第1話 夕景の邂逅
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最近見たカラスは石鹸を咥えてました。
1月某日、快晴と曇天を丁度半分ずつ掛け合わせたような空の下、1棟のアパートが静かに息を潜める。正月、三賀日のお祝いムードが落ち着き始め、僕もやっと安眠を手に入れた矢先の朝だ。太陽も昇らない街の片隅で僕の目覚まし時計だけが大声を上げた。
ジリリリリリリリリリリリリ
近所迷惑になり兼ねないその騒音は僕の耳に届き、無意識ではあるが右手が発生源を捜索する。数秒間空を掻いていた右手が目覚まし時計を捕獲した時、僕は達成感に溺れて再び瞼を閉じる。それは自然と僕を襲い、アルバイトに遅刻するという代償と引き換えに今後一切目覚まし時計の鳴らない安眠を与えてくれた。
布団の温もりと1月の寒さを比べると絶対に布団の温もりを取る。真冬に自ら冷たいものを求めるという行動は人間の常軌を逸している。僕はそう考える。
結局、二度寝という至極の時間を心行くままに過ごし、勿論アルバイトは無断欠勤となった。それにより、起きた時間は目覚まし時計を止めてから2時間以上も過ぎていた。
今日も東京都八王子の街はかなり冷え込んでいる。マフラーなどの防寒具を身に纏わないとそのまま雪達磨にでもなりそうなほどだ。街中を静かに行進する歯車の群れは満員電車で他人の温もりを心の片隅に忍ばせ、独りではないと言い聞かせる毎日を繰り返す。
ところで、アルバイトを無断欠勤した僕は今何をしているのだろうか。
僕の名前は相良修斗。20歳になった僕は高校を卒業してから今までをアルバイト生活で食い繋いでいる。両親とは早くに縁を切り、八王子市の安いアパートに住み憑いている。
そして僕は無自覚なカラスである。
今日は何度目かのアルバイト無断欠勤、自主休業の日だ。罪悪感の中で現実逃避の浮遊感が遊んでいる。
狭い洗面所で寝癖を適当に整え、歯を磨き、昨日と同じ服を着る。汚れや臭いは気にならない。ただ気になるのは朝食が残っているかどうかだ。
僕は玄関をゆるりと開き、朝の空気を部屋へ招き入れる。温く乾燥し切っていた部屋の空気が一瞬にして攫われた。同時にマフラーをしていないことを思い出した。このあとマフラーを数十分探したことは僕しか知らないことだ。
さて、1月の街へ繰り出してはみたが、自室との寒暖差に身震いが止まらない。それでも少しずつ足を前に出してとある場所へ向かわなければならない。午前7時の八王子市は僕よりも寝起きが悪い。
暫く歩いて辿りついたのは市営ゴミ集積所。人間の惨い食生活が見て取れる。悪臭を放つその付近には早くもゴミが溢れている。
「くそ、寝坊したからだ」
残っていたのは鳥類の足跡。
僕はその場から少し離れた。悪臭が匂わなくなる場所まで。そして、離れた場所からもう一度市営ゴミ集積所を見る。
『カラス被害急増!ネット被せろ!』の文字。市営ゴミ集積所のすぐ隣に小さな看板が立っていた。
カラスの被害を網で防ぐことが出来るとは僕は思わない。何年前に提案された対策だと思っているのだか。
カラスは人間が思う以上に賢明な生き物だ。無論、僕の方がカラスよりも賢明なわけだが。
市営ゴミ集積所の下見はこれくらいにして、帰ろうとしたその時、聞き覚えのある太い声が後方から飛んできた。
「おいおい、相良!今日お前朝番だろ!なんでこんなとこ、そんな格好でほっつき歩いてんだ!」
最悪のタイミングで最悪の人物が登場する。バイト先の先輩、金山さんだ。
「いえ、カラスの被害に合っていた近所のおばさんを助けてあげて、その片付けをしていたんです。この辺りカラスが多いらしくて」
看板の情報だけで軽い口実を作る。
「バイト先に出向く途中にか?」
「はい、僕は人間ですから」
「ならいいが、バイト先には連絡したんだろうな?俺に厄介事押し付けるのだけは勘弁してくれよ?」
「それがまだなんですよ。金山さんも一緒に報告手伝って貰えませんか?」
「馬鹿!誰が人助けとは言えバイト先に遅れる奴の面倒なんか見るかよ!」
「酷いですね、金山さん。僕は可愛い可愛い後輩ですよ?金山さんは人間じゃないんですか?」
「お前とは違って、誠実にバイト先へ向かっている人間だ」
「誠実な人間様なら人情くらい掛けてくれたっていいじゃないですか」
「人情は店長に掛けときゃあそれでいいんだよ!」
「媚び売りが誠実だなんてよく言えましたね」
金山さんは僕と同じバイト先のおじさんだ。僕とこうしてガヤガヤ言い合うのが好きらしい。バイト先でも僕を見つけては文句を垂れ、「これだから若い者は」と付ける。
「人を馬鹿にしよって、これだから若い者は」
「今日僕バイト先に行くつもりはないので、報告お願いしますね」
「分かった、分かった。店長の顔が見たくないから休むと言っていた、と店長に言っておいてやる」
「酷いなー。そしたら金山さんが休む時もそんな言い振りしてあげますからね!」
「やれるもんならやってみぃ!じゃあな!若い者!」
「相良修斗です、いい加減下の名前覚えてくださいよ」
と、僕から離れてバイト先に向かおうとした金山さんが数歩先でUターンして帰ってきた。また何か言い掛かりを付けて僕を弄ろうとしているのか。
少しいつもより真剣な目付きで僕の側に止まったと思えば、先程の威勢のいい大声は何処にやら、スズメのような声で僕に囁いた。
「そう言えば今日お前にバイト先で話そうと思っとったことがある。」
こう切り出されては「なんですか、ピタリと耳に息吹きかけて、ホモですか、なんですか」なんてことも言えず、金山さんの乾いた口から漏れる小さな噂を流れるがままに聞いた。
「八王子市に不審者が出たらしい。俺が見たわけじゃねぇから詳細までハッキリと言えるわけじゃねぇが、黒い服を着ているんだそうだ」
「黒い服なんて誰でも着ますよ?僕だって黒い服は何着か持ってますし」
「それだけじゃない!話は最後まで聞かんか!これだから若い者は」
口癖かよ。
「その不審者は不定期に現れては人間の捨てたゴミを貪るらしいんだ」
この時、僕は自分のことを言われているのだと思ったが「お前も気を付けろよ、じゃあな」と言い残してバイト先の方面へ薄れていく金山さんを見ると僕ではない誰かへの警戒だったのだろうかとも思えた。僕は1月の風に打たれながら、とりあえず帰路についた。
アパートの自室に帰ると不意に安心感が顔を出す。帰宅途中、金山さんの言っていた不審者に出くわすのではないかと少し不安だったのだ。
しかし妙だ。
金山さんが持ち出したあの噂話、この辺りではまず聞いたことがない。確かに自分がこの街に疎いということはあるだろうが、全く耳にしないなんてことがあるだろうか。
午前10時。予定が全て無くなった。
昼食は食わなくても死なないし、朝食は市営ゴミ集積所で済ました。アルバイトは金山さんに頼んで欠勤にしたし、これから外出する用もない。次に外出するのは午後6時頃だ。
リビングの原形が無くなった部屋で仰向けに寝転がる。汚い天井と何年も点けていない豆電球がぶら下がっているだけの質素な視界。
暫くすると三度寝の案内人が僕の頭元に座り込む。特に眠いと思っていないのにも関わらず、欠伸が喉を通り抜ける。瞼を支えていたネジも弛み、視界の明るさは三段階も落ち、案内人の思い通りに僕の身体が動いていく。
気付けば身体中の筋力も一遍に抜け、呼吸も穏やかに時間を刻む。
窓から見える寒空の下では多くの人間が自らの家族のために一所懸命働いているというのに、相良修斗はまた至極の時間へと溶け込んでいく。
──人間を出し抜く狡猾さだ──
僕は勢いよく目を開いた。
見慣れた天井。橙に染まる窓枠。下校を促すメロディ。鼻を刺す自分の衣類。硬い床に散らかったゴミ。高鳴る心臓に伴う呼吸と淡い空気。どれもが一斉に僕に話し掛ける。
僕は嫌にかいた汗を拭い、その手を見た。震えている。それは無理もない当然のことだ。1月に暖房のない部屋で7時間も眠っていたのだ。指先は末端まで冷え、身体の芯はもう保ちそうにない。
僕は窓に目を向ける。
綺麗な夕陽が硝子越しの温もりを僕に届けてくれる。この夕陽が沈んだ頃に僕もこの家を出なければならない。
理由は晩飯だ。
残りの小一時間を自室で過ごす事になるが、郵便物の確認だけでもしておくかと思い立ち、立ち上がる。僕は短い廊下をスタスタと歩き、玄関の下部に取り付けられたポケットのようなポストを開く。
「あのジジィ」
ポストの海底に金山さんから一通の文言が届いていた。内容はこうだ。
『店長に今日の朝のことは話しておいた。何事もなく君は減給になった。ご苦労さまだね。そう言えば、いつも晩飯にウチの残飯を貰っていたそうだが、今日は俺が引き受けたからな。代償は頂かないとこの金山、エネルギー不足になってしまうでな』
その場で破り捨ててやった。
夕陽が沈み、気分も沈み切った人の気配がない夜。僕は黒い服に着替えて闇に紛れるように街灯を避けて歩いた。言わずもがな、目的地は市営ゴミ集積所。
朝は二度寝が効き、十分な食事をしていない。空腹の舞を踊る腹の虫達のせいで話さなくてもそこそこの騒音だ。
もう少しで市営ゴミ集積所に着くといったところで僕は足を止めた。
殺気。
暗闇の中に確かに潜む曖昧な影。隻眼を光らせながら僕を見つめている。街灯が列を成す夜道に佇む。
確かに目の前に立つ黒い服の人間。金山さんの言葉を思い出した。
『八王子市に不審者が出たらしい』
『人間の捨てたゴミを貪るらしい』
僕の気配に気付いて振り返った影は錻力の鴉面を被っていた。街灯に照らされたその顔は無表情であるのにも関わらず僕の足は後退る。1月の風が僕と鴉面の間をするりと抜けた。
第1話 夕景の邂逅 如何でしたでしょうか。
『僕と空き缶』はこのような感じで以後も続いていきます。
登場人物
相良修斗(20)男
金山昌幸(63)男
店長
不審者
次回予告 第2話 鴉面の犯人