第3話.少年
......。
...僕の父さんは、自慢の父さんだ。正義感が人一倍強くて、優しい父さんだ。
父さんは僕に、よく仕事の話をしてくれた。父さんはロンドン刑務所で監守をしている。仕事の話をする父さんは格好良かった。
─「嫌な思いをすることはあっても、更正する為に前向きになっていく収容者を見ていると、嬉しくなるんだ。自分のしたことと向き合って、人の道に戻っていく。そんな風に、導いていく大切な仕事なんだ。」
そう言っていた。あの優しい表情で。
...父さんは急に、僕たちの家に帰って来なくなった。元々、首都の宿泊所に泊まり込んでいたから、田舎のこの家まで帰って来るのは月に一回くらいだった。ぱったり帰って来なくなったのは、丁度、2年くらい前だ。それまでまめに送ってくれていた手紙も、何時からかも途絶えた。
それでも僕らは、父さんを信じて待っていた。まだ幼い妹は、寂しがっている。母さんだって本当はとても心配している筈なのに、僕らを励ます
。
父さんが僕たちに黙っていなくなる筈がない。父さんは仕事が忙しいんだ。きっといつか帰って来てくれる。
暫く経って、母さんは病気で倒れた。それから数週間後には入院生活が始まった。僕は母さんに、こんなことを言った。
「母さん、大丈夫だよ。僕が父さんを連れて来るから。」
僕の言葉に、母さんは驚いていた。看護師さんも、相部屋の患者さんも。
皆が驚いていた中、声を上げたのは妹だった。
「お兄ちゃんまで居なくなっちゃう。」
妹はまだ7歳だ。今にも泣き出しそうな顔で、抱えていたぬいぐるみを落とした。落とすなよな、折角、僕が誕生日にあげたものなのに......。
「絶対帰ってくるよ。」
妹は落としたくまのぬいぐるみを投げつけて来た。「お兄ちゃんなんか知らない」ってさ。
そんなこと言っておいて、僕が家を出る日には小さな紙を渡してきた。家族皆が揃った似顔絵が、くまのぬいぐるみの顔を囲んで笑っている。
妹と二人で病院の母さんの部屋へ行くと、母さんは、布で包んだものを渡してきた。
病院を出る時には、妹がくまのぬいぐるみを抱えて見送ってくれた。そんな妹に、「泣き出しそうだ」なんて言うのは止めた。
肩掛けの鞄に少ない荷物を詰めて歩き出す。背中に届く、「絶対帰って来て」の言葉。
母さん特製サンドウィッチに妹が描いた絵、小さな鞄にしまい込んだ、大きな思い。不安と期待を抱いて列車に乗り込んだ。妹がくれた似顔絵のように、また、家族揃って笑い会える日を取り戻す為に。
......。
馴れない列車の窮屈さに揺られながら辿り着いた乗り換えの駅。僕の住む町の駅とは比べ物にならない程広くて、路線案内も複雑になっていた。家の最寄りの隣駅になら友達と行ったことがあるくらいの僕の列車経験なんて、都会の人混みにたった一人きりで立ち尽くしていた僕には、頼りないものでしかなかった。案内板の前で悪戦苦闘している僕を誰も見向きはしないし、それどころか、僕の体は人の流れの外に弾かれていく。
こんなに人が沢山居るのに、不安なのは何でだろう?
駅員の人を見つけてようやく次に乗るべき列車が分かって、それから時刻表を突き付けられた時には、もうすぐ発車する時間だった。そして、急いで乗り込んで...列車の扉が閉まった時にはもう遅かった。乗り間違えたことに気付いた時、列車は既に走り出していた。
その列車は快速。地図で見てみると、アナウンスされた次の駅までは結構ある。
そういえば、朝から何も食べてなかった。時計はもう、午後2時を示している。
次の駅に着くまで、母さんが渡してくれたお昼御飯を食べよう。乗り換え駅で揉みくちゃにされたせいか、サンドウィッチの形は歪になっていた。萎びてしまったレタスと薄切りトマトにベーコンが挟んである。そして、隠れるように潜んでいるマスタード。うちの家政婦さんの作るものはそうなんだ。調味料は少なめで、具材そのものの味を大切にしているって、母さんがいつも褒めてる。そして、結構大きく作る。
─早く父さんに逢いたい。早く、あの家に戻りたい─
料理が好きだった母さんは、倒れるまではよく夕御飯を作ってくれた。でも、今では毎日家政婦さんの手料理だ。
夕御飯の光景は、家政婦さんがリビングに料理を運んできて、それを僕たちが食べるのが当たり前になってきてた。母さんが入院するまでは、調理したがっていたけれど、家政婦さんは体に障ると言って止めた。
母さんが入院してからは、僕と妹2人だけの食卓になった。二人とも居なくて寂しいとは思ったけれど、家政婦さんが寂しさも紛らせてくれた。
...そんな日常でも良い。あの家に戻りたい。
父さんと妹と、母さんの居る病室で、近所の子たちと遊んだこと、家庭教師の授業がつまらなかったこと、何でも良い。4人で話したいだけ話すんだ。そして、いつか、夕御飯の時は、前みたいに母さんが料理を───。
僕はまたやってしまった。
食べ終えたサンドウィッチが包まれていた布は、畳んで膝の上に乗せていた。
...頭をはっきりさせて、しっかりと、もう一度流れてくるアナウンスに耳を澄ませる。繰り返されたのは、知らない地名と、「終点」。
列車を降りると、そこは僕の町の駅よりも小さくて静かな駅だった。訛りがあるけど親切な駅員さんから、今日中にロンドンに着いたとしても夜中で危ないから、この町で泊まるように言われた。言われるまま、駅近くの宿泊所に泊まることにした。
...後から思い返してみると、あの時、結構ぼったくられたんだな。
次の日、やっとロンドンに着いた頃には、所持金が底を尽きそうになっていた。
泊まった町の駅からは快速1本で来れたから、列車に乗るのは楽だった。けれど、目的地に着いてもお金が無いまま、城下の入り口が分からずに路頭に迷う羽目になった。
何だか...お腹減ったな。母さんが作るシチュー、食べたいな...。
城下への入り方を探している内に僕の体は震えてきていた。全身が冷たくなっている。体の末端の感覚がなくなって、口の中では歯の振動が止まらない。肌にぶつかる空気が痛い。朝から何も食べていない。
その時の季節は冬だった。今でさえ、時々冷たい風が吹いて寒く感じることがあるけれど、あの日は雪が降っていて、水なんか殆ど凍っていた。前日の宿代に夕御飯が付いていたのは幸いだった。前の日の昼から何も食べてないであの寒さの中に居たんじゃ、流石にどうなっていたことかと思う。
森の中で迷う僕を、誰かの腕が引っ張った。声を掛けられもしたと思う。もう、僕の意識は途切れていた。
目が覚めたのは木造の小さな家の中で、毛布を掛けられていた。散らかっている部屋の奥から出てきたのは、2つのコップを持った、白髪で髭の長いお爺さんだった。
「なんだ、坊。目が覚めたのなら帰れ。」
2日も寝込んでいただなんて言う割りには、少しも心配する素振りを見せないで、お爺さんはコップを1つ僕に渡した。蜂蜜入りの牛乳だ。
話すと、僕が家を出てからお爺さんに拾われるまで三日も経っていたらしい。これまでの経緯を話すと、お爺さんの手伝いをする代わりに居候させてもらえることになった。
お爺さんが何者なのかはよく分からなかったし、最初は優しい人かと思ってたけど実際はそうでもなかった。それどころか、気難しくて、滅茶苦茶意味が分からないことばかり教えてくる変人だった。酔っ払った時なんて、昔は学者だったとか、考古学の話だとか、自分の研究は認められなかったとか、理解できない話ばかりを、僕は法螺話だと思いながら聞いていた。これでも、お爺さんは僕の命の恩人なんだ。聞くことくらいしないと。
具合が良くなってから、僕はたまに城下周辺で父さんを探した。僕が倒れたのはお爺さんの家の近くで、城下への入り口の1つもすぐ側にあった。入り口は見つかっても、城下内へ行くには許可証が無いと入れないらしくて、許可証を持たない僕は、周辺で見掛けた人たちに聞いて回った。僕を邪険にする人も居たし、快く答えてくれる人は居ても、結局手掛かりにはならなかった。
自給自足の生活をするお爺さんは、魚を釣ったり、家の側に植えてある野菜を収穫したりして食べている。お爺さんの手伝いは大抵こんな力仕事だ。この日も、...一昨日も、夕御飯の魚を調達しに行こうとしていたんだ。
「お婆さん、どうしたんですか?」
お爺さんの家の先にある大橋は、城下への入り口に直結している。釣りをしに行こうとして、お爺さんと2人、その橋の下を流れる川まで行く為に、階段を降りようとすると、冷たい石段に腰掛けているお婆さんが見えた。こんなところに人が居るなんて珍しい。
「道に迷ってしまってねぇ...。」
「 何処に行くつもり? 城下までなら案内できるよ。」
「あら...、有難う。貴方、優しい子なのねぇ。」
城下にある 有名なパン屋まで行きたいらしい。
「直ぐに帰るから」と言って、お爺さんとはそこで別れた。お爺さんは苔が染み付いた石造りの細い階段を降りて行く。
「貴方、あの人のお孫さん? 何をしていたの?」
「さっきの人は、僕のお祖父さんじゃないよ。...まぁ、何て言うか、僕を助けてくれた人...かな。川に魚を釣りに行こうとしてたんだ。」
「...助けてくれた? 貴方のことを? 何かあったの?」
「実は、ね......」
僕はこれまでのことを話した。
お婆さんは、たまに聞き取れないところを聞き返したりしながらも、真剣に僕の話を聞いてくれていた。
「...そんなことがあったのね。お若いのに苦労して...。」
僕たちが歩き始めてから程無く、城下の入り口が見えてきた。
「...着いたら、お礼に何か一つ買ってあげるわ。一緒に入りましょう?」
「いいよ、そんな。僕、急いで戻らないといけないし。許可証だって持ってない。」
『人の為になれ』って、父さんはいつも言っていたから...。
「大丈夫よ。許可証、2枚あるから。」
僕はこの時気付くべきだった。
どうして許可証を2枚持ち歩いているのか。使えるようになっている許可証は、確実に1人1枚の筈だ。僕を無理矢理入り口を通過させた時、あの許可証はお婆さんの分も含めてどっちも使えていた。使える許可証を1人で2枚持っているのは変じゃないか。
「ほら、好きなものを選びなさいな。...そのお爺さんの分もね。」
目的のパン屋に着いたお婆さんは、遠慮する僕にパンを薦めた。
「いらっしゃい、お婆さん。どれも自慢のパンですよ。...おや、お孫さんかい? 菓子パンならあっちだ。おやつに丁度良いサイズだぞ。見ていって!」
このパン屋の店主らしき男の人が、僕らに声を掛ける。優しそうな人だった。
(普通の町のパン屋さんってカンジだな...。)
実際に、王室御用達ではないけれど、王族の人たちも愛用している噂があるパン屋だ。
「今日は何を買おうかしらねぇ。」
─そう言いながら、お婆さんが歳相応に震えた手で、バッグの中から長財布を取り出した時だ。手を滑らせて落としたその衝撃で、お婆さんの財布は盛大にお金をばら蒔いてしまった...。
今考えてみれば、「今日は何を買おうか」なんて言っていたのもおかしい。お婆さんはこの日、前から気になっていたパン屋に初めて行けると言っていた筈だった。まるで、常連みたいじゃないか。
「あら、大丈夫?」
心配して、近くに居た買い物客の女の人が拾うのを手伝おうとしていた。金髪の長い髪が揺れている。お婆さんが「有難う」と言うと、紅く染められた口元は広角を上げた。
お婆さんも、その曲がった腰を屈めて拾おうとする。
「僕が拾うから、無理に 屈まなくていいよ。」
僕がそう声を掛けると、お婆さんは本当に有り難そうにお礼を言ってくれた。
「有難う。本当に、優しい子ねぇ...。」
お婆さんの声を聞きながら、散らばったお金を拾い始める。声を掛けた女の人も手伝ってくれて、殆どのお金を拾い集めた。そして、お婆さんがお金を財布の中に戻したのを確認していた時、違和感があった。
(...ん?)
商品棚に近い方の左ポケット。何かが入ってきた感覚。
見てみると、おやつに丁度良さそうな少し小振りのクロワッサンが入れられてた。
「何でこんな...」
そう思いながら、ポケットから出そうとしたその時─、
「...おい、坊主。何やってる。」
それまで他のお客さんの対応をしていた、人の良さそうな店主が声色を変えて僕に話しかけてきた。
「そのポケットの中のものは何だ」
(この人は、何を言っているんだ...?)
─頭が真っ白になった。僕は何もしてない。
店主が丁度、気に掛けて様子を見に来た時だった。
「人の良い振りして、そんなことすんのか。あぁ?」
静かに指の関節を鳴らす店主。
─違う。違うよ、そうじゃない。
...これはただ、誰かがポケットの中にに入れたものなんだ。僕じゃない、出そうとしただけなんだ。
心の中で続く言い訳は届くこともなく、僕の体は、虚しくも大きな影に包まれる。
何で? 何で、信じてくれないの? 止めて...止めてよ。寄って来ないでくれ、違うんだ。僕は、...僕は───。
......。
そのまま僕は、広場に連れていかれた。憩いの場と呼ばれる場所の一角だった。“万引き犯”として、お店の人も、その時居合わせていたお客さんも、 皆して僕に暴力や罵声を浴びせた。僕の話を聞こうともしないで。
─お婆さんの姿が見当たらない。
......僕は無実だ。でも、それを証明することは出来なかった。してくれる人もいなかった。...実際にものを盗ったとしても、それはあまりにも酷い仕打ちだった。
これはきっと─。
...予想はつく。あいつらの目的。─それは、...。
......。
収容所の汚れきった床を睨みながら思う。
(お爺さん、今頃僕のこと心配してくれてるかな...。)
路頭に迷っていた僕を助けてくれたお爺さん。自分が助けた人が収容所なんかに居るだなんて知ったら...。いや、あのお爺さんに限ってそんなことは無いのかもしれない。
両足を抱えて下を見ていると、鉄格子の向こう側に、僕と同じくらいに見える女の子がやって来た。
顔を上げる僕に対して、その子は一言こう言った。
「此処から出る気はないかしら、ジェド=マカリスター。」
僕はその時になって、やっと気が付いた。自分が捕まった日の夜が明けていたことに。
それから、壁と鉄格子しか見えない空間から別の部屋へと移動していた。あの女の子が連れ出したからだ。
さっきいた汚い部屋とは違って、壁は一面真っ白で清潔感を感じさせる。白塗りの壁に白い木製の棚。棚の中には色とりどりの本やファイルの背表紙が見えたり、紙の束が置いてある。
僕の目の前には鏡のように光沢のある白い机が部屋の真ん中に置かれていた。その長方形の机のすぐ下に、木製の古びた椅子が見える。机を隔てた先には女の子が座っていて、その両側に男の人が2人立っている。白髪のお爺さんは見たことがない。もう1人はこの収容所の所長だ。女の子が、僕に手で座るように促した。
僕は急いで、近くにあるボロボロになった椅子に座った。そこから、初対面の同世代の女の子による、不思議な事情聴取が始まった。
檻の前でローズマリーと名乗った女の子は、手を組んで机の上に立てた両腕で顎を支える。隠れた口元と長い前髪のせいで、見つめる視線が鋭く刺さるような気がする。赤茶色の目は綺麗で宝石みたいだ。姿勢が何だか凄く偉そうに見える。
「...僕は何もやっていないよ。あいつらが、僕を陥れたんだ。」
きっとこの子も僕を疑ってる。何でこの子がこんなことを始めようとしたのかは分からない。でも、そんなことを聞いても意味がない。僕には、自分の無実を訴えることしか出来ないんだ。
彼女は瞬いて、手元の書類に目をやると、一言。
「......。先ずは、貴女の個人情報について確認させてもらうわ。」
内容は、昨日、収容所の人から渡された紙に書いた内容と同じだった。置いてある紙が、その時書かされたものだ。
僕はありのままを答えた。嘘なんてついていない。
女の子の右隣に控えている収容所の所長が口を開く。
「何があったのか話せ。─ありのままを、な。」
...こいつは嫌いだ。僕が此処に連れて来られてから、怒鳴っていたり、他の収容者に暴力を振るうところしか見ていない。今では人当たりの良い人を演じて、含んだような口調で話し掛けて来る。嫌なヤツというカンジしかない。
...この子はこいつの仲間なのか?
女の子の栗毛の間から、憂いのある綺麗な瞳が覗いてくる。長くて重たそうな睫毛。栗色の髪に、隙間から覗いている耳は尖っている。
「...貴方は、あのパン屋で何をしたの?」
その目を瞬かせながら、聞いてきた。
僕はゆっくりと事件の経緯を話した。お婆さんを道案内したことからパン屋での騒動まで。出来るだけ細かな部分まで思い出して、無実を訴えることにした。
─この子のことも、他の二人も信用出来ない。でも、黙っているよりは断然良いと思ったから。
「...そう、何があったのかは分かったわ。説明有難う。今度は、貴方自身のことを聞いても良いかしら。」
...この子は、僕が殴られていたりした時、傍観していたらしい。僕の話を聞きながら教えてくれた。僕は確かに昨日、似たような女の子と目が合ったような気がした。あの子だとしたら、あの時、彼女が僕を見た目は、他の野次馬とは少し違っていたし。...この子なら、僕の話を信じてくれるかもしれない。信用出来る程話してはいないけど、希望を捨てるよりは良い。
「貴方のご両親はどうしているの? お父様は、...失踪?」
......。
「...もう、二年も家に帰って来てないんだ。」
「どうして?」
彼女は更に質問を重ねた。僕は何も言わずに俯いて、首を横に振った。きっとそれだけで察してくれたのかもしれない。今度は母さんのことを聞いてきた。
「母さんは...病気で、倒れて...。」
「......そう。ごめんなさいね。」
父さんのことも、母さんのことも昨日別の人に話した筈だ。聞いていた人はメモを取っていたようだけど、紙に何も書いていないんだろうか。
そのまま暫く、沈黙が続いた。
「...それじゃあ、貴方は今までどうしてきたの? 親戚の方は?」
「いないよ。妹と二人で暮らしてた。家政婦さん雇ってるから普通に生活は出来てたし、今だって一人で居る妹も心配ないと思う。」
「一緒に釣りに行こうとしていた方は...?」
彼女と僕とだけで話しが進んでいく。彼女の後ろで所長が大きな欠伸をした。
「その人は、僕が行き倒れていたところを助けてくれただけで、それまでは本当に赤の他人だった。」
「家を出てから、ご兄弟と連絡は?」
「お爺さんの家で1ヶ月くらい居候させてもらってるんだ。だから、1ヶ月くらいは連絡取れてない。方法がなくて。」
「電話は? 手紙だって良いでしょう?」
「お爺さんの家に無いし、僕もお金が無い。ロンドンに来るまでに殆どお金が無くなっちゃったから、便箋も買えない。お爺さんにはこれ以上やってもらったりする訳にはいかないし。」
僕がそう答えると、彼女は視線を下ろした。
「...そう。妹さんと家政婦の方への連絡手段はどうにかするわ。...けれど、お父様を探すことは難しいかもしれない。」
その言葉を聞いて、僕はついカッとなってしまった。
「...? 何でそんなこと分かるのさ。」
「......。私たちも、貴方のお父様を探しているのよ。」
─父さんのことを何か知ってるのか? 何でこの子が父さんのことを...。そう思っていた時、所長の口から想像もしていなかった言葉が出てきた。
「彼、ジェド・マカリスターの父親のジェイミー・マカリスターは、現在、この収容所に服役中でございます。」
(......は?)
僕は唖然とした。次の言葉が出てこない。表情も体も時間も、何もかもが硬直した。でも、それは僕の中だけでのことだ。僕の様子を見て、所長はにたりと笑みを溢す。ローズマリーは所長を見た。
─嘘だ。
「そちらの資料には書いてありません。資料を提出するまでに彼の父親のことが一切不明でしたが、一昨日城下で捕らえられた不審者を調べた結果、その身元が分かりまして。」
嘘だ。嘘に決まっている。それに、父さんのこと“不審者”って何だよ。
「何時、分かったことですか?」
「先程です。それはもう、お二方がいらっしゃる直前に。」
嘘に決まっている。父さんが捕まるようなこと...。
所長は新しい書類を、彼女の目の前に差し出した。それを受け取りながら、ローズマリーが僕に話し掛ける。
「......ジェド、貴方はこのことを...」
僕の様子を見て言葉が途切れる。
僕はその時、父さんに裏切られたような、騙されたような気分だった。同時に、やっぱり何かの間違いだ、きっと父さんじゃない人だと思わずにはいられなかった。頭に浮かぶのは、リビングで家族揃って妹の誕生日を祝ったあの時、父さんの職場に連れていってもらったあの日。楽しかった思い出が崩れ去っていくような、この恐ろしい瞬間は、僕の思考を完全に止めた。
......。
─それから僕は、ある屋敷にお世話になった。城下の中にある屋敷。そうだ。丁度その頃だったよ、モーリスと会ったのも。
─...うん、屋敷はあの付き人の人のものだ。
─...そっか、君がそうしたんだね。
─お蔭で僕は何日か、城下の外には行けなかった。その間にモーリスに会ったんだ。酷かったよ、虐められててさ...。
─...へぇ、元気にしてるんだ。
─父さんとは結局会えなかったよ。...知ってるんでしょ?
─......。母さんの病気は悪化してるらしい。
─う~ん、そうだなぁ。他に話すことかぁ。...モーリスの話をしようか。
─何だよ。そんな顔するなよ。君だって僕を騙してたんでしょ? 最初から。
─...あの頃は、君とまたこんなところでこんな風にして話すとは思わなかったよね。
僕はそう言いながら、机の下に隠れていた両手を見せた。おちゃらけながら見せた両手首には、手錠がある。君は始終、僕を睨み付けていた。それからも話は続いて、最後には、僕だけ鎖に繋がれた牢屋から出ていった。捨て台詞を吐いてさ。
僕は気にせず、態度を改めることなくこう言った。
「ねぇ、ローズマリー。君の本当の名前はさ、──」
馬鹿だよね。僕らが異変に気付く前に、既に歯車は回っていたんだ。もう、あの時には止めることなんて出来なかった。全部手遅れだったんだ。君と僕が出会う前、...父さんが失踪するその前からだったのかな。もう、何時からなのか分かんないね。
......あれからどれくらい経つかな。君と出会ったあの日から。僕が今も、何も知らないただの田舎の子どもであり続けることが出来たなら、きっとまだ幸せな方だった。
─あの頃は、廻り始めた歯車に気付かず、僕らはただ、周りに歯車を追加していただけだったんだ─
【2話.少年 終】