3-3、師匠の反応
「……」
「少なくとも都市に居る限り、私達の次の選択肢に『死』が入り込むことはありえない。何故なら、都市でやっていけなくなった人は、ひとまず郊外へと逃れていくから。『雪山で遭難をした肥満の人は、餓死をするのか?』という質問の答えは、『脂肪を使いきってから死ぬので、理論上肥満の人は餓死をしない』。それと同じこと。都市という脂肪から逃れて、郊外という雪山で『死』を選ぶ」
都市でやっていけなくなる、というのは例えばどうしても大学に入れなかった、とか、災害で財産を失ってしまった、事故で肉親を失って家計が大変になった、或いは都市の人間関係に嫌になってしまった、とかいうケースのことだ。そういう人々は郊外に出て行く。そうすれば、そこの自治体から庇護を得られ、住居や就職先の斡旋をしてくれて、また出発することができるから。
千彩都は滔々と講釈を続ける。
「人は苦難に直面すると、『選ぶ』ことを強いられる。そうすることで、徐々に『選択』することを思い出していくの。そして『選択』を思い出した人が、まずは『郊外』という理想郷に憧れて『都市』を離れることを選択し、そしてその中から『死』を選択する人が現れる」
彼女はそう言いながら、大福の表面をつるりと撫でた。そして、その人形のような眼を俺の目に向けて、語りかけてきた。
「ねえ、真、『都市』が平和なのは、平和を害する可能性のある人たちを、そうやって『郊外』に追い出しているからなの。人を恐怖させ、惑わすものはいつだって『死』というもの。『死』が選択の射程に入るということは、その恐怖を思い出すということでもある。だから、そういう人たちがいなくなった社会で、残された人たちが平和に生きていけるのは当たり前のことでしょ?」
「……そのことと君が『不良』を選ぶ理由に、何の関係があるんだ?」
俺は何とも知れない不安を抱きながら、訊ねる。何だか目の前の女の子が、俺と全く違う生き物なんじゃないかと思えてきたからだった。
俺の質問に、千彩都はきっぱりと答えて言った。
「私が不良であることを選んでいるのは、平和な顔をしている社会が、実際には、その社会に適応できない弱い人々を追い出すことによって成立している、という事実に嫌気がさしているから」
「ということは、君は「郊外」に」
──出てしまうのか、と言いかけて、俺は口をつぐんだ。千彩都が強く首を振ったからだ。
「私は『郊外』に行かない。それでは何も解決しないから。それに、未成年は都市から出られないの、郊外にたどり着いても追い返される」
「い、行ったことあるのか」
「……兄が、ね」
兄。俺はこの部屋にやって来る途中で見た、家の風景を思い出した。なんとなく、きょうだいが居そうな雰囲気だが、人が住んでいる気配がない、あの感じを。
「兄が高校生の時、一度学校をサボって郊外に行って、パトカーに乗って帰ってきたことがあったの」
千彩都はまるで弟の失敗談を話すような口ぶりで言った。
「そうなのか……」
「うん。その兄は今、行方不明。二ヶ月くらい前にふっと帰ってこない日があって、それきり……」
俺はなんと答えればいいのか分からなかった。言葉を奪われて、俺はただ千彩都の整った顔を見つめていた。
千彩都は、そんな事はなんでもないといった様子で、大福に手を伸ばし、一口食べる。
「今私が話したことは、半分くらい兄から教えてもらったこと。兄はジャーナリストだったの。とても優秀だった。私は彼から、いろんなことを教えてもらった。本とか、映画とか、音楽とか……あと、あのギターも、兄のお下がり。実は勝手に使ってるんだけど」
兄の話になった途端に、千彩都の口調が明るくなった。その声を聞いただけで、この妹が兄をどれだけ慕っていたか分かるというものだ。俺はなんとなく安堵した──この子が誰かを慕うことができて、嬉しそうにその人について話すことができるのだと分かったから。学校中の生徒から「不良」と言われていても、同じ人間であることに変わりはないんだ。
ただ、それだけに、この家の不穏さが気になってしまった。下の居間には今も両親がいるはずだ。それなのに「誰もいない」という千彩都の発言。
俺はそれだけは質しておこうと、口を開く。
「……両親は? お兄さんのこと、探したの?」
「当然。警察に失踪届を出したりした。でも、一ヶ月経っても見つからないし帰ってこないから、もう疲れちゃってすっかり諦めたみたい。きっと、郊外に出ちゃったんだろうって。母も父も、兄には随分と期待を寄せていたみたいだから、相当落ち込んだみたい」
「君が……、まだいるのに」
「ジグソーパズルを作ってる最中に、ピースがごっそりと無くなってしまったら、完成させる気力が無くなっちゃうでしょ。それと一緒で……もう、どうでも良くなっちゃったみたい」
俺は押し黙った。さっき千彩都の母親が、俺に向けてきた会釈を思い出す。娘が連れてきた男にあれほど無頓着だったのは、娘を信頼しているからではない、仮に千彩都が俺に何をどうされても良かったからなんだ。
この家に来た時から心に宿っていたもやもやが、ようやく輪郭を持ち始める。これが、俺の夢見ている将来の姿なんだろうか──という、疑惑だ。
「そんな深刻な顔しないで」
千彩都は、沈黙する俺を宥めるように言った。「育ててもらっていることは感謝しているけど、それだけのもの。親の愛情は無条件に与えられるものじゃないし、『親があっても子は育つ』とも言う……同情は無用だから」
「……分かった」
俺は少し罪悪感を覚えながら頷く。俺は沈黙の中で、千彩都に同情していたのではなく、自分の将来に不安を抱いていたのだ。彼女の話を聞いて尚、自分のことしか考えていなかった俺に、都合の良い将来を思い描く権利があるかどうか。
「これ、戻してくる」
空になったグラス2杯と皿1枚の載ったお盆を持って、千彩都は立ち上がった。落ちている物を器用に避けながら部屋を出ていく。
階段を下りていく足音を聞きながら、雑然とした部屋を見渡していると、ふとひとつの本棚が目に留まった。その本棚は、雑多なこの部屋にある雑多な本棚のうちで、特に目立っていた。
何故なら、並べてある本を隠すように、ピンク色の布が垂れ下がっているからだ。
散らかり放題の部屋の中で、その本棚だけが几帳面に整頓されているように見えた。まるで、本物の千彩都自身を収納しているかのように。
俺は知りたくなった。そのピンク色の仕切りの向こう側に、彼女の内面が隠されているような気がして、気づいた時にはもう身体が動いていた。
俺の頭の中に、「ノー・インサイド」のメロディが鳴り始める。俺はもっと千彩都のことが知りたくなっていた。
俺は物に溢れる床の上を注意深く進んでいき、本棚の前に辿り着く。そして、そのピンク色の布を摘んで、ずらした。
と。
「ちょっとっ」
「うおおっ!」
いつの間にか戻ってきた千彩都に、思い切り腕を引っ張られた。全く気配を感じなかったので、俺はひどく驚いて姿勢を崩してしまう。ただでさえ、床に物が散らばっていて足の踏み場が無いのに、こんな不安定な姿勢になったら──。
「きゃっ」
俺は千彩都を巻き込んで、すっ転んだ。身体のコントロールが効かなくなり、視界がぐわんと急降下する。
思わず目を瞑った瞬間、ぼすん、と俺の身体はどこかに倒れこんだ。予想していた痛みは襲ってこなかった。倒れた時の感触的に、どうやらベッドの上に転んだようだ。
俺は安心して目を開き、──絶句した。目の前に千彩都の顔があったのだ。一緒にベッドへ倒れこんだらようで、千彩都は俺の顔の横に手をついて、俺の身体に覆いかぶさるような姿勢でそこに居た。
「……あの、本棚の中は、見ないで」
千彩都は顔を少し赤くして言った。こんな格好をするよりも、あの本棚の中を覗かれる方が恥ずかしいらしい。
「……分かった」
俺はそう答えてから──、そっと、その頬に触れてみた。
千彩都は目を丸くすると、驚いた猫のように俺の手からさっと顔を退かせた。
「っ……」
「……大福みたいにすべすべしてる」
「それは……、ありがとう」
千彩都は頬を真っ赤に染めて、目を逸らしたまま礼を言ってきた。その姿を見て、思わず頬が緩む。やはり可愛い。この子を選んで正解だった。ありがとう、中川、須々木──そして俺、一週間よく頑張った。
なんて感慨に浸っていたのだが、ふと気が付くと、千彩都が目を瞑って静かに俺にその顔を近づけてきていた。
ちょっと待て、この子、もしかしてキスしようとしているんじゃないか。
「広垣さん!?」
俺が思わずそう言うと、千彩都は少しムッとしたように、
「千彩都って呼んで」
「あ、ごめん……千彩都?」
「なに?」
「まだ俺達、付き合い始めて一週間も経ってないんだけど」
「恋人なら、いつかはするものだから」
「……確かにそうだな」
「それで、どうだったの?」
「あんこの味がしました」
「あんたにお似合いなオチだね」
「恋人持ったことのない師匠には言われたくないです」
「あはは、言うねえ、このアホ弟子」
割と気にしているらしい。大学に入ってから髪を染めて心機一転したのも、それが理由なのだろうか。
「あの、師匠、ネット経由で、千彩都のお兄さんの居場所って探せないんですか?」
あの家の不穏な空気を思い出しながら、俺は訊ねてみる。千彩都の兄が帰ってきたら、明るい家庭が帰ってくるという保証はないが、それでも何だか小骨が引っかかっているような、このもやもやする気分を少しでも晴らしたいのだ。なんだかあの家に、君の夢見る将来はこんな風だけど良いんですか、と問い質されたような気分を。
でも、師匠はあっさりと首を振ってみせた。
「ムリ」
「技術者目指してるのに、そんなスタンスで良いんですか」
「これは技術者の管轄じゃなくて、法曹の管轄なんだよ。今は日本国民なら誰でも、都市郊外問わずにネットに接続できる環境を与えられる。その人のマイナンバーをあたしが作ったツールでググりゃ、一発で使ってるアクセスポイントが割れるから、住んでる地域が特定できる。一応不可能じゃないんだよ」
「じゃあ何でムリなんですか?」
「法律が禁止してるんだ、個人情報保護の一環さ。だから、きっと警察もその手は使えなかったんだろうね。何も起こっていない状態で警察は動けないから、さ。そもそもその手を持っていたかは怪しいけど」
師匠は座っている椅子を前後にギコギコ揺らしながら説明する。「まっ、マイナンバー以外の方法で居場所を特定するのはオッケーなんだけどね」
「えっ、何でですか」
「法律で決まってないからさ」
「……何で?」
「知らん。あたしは技術者志望だって言ってるでしょ」
ごもっとも。俺は棒アイスの棒を、ゴミ箱に捨てながら心中で頷く。
「でも興味深い話だったよ。『選択』をしない、かぁ」
師匠はどこか憂いの滲んだ表情で呟いてから俺の方を向き、「昔の学校って、どんな風に物事を運営してたか知ってる? 部活動とか、委員会とか」
「えっと……知りません」
すると師匠は右腕を真っ直ぐ上方へ伸ばして、
「手を挙げさせるんだよ。意見ありますか、どう思いますか、って訊く。で、最後にはこっちが良いと思う人は手を挙げて、ではこっちが良いと思う人は手を挙げて、って多数決を取る。そうやって、方針を決めてたんだ」
「それじゃあ、むちゃくちゃ時間かかりますね」
「そうさ。でもそうやって話し合わないと、組織として能率的な稼働ができなかったんだ」
今のこの社会では、そんな「話し合い」等存在しない。誰かが、議題を思い出したように、そして呟くように掲げる。例えば、「部活動」に代わる有志メンバーの募集、文化祭の運営委員、生徒会の役員選出。俺達はその枠を見て、自分が適当だと思ったらそこに加わる。たったそれだけ。たまにごたごたが起こることもあって、そういう時には大抵「不良」が絡んできているらしいが、俺自身「不良」に直接関わったケースは無い。
と、そこで俺はしようと思っていた質問を思い出した。
「あの、千彩都みたいな奴のこと今では不良って言いますけど、昔はなんて呼んでたんですか?」
「んー? ううん、そうだなあ」
師匠は思案顔でしばらく天井を見上げて椅子をごとごとと揺らし、やがてこれかなあ、というふうに言った。
「社会不適合者、かな」