第4話.城下町
僕がこの屋敷に居候することになってから、そろそろ一週間になるだろうか。僕はもう一度、あの子と話すタイミングが掴めないで居た。
『私は、このバルディッシュで自分の身を守る。家族を助ける。この世界では、自分の身すら守れなければ生きていけないの。戦えなければ生きていけない、そんな世界だから。』
僕と同い年の12歳だとは思えない程しっかりとした態度を見せていたけれど、ただしっかりしているだけなのではなさそうだ。
あの子に何があったのかなんて、僕には分からないし、関係無いのかもしれない。けれど、あの子の右目はとても悲しそうな目をしていて、憎しみに燃える目でもあった。
...あの子の左目には、黒い眼帯があった。一時的に付けるガーゼ状のものとは違って、日常で使っているっぽい眼帯。服装だって、上半身だけ鎧みたいな軽装備、槍っぽい特殊な刃を持つ武器...。あと、頭には発信器らしきものと小さなマイクのあるヘッドフォン...。僕と同い年の女の子が何であんな格好を...?
あの子が、何で僕の無実を証明しようと思ったんだろう?
ローズマリーについては疑問ばかり残ったままけれど、他にも気になることがある。
一つはお爺さんのことだ。僕が収容所に連れて行かれるまでの暫くの間、お世話になっていたお爺さん。例のお婆さんの道案内の為に別れたきりだ。荷物をお爺さんの家に置きっ放しのままだし、何より、あれから全く連絡を取れてない。どうにかして一度はお爺さんの家に行きたいところだけれども、あのローズマリーの付き人が、城下外に行くことを許してくれない。お爺さんの家は、城下から出て橋を渡ってしまえば直ぐなのに。
そして、もう一つ。父さんのことだ。2年も帰って来なかった父さんの居場所がようやく分かった。でも、それは刑務所だ。働いているんじゃない。捕まったんだ。何で捕まっているのか、何をしたのか、全然分からないままだ...。
そうして下を向いたままでいると、女の子に話し掛けられた。
「...お口に合いませんか?」
ローズマリーじゃない。このお屋敷の使用人の女の子、リサだ。淡々とした口調だった。
「えっ...、あ、別にそういうんじゃ...ッ!! 美味しいよ!?」
無意識の内に止めてしまっていた食事の手を動かして、慌てて口の中に放り込んだ。使用人のリサの両手には、水の入ったガラス製のティーポットが収まっている。彼女は既に空になっていたグラスの中に水を注ぎ始めた。午前中の爽やかな日の光に照らされて、傾けられたティーポットは揺らめく水と共に乱反射している。
僕が狼狽えていると、今度は横から男の子の声がする。
「遠慮せずに何でも言って下さい。貴方はこのお屋敷のお客様でもあるのですから。」
使用人の女の子とよく似た顔の、同じく使用人である男の子、ディック。丁寧に使用済みの皿を下げていく。その顔には、特に何の感情もない。
「ご、ごめん。本当に遠慮してるわけじゃないんだ。その、ちょっと考え事してただけで...。」
「...そうですか。」
ディックが答えると、次にはリサの方がこう声を掛けた。
「どうか気を緩めて下さい。」
満たされたグラスが、僕の視界の隅へと移動された。彼女の表情も硬い。
そして、二人はそのまま扉の両側にそれぞれ戻り、深々と頭を下げた。
「「ごゆっくりお召し上がりください」」
二人とも息がぴったりだ。対応が少し冷淡な風に感じるけれども、二人の動作や話し方はいつも無駄が無くて、丁寧で落ち着いている。そして、合わせるところはぴったり合わせる。お互いに合図することなく、細かいところまでぴったりと。使用人として訓練されているんだと思っていたけれど、実際は二人とも、この屋敷に仕えるようになってからそれほど経っていないんだそうだ。
(流石は双子だな...。)
やっぱり何回見ても凄いと思う。そして、僕より二歳上だっていうのに、本当にしっかりとしている。あの人に厳しく教育されてるんだろうな。
パンを千切って、口の中へ入れながら、斜め横の席を眺める。既に人が居た形跡も無く、綺麗に片付けられていた。広い部屋の長テーブルに、僕だけがぽつんと座り込んでいる状態。
僕は、ふと、使用人の双子に聞いて見た。
「あの、もうあの人は、...リチャードさんは仕事に行ったの?」
これには、女の子が答えてくれた。
「はい。しかし、本日はお早めに帰宅されるそうです。」
“リチャード”は、あのローズマリーの付き人だ。あの人も歳を取っているけど、僕がお世話になっていたお爺さんの様に、あまり“お爺さん”らしくは無い。二人とも腰は曲がっていないのに、雰囲気が大分違う。60代らしくて、それを聞いたときはびっくりした。お爺さんよりは厳格で、キビキビした人だ。凄く引き締まっている。
ディックが聞いてきた。
「本日も城下を散策に行かれるつもりで?」
「あ、うん...。」
もう、この会話はここに来てからの朝の習慣のようなものだ。そして、この双子たちから出る次の言葉も決まってる。
分かってるさ。毎日、毎日、言われなくっても。
でも、リサの口から出てきたのは意外な言葉だった。
「本日は城下より外への外出許可が出されておりますが...?」
途端に、スプーンに掬っていたスープを溢す。器に落下した雫が皿の周りに跳ねた。
「...良いの? 本当に?」
良かった、やっとお爺さんのところに行ける。─でも、
僕の顔を見て、今度はディックの方が尋ねてくる。
「どうしました? 何だか難しい表情をされておいでで。」
どうして今日に限って...。
「今日、実は約束が─。」
それは僕が、この屋敷に居候して二日目の日だった。外の空気を吸うと良いって、リチャードさんに勧められて城下を散策することにした。ずっと、馴れない豪華な他人の箱に閉じ籠って居るのも、僕の性分には合わないし、あの人の勧めに乗ってみることにした。
道の両側に建物が連なって、長年、城の人たちや城下の住人たちを見守ってきた落ち着きがある。それは、弱々しく黴臭い古めかしさというよりも、長い時の中で出来上がっていった、洗練された都市の厳かさと言った方が正しい。
大通りを真っ直ぐ進んで行くと、居候中の屋敷から少し歩いた処にあの広場がある。整然と管理されたその広場を、城下の人々は“憩いの場”と呼んでいるらしい。でも、そんな呼び名が持たせるイメージの優しい賑わいとは全く合わない現場を、入ってすぐに目撃してしまった。
「い、痛いよ...! 止めてっ。」
その子は、何人かの男の子たちに羽交い締めにされていた。囲まれている男の子は、周りの人たちよりも背が低い。多分、僕と同じくらいの子だ。
(黒髪...?)
抵抗するその子の目の前で無気力に立つ男の子が、この国ではあまり見掛けない黒髪の子に対して言う。
「うっせぇな。お前、男の癖に弱過ぎ、な・ん・だ...」
黒髪の子が何かを察知した。
「ッよ!!」
黒髪の子の呻き声が洩れ、体の自由が解かれると同時にその場で両膝を突いた。膝蹴りが鳩尾を直撃したように見える。動けずにお腹を抱えていても、周りの子は容赦無くその子を蹴り続けていた。
あの万引きの事件と言い、目の前のことと言い...。
リーダー格らしき膝蹴りをした男の子が、お腹を抱えた黒髪の子の胸ぐらを掴み上げたその時、虐めグループの内の一人がリーダーに話し掛けた。
「...なぁ、アイツ、イスカリオットの家のパン盗もうとしてたヤツじゃね?」
その言葉を合図に、苛めっ子たちが一斉にこっちを見た。
(...まずい、皆こっち見てる。)
それに、“イスカリオットの家のパン”と言ったのを、ぼくは聞き逃さなかった。ということは、だ。...絡まれる確立100%じゃないか。
「...へぇ、ウチのパン盗もうとしたのか、」
イスカリオットと呼ばれた子は、黒髪の子の胸ぐらを掴んでいた手を荒々しく放して、「アイツが?」と続ける。
...僕の方に近付いて来る。そいつの父親とは正反対に、声を荒げること無く、静かに、冷静に、悠然と話し掛けながら。
「ちっちぇ癖に度胸があるなァ...? 親父からぶん殴られて、今度は俺の遊びに付き合ってくれんのか?」
その無駄の無いゆとりを持った態度は、あの店主とはまた違った恐さがあった。
「城下じゃ見掛けねぇな。お前、何処から来た?」
苛めを見ていたのは、少し距離のあるところからの筈だったのに、もうイスカリオットは僕の近くに来ていた。僕より少し背が高いし、体格もしっかりしているようだ。
「え、あの...」
...と、苛めっ子の内の1人が声を上げた。
「おいっ! お前の親来たぞ!! 逃げよう!」
パン屋の息子は舌打ちをして、「...まぁ、また今度な。」とか言いながら、そのまま走って行った。黒髪の子は置き去りだ。
後ろを振り向いてみると、白衣に似た格好に白いバンダナを被った女の人が近付いて来る。長い髪は結わえているようだ。
「ちょっと? たまには店手伝いなさいよ。」
女の人が歩きながら大きな声で話し掛ける。アイツの親ってあの人のことなのか? パン屋の店主と歳が離れていて、若い。
「おい、アイツ結局盗もうとしたヤツだったのか!?」
イスカリオットが走って逃げていくのを追いかけながら、他の子が話し掛ける声が聞こえる。
「知るか! 何も答えねぇよ!」
「ソイツって捕まったんじゃないのか!?」
また別の子が聞く。
「てか、お前の家のことだろ。知らなかったのかよ!」
「知らねぇよ!」
「......!!」
「.......」
「....」
「...」
「 」
「 」
……。
物凄くアホな会話は、段々と遠ざかっていった。
「全く...!! ちょっと、イスカリオットと仲良くしてくれてんなら、お前さんからも言っといてくれよ! 『たまには家の仕事手伝え』って。」
母親らしき人は、まだ踞るあの黒髪の子に話し掛けた。
「......あの、」
「何だい...? 見掛けない子だね...。」
女の人に話し掛けると、その人は見かけに合わない口調で答えた。あのパン屋のヤツや息子なんかよりは聞く耳を持ってくれているようだ。
「その子、あの人たちから苛め...」
「ごめんね、おばさん! 今度、僕から言っておくよ!!」
僕の話を遮って、黒髪の子が女の人に笑顔で答えた。無理して立ち上がろうとしている。
「え、ちょっ...」
女の人はビックリした顔で、僕に話し掛けた。
「ちょっと、あんた!! 今、ウチの子がこの子を苛めてたって...!?」
どうやら、遮られても直前の言葉を聞き逃さなかったらしい。
それでも、黒髪の子は意地を張り続ける。
「ま、待って! 違うよ! たまたまこの子に苛めっぽく見えちゃっただけだよ!」
「え...君、嫌がってたじゃないか!」
女の人は、黒髪の子の前で膝を突いた。頬に添えた両手から、色々なところの怪我をぺたぺたと確認する。
「モーリス、あんた本当? イスカリオットがあんたのこと...」
「大丈夫だよ、本当に!」
モーリスと呼ばれたその子に、さっきまでの少し暗い表情は無くなっていて、愛想の良い笑顔を振り撒いていた。
「......。...そう、なら...良いんだけど。」
頑なに否定するモーリスに、「それでも心配だ」と言いそうな表情で諦める。パン屋の店主や息子なんかとは違って、優しいんだろうな。
「じゃあ、アタシは店の接客に戻んなきゃなんないから...。暗くなる前に帰んなさいよ。」
そう言って、女の人は去って行った。
「......てよ。」
広場から出た女の人が道を曲がって姿を消した時、隣から、モーリスのか細い声が聞こえた。
「え?」─驚きから発せられそうになった声を、モーリスは待ってくれなかった。
「止めてよ...、」
あの人の前で少し笑う以外にはずっと下を向いていたモーリスが、僕を黒い目で睨め付けながら叫んだ。
僕が何かを言う隙もくれずに叫び続ける。
「余計なことしないでよ!」
「何言ってるの、君。やっぱり苛められてたよね!? 何であんな嘘...」
「しょうがないじゃないか!! そうしなきゃ僕はこの城下には居られないんだ!」
それがモーリスとの出会いだった。
翌日、僕はまた城下を散策していた。屋敷から少し離れた、城下の中心に建つ城。城の周りには水堀があって、水堀の周りに並ぶ腰の高さ程の木々から除いてみると、雪解けの水の中で魚が泳いでいる。動きが規則的だ。
王室の人たちはこの城に住んでいる。普通ならば城の周りには、壁がある筈だと思う。でも、その代わり、水堀の向こうの城壁は足場も凹凸も無く、2階分の高さまでは窓1つ無い。そして、水堀から此方の方は一般住居との距離をある程度保っている。住居側に背の高い木が立ち並んでいるだけで、緑と言えば、後は芝生くらいだ。
それまでも、その先も、立ち入りが自由なのに、何人かでゆっくりと歩いていたご老人たちを追い越したり、見回りをしている憲兵か近衛兵とすれ違う以外には、殆ど人を見掛けない。“憩いの場”とは違って、静かでのどかな場所だ。
(都会にも、こんなところがあるんだ...。)
ふと、妹の待つ家を思う。田舎だから、何処までも自然に囲まれているんだ。その中で、僕らは近所の子たちと遊んだ。楽しかった、本当に。きっと帰ればまた会えるのに、まだ過去のことじゃない筈なのに、懐かしく感じてしまう。
城壁と住宅街の間を歩いていくと、もっと開けた空間を見つける。今まで歩いていても、途中で木製のベンチがあったのは見た。でも、そこはベンチだけじゃなくブランコまで置いてある。他にも遊具があるけれど、その何れもが古びていた。
そこは、多分城下の中でも特に緑が似合う場所だ。それは太陽の下に似つかわしい季節ならばの話で、今の時期では、茶色い静寂の中でひっそりとしている。都会の公園と呼べる程整備されてはいないけれど、“公園”と呼ぶのには十分だ。視界には写らなくても、さりげなく聞こえてくる微かに残る枯れ葉たちの囁き...。落葉して暫く経つだろうし、その音は乾いてはない。
「へぇ...良い処。」
思わず漏らした呟きに、向こうのベンチに座って読書していた人が此方を見る。...いや、睨んでる。先客が居たんだ。
「......また、君か。」
前髪に走る一筋の金色。黒髪のその子は、前の日に苛められていたあの少年だった。
怒気を含んだ声を気にせず、彼の目の前まで近付いて、僕は笑顔で声を掛けた。
「隣、良いかな...?」
黒い目が、まだ僕を威嚇している。
「僕は君と喧嘩したい訳じゃないんだよ...。怒らないで......? 此処に来たのだって、偶然なんだ。」
モーリスと呼ばれていた子は、視線を変えずに言う。
「僕は此処で、いつも本を読むんだ。誰にも邪魔されないこの場所で。」
「......。...昨日は、ごめんね。嫌な思いさせて。僕、城下に来たばかりで...。」
彼はやっと目線の対象を変えて斜め下に剃らすと、傍らに置いていた別の本に手を伸ばす。
「僕はジェド。君は、...“モーリス”、だったよね?」
モーリスは、抱き抱えるように『宝石図鑑』を持ちながら、僕に向かって俯いた。目線はあちこちを追っている。
「君、パン盗んだって本当?」
「......。」
僕は取り敢えず、例の事件について説明した。田舎からロンドンに出てきたことから、今、屋敷でお世話になっていることまで。話を聞いている内に、モーリスの表情は和らいで、空気を覆っていた緊張は融けた。段々、誤解は消えて、警戒も薄れてきた。今度は、モーリスのことを聞いてみる。何の話なら良いんだろう。
「...髪、格好良いよね。黒髪に前髪の端だけ金髪で。変わってるね。」
モーリスは困ったような顔をして、無意識的に金髪部分を引っ張った。
「......そう? この髪、全部生まれつきなんだけど...、『目も髪も真っ黒で、気持ちが悪い』って、皆に言われるよ。」
いきなり地雷を踏んだ...。
モーリスは、他の子とは違った。
昔は世界が東側と西側に別れていて、人種は肌の色で別けられたって聞いたことがある。白人、黄色人種、黒人。髪の色も、金髪と黒髪が居たって聞いた。特に、黒髪で黒目の人は東洋人に多くて、今では本当に少なくなってるらしい。※
「モーリスの家って、東洋人の末裔なの?」
僕が聞くと、モーリスは髪を引っ張るのを止めて答えた。...このまま少しずつ話をずらしていこう。
「...。お母さんは金髪だよ。今のお父さんは再婚相手だし...。本当のお父さんは知らない。」
「...じゃあ、きっと、本当のお父さんが東洋の血を継いでるんだ。」
急に、モーリスの顔が泣き出しそうになる。
「...恥ずかしいよ。家に居たって、外に出たって、僕と同じ真っ黒な髪の人も、真っ黒な目の人も居ない。」
「何でよ、良いじゃんか。“個性”だよ。必ず誰かと一緒になる必要なんてないよ。」
僕は自然と言葉が出てきた。父さんからの受け売りだ。
「でも...」
モーリスは、他の子とは違った。
モーリスには、城下だけじゃなく、家の中にも居場所が無かった。今のモーリスのお父さんは、モーリスのお母さんと再婚して、お母さんだけを大切にしている。モーリスには毎晩のように暴力を振るう。お母さんはモーリスが虐待されていても見ない振りだ。だから、何かあれば、直ぐに見捨てられると思ってる。
そんなことを言うモーリスを制して、僕は自分の言葉を続けた。
「それに、モーリスの髪は真っ黒なんかじゃないでしょ? 此所にちゃんと金髪だってある。きっと、この金髪は、お母さんの色だよ。」
「...。」
モーリスは目を大きく見開いて、本を強く抱き抱えていた手を緩めた。足元に2、3冊、本が落ちる。
(...ッ、危な...)
足に当たらなかったのは、内心ホッとした。モーリスはそんなことお構い無しで、僕を見ている。
「...今の、お父さんは...」
そう言いながら、目からボロボロと溢れるものがある。それはきっと、今まで溜め込んでいた感情だ。
「今のお父さんは、僕にこう言ったんだ...。」
『黒髪などとは...。泥のような、汚らわしい色。私に近寄らないでくれ。』
「僕が生まれる前に本当のお父さんが死んで、僕が物心付くまでにお母さんは再婚なんかしなかった。突然連れてきたあの男に、紹介された途端言われたんだ。お母さんの目の前で。」
モーリスは激しく泣き始めた。僕はどうすれば良いか分からなくて、ただ、モーリスの隣に座って、両肩に手を添えてあげることしか出来ない。
後から聞くと、それは、再婚して直ぐのことだったらしい。モーリスのお母さんは、再婚してから初めて2人を会わせた。モーリスは、突然会わされた人が「新しいお父さん」だと言われて戸惑ったけれど、お母さんの決めたことだと受け入れるつもりで挨拶しただけだった。
それに、髪の色だけじゃなく目の色まで言ったそうだ。「卑しい黒目で、この私を見るな。穢れる。」とまで。
啜り泣く声が胸を締め付ける。感情の高ぶりは勢いを増した。
「僕は何かしたかな...? 何で僕だけ黒髪なの...? 何で髪と目が黒いだけで苛められなくちゃいけないの......っ!?」
モーリスは、他の城下の子たちとは違う。
それは外見のこともあったし、モーリスの家庭のことでも、お父さんの地位のことでも言えることだった。
モーリスのお父さんは公務員で、頭を下げるような人も居るってモーリス自身が言っていた。だから、モーリスを疎んでいる人たちも、モーリスとはある程度の距離感を保っている。...酷く苛める時は苛めて、他人の目があると無視する。“憩いの場”で見たのは例外で、あのイスカリオットが絡むと、人の目なんて気にせずやりたい放題らしい。特に何も無い普通の子が、仲間外れにされるのとは訳が違うんだ。
そのお父さんの仕事についてはよく分からないけど、そんなに偉い人なんだろうか。そんな人でも、モーリスは「お父さん」と呼び続けた。
僕はそんなこと、出来るだろうか。
...父さんに再会した時、「父さん」と呼ぶことが、出来るだろうか。
モーリスの慟哭が聞こえる人は居ない。違う、誰も聞こうとすらしなかった。家族ですら。
僕は、...せめて僕だけでも、モーリスの言葉を聞いていよう。
泣き止むまで、僕はそのまま肩を支え続けた。
モーリスが落ち着きを戻すまで、そう時間は掛からなかった。泣き声も止まって、何も話さなくなったと思ったら、こんなことを聞いてきた。
「ジェドはさ、地下都市のこと、信じてる?」
「...?」
僕は話を聞きながら、さっき落としておた本を拾う。
「城下町の下には、地下都市があるんだって。昔栄えたイギリスの首都が、そのまんま残ってるんだ。」
「...噂話だよね?」
拾った本を渡すと、モーリスは「有難う」と言いながら続けた。
「違うよ。...そこでは、今でも人が暮らしてる。きっと地下は、僕を知る人なんて誰も居なくて、そして、僕にとって暮らしやすい。...きっとそんな場所なんだ。」
僕は何となく、モーリスが現実から逃げようとしていると思った。
駄目だよ、そんなの。
「......。でもさ、自分のことを誰も知らない世界って、ちょっと恐くない?」
モーリスは少し驚いた顔で僕を見る。
「...え。あ、そうか。...ジェドは今、丁度そんな状況だもんね。」
モーリスはそのまま下を向いてしまった。
確かに、僕は今、丁度そんな状況だ。でも、僕にはお爺さんが居たし、今ではローズマリーやリチャードさんも居る。一応、誰にも頼れない状況では無い。...“あの時”とは違う。
モーリス。此処で逃げるのは、駄目だ。
「モーリスはさ、いつも此処で本読んでるんでしょ?」
「うん。」
モーリスはおもむろに、僕が拾った本の中の1冊を手に取る。
そんなに厚くない、手頃なサイズの本。膝の上に置くと、弱々しくパタパタと項を流していく。めくれていく項を眺めながら。
左手で押さえていた指に項の流れが止められる。
「今日だってまだ寒いけど、こんな処で本読んでて、寒くないの?」
その時、僕の言葉に応えるように、少し強い空気の摩擦が僕の聴覚にこびりついた。冷たいものが耳元をかすっていくようで、痛い。
「ううぅっ...!! 寒ぅ~。ほら、こんな風に少しでも風が吹いたら、凄く寒い。」
モーリスは少し悲しそうな顔をした。そして、空を見ながらこう言った。僕も釣られて目線を上げると、そこには風向きに逆らいながら飛ぶ鴉がいた。
「...でも、僕には他に居場し...」
「...居場所が、無い?」
今度は項が逆向きに流れる。
僕の言葉に、モーリスは顔を上げた。僕は笑って続ける。
「それは今までの話でしょ?」
「...え?」
もう、モーリスは本の中の世界だけに居場所を作らなくても良いんだ。
モーリスの目はほんのり明るくなった。
「ジェド...。」
モーリスも笑顔を見せてくれた。
「ふふふ。有難う、本当に。」
─全ては、たった数時間の出来事だった。
それから僕らは、毎日遊んでいた。たまにイスカリオットたちに邪魔されることはあっても、“憩いの場”での苛め以来はあまりしつこく来なくなった。
2人で居れば、きっと大丈夫。もう、他人の目も気にしなくて良いんだ。
【4話.城下町 終】
※茶髪は色の濃さによって金髪とも黒髪とも表現できるとのこと。(作者調べ)