第2話.出会い
御婦人が帰られた後、それを確認した 私は、直ぐに御姉様の隠し部屋へと向かった。
御姉様は一人、装飾が施された長椅子に体を沈めるようにして、くつろいだ様子で葡萄酒をあおっていらっしゃった。結わえられた金髪の毛先が、胸元から少し垂れ下がっている。その身の微かな動きに呼応して、揺れて、揺れる。
もう既に、一本程は飲まれていると思える。それでも、御姉様の飲むスピードは変わらない。葡萄酒がとてもお好きで、酒精に強い御姉様は、そう簡単には酔われない。
ふと、グラスに目をやると、女帝らしからぬ呟きを溢す。
「...。瓶ごと一気飲みしたいところだな。」
「なりません。」
これは流石に聞き捨てならなかった。御姉様はすかさず私から目を反らした。
あの後 、 私 は一度自室に戻り、細かな用事を済ませていた。そんな時、暫くしてから御姉様が私を探しているという言伝てを侍女長が伝えに来た。
「出掛けていたのは、まさか...先日頼まれてくれた用事を?」
御姉様が尋ねてきた。
「はい。」
少し微笑しながら足を組み直しつつ、御姉様は言った。
「─あれは今日中でなくても良かったのに...。」
「仕事は手早く済ませる方が良いのです。」
すると、 御姉様は苦笑いを交えながらこう告げた。
「...全く、大した妹だな。どちらが“女帝”に向いているのか...。」
「......そういった発言は控えた方が宜しいかと。」
溜め息混じりに本音を漏らした私に、御姉様は笑って答えた。
「ふっ...ハハッ。全く、こんな発言も、お前とエディスにしか出来ないな。」
「......。」
...6年前、御姉様の御披露目の儀が行われていた最中、私たちの御母様、先代女帝は殺された。私はその瞬間を見ていなかったが、御姉様は目の前で先代が殺された瞬間を見ている。実行犯が不明のままである以上、あの日から御姉様は、城の内外問わず、来る者への警戒を怠らない。実行犯が居るということは、先代を亡き者にしようと動いていた者たちが居るということ。黒幕すらも分からないということ。捕まらない内は、誰が敵なのか分からない状況だ。御姉様も含めて、私たち三姉妹が心を許す者は城の中でも特に限られている。それでも、本当の本音を話せるのは家族だけだ。
「...何か言いたいことがあるのか。」
「実は、...」
その後も続いた雑談の後、 私は雑事の報告と共に今日見た出来事を話し、ある提案をした。
「...そうだな、任せよう。そろそろ城下の者たちの不満を少し取り除いた方が良いと思って居た頃だ。丁度良い。このままでは、他の部分に影響が生じてしまうかもしれないからな。」
「有難うございます。」
一通り報告は終わったが、 御姉様はまだ何か言いたそうにしている。
「次いでにこの王冠も任せ...」
「“女帝”という地位など、 私には興味ありません。」
御姉様は肩を竦めると、私の提案の件のことを聞いた。
「...明日行くのか?」
「お察しの通り。」
「周りの人間には何と名乗るつもりなんだ?」
思わず、少しだけ顔が綻んでしまった。
「“ローズマリー”、と。」
その翌日、 私が向かった先は城下の外れの森の中、隠されたように 佇ずむ収容所だった。そこには、城下の中で軽い罪を犯した者や罪を犯した疑いのある者が収容される。何であれ、通常、王家の者が立ち入ることの無い場所だ。
─とはいえ、 私はまだ『御披露目の儀』を受ける年齢に至っていない。国民は、私の“存在”までは知っていても、姿や年齢、性別などの細かな情報を知らず、ただ、噂のみが独り歩きする。だから私は、外出先では一般の貴族の娘の振りをして、その正体は決して世間一般に露呈してしまうようなことをするわけにはいかない。御姉様からどう名乗るのかを聞かれたのは、こういった所以あってのことだった。
私たち三姉妹の中で、情報が公開されていないのは私だけだ。そもそも、この儀式は王族がある年齢に達し、半ば“大人”として公の職務に関わることを認められたと公表し祝う為のもので、その者の誕生日と同時に祝われる。
...『御披露目の儀』。...3週間後は御姉様の誕生日であり、6年前の御姉様の『御披露目の儀』の際、御母様が暗殺された日。...犯人は未だに捕まらない─。
「─考え事ですかな?」
付き添いで私と共に来た臣下が尋ねてきた。
正確には“かつての”臣下だが、今となっては表世界から姿を消した老人だ。一緒に居ようと誰かに疑われることはない。その性格故、体を動かさずにはいられない、仕事そのものが趣味、とでも言える人だった。政界から姿を消す時、何処かの貴族の執事として働くらしい、とまで言われていたのだ。いざという時にはその噂を利用すれば良い。
御母様が暗殺された日、最も御母様の側にいたのは彼だった。きっと、私が今思っていたことをそのまま口にすれば、彼の表情は暗くなってしまうことだろう。
「─いえ、特に。」
そして、私は独り言のように呟く。
「...木々に囲まれているとはいえ、昼間でもこんなに暗いものなのね。」
この場所へ来るのは、これが初めてではない。かといって、この森林の景色をきちんと見たのは初めてのことだった。雪の降るこの季節、深緑などとは無縁の一面が混濁とした風景は、昼間であっても姿の見えない獣に睨まれているかのような不気味さがある。鴉の鳴き声がどこからともなく響き、上を見上げれば、いつも見ている筈の曇天が果てしなく遠く感じる。
「来たことがある」とは言っても、私が普段城下より外へ外出する時は、用意された専用車に乗りこの森を通過しているだけに過ぎないのだが。
「...出迎えが待っているわ、行きましょう。」
出迎えていた収容所の所長含め所員らに案内され、ある一室へとやって来た。収容所のイメージとは少し違った、白で統一された小部屋だった。席に着いた傍から、所長が部下たちにお茶を出すように命令する。
「結構です。...それよりも、《《彼》》の居る部屋へ案内して頂けませんか?」
訝しげな所長の顔を無視して立ち上がり、案内を催促した。所長は仕方ないといった表情で、私たちを奥の収容部屋へと先導する。
廊下の突き当たりにある扉が開かれると、その先には、想像以上の劣悪な環境が待っていた。収容された者たちの黒い感情がそのままこびりついたかのように、コンクリートが露出した床や壁に黒 黴が繁殖し、何とも形容し難い強烈な匂いが充満している。途端に、付き人が咳き込んでしまった。老爺にはこの環境は酷かもしれない。扉の向こうで待って居るようにと命じた。
幾つもの収容部屋を横目に、少し進んでから見える部屋の鉄格子を隔てた先、その少年は、膝を抱えて座り込んで居た。
─私が此処に来た理由。それは、今、私の目の前に居る彼の事情聴取だった。王家の血を引く私自ら、彼の事情聴取をするのである。昨晩 私が御姉様に提案したこととは、正にこのことだった。御姉様は快く承諾してくれて、「例え成果を得られずとも構わない。好きにすると良い。」と仰ってくれた。御姉様は実際その気であると思うのだが、私としては、御姉様から淡い期待を受けているのだろうとも思いつつ、確実に成果を手にしたいところだった。
「此処から出る気はないかしら、ジェド=マカリスター。」
おもむろに此方を見上げるその少年の顔は、疲れきっているようだ。
彼の名は、ジェド=マカリスター。昨日、憩いの場で袋叩きにされていた少年だ。この言葉から、彼との交流が始まった。
最初は、事情聴取として話を聞いた。
招かれた時に通された真っ白な部屋、応接室の中。机を跨いでジェドと相対する。居合わせたのは、付き人と所長。二人は私の後ろに控えていた。
彼は開口一番に、こんなことを言った。
「...僕は何もやっていないよ。あいつらが、僕を陥れたんだ。」
前日の件だろう。彼が今、一番に主張したいのは、自分の無実だ。こんな状況になってしまっては、誰でもそうすることだと思える。
初対面で場所も悪い。先ずは、彼の信用を得る為にも、今後の話をして彼の協力を仰ぐにも、彼を此処から解放する必要がある。しかし、その前に、彼の話を聞かなければならない。
手元にある彼の個人情報と本人の話によると、彼の父親はロンドン刑務所の監守であり、二年近くは田舎にある彼らの家に戻っていないと言う。その理由も分からず、数ヵ月の間に連絡さえも途絶えてしまった。彼は、病に倒れた母親と妹を家に残し、ロンドンに居るであろう父親を探しにやって来ていた。ロンドンに着いてから暫くは、とある老爺の家に居候していたのだそうだ。
昨日、あの騒動に巻き込まれたのは、例のパン屋へ行こうとしていた老婆の道案内をした矢先のことだと言う。
そして、彼の家族の話になったとき、刑務所の所長が水を差した。話し始めて1時間は経った頃だ。
「彼、ジェド=マカリスターの父親、ジェイミー=マカリスターは、現在、ロンドン刑務所に服役中でございます。」
所長のこの言葉を聞いてから、ジェドは、硬直したまま反応がない。
濡れ衣を着せられ暴力で制された次の日には、見ず知らずの私による事情聴取。そして、信じていたであろう父の事実。彼にとっては誇らしい父だったのだろう。それは言葉の端々に感じ取れた。
「アルマン所長、現段階で貴方が調べた情報をお話して下さい。」※
「畏まりました。」
彼がそう言うと、同時に布の擦れた音が耳元で聞こえた。これは先程から思っていたことなのだが、彼のお辞儀はとてもわざとらしくみえる。彼が見せる笑みも、いかにも作られたものだ。
目の前の少年の瞳は、彼を睨み付けているように見える。
「父親のジェイミー・マカリスターは、彼の言う通り、約2年前に失踪しておりましたが、数ヵ月前に身柄を確保されたばかりであります。」
彼は、話ながら私たちの周りをゆっくりと歩き始めた。それを横目で見た後、目線をそのまま、彼─ジェドに向けると、今度はジェドの視線が下を向いていた。怒りを募らせているのか、あるいは、何を言われようと父親を信じる気でいるのか...。
「─というのも、父親が失踪したのと時を同じくしてもう一人、父親の働く刑務所からある殺人鬼が脱獄し、姿を消したのです。その脱獄を手伝ったのが彼の父親でして、証拠が映像として残っ...」
「その脱獄犯の資料もください。」
私はそこで、無意識の内に始めてしまっていた、机を小刻みに打つ指を止めた。左手の中指の指先に感触が残る。
「...場所を変えましょうか。」
アルマン所長の表情が固まった。
付き人が提案をしてきた。
「ほう...、幸運なことに、本日は空き部屋がご用意出来ますぞ?」
きっとこの老爺も不快に思っていたのだろう。
「そうね、貴方の屋敷ならば都合が良い。」
そもそもジェドは無実である。証拠など、私の言葉で十分だろう。連れ出しても問題にはならない。
「何か腑に落ちない点でも?」
「い、いえ...ですが、しかし─」
開いた口が塞がらないようである所長は少し狼狽えた。彼の言葉を遮り、机の上の資料をその眼前に突き付ける。
「この書類を作製したのは誰ですか?」
─こんな書類を、よく平然と出してきたものだ。
「貴方でしょう? ─アルマン所長。」
アルマン所長の表情が真顔になった。彼は何も答えない。
「このような素敵な書類を作製なさるだなんて、立派なお仕事をされているのですね。とても仕事熱心なお方だとお見受けします。」
彼は既にその足を止め、付き人の近くに居た。付き人はアルマン所長の目の前に立ち塞がり、無言の威圧を見せる。
この老爺もまた、所長を不快そうな目で見ていた。その神経質な性格だからこそ、数年前まで勤めあげていた職務に登り詰めた男だ。こんな怠慢を許せるはずはない。
(...馬鹿にしてくれる。)
私はそのまま、言葉を続けた。
「...こんなに立派なお仕事をなさっていたのに、私たち、邪魔だったでしょう。失礼するわ。」
そう言って、私が彼の眼前に突き付けた書類には、《《たどたどしい》》筆跡で、少年、ジェド・マカリスターに関する情報が書かれていた。...それも、正式な書類として提出する為の紙に。
全く、無駄な時間を浪費してしまった。本来、収容所所長である彼が書くべきところを、あの所長は容疑者とされている本人に書かせたのだ。即刻、書類は副所長に作り直させた。
─苛立ちながら収容所の廊下を突き進む。その後ろからは、二人分の足音が付いてきていた。
あの男もまた、私の正体を知らない。恐らく、何処かの令嬢だとでも伝えられているのだろう。今までも、公的機関などに赴いた時には、「貴族の小娘が口を挟むな」と言わんばかりの態度で嫌悪感を剥き出しにしてきた者も確かに居る。しかし、それにしてもあの所長は嘗め切っている。あれでこの収容所の責任者としてやっているのだから、普段の仕事ぶりはまだまともなのだろうか、それとも、彼の上の人間に見る目が無いのだろうか。
私だって王族だ。重要な書類がどんなものか知っている。今までも、御姉様のご公務を少しばかり手伝ったことはある。あんな書類を見た者は常識人であれば誰でも衝撃を受けるものだろう。
「あの...ちょっと待ってよ。これ、どういうこと? 何で僕が出て良いことになったの!?」
背後からジェドが叫ぶ。父親の事実を知らされてから暫く、呆然として外界からの情報を遮断していた状態にあった彼は、現在に至るまでの経緯を理解しきっていないようだ。私はその場で振り返り、硬い表情のままこう告げた。
「...着いて来なさい。貴方を一時的に保護します。」
ジェドの表情は変わらず、私に対して不信と疑念の籠った表情である。
「......。」
自らの質問に応じる気がないと察したのだろう。別の質問に切り替えるようだ。
「あの、聞きたいことがあるんだけど。」
「何かしら?」
「まず、君のこと...なんだけれど。」
彼は少し遠慮がちな口振りで尋ねてきた。
......。
意外だった。父親について聞かれるのかと思っていた。
「...えっと、ローズマリーだっけ、名前。...君は、一体、何者なの?」
─“ローズマリー”。そう、話を始める前、私は彼にローズマリーと名乗った。
「...そうね、立場としては、此処の関係者でもあるわ。間接的に、ね。」
私はそのまま、話しながら元の進むべき道へ向き直った。
「これでも一応、名のある家系の身だから、あまりここで私のことを話す訳にはいかないの。」
そして、私はまた廊下を歩き始め、彼もまた私に続いた。
「年は貴方と同じ。人種は少し珍しいでしょうね。私もその人も城下に住んでいるわ。因みに、彼は私の家の執事よ。」
付き人の居る右側から、彼の革靴の足音が止み、布の擦れる音と共に、「宜しくお願い致します。」という声が聞こえた。
「あ、あの、......宜しく...お願いします。」
ジェドの声を聞くと、また服の擦れる音と足音が鳴り始める。
その間も私は歩き続けていたのだが、老爺はすぐに私の背後にやって来た。ジェドの足音もまた、小走りで付いて来る。
「後さ、何で君がこんなことを? 関係あったとしても、君がやることじゃないんじゃない? 年だって僕と同じって...」
私は、自分自身に言い聞かせるように答えた。
「それがどうしたと? 年齢なんて関係無いわ。......私にはやらなくてはならないことがあるのだから。」
「“やらなくてはならないこと”?」
彼は私に聞き返す。
「それは...、君がさっきから持っている“ソレ”と関係があるの......?」
─“ソレ”とは、私が持ち歩いているもののことだろうか。確かに、彼のような一般の者からすると、同年代の子どもがこのようなものを握って歩いているのは不思議なことであろう。
「この武具のことかしら? ...護身用、とでも言っておくわ。」
見え透いた嘘だ。
「......。」
一呼吸分、静寂が訪れた。
「...その格好だって変だよ。─何処かのお嬢様っぽいこと言ってる君が、何で軽装備なんか...。」
どうやら私は、自覚していたよりも疑いの目で見られているらしい。仕方が無い。質問には出来るだけ答えよう。
私はおもむろに、持っていた武具の、少し長い柄の持ち手を変えて、刃のカバーを外した。その艶やかな刃が、周囲から得た僅かな光を跳ね返す。歩きながらも、後ろに居るジェドに刃の部分だけでも見えるようにして説明してやる。
「─これは、バルディッシュと呼ばれるもの。この三日月型の斧のような刃が特殊な、“槍”とも“斧”とも呼べる代物は、東の方から伝わってきたのだそうね。槍としては柄の部分が少し短く出来ているけれども。」
こんな会話を繰り広げているうちに、私は出入り口の扉を抜けた。そして、ジェドの居る方へと振り返った。彼も慌てて立ち止まる。
「私は、このバルディッシュで自分の身を守る。家族を助ける。この世界では、自分の身すら守れなければ生きていけないの。戦えなければ生きていけない、そんな世界だから。」
「...そんな、確かに物騒なところはあるけど...。」
「一般人《貴方たち》が、どんな生活をしているのかは分からない。けれど、貴族や王族は常に狙われているの。この国では特に、ね。」
「例えそうだとしても、君自信がどうにかすることないじゃないか。」
収容所の周囲を取り囲む木々の合間から、冷たい風が弱々しく通り抜ける。暗い森の中とはいえ、収容所の蝋燭にのみ照らされた廊下よりは少し明るいが、暗いことに変わりはない。
「私には、...私には、この手で切り殺してやらなければならない人が居るの。」
刹那、少し髪が靡く程の風が通り過ぎ、私の左目を覆っていた前髪が崩れる。「あ...」と、ジェドの口から、何かに気付いたような声が漏れる。それまで死角に入っていたであろうその眼帯が、外を覗いた。
「......君は...一体、何を...。」
私の視界の片隅では、先程より多くの光に照らされたバルディッシュの刃が一層輝いている。時折、木々の隙間から漏れる直接的な太陽光が、目に入れると痛い程に鋭く刃を煌めかせる。
「か、関係ある? 僕がここから出て良いことと?」
「どちらにしても、貴方に選択肢は無いのでしょう?」
「......! ...君は、信じても良い人なのかな?」
そう言って、私の目を恨めしそうに見ながらゆっくりと歩を進め、収容所の出入り口を出る。微かな太陽光に、揺れる金髪が反応した。今日もまた、珍しく晴れている。
「えぇ、きっと。」
私は向かうべき方向へと向き直り、歩き始めた。彼の表情など見ていない。...こんなに天気の良い日は、長くは続かないだろう。もしかしたら、明日からはまた、雨が降りだすかもしれない。それとも、雪だろうか。
程無くして私たちは、城下内にある従者が所有する屋敷へと向かった。移動中にジェドが口を開くことはなく、収容所へ来た時同様、車両の中は静けさに包まれ、人が一人増えたということを忘れさせられそうになる。少し離れた前の席に座るジェドは、始終俯いたままだった。前髪に隠れて表情が読み取れない。少し長い髪を束ねるリボンの布地が痛んでしまっているのか、まるで、生気の無い葉が萎れかけているかのようだ。
ふいに、昔のことを思い出した。
この車両の中、先代と御姉様たち四人で、避暑地にある別荘へ向かった時のことだ。長い車両の中で、中心を囲うように備え付けられた、ソファと言える座席の上、御母様に撫でられながら船を漕いでいた。シャンデリアとは呼べないが、装飾が眩しい照明が段々と真っ白な世界へ誘う。異様な眠気の中で、温かさが私を包んでいた。家族水入らずの休養。外に居れば、じっとりとしつこく汗がまとわりついてくる暑い夏の日。
幼い頃の私は、いつも御母様にべったりとしていた。どんなに忙しいご公務の最中でも、御母様は笑顔で私の頭を撫でてくれた。
「貴女の髪は、本当に御父様の髪によく似てる。...栗色の、綺麗な髪。」
そんなことを言いながら。
顔も見たことのない御父様に似ていると言われてもしっくり来ないのだが、御母様が嬉しそうに言っていただけで、私も嬉しくなった。
私にも、...誰だって、“親”という存在は居る。「父」の存在は幼い頃からなかったが、御母様の端麗な手に優しく撫でられていた記憶は消えない。もう二度と、その手に触れることが出来なくなっても。
彼から視線を落とし、自分の膝の上にあるバルディッシュに目をやる。結わえられた紐を外し、少しカバーをずらせば、そこには曇り一つ無い美しき刀身が、微弱ながらも私の手元を照らしていた。
......。
私はただ、彼を利用しているだけなのではないだろうか。
けれど、何でも良い。手掛かりが残っているならば。
─歯車の数は揃っていく。機械仕掛けのその身は、部品が揃わなければ完成しない。この時、部品を揃えてしまったのは、私だろうか。─
【第2話.出会い 終】
※アルマン所長─収容所所長。アルマンは名前ではなく名字。