃん。
とりあえず、俺に出来る事はだな……。
「いい歳した人に言うのもなんですけど、アイドル気取るなら、流れでホテルとか行かないでくださいよ」
「気取りじゃない! まだアイドル!」
俺の台詞が言い終わる前に、ぷんすかと早口の抗議が被さってくる。アイドルってところに反応している辺り、この人は純粋に飯を食いに行くだけなんだろう、と安心してしまう。
「久々の外食だから嬉しいなー」
ああ、いつも廃棄おにぎりを加工した粗食だから……いやまあ、俺も偶に食うけど。
そういえば、なんて名前だったかな、シェンさんの相方。あっちは金に困ってそうな印象は無い。何故かと言うと……。
「相方はキャバ嬢してるのに、シェンさんはクリーンですよね」
仮にも地下アイドルの副業を何故俺が知っているかと言うと、目の前の人から聞いたから。シェンさんはそんな相方の恩恵に預かり、被ったブランド物とか貰ったりしているそうな。
でも、この人は所謂水商売に手を出す様子は無い。性格上向いてなさそうだけどさ。
「うーん、夜は眠たいからね。私、夜働くなんて出来ないよー」
眉を下げたヘラッとした笑みでシェンさんは困ったように頬を掻いた。
夜勤も断ってる理由はこれか。眠たい。単純明快且つ本能的な答えだ。眠たかったら夜勤も水商売も無理だよな。
「野菜ジュースも飲んでるし、健康的な身体っすね」
「そうなの、健康的!」
俺は半分皮肉で言ったんだけど通じなかったのか、シェンさんはご機嫌にアイドル気取りじゃない、素の笑顔を見せる。
「良いもん食えると良いですね」
俺もそろそろ帰らないと……、と共用端末を弄って退勤にチェックを入れながら、半分義理みたいな台詞を投げる。
お喋りの所為で変な残業つくところだった、危ない。
「うん、写真も撮れそうだったら撮りたいなー。何食べれるか楽しみ」
ご機嫌なのは外食出来るからか。
俺もこの人も、やりたい事の為に色々と切り詰めた生活をしているから、外食自体が贅沢になっているので気持ちは分かる。
「それじゃあ、お疲れ様ー!」
明るい声と笑顔で裏口から出て行く背中に、小さく手を振り返して俺は更衣室へと向かう。
次の出勤日をいつだったか、とシフト表を確認しながら、放っておけばいい筈の事柄が頭に過ぎる。
どっちもいい歳した大人なんだし、シェンさんだって俺より年上だし……はあ、金曜日か。俺もあの人も早番だわ。