雪の降るところ(作:marron)
暑い夏空の下に彼はいた。
黒い帽子に黒マント。温厚そうな瞳に知性をたたえた紳士らしい容姿。さらに無駄に長いゴツゴツした杖を持っている。
のんびりと猫たちが昼寝をしている草原で、彼は黙々と地面に円を描いていた。
「うむ」
彼は描き上げた大きな円を見て頷く。
フリーハンドでよくもこれだけ正確に円が描けると感心するほど整った、それは魔法陣であった。
「こんな格好で暑くないのかしら」
その魔法使いの足元で小さな声が聞こえた。女性の声ではあるが、草原には女性どころか、猫しかいない。人間などひとりもいないはずである。
魔法使いは足元を見おろし、そこにいた猫に笑いかけた。
「おやおや」そう言ってハテと首を傾げもう一度「おやおや」と言った。
それから屈みこむと、まるで猫が女王様かなにかであるように恭しく礼をして言った。
「これはこれは珍しい方がいらっしゃいますねえ」
猫はピクリと片側のヒゲを動かすと、すこし顎をあげて威厳を示した。
「あなたこそ私の言葉が分かるなんて、珍しいこと」
「それは私が魔法使いだからですよ。ちょっと複雑な魔法にかかったお嬢さん」
「魔法使いかどうかなんて、見ればわかるわ。でも魔法使いは私の言葉がわかるなんて初めて知ったわ」
「それは恰好だけの魔法使いが多いからです。本物の魔法使いはたとえまだ魔法が未熟でも、あなたのような人の言葉を聞きとることができるのですよ」
「ということは、こんな暑いところでそんな暑苦しい恰好をしていなくても、私の言葉がわかる人がいたら、その人は魔法使いってこと?」
「そうです。本当に暑い。魔法使いじゃなかったらこんな格好」
「脱げばいいじゃないの」
「これを着ていないと諸々の優遇が受けられないものですから」
猫はじっとりと汗をかいて真っ赤な顔をしている魔法使いを、じっとりとした目で見つめた。
パッと見は紳士で、受け答えは若干ズレているが……果たしてこの魔法使いに願っても良いものだろうか。
「お願いがあるのよ」
「魔法使いへの仕事の依頼でしたら、まず役所に」
「私にできるはずないでしょ!」
猫は魔法使いの靴をひっかいた。見事な3本線が先の尖がった靴を飾る。それでも魔法使いは飄々とした顔をしたままだった。
「そうでしたね。では特別に、ここで聞いても良いことにしましょう」
そう言って魔法使いはキョロキョロと周りを見渡した。
広い原っぱで木が数本生えている他は、猫しかいない。誰に聞かれることもあるまい。
「人間に戻してほしいの」
「む~り~」
猫の願いを聞いた瞬間に魔法使いは目を半開きにして下あごを出した。
「なんでよ!あなた本物の魔法使いなんでしょ?」
「確かに本物の魔法使いではありますが、まだ魔法が未熟なものですから。先ほど言いましたよね?」
確かに“魔法が未熟”でも猫の言葉がわかるとは言ったけれど、それはこういう意味だとわかるはずもない。
猫は毛を逆立てたが、爪を出すことはしなかった。できないと言う者にやれと言っても無駄なことはわかっている。しかし、だったらどうしたら良いのだろうか。何としても人間に戻りたい。それにやっと見つけた本物の魔法使いなのだ。何とかならないだろうかと魔法使いを見つめて(睨んで)いた。
「まあ、場合によっては人間に戻せないこともありませんが」
「じゃあ!」
「今は無理です。鍵がわかりませんから」
魔法使いは原っぱにどっかりと腰を下ろして杖を下に置いた。猫はその正面に周り顔を見上げる。
「鍵?」
「そうです。魔法には鍵があって、それが揃わないと魔法をかけることも解くこともできないのです。例えば・・・そこの魔法陣、あれは暑さをしのぐために描いた魔法陣ですが、あの陣の中に、小さい○の中に×と横線が組み合わさった記号があるでしょう。それを6個、等分で描くことで鍵になります。だから、その周囲にある大きな円や△の線は少しくらい歪んでいたり、線が無くても良いのです」
「ずいぶんズボラな設定なのね。それで、人間に戻すのは鍵が難しいってこと?どうやって書くかわからないの?」
「一番難しいのは召喚魔法ですよ。目の前にないものを呼び寄せるのですからね」
「そういうことを聞いてるんじゃないわ」
どうもこの魔法使いと話していると、話しが少しズレていく。猫は人間に戻りたいために話を修正しなければならなかった。
「まあお聞きなさい。召喚魔法で必要な鍵はあの一番外側にある大きな円です。あれを描くのは本当に難しいのです。だけど、私の書いた円はかなり正確でしょ?ということは、あの魔法陣は召喚もできるんですよ。色んな鍵の組み合わさった魔法陣を描くことができれば、色んな魔法ができるのです。あなたにかかっている魔法も複雑でこんがらがった魔法ですから、あのくらい魔法陣がちゃんと描けなければならないのですよ」
「じゃあ、やってよ!人間に戻りたいのよ」
魔法使いの言いたいことはわかる。難しい魔法なのだろう。そんなことは猫自身が身を持ってよくわかっていた。
「だけど鍵がないのですよ」
「だから鍵はなんなのよ。そこに描けばいいじゃないの」
「違います。この魔法の困ったところは、鍵があなた自身なことと、さらにもう一人の誰かです。それが私にはわからないので、戻しようがないんですよ」
すぐに猫はピンと来た。座っている魔法使いの膝に近寄ってもどかしそうに膝に手を乗せた。
「私自身と誰か?分かったわ!鍵は姉さまよ。きっと姉さまだわ」
「お姉さん?どうしてわかるんですか?」
「だって、私と一緒に猫になったんだもの。私と一緒だったのよ。だから、私が鍵なら姉さまも鍵だわ」
「なるほど・・・きっとそうでしょうね」
魔法使いと猫は見つめ合い、そして頷いた。
「では、お姉さんと一緒に私のところへ来たら、人間に戻してあげましょう」
「姉さまを、って、え、ちょっと、どういうこと?あなたがコレで召喚してくれたら良いじゃないの」
猫の言い分も尤もだが、魔法使いは首を振った。
「召喚魔法というのはね、そんなに簡単なもんじゃないんですよ。詳しい話は省きますけど、あなたのお姉さんは召喚できません」
「どうしてよ」
「それは、あなた自身がよく分かっているんじゃないですか?」
魔法使いは真面目な顔をして言った。その目はとても思慮深い色をしている。まるで猫の心を見透かすように。
「そ、それは」猫は口ごもって考えた。
「あなたのお姉さんは、どうして猫になったのですか。どうして今、あなたと一緒にいないのですか」
その言葉に、今まで魔法使いに詰め寄っていた猫は、顔を逸らすと魔法使いの膝から手を離して数歩向うへと歩いた。
「姉さまが・・・怒って」
猫はそれ以上何も言わなかった。ただしばらく姉のことを思い出していたのだろう。寂しそうにその猫背でうな垂れて地面を見ていた。
「何があったかは私にはわかりませんが・・・お姉さんは怒って去って行ったのですね。それはきっと、お姉さんも、そしてあなたも、悲しいことでしょう」
そうだ。
姉は怒って行ってしまった。猫になって行ってしまった。それからずっと会っていないのだ。謝ることどころか、話すことも、目を見ることもできずに、猫はずっと姉のことを考えていた。
「姉さまを悲しませたまま、私は」
猫も悲しかった。
怒ったまま、悲しんだままでいたら、自分だったらどんなに辛いだろう。
だから怒らせたまま、悲しませたまま去らせてしまったことは、ずっと猫の心を苦しめていた。
「では、あなたのお姉さんの心の一部をここに召喚しましょう。そうしたら、あなたはお姉さんを探しに行きなさい。きっといつか、お姉さんに会えますよ。だけど、覚えておきなさい。人間に戻ることが大切なのではなくて、お姉さんと一緒に生きることがあなたたちの幸せですよ」
魔法使いは長い杖を持ち、魔法陣の前に立った。そして静かに呪文を放った。
「いでよ」
魔法陣には何も起こった様子はなかった。
しかし静かに、何か視界を白い物が舞っていることに気づき、猫は目をあげた。
青い青い夏の空に、この南の地では見ることのないはずの雪が降っていた。キラリキラリと光りながら、クルクルと輪を描き、氷の華は静かにそして鮮やかに空から舞い降りてきた。
『わあ』
猫たちが空を見上げ、嬉しそうに暑い草原を駆けまわっている。触れれば溶けてしまうその結晶を夢中になって掴もうとしていた。
「これが姉さまの心?」
猫は空を見上げながら、きっとどこかで妹が来るのを待っている姉に思いを馳せた。
「姉さまの心はこんなに真っ白で、そして、冷たいわ」
猫は、姉の心がまだ悲しんでいると感じた。きっと雪の降るところで悲しみ抱えていることだろう。
「姉さま、待ってて」
猫は駆けだした。北へ向かって姉を探しに行った。
猫は姉に会えただろうか。
魔法使いは南の草原で、今日も汗をかきながら魔法陣を描いている。
しかしもう二度と、魔法使いのところに猫が戻ってくることはなかった。
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この後、この猫がどうなったかを知りたい方は「小津の魔法陣」https://ncode.syosetu.com/n4475ek/ をお読みいただけるとわかります。
よろしかったら、ぜひどうぞ^^




