アラウンドなんとか2
【登場する人】
・香绿:アラサー地下アイドル。日本のアイドルに憧れて遥々来るが売れてない。十年弱はいるので日本語は問題ない。コンビニでバイトをしながら生き長らえている。
・アヤタカさん:若めに見えるアラフォーリーマン。食生活が不健康。喫煙者なのでもっと不健康。親に嘆かれながらも独身貴族している。
アヤタカさん視点
三年程前、俺は入社早々に『人手不足だから』と飛ばされて以来、ずっと通っていた職場に急遽サヨナラを告げる事となった。
本社の管理職が辞めたらしい。ボスのような御局さんの婚活が実った結果だそうな。何度か会った事はあるが、気のキツそうな人だった記憶はある。
上は新人の俺に『二、三年で戻れるよ』と言いながら、一応関東圏内というだけの、名義上は支社。しかし実際の規模は、ただの事務所を宛てがい十何年。今更『本社勤務に戻れるよ』なんて、都合の良い事で。
本社よりも圧倒的に人の少ない事務所では、それなりに上手くやれていた。だからこそ、名残惜しかったが、俺は守るものなんて何一つない独身男。
転勤を命じられれば『はい、分かりました』と従う他無い。家を買った奴、身重の奥さんがいる奴、子供を学校に通わせている奴。
守るものを持つ者が多い年代の中、フリーの俺が選ばれるのは仕方ない事だ。
まあ、思った以上に慕われていたのか、長く居た所為なのか、盛大にして貰った送別会は良い思い出として残っているが。
***
あれから一年経つが、本社勤務は別に苦痛は無かった。業務内容にも問題は無い。ただ気の合う奴が居ないというだけで。
独身だからって言い寄って来た女性社員と、試しに付き合った事もある。一年間で三人程だったかな。
見事に保たなかった。長くて五ヶ月、短くて一ヶ月。
言うことが揃って『思っていたのと違う』だと。
俺の事が好きだって言うから、俺自身は好きでもない洒落た店やら、雑誌で見つけたデートスポットやらに連れて行ったのに。
三度も同じ事を言われてフラれると、流石にやさぐれてくる。
こんな年齢で言うのもなんだが、どいつもこいつも俺の何が分かると言うのだろう。
そんな内心荒れていた昼下がり。ただ俺が吸っている銘柄を置いている、という理由で通っていたコンビニで俺は胸を打たれる羽目となった。
「——中南海の八ミリ、いつものやつですね」
いつもの。自分の理解者など居ない、とやさぐれていた当時の俺には痛く響いた。
冷静に考えれば、平日毎日同じ物買っている客を覚えるなんて、造作もない事なんだろうと気付くのに。
気が付けば支払いが済むまで、愛飲している煙草の銘柄を覚えてくれていた、営業スマイルを浮かべる女の名札を眺めていた。
その後の行動が、自分自身を狂わせた最大の原因なのだろうな……。
帰宅して明日も着るスーツをハンガーに引っ掛けて早々、覚えた文字をスマートフォンで検索してしまった。
そしてあっさりとヒットした。そいつは華やかだが、何処か安っぽいステージ衣装を纏い、長く鮮やかな髪を年齢不相応なツインテールに結い上げ、画面いっぱいに明るい笑顔を向けている。
覚えた名前と見覚えのある顔も一致、あの子はこんな事をしていたのか。
見つけたサイトにアクセスをすれば、聞いた事もない事務所で、聞いた事もない劇場を拠点にデュオユニットで活動をしていると出てきた。所謂地下アイドルか……。
活動歴が案外長い。年齢は十七歳だが、お察しだな。
「……はあ」
なんでコンビニの店員が裏でやってる活動を、俺は必死に追い掛けているんだろう。思わず溜め息が漏れる。
火を点けたまま灰皿に放置していた煙草も、ひと筋の紫煙を燻らせ続けている。
カシャ、と人工的なシャッター音を部屋に響かせた頃には、未だ冷静に己の行動に溜め息を吐いて呆れていた俺は、もう完全に霧散した。
そして、何年も前に作るだけ作って放置していたアカウントにログインして、アイコンをさっきの写真に変える。
パスワードなんて案外覚えているもんだな、なんて思いながら、俺はデュオユニットの片割れ『香绿』をフォローした。
ご丁寧にそいつが何かしら呟く度に、通知が来るように設定までして。
それにしても、この名前はなんて読むんだ。中国語なんて、勉強してないから分からないな。
香って字が入っているし『カオリ』とでも呼んでおこう。どうせ口に出す事のない呼び名だ。
ストーカーじみたひと仕事を終えた俺はスマートフォンをほったらかして、シャワー浴びに行く。風呂から上がった頃には『RYU』のフォロワーが一人増えていた。
次の日から、スマートフォンを見る時間が増えたのは言うまでもない。
ついでに、コンビニでカオリを眺める時間も増えた。
***
今日も今日とて、カオリは昼間のコンビニで仕事をしていた。生憎、ジュースの品出しをしていたせいか、レジで会う事はなかったが。
昼間から残業が確定していたこの日の夕方、ささやかな楽しみが無いとやる気が削がれてくる。
会議の為の会議なんて、何の意味があるんだろうか。
なんて心の中でボヤきながら、数時間前にも行ったいつものコンビニへ向かったその時。
自動ドアから現れたのは見慣れたコンビニの制服姿でも、画面越しに何度も見た舞台衣装姿でもない。長い髪をひとつに纏め、量販店で幾らでも買えそうなジーンズ、ボーダーのシャツにカーディガン。
郊外のショッピングモールで若めのママさんが着てそうな服装だ。気を抜いてる時はこんな格好なんだな。手に紙パックのジュースなんて持っているし、帰りにでも飲むんだろうか。
「…………あ」
と、ぼんやり考えていると目が合った瞬間、カオリが小さく声を漏らした。まるで顔見知りにでも会ったようなニュアンスの声。
まあ、向こうも俺の顔はよく知っているからな。しかし、俺はそれ以外の事も把握している、なんて口が裂けても言えないが。
「お疲れ様」
俺は少し笑みを浮かべて自然体を装い、気さくに声を掛ける。
するとカオリは一瞬考えるような素振りを見せるも、画面越しに見せる満面の笑みでも無く、カウンター越しに見せる営業スマイルでも無く、穏やかな表情で対応してくれた。
「お疲れ様です。帰るところ、ですか?」
小さく頭を下げた挨拶だけで終わると思いきや、まさか会話に繋がるとは。
「……いや、今日はがっつり残業が入ってね。栄養剤でも買おうかな、と」
会議の為の会議があるので残業します、などとは情けなくて言えやしないが、栄養剤を買おうと思っているのは事実だ。カフェインレスの、明日に残らないやつを。
……ま、俺の事はどうだっていいんだ。
ふむふむ、と興味があるのか無いのか半々の頷きから、俺は視線を落として、カオリが手にしている物を指差す。
「それ、いつも飲んでるの?」
野菜ジュースを手に持って出て来た時に、少し前に俺がチェックをしているあのアカウントで、こう呟いていた事を思い出したんだ。
申香绿 @Xiang_lu……
朝ごはんやお昼ごはん食べない人多いけど、ちゃんと食べないと体に悪いし心配だよ〜。ちなみに私は毎日野菜ジュース飲んでるよ!
と、昼食をお茶と煙草を数本喫むだけで済ましている俺には、地味に刺さる内容だった。
勿論その呟きにはすぐに『いいね』をしておいた。自分でも分からないが、自分が読んだという爪痕を少しでも残したいのかもしれない。
で、今彼女が手に持っている紙パックは、愛飲している物なのか、と尋ねただけのつもりだったのだが、何故かカオリは自分が買った筈の物を手に、困ったように首を捻っている。
「え、あー……野菜ジュースはいつも飲んでるけど、これは期間限定の……おん、おんしゅう?」
眉を顰めて自信なさげに読む言葉と、オレンジ色が強調されたパッケージでピンと来た。
「うんしゅう」
いくら日本に住んで何年も経ってると言っても、こういう品種名やらは分からないよな。コンビニの制服姿でも、舞台衣装でもない、素の彼女がこうやって隙を見せてくれるのは、なんだか嬉しい。俺は思った以上にチョロいのかもな。
「うんしゅう! でも、いつもはこのシリーズの、紫色のを飲んでます」
紫色の野菜ジュース、コンビニやスーパーに並んでいるのも見たし、誰かがデスクに置いているのも見たな。何処にでも売ってる代物っぽいな。
「そっか、参考にするよ……帰る時なのに引き止めてごめんな」
仕事終わりの疲れてる相手を付き合わせるのも程々に、話を切り上げる。
それにしても、初めてまともに交わした会話がこれか。俺ってこんなに話が下手だったかな。
でも、言葉が交わせたのは進歩かもな。と、なんとか自分を納得させて、ビル風を背に受けつつ店へと入ろうとしたその時。
「残業、頑張ってください」
一瞬自分の中で時間が止まった。
直後に脳内に居る冷静な俺は言う。なんて事はない、これはただの社交辞令だ、と。俺も無難に返すのがベターな選択なんだろう。
「……ありがとう、頑張ってくるよ」
それでも、幾分表情に出るのはどうしようもなく。本当に頑張ろうかな、なんて気持ちまでも湧いてしまう。俺はやはりチョロいのか。
だが、いい歳した男がそんな部分を見せる訳にもいかないので、俺はただ手を軽く振るだけに留めて、ビル風と誘惑から避難した。
フォロワーが少なくても、大して売れてなくても、アイドルはアイドルなのだろうか。小さな言葉が疲れた心に染みる。
今日は栄養剤が要らなさそうだ。
次の日から、俺は毎日買う煙草とお茶に、野菜ジュースも追加する事になった。カオリが言っていた紫の野菜ジュース。
こっそり揃いの物を買ってるなんて、まるで中高生みたいだなあ……と、自分に呆れつつも昼下がりのビジネス街を歩く。
今度は連絡先かな。さて、どうしたものか……。