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旬菜 かわはぎ 第ニ話 残り香  作者: 海帆 走
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商店街の外れにある『かわはぎ』で語られる優しくも哀しい物語り

商店街の外れにある『かわはぎ』

お馴染みさんやご近所のお客様が多い。


カラカラと鳴る古い引き戸の入り口と白木のカウンターの店内で語られる優しく哀しい物語り。

健介は高校球児だった。

学校は公立だったが練習は厳しかった。

朝6時に家を出て、6時半に学校に着くと直ぐにグランド整備。

朝練の最初のメニューはいつもランニング。

一年生の初めの頃は、このランニングだけでヘトヘトになっていた。

疲れきって朝練を終えて着替える頃には、もう腹ペコで、今度は腹の虫との闘いだった。

持参したおにぎりを頬張りながら授業に臨むと、今度は眠気との闘い。

朝。午後。夕飯前。いつも何かと闘う高校生活だった。



「いいですか、皆さん。失敗したらどうしようとか、何とか塁に出ようとか、考えないで下さいね」


安西先生の口ぐせだ。

先生は公式試合の朝は、決まって自分で握ってきたおにぎりを生徒全員に配りながら、一人一人に語りかけた。


「上手くやろうと考えると身体は萎縮するんです。上手くやるんじゃなくて、思いきりやってください。結果は狙っちゃダメです。結果は後から付いてくるものなんです。重要なのは思いきりやる事です」


今考えると60個以上のおにぎりを毎回用意するのは大変なことだ。本当に頭が下がる。


“上手くやるんじゃない。思いきりやれ”


この言葉が生んだヒットやファインプレーはいったいいくつあっただろう。

この魔法の言葉が生徒たちの力を解き放ち、実際に奇跡は何度も起きた。

そして事実、健介の世代は都大会の準々決勝まで勝ち進んだ。野球部創立以来の快挙だった。


この季節になると、そんな泥だらけの野球部の日々を懐かしく思い出す。

共に苦労した仲間たちや顧問の安西先生は、健介にとって今でも掛け替えのない仲間だ。



17時。健介はいつものように店の外に出た。今の時期はまだまだ陽射しが素肌を押してくる。

今日は貸切なので暖簾(のれん)は出さない。

店の周りの汚れやゴミだけを確認した。


見上げる西の空。発達した積乱雲。まだ賑やかに鳴き交わすアブラ蟬。

今日は夕立は無さそうだ。


しかし暑い。少し外にいるだけでも汗ばんでしまう。

道の向こうの白い猫も植込みの下にだらしなく伸びたままだ。動く気配が無い。尻尾が僅かに動いた。


「だめだ。もうあの頃みたいに外で長いこと過ごせないな。退散、退散」健介は一人苦笑いしながら店に戻った。


『かわはぎ』は商店街の外れにある。

一見(いちげん)さんはあまり来ない。

贔屓(ひいき)にして下さるお馴染み(おなじみ)さんや、そのご紹介のお客様が多い。


店名を白抜きした藍染の暖簾。

カラカラと鳴る古い引き戸の入り口。

小皿と箸が整然と並ぶ白木のカウンター。

七席だけの小さな店だ。



今日は特別な貸切。年に一度の野球部の同期会だ。

今年もみんなが気を遣ってウチの店に集まってくれる事になった。

毎年椅子は外に出して立飲みスタイルにする。仲間との距離が近くなり、これはこれで悪くない。


折角集まってくれるみんなの事を考え、少し珍しいものも加えて、平政(ヒラマサ)真蛸(マダコ)、穴子を仕入れた。


平政は関東では馴染みが薄いが、(ブリ)勘八(カンパチ)と並んで関西では人気の青物だ。鰤よりもファンが多い。


そのまま寝かせれば、タンパク質がアミノ酸に分解されてネットリと旨味が増すが、今日は新鮮なお造りにして、程良い脂と新鮮な弾力を楽しんで貰う。

それなりに大きな魚なので、大皿に盛ると見栄えがして華やかだ。


真蛸は夏が旬。

タウリンが豊富で夏バテ防止になるのは最近知られ始めた通り。

お造り、タコブツ、唐揚げ、酢の物、桜煮と応用範囲も広く、地味だが人気の食材だ。


今日は噛み締めたときに蛸の甘みを感じやすい様に、大き目のタコブツにする。

スタンダードに醤油と山葵(わさび)も良し。塩とレモンでも旨い。日本酒にも白ワインにも良く合う。


穴子はそろそろ旬が終わる。

シーズン最後だが、羽田沖の良型が二本手に入った。

今日はこの二本を使って、普段は中々食べられない料理に腕を振るう。出来上がってからのみんなの反応が楽しみだ。


もう直ぐ奴等が来る時間だと思いながら、下ろした平政を真名箸(まなばし)で大皿に並べていると、引き戸を少しだけ開いてた。

「よお」人懐っこい神保の笑顔が中を覗いた。

「おお、神保。元気にしてたか?」

「まあまあだな。何か手伝うか?」

中に入って引き戸を閉める。

「いいよ、いいよ」

「いいから、いいから。ツマミでも並べるか?」


同期の絆は本当に深く優しい。簡単に時間を飛び越える。打算がない。相手の気持ちに応える事だけを考える。社会人になってからの友だちとはやはりどこか違うのだ。


神保に続いて、岩本。松本。徹。中野。高田。

メンバーが続々と集まって来た。


「おお、岩本、元気にしてたかよ」

「おお、高田。なんかウチの会社、おまえんトコに迷惑掛けてるだろ。悪いな」

「徹、ちょっと太った?」

「お前。もう大人なんだから、普通もう少し気を遣った言い方があるだろ!」 数人かがつられて笑った。


「健介、ツマミよこせよ。並べるから」

「じゃあ。まずは本場山形の茶豆だ!茹でたてだからな。まだ熱いぞ」


「次は江戸前地ダコのタコブツ。醤油に山葵も良いけど、塩とレモンも旨いぞ。試してみてくれ」


「これは冬瓜(とうがん)の冷菜だ。味はついてるからそのまま食べてくれ。冷たくて汗が引くぞ」


「そしてこれが、今日のメイン。平政のお造りだ」

ちょっとした歓声が沸き起こる。

有田焼きの大皿に盛り付けられたお造りは美しく迫力がある。


他にもカウンターには、天ぷらの盛り合わせ、切り昆布と厚揚げの煮物などがならんでいる。


「健介、もう十分だよ。ありがとう」

「とりあえずここまでな。また暫くしてから何か出すから」

「よし。じゃ、乾杯しようぜ」


瓶ビールの栓がポンポンと景気良く抜かれた。

次々にグラスに注がれる。

健介も神保の注ぐビールをタンブラーに受ける。


「神保。まだ吉高が来てないけど、時間になったから幹事のお前から挨拶しろよ」

「よし、じゃ乾杯するか」


「それじゃ、だいたい揃ったので、恒例の同期会を始めます。今年も『かわはぎ』をお借りしての開催となります。今日は日頃の得意先や家族のプレッシャーから解放されて、楽しみましょう! カンパーイ!」


神保の名調子で同期会が始まった。


「さあ、食べようぜ!」

「おお、この茶豆まだ熱々だぜ」

「おい、このタコブツ。塩レモン、マジに旨いな」

「冬瓜旨いな。しかも身体が冷えていいわ」

「プリップリだぞ、平政。初めて食べたよ」

「おいおい、この切り昆布と厚揚げ。うちのお袋のより旨いぞ。参ったな。お袋泣くわ!」

良かった。みんなに気に入ってもらえた様だ。



酒が入り肩の力が抜けるまでは、毎年固めの話題でスタートするのが常だ。

会社や部署の業績、転勤、単身赴任、親の介護、子どもの受験、夫婦の距離。

大人になった我々は、一年の間に沢山の鎧を重ね着してしまうものなのだ。


だが、それも束の間。

酒の力も借りて鎧を脱ぎ捨てると、心の距離は一気に縮まる。一年生の時の話から、想い出は順にトレースされる。


一年生の新人戦で初ヒットを打った健介。

初ダブルプレーを取った中野。

四連続三振に倒れ「火ではなくホラを吹く主砲」とあだ名のついた松本。


二年生の夏の大会で、12ファールの後にライト線を破る三塁打を放った岩本。

準々決勝で四打席連続で四死球を選んだ徹。

練習試合でファールを深追いし、サッカーゴールに頭を強打して救急車で運ばれた神保。


毎年同じ箇所で笑いが起きる。

まるで古典の落語の様だ。


「ああ、もうこんな時間」

駅から小走りで来た吉高。それでも既に30分遅れだ。

ようやく店の前まで来たが、額の汗が止まらない。


そこへするりと白い猫が現れた。吉高の足元に体をなすり付けて来る。

「あれあれ。君はどこの子かな。もしかして健介くんちの子かな?」

吉高は頭を撫でる。猫は喉を鳴らす。

「ゴメンね。お姉ちゃんはこのお店に入るんだ。またね」

もう一度頭を撫でると、元気良く引き戸を開けて店に入っていった。

歓声が上がった。


猫は吉高の消えた引き戸を見上げた。

尾が一度、しなやかに地を叩いた。



今日の穴子は脂の乗りの良さが目に見える60cm越えの立派な黄金穴子だ。

それを強火の遠火で、外はカリッと中はフワッと焼き上げた。

串から外しザクザクと一口大に切る。立ち昇る湯気。中が瑞々しい証拠だ。


「今日はとてもいい穴子が入ったのでシンプルに塩焼きにした。脂が乗ってるから旨いぞ。柚子胡椒が合うと思う。付けて食べてみてくれ」

みんなの歓声と、引き戸が元気な音を立てて開くのがほぼ同時だった。


「遅くなってゴメンなさーい!」

元気に吉高が入って来た。額に汗が浮いている。


「おせーよ、吉高!」

「ゴメン、ゴメン。出がけに部長に捕まっちゃって。資料見直しになっちゃって」

「何かやっちゃったのかよ?」

「違うわよ。チョット集計の数字が間違ってたの。だから見直せって」

「そりゃ、自分が悪いわ。じゃ文句言えねえな」

「だから遅れてゴメンって言ってるでしょ!もう!」

ヒロインを迎えるみんなの顔は笑っていた。


「吉高。遅かったな。みんながお待ちかねだぞ。ちょうど穴子も焼けた所だ」健介が笑い掛ける。

「うん。遅れてゴメン」吉高も笑い返す。


「おお、吉高、元気にしてたか!?」

「うん。神保くんもありがと」


「それでは、我らがマドンナ。吉高が来たので、改めて乾杯の挨拶をお願いしたいと思います!」

「健介!吉高のグラスくれ!」

「えー?私?わかったわよ。えー、オホン。みなさん!またこうして、今年も皆さんとお会いする事が出来て嬉しく思います。今日は私も旦那や子どものことを忘れて一緒に楽しみたいと思いま〜す。カンパ〜イ!」


マドンナによる二度目の乾杯で、場は急速に温まった。話題は次々と変わりながら、別なメンバーを巻き込んで大きな笑い声になっていった。



「お前んトコの娘、幾つになった?」と松本。

「もう23で孫いるよ。ホラ、これ。可愛いだろ?」と中野がスマホを見せる。

「え!孫!?マジかよ。早いなぁー。お、この()?可愛いじゃん。好みだわ、オレ」真面目な顔で松本が呟く。

「お前変態か!?孫の話だよ。孫!」中野が呆れて言った。


「吉高の所は娘だっけ?」徹が尋ねると吉高はスマホを取り出した。「高校二年。ほら。生意気な年頃よ」「え!?カワイイじゃん。お前には似てないな」

徹がからかう。


「ちょっと、それどういう意味よ!」吉高が徹を睨む。周りがつられて笑った。



「ほら、吉高。遅れて来たんだからドンドン食べてな。どれも旨いぞ」と岩本が勧めれば「それ岩本が自慢することじゃ無いけどな」と高田が切り返す。

「まあまあ、岩本くんも高田くんも久しぶり。ありがとね!」吉高がフォローに回る。


「おい、健介。旨い日本酒無いか?」

「そう言われると思って良いのを仕入れておいたぞ。一つは一ノ蔵 特別純米生酒。宮城の酒だ。もう一つは奥の松 純米吟醸生原酒。こっちは福島。少しずつ出すから飲み比べてみろよ」

「いいねえ。どれどれ」

「オレもオレも」

「おーコリゃ旨い!」

「えー、じゃ私も少し貰おうかな」

仕入れた夏酒は好評だ。


「健介くーん、このお魚なあに?コリコリで美味しいわね。脂も乗ってるし!鰤みたいな感じだけど、もっとサッパリした感じ」

「これは平政っていうんだ。鰤や勘八の親戚で、関西では人気なんだ。気に入った?」

「うん。美味しい!初めて食べた」吉高が笑った。



「所でさ、安西先生の具合どうなんだよ」

徹がみんなに声を掛けた。

「メールでは、具合はまあまあで、出来れば同期会に行きたいと書いてあったよ」ここ数年、岩本が先生との連絡係になっている。

先生は二年前に体調を崩して、それからはこの場に来ていない。年賀状だけだ。

今年はご自宅に様子を見に行ってみるかという話になった。


高田と徹が一緒に健介を呼んだ。

「おい! 健介! いいから、ちょっとこっち来いよ」

「ん? 何だ?」

前掛けで手を拭いながら板場から出て来た。

「お前さ、昔、ホントは吉高と付き合ってたんじゃねえのぉ?」

「おい、おい、高田」健介は笑って腰に手を当てる。

「お前、去年もこの話したぞ。覚えてないのかよ?オレは高校の時は誰とも付き合った事ないの! もしもオレがその頃から女の子と付き合える位なら、とっくに父親になってるさ」

何人かが声を上げて笑った。


「ちょっと、高田くん。今なんか私の悪口言ったでしょ。ちゃーんと聴こえたんですからね」

「いやいやいや、悪口なんて言ってないですから!な、徹?」「ん? ああ」徹は適当な相槌だ。「ホントかしらぁ?」吉高は上目遣いで高田をギロリと睨んだ。

その時、ゆっくりと引き戸が開いた。


健介が振り返りながら声を出す。

「すいません、今日は貸切なんです。あ!安西先生!!」

「え! 本当だ。先生!」

「先生!」

「いゃあ、すっかり遅くなっちゃってね。すまん、すまん」


入り口には笑顔の安西が立っていた。


「先生!! お身体の具合は大丈夫ですか? さっきもみんなで話してたんですよ」


「有難う。有難う。先生は見ての通りまあまあです。みんなは元気なんですか?」

先生は手の甲で額の汗を拭うと笑った。

「はい。お陰様で今年はみんな揃いました」

「そうか、そうか。それは良かった。みんなもそろそろ身体に無理が来る齢ですからね。ちょっと心配だったんですよ」


懐かしい笑顔。

懐かしい声。

懐かしい整髪料の香り。

だいぶ痩せただろうか?


「先生こそ、元気そうじゃないですか。ホントに良かった」

「いゃあ、本当に今さっきもみんなで話してたんですよ。こうしてお越し頂いて、本当に嬉しいです。有難うございます!」

岩本は先生の手を両手で握りしめた。プックリとした温かい手だった。


「松本くん、ありがとうございます。岩本くんも元気そうですね。良かった、良かった。安心しましたよ」


「おい、誰か先生の椅子!」

高田が椅子を外から運んで来た。

健介が冷たいおしぼりを差し出す。


「おい、健介。先生のグラス! それと新しいビール」

「吉高。お前からお酌しろよ、ほら!」

「うん。さあ、せんせ! どうぞ。お越し頂いて本当にありがとうございます!」


「神保! もう一度乾杯しようぜ」

「おう! では、先生。一言お願いします」

「そうですか。それでは。えー、久しぶりに皆さんに会えて、とても嬉しく思います。皆さんもそろそろ身体に無理が掛かる年齢(とし)です。また会社の中核として成果を求められる年齢(ねんれい)だと思います。

しかし結果を出すことを先にイメージしてはダメです。まずは思いきり思いきり思いきりやる。結果は狙ってはダメです。後から付いて来るんです。覚えてますよね。

健康にも少しだけ気を遣いながら、思いきりやって下さい。

皆さんの今後の活躍を遠くからお祈りしています。

それでは、皆さんの将来と再会にカンパイ!」

「カンパーイ!」

全員が先生とグラスを合わせる。

自然と拍手が湧き起こった。


先生の登場によってムードがリセットされた。

恩師の登場はどこか襟を正してくれた。


「先生、お身体はホントに大丈夫なんですか?」

「まあまあってトコですかね。神保くんは悪いところは無いですか?」

「はい。お陰様で元気にやってます」


「先生。いよいよウチの子が成人式を迎えました」

「それは、それは。高田くん。おめでとうございます。毎年、年賀状も有難うございます」


頷いて話しを聴く安西の前に報告の列が出来ていく。


「おいおい、ちょっと待てよ、みんな。

そんなに一度に話したら、先生、食べる事も出来ないだろ。まずは召し上がって頂こうぜ。

さ、先生。

平政に、マダコに、穴子の塩焼き、茶豆、冬瓜の煮物です。召し上がってください」

岩本が大袈裟に薦める。


「そんな事言って、一番話したいのはお前だろ、岩本」

「ははは。バレた?」

岩本は言った徹の胸を軽く突く。

みんなが声を上げて笑う。


「いやぁ、何も食べずに来たんでね。お腹が空いてしまって。早速頂きますよ。はっはっは」

「先生、小皿と醤油です。先ずは平政からでしょ。旨いですよ。召し上がって下さい」

「松本くん、有難う。では、頂きますよ。うん。コリコリですね。脂がのってて、これは美味しいですね」


「先生、このタコも食べてみて下さいよ。これもね、シンプルなのに、スゴい旨いんですよ。健介、どこのタコって言ったっけ?」徹が調子に乗って説明した。

「小柴だ。東京湾」

「あ、そうそう」

「ほほう。じゃあ頂きますか。どれどれ。ホントですね。ぷりぷりで味が濃いですね。

いやぁ、ちょっと入院してたから、なんだかこんなに美味しいものは久しぶりに食べる気がします。はっはっは。どれも美味しいですね」

「この穴子の塩焼きなんか最高ですよ。柚子胡椒が堪らないです」

「先生! 健介、スゴイですよね。オレたちの中からこんな料理人が出るなんて、すごくないですか」

「せ〜んせっ! 日本酒はいかがですか?」

「おお、吉高さん、ありがとう、ありがとう。じゃ少しだけ頂きますかね」


少し落ち着いてきた所で、健介は仕込んであったもう一つのメインに取り掛かる。


手際良く薄造りにされた白身は細長い半透明だ。

伊万里の中皿に盛り付ける。薄造りの身が下の皿の模様を透けて見せる。薄造りはそれも含めて一品なのだ。


「先生、これ召し上がってみて下さい。ちょっと珍しいお造りです」

健介が勧めた。


みんなが注目する。

「これはなんですか? 細長い白身ですね。普通に醤油で食べて良いんですか? 何でしょう。どれどれ」

ワサビを少し身に乗せて、醤油にチョン。そのまま口へ運ぶ。

「ほほう。歯応えはコリコリだし、さっぱりしてるのに、噛んだ後から美味しさが追いかけて来ますね。これは何ですか?」

「実はこれは穴子の刺身なんです。穴子の血には熱に弱い毒素が含まれてます。だから普通は火を通して食べる。生では食べないんです。

ですが血をしっかり抜いて、洗い流せばこの通り。コリコリとして、甘い身なんです。手間は掛かりますがその代わりに美味しいご褒美が待っています」

「穴子の刺身ですか。生まれて初めて食べました。とても美味しいものですね。健介くん、ありがとうございます。冥土の土産が出来ましたよ。ははは」

「いやいや、先生。喜んで頂いて嬉しいですが、冥土はまだまだですよ」

健介が笑うとみんなも笑った。

「さあ、皆さんも頂いて下さい」

安西はみんなに声を掛け勧めた。


「穴子って刺身で食べられるのか。聞いた事も無かったな」

「うわ。ウマ! 健介。お前スゲえな!」


「手間だけどな。旨いんだよ」

健介は手を腰に当てて嬉しそうに笑った。


その後も宴は盛り上がった。

「先生、覚えてますか。あの最後の試合…」

「先生、先生! あの時、俺…」

「せーんせ! はーい。お酒どうぞ〜!」

安西の隣には常に笑い声が順番待ちだった。



外はやっと夜の帳が下りた。風のないまばらな星空。

雲も少なく眠そうな半月が空高くに浮いている。

まだ空気はねっとりと暑い。

かわはぎの引き戸の飾りガラスの内側では人影が動いている。時折り笑い声も聞こえ、いつもよりも賑やかな温かさに溢れていた。



「あ、そろそろ10時か。みんな! ちょっと聞いてくれ」

神保が、酔っ払って大声になっている全員を静かにさせた。


「実はオレ、来月からアメリカ赴任になるんだ。だからたぶん、3、4年はみんなに会えなくなる。

そこでだ。みんなには悪いんだけど、勝手に健介と相談して、ここは早目にお開きにする事にした。

その代わり、今年は健介も一緒に、全員でカラオケ行きたいなと思ってさ。どうかな」


「おー、いいね!」

「さんせーい! みんな一緒がいい〜!」

ちょっと酔っ払った吉高が気持ち良さそうに大きな声をあげた。


「じゃあ、ささっと片付けようぜ。そうしたら健介も早く来れるだろ」

「おう。そうしよう、そうしよう」


体育会系は動くとなれば、話しが早い。決めたらすぐに動くのだ。


カウンターはみんなでワイワイと作業をするので、あっという間に片付いていく。神保と松本の二人が板場に回り、腕まくりして洗い物をする。

高田は鼻歌交じりにイスを元に戻す。もうカラオケ気分の様だ。

吉高はおろし立ての布巾でカウンターをキレイに拭いている。


「私、飲み屋の女将(おかみ)でも良かったなー。どう?健介くん。似合う?」

吉高が上目遣いで健介に笑い掛けた。

鈍い健介は気付かない。ただ横目で吉高をチラリと見て笑った。


みんなは好き勝手に返事をする。

「お前じゃ怖くて、客来ねーよ」

「自分が飲んじゃって仕事にならねーだろ」

「だーれ?今悪口言ったのは!?」

怒ったふりの吉高をみんなが笑った。


神保が会計をして場をしめる。

「健介。じゃあ、先に行くぞ。後でメールするから」

「ああ。楽しみにしてるよ。みんな片付け有難うな!」

「健介くん、平政も穴子のお造りもとても美味しかったです。特に穴子の刺身はびっくりしました。美味しかったです! いつまでも遠くから応援してますよ。身体に気を付けて頑張って下さいね」

「先生、有難うごさいます。きっとまた来て下さいね」

健介は両手で先生の右手を握りしめた。


かわはぎを後にした一行は陽気に駅に向かう。

「誰か店知ってるのか?」

「オレの知ってる店が隣駅だからさ、そこ予約してあるんだ」

「おお。さすが手回しいいな!」

「先生、一緒に行きますよね!?」

「そうしたい所ですが、身体のことを考えて今晩は止めておきましょう。皆さんで楽しんで来て下さい」

「そうですね。じゃあ先生。せめて一緒に駅まで行きましょう」

「そうそう。先生!駅までオレと一緒に行きましょうよ。先生のおかげでちゃんと社会人やって、、、のおかげで、、ホントですよ、、、、」

声が遠ざかる。一行はゆっくりと駅に向かって歩いていった。


さて、じゃ片付けて後を追うか。

健介は看板の灯りを落とすと店に入った。



六日後。黒い縁取りの葉書が届いた。

先生の訃報だった。




「本隆寺」と書かれた立派な山門。

溶け出す線香の香り。

物哀しいヒグラシ。

風の無いトロリとした8月の夕暮れ。

アスファルトが昼の間に蓄えた熱を一気に放射し始めた。


上着を手にした人々が次々と山門をくぐっていく。会釈をする人は多いが、声高に語る人はいなかった。


タクシーを降りた健介。

眉間の皺。暑すぎるのだ。

と、山門の脇で誰かが手を挙げている。神保と徹と松本だった。


門を潜り、磨り減り苔むした階段を上る。

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」

縦に育った入道雲が夕闇に消え始める18時。

シロップの様な空気。読経と線香の香りに混ざり合い、階段をトロトロと伝い落ちていく。


間抜けな木魚の音。伏鉦(ふせがね)の響き。読経は続く。


「照見五藍皆空 度一切苦厄 舎利子」

黒い服に身を包んだ参列者。焼香に列を作りゆっくりと前に進む。

前方に岩本、吉高、中野、高田の姿も見えた。


「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」

本堂の親族席。喪主を務める先生の奥様が頭を下げている。


遠くで鳴き交わす日暮(ひぐらし)

本堂前では、百日紅(さるすべり)が静かに燃える様な紅い花をつけていた。


奥様は訪れた多くの先生方や教え子たちに挨拶をし、気丈に振舞われていた。

健介たちは他の参列者が帰るのを待って、全員揃って奥様にお悔みを申し上げた。


「皆さん、本日はご多忙の中、足をお運び頂き、本当に有難うございました。主人は特に皆さんの事が本当に大好きでした。これまで長い間、主人をありがとうございました」

奥様は深く頭を下げた。


「実は、主人はこの半年、寝たきりでした。特にこの二週間は昏睡状態だったんです。

それが一週間前にいきなり目を覚まして、嬉しそうに笑ったんです。

『あいつらに会って来たよ。穴子の刺身旨かった。みんな笑ってた。もう心配ない』って。

その後すぐにまた昏睡状態になり、目を覚まさぬまま息を引取りました」

健介たちは予想していたとは言え、説明のつかない現実に驚きを隠せなかった。


たくさんの供花(くげ)に囲まれて、香と伏鉦の中で微笑む遺影の安西。

穏やかに笑みをたたえた良い写真だった。


「主人は最後の最期に、皆さんと夢でお会いする事ができて、幸せだったと思います。長い間、本当に有難うございました」

奥様は深くお辞儀をした。そしてお辞儀はそのまま嗚咽になった。


吉高が駆け寄り、その痩せた肩をそっと抱きしめた。

この暑さの中、奥様の小さな身体は冷たかった。


今話し掛けたら何かが吹き出て来てしまう。吉高は彼女を抱きしめたまま、何も言えずに天を仰ぎ、目をしばたいて必死にこらえた。

ようやく景色が滲まずに見える様になってから声を出した。上ずった声がでた。


「奥様。先生は幸せだったと思います。だから奥様。泣かないで下さい」

吉高は何とかそれだけを言って、腕に力を込めた。


メンバーは奥様の涙が乾くのを待って、通夜の会場を後にした。


かわはぎに着くとお互いを塩で浄めた後、黙って店に入った。

深いため息とともに黒いネクタイを外す。


全員がそれぞれに、自分の想い出に残る先生の姿を思い浮かべていた。


今日のかわはぎはまるで冬の木立の様だった。

気温は高いのに、葉が落ちて見通しの良くなった鳥もいない葉を落とした林の様な寒々しい空気が満ちていた。


健介は黙って板場に周り、袖をめくると前掛けを締めた。

良く冷えたビールとタンブラーをネタケースの上に並べる。

「ま、ともかく、みんなお疲れさん」

タンブラーは全員に渡り、無言のままビールを注ぎ合う。タンブラーの中では幾筋も泡が立ち昇っている。


高田がポツリと言った。

「先生、穴子のお造り、本当に喜んでくれたんだな。ありがとうな、健介」

「でも本当に冥土の土産になっちゃったな。それが悲しい」


誰に言われるでも無く、神保が立ち上がり、言葉を選びながら話し始めた。


「先生は、間違いなく最後の最期に、オレたちに会いに来てくれた。安西先生にこれまでの感謝とさよならの気持ちを込めてお礼を言いたいと思う」

語りかける様な口調だった。

「安西先生。これまで長い間、ほんとうに、有難うございました」

グラスを低く掲げた。


「先生、ありがとうございました」

「先生」

「有難うございました」

みんなの声が重なった。


中野が怒ったようにぶっきらぼうに言った。

「健介。何か作れるか」

「ああ」


冷蔵庫を開けて、鱸と鮪の柵を取り出して捌く。

七寸皿に真名箸で盛付けた鱸と鮪のお造りが、カウンターに置かれた。


「頂きます!」

中野が怒った様な声で箸を伸ばした。


岩本が健介を睨みつけて懇願した。

「健介。また先生が喜んでくれる様なスゴい酒肴(さかな)作ってくれ。頼む。この通りだ」声に断れない重さがあった。


「わかった。任せろ」

健介は強い目で岩本を見つめ返した。

冷蔵庫から小さな器を取り出し、その中のオレンジ色のものを少し片口に盛った。


「これは先生がいたら絶対喜んでくれたと思う。これはビールじゃ負ける。日本酒でいってくれ」

「よし。じゃ、日本酒にするか」

「オレもだ」

「私も」

「じゃ人数分だな」


枡と一升瓶が出てきた。全員の枡に酒が注がれた。

みんなで酒と共にそのオレンジの酒肴を口にした。


「おい!? なんだこりゃ!」

「こりゃあ旨いな! こんなの初めてだ」

「なんだコレ! こりゃスゴイぞ」


「これは莫久来バクライって言うんだ。ホヤとナマコの腸で作る塩辛だ」


神保がそっと岩本の肩に手を置いた。

「これなら先生、来てくれるかもな」

「ああ」

岩本が頷いた。


莫久来が、葉を落とした冬の木立のかわはぎの空気を変えた。

みんなの心が少し温かくなった頃、蕗の(とう)の様に春が顔をのぞかせた。



最初は吉高だった。眉を持ち上げてゆっくりと顔を上げた。

神保がゆっくりと辺りを見回す。

「おい」

松本が小さな声で高田を突つく。

「感じないか?」

「おい、これ」

「ああ、先生の香りだ」


岩本が急いで枡をカウンターに置いた。

酒を注ぐ。

健介が莫久来の鉢を置く。

吉高が箸を置く。


全員が静かにただカウンターを見つめた。


岩本が立ち上がり、無理矢理笑った。

「おい。みんな。きっと最後の最後だ。先生と乾杯しようぜ。ほら!」


健介が微笑んで言った。

「そうだよな。岩本の言う通りだ」

「よし!」


岩本が姿勢を正した。

「先生。高校生の頃から長い間、俺たちの事を可愛がっていただいて、本当にありがとうございました。俺たち、みんな、本当に感謝しています。こんなに素敵な先生に出会えて良かったです。特に俺は心からお礼を申し上げます。最後に是非、先生ともう一度だけ乾杯させて下さい。お願いします」


岩本はそこで切るとメンバーを見回した。

みんなと目が合う。

神保が頷く。

徹が松本の肩に手を置く。


「先生との出会いに乾杯」

みんなで枡を掲げた。

酒はゆっくりと喉を伝い、胃がかっと熱くなった。

じんわりと腹に沁みていく。


何も無かった。

誰もいなかった。

音もなかった。

ただ、香りだけが漂った。


しかし誰もが気付いていた。この奇跡は直ぐに終わってしまう事に。


誰も話せなかった。

岩本が枡に手を伸ばす。ゆっくりと一口。

目を瞑って天を仰ぐ。


「何だか」

「ああ」

「そうだな」

神保は俯いて枡を握りしめた。

吉高は両手で口を塞いで上を向いた。目を瞬いて堪えている。

中野は目を瞑った。

岩本は下を向いた。


今、その奇跡が終わる。

みながそれを意識した。


板場で口を横一文字にした健介が顔を上げた。

そこにはカウンターに座り、照れた様に微笑む安西がいた。

「えっ!?」


神保の視野の左端。

「え!?」カウンターに座っているのは安西だった。

「先生!?」つい伸ばした左手が触れたのは、振り向いた泣き顔の岩本だった。


そして、完全に香りがなくなった。


神保はカウンターに両手を付いて、ガックリと首を垂れた。

高田が背もたれに寄り掛かった。

岩本の拳の上に雫が垂れていく。

徹が岩本の肩を抱く。

松本は目を瞑って酒を呷った。

中野はタバコに火を点けると煙を吐き出した。

「逝っちまったな」

「ああ。今度こそな」

誰も喋らなかった。



暫くして健介が提案した。

「なあ、みんな。時間があれば呑んで行かないか?」

健介が皆を見回した。

程なく引き戸に「本日貸切」の貼り紙が貼られた。


白い猫が、道の向こうからその様子を見ていた。

白い尾がしなやかに地を叩いた。

いつもにも増して蒸し暑い、風の無い晩だった。




本作品はフィクションであり、小説として脚色されています。

正確な事実を描いたものではありません。

皆様にその虚構をお楽しみ頂ければ幸いです。

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