プロローグ
...インクの滲んだその日記は、それ以降、続くことは無かった。その日記が書かれた直後、時の女帝・オリビアの長女・アンリエッタは、幼いながらにこの国の統率を迫られる。
鴉は見ていた。始まりのことも、終わりのことも。
ヘスペリデスの園で。
私がこの城に仕えてから、どれ程時が経ったことだろう。 支え始めて幾十年。若く青い軍人だったあの頃から仕え続けた中で、未だ嘗て、このような事態に遭遇したことなど一度もなかった。
─我が主君の恐れていたことが、現実に起きてしまったのだ。それも、我が国で最も尊ばれるべき祭日、建国記念日の前夜にである。
それは、国中の者たちが集まる城内の会場、建国を称える筈であった明くる日を前に起きた。この年の前夜祭は、国の主君たる女王が御息女、アンリエッタ様の御披露目の儀が執り行われる日と偶然同日に行われた年だった。この儀式は、通常、御生誕の日の夜、公の場で初となる御生誕を祝福されると共に、国内外問わず当代国王の実子としてお披露目せらる、伝統と格式あるものだった。アンリエッタ様の御生誕日は、偶然にも建国記念日の前日であり、この年は次期国王候補である彼女の御披露目を建国記念日前夜祭として執り行われた。壇上ではいつにも増して華やかな装いの女王・オリビア様が、夕焼けに照らされた大窓を飾るステンドグラスの幾重も浮き上がる神秘の陽光に包まれながら、前夜祭の開会式に貴重な御言葉を宣われていた。そのお隣では、大変緊張した面持ちでアンリエッタ様が控えて居られた。
─その時である。
我が主君は...残念ながら我が主君は、特定のできない敵の凶弾により倒れられた。それも突然のことである。その 傍では、 衣装が汚れようとも構わず、憐れにも、アンリエッタ様が膝を突かれたまま泣き叫んでおられる。もう既に、彼女の母君は事切れているというのに、ご息女は母君のお手を握られて放さない。ただ、この前夜祭の為に用意されたご息女の衣装の赤黒い汚れだけが拡がっていくのみであり、 私の目には、その拡がりだけが時を進めているかのように思えた。
女帝様の後継者たるお方ではあるが、彼女はまだお若い。このような惨劇を目の当たりにされては、暫くの間は、精神的に立ち直られることは出来ないだろう。壇上には大臣など国の有力者や城に仕える者たちが駆け寄って来た。
─またしても犯人が発砲して来るようなことがあれば、姫君もご無事ではおられないだろう。恐らく、...否、犯人は確実にこの時機を狙っている。
ご息女をこのままにしてはならない。彼女までも失うわけにはいかない。
それは 、私にとって、“使命”や“義務”といったものとは違った。…事件後の己が体裁を気にしてのことでも無かった。まさか、あの瞬間、あのような状態の中で、 咄嗟に自らのことを考えて思考を巡らす時間などあっただろうか。余程の策士家などでなければ、そんなことを考える余地など無かっただろう。兎にも角にも、個人的な感情が強く働いた結果だったのだ。その時の 私の行動を正しく言い表すならば、「反射的に動いた」と述べた方が適切であった。
......。
...そう、気が付いた時には、 私の身体は、ご息女の身と主君の御尊骸を庇うようにして、その御前に背を向け立ち塞がっていた。
しかし、その後の動きは無く、 私が撃たれることも、ご息女が狙われることも、他の有力者たちなどの聴衆が被弾するようなこともなかった。ただ、 私の背後では女王の御尊骸と涙ながらに怯えるご息女が、私の眼前には、千何百もの来場者たちが唖然とこちらを眺めているだけだった。そして、直ぐにその沈黙は破られ、女王・オリビア様が目前で崩御なさった現実に突き落とされた聴衆たちは、老若男女関わらず様々な悲鳴や怒号などの哀しみの声にまみれた。4階ある客席の中では、周囲を見渡す者、警戒する者が見て分かる。その場から立ち退かないで居るのは、流石は我が主君が信頼を寄せる者たちであると言えよう。
そんな中、 私は来場者席の2階の一部の動きに違和感を覚えた。聴衆は 皆、その場から動かずに動揺を見せているにも関わらず、その人物は足早に座席の奥の方、─その階ごとに三つはある扉の内一つへと向かっているではないか。
(......あの者が犯人ではないだろうか...?)
どう考えても、その人物は不自然なのだ。...ただ、あれ程人々が密集する中で発砲するというのは可能なのだろうか。あの発砲音は正に銃弾のそれであり、御尊骸の傷口を見ても、 正しく凶器は銃器の類いの物であると思える。しかし、この会場の中で撃つなど容易なことではないだろう。聴衆の様子を見ても、犯人の検討などつきそうにないではないか…。
私は、即座に下の者たちに 《《彼》》の者を追わせ、詳しく取り調べさせることにした。もし、その者が犯人なのであれば、国の脅威にもなりかねない組織と関連があるだろう。この祭典の警戒の中、単独犯とは考えにくい。
何にしても、我が主君を亡き者にした犯人には重罪が言い渡されるに違いない。
アンリエッタ様は、既に城の者たちにより裏の控え室へと移られていた。この数分間の内に疲れ切っておられるようだった。
私はそのまま、部下たちの報告を待つべく執務室へと向かった。
─その後も、 私の信頼の置ける部下たちが戻って来ることは無かった。
......。
六年という歳月の中で、あの事件は未だに解決出来ないでいる。 私としては大変もどかしく、御息女らの 憂いを晴らし、そして、部下たちの、せめて彼らの遺骨だけでも家族の元へ返してやりたい。これは 私の責任である。
今、 私はあの時と同じ場に立っている。そしてご息女もまた、悲惨な事件に見舞われたこの壇上で職務を果されている。
月日の経過というのは、早いものだ。あの頃は前線にて勤めを全うすることにばかり執念があった 私も、今となっては老いがみられ、当時の職務は後任の者に譲り、密かに城に仕えるだけのただの老爺と成り果てた。彼女はもう齢十九となられて、今やご立派に先代の後を継がれ、その強き精神を携え、我が国の発展と安寧の為に尽力なさっている。ステンドグラスの煌めかしい輝きに包まれながら。
─我が国の、うら若き女王として。
......。
これは、遂げることのない復讐劇。報われることのない終わり。決して止まらぬ歯車は、今日も今日とて廻り続ける。欠けたものなど気にせずに。
これは、神話か現実か、そして、未来か過去なのか───。遠い遠い、未来の話。過ぎ去って逝った、過去の話。思いが交錯する、群衆劇。
ヒトが人であり続ける以上、歯車は廻り続ける。そんなこと、鴉は分かっていた筈だ。未熟者なりにでも。
【「プロローグ」終】
【ヘスペリデスの園で 第1章-後を負う者- To be continue…】