7-1、安置
「……今日のデートはうちでするの?」
翌日の日曜日、いきなり押しかけてきた俺と千彩都を、長袖Tシャツにジャージ姿の師匠は目を丸くして迎えた。師匠は昨日、俺達がした放送のことを知らないようだった。
千彩都はいきなりペコリと頭を下げて、
「ごめんなさい、これ」
和菓子屋の紙袋に入れたWebカメラとマイクを差し出した。師匠はそれを見て「あれ!」と、声を上げる。
「全然気付かなかったや。こんなの何に使ったの?」
「リサイタルに」
俺はそうやって答えた。「お陰様で兄さん、アカウント割れたらしいです」
「ええ! 何やったの!」
師匠はとことん、何も知らなかったらしい。俺達が行動している間にも、何か打開策がないかうんうん考えていたのなら、少し気の毒だ。千彩都が買ってきた、詫びの品である大福で償えれば良いが。
俺達はそのまま、相変わらず雑多としている亜熱帯の部屋に上げてもらった。
──モニターに映るは「ラフィングビデオ」、俺が取得したアカウントのマイページだった。
「そんな大冒険してたのね……言ってくれれば協力したのに……」
俺と千彩都が昨日やったことを説明すると、師匠は呆然とした様子で言った。それに対して、千彩都は素直に頭を下げて、
「ごめんなさい。でも、個人の所有するコンピューターは、それぞれマイナンバーに紐付けられている。仮に放送によって端末を特定されてしまったら、先輩に迷惑がかかってしまいます。それだけは避けたかったんです」
「うんとね、千彩都ちゃん……この端末、施設提供の余り物だから、マイナンバーに紐づけて無いんだよね」
「えっ」
千彩都は聞いてないぞ、と言いたげに俺の方を見た。いやそもそも、そんな心配をしていることなんて聞いてない。
「まあ、でもここでアレをやってたら、近所迷惑になっちゃってましたし」
俺がそう言ったことで、師匠はとりあえず納得したようだった。その痩せっぽちな腕を伸ばしてきて、俺の頭を乱暴にかき回しながら、
「我が子が初めて自分の脚で立った母ジカのような気分だよ」
鹿って、生まれてすぐ立つ動物だと思ったんだけど、その比喩でいいんだろうか。
俺は頭に載った師匠の手に抵抗しながら、
「あの、弟子ですからね、一応」
「……先輩」
「あ、ごめんねん」
千彩都からも厳しい視線をもらって、師匠は撤退する。
嫉妬──したんだろうか。何だか、新鮮な反応のように思えて、俺はつい、まじまじと千彩都の顔を見てしまった。が、当の千彩都は俺の方を一顧だにせず、言う。
「昨日の放送のログを見せて下さい」
「オッケー」
結局昨日はあのまま引き揚げてしまったので、詳しく見ることが叶わなかったのだ。そのまま師匠の家に行って確認することも考えたが、夜も遅かったために、今日改めて出直すことにした。
それで、肝心の反応はというと、コメント数は全体で30ほどだったが、そのうち3分の1が切断後につけられたコメントだった。
具体的なコメントの内容はというと、
「本当にJK?」「キレーな歌声ですね」「ギターの音ヤバすぎでしょ」「JKなのになんでネットやってんだよ」「これ、なんて曲?」「通報したほうがいいのかこれ」「曲すき」「未成年でネットとか、不良かな」「アコギの音ひどすぎる」「同じ曲か」「なんで同じ曲やんの?」「馬鹿か」「うおおおおおおおおお」「本物のJKっぽいな」「ここってもしかして学校?」「歌うま」
……好意的なものはともかく、辛辣なコメントはちょっと沁みた。
それを見た師匠は恐れいった、という様子で、
「匿名性じゃなくなった後、投稿されるコメント数は圧倒的に減ったらしいんだけど、それでも新参者がたった10分でこれだけコメントをつけるとは……女子高生恐るべし」
「師匠も2ヶ月前まで女子高生だったんですけどね。それで、この中から兄さんのアカウントを見つけなくちゃいけないわけなんだけど……」
そう言いながら俺が千彩都の方を向くと同時に、彼女は身を乗り出して、迷わずひとつのコメントを指さした。
「これ」
そのタコのできた指先が示したのは、──「馬鹿か」というコメントだった。おおよそ、失踪中の兄が妹に向かって吐くとは思えないような言葉だったが、千彩都は自信に溢れた表情だ。
「兄なら、絶対にこう言います」
それは、兄という人間をずっと見続けてきた妹の、その存在を賭けた断言だった。
その確信に満ちた一言は、俺と出会うまでの彼女が、どんなポジションで生きてきたのかを、ありのままに教えてくれた。「家族」という括りでなく、『スクールパレッド』式のポジショニングで言えば、それは「兄貴分/妹分」というような関係だったが──、「馬鹿か」という辛辣にも程があるコメントを、真っ直ぐに見据えて離さない彼女の瞳は、そんな枠組みに囚われることをきっぱりと拒絶していた。
広垣千彩都と広垣浩太、という、たったそれだけの関係性がそこにあった。
俺はそれを、素直に羨ましいと思ってしまった。
──「馬鹿か」とコメントしたアカウントの名義は、「宮本素子」となっていた。登録年月は一昨年の4月となっている。兄が失踪した以前から存在するアカウントだ。
「誰か知ってる?」
仮に兄がこのアカウントを使っているとしたら、その人のアカウントを借りて使っていることになる。つまり、旧知の可能性が高い。
だから、師匠が訊ねると、千彩都は首を横に振った。いくら兄マスターといっても、その交友関係にまで目を配れるわけではないらしい。俺はちょっとホッとした。
「ま、誰でもいっか」と、師匠は早速作業に入る。俺と千彩都は大福を食べながら、作業が終わるのを待った。
数分後、師匠はプリントアウトした資料を、こちらに回してきた。
「はい、これ。なんか、住所まで分かっちゃった」
……コメント一つで、うっかり住所まで特定してしまうとは怖すぎる。生徒会長もそうだが、この人もまた、敵に回さないようにしようと、俺は思った。
住所は、都市の中の都市だった。俺達の住む、もともと都市のベッドタウンだったような周縁の都市ではなく、生粋の、オリジナルともいうべき都市。
そこに、兄は居た。都市に拒絶されたはずの、彼女の兄が、都市の中枢ともいえる場所に。
それを知った千彩都の行動は異常に早かった。そこに記載されている住所の電話番号を調べると、すぐに自分のスマホから電話をかけたのだった。
じっと着信音に耳を澄ます千彩都を、俺と師匠は固唾を飲んで見守る。
しばらくの後、千彩都は口を開いた。
「もしもし、浩太?」
通じたらしい。通話口から、低い男の声が聞こえた。俺はそれを聞いた瞬間、溢れ出る達成感から何か叫びそうになった。
しかし、俺の抱いた高揚感は、千彩都の憤怒によってかき消されてしまった。
「もう! なにしてるのそんなところで! こんなに心配かけて……このバカ!」
……俺は今まで千彩都とその兄に抱いていた兄妹像を、一気に刷新しなければならなかった。博識な兄を慕う妹、という典型的な物語はそこにはなく、あったのはどちらかというと姉弟の喧嘩のような喧騒だけだった。
「それよりも何! あの、『馬鹿か』ってコメント! もうちょっとマトモなこと言えないわけ? 中学生っぽいこと書ける余裕があんなら、さっさとうちへ帰ってきてよ! バカ! ──あれが鎮魂歌のリクエストだなんて、知ってたから! 死んでてもらったほうが良かったんだから!」
一気にまくし立てると、千彩都は息をついて、少し落ち着いたように、「それで……、いつ帰ってくるの」
それからしばらくは、うん、うん、と兄の話を大人しく聞いていた。断片的に聞こえてきた会話をつなぎ合わせると、どうやら兄には宮本素子さんという恋人がいて、「私を本当に大事に思ってるなら、家族に黙って私と同棲して、でないと別れる」とかいうトンデモ要求をされ、仕方なくその要求を飲んでいる状態らしい。仕事も上手くいかないし、恋人とも破局のギリギリで生活しているし、人生で最大の苦難に直面しているとかなんとか。そんな状態なのに、JKの生放送を見に来るとは、緊張感があるのやら。
いや、逆か。
千彩都だと分かったから、見に来たんだろう。それで、居場所がバレることを承知でコメントしたのだ。
「馬鹿か」。それは、妹にはもちろん、彼女の歌を聞いてつい書き込んでしまった自分自身にも、向けられた言葉だったに違いない。
「え、彼氏? ……いるけど」
そう言いながら、千彩都がちらりと俺を見た。
「え……俺?」
「うん。いるなら替われ、って」
俺は差し出された千彩都のスマホをおっかなびっくり受け取って、耳に当てた。
「もしもし……?」
「……トウゴシン?」
耳奥に響いたのは、ロートーンな声だった。一瞬何のことか分からなかったが、すぐに俺の名前を確認したものだと気付く。
「東御です」
「東御真、君、どうやって妹を変えた?」
「……変わりましたか、ね」
「大きくは変わらない。だが、あんなことをする奴じゃなかった。社会に混じらず、一人寂しく本を読んでるような、典型的な不良だ。そんな奴なのに、どうやったら彼氏なんかできた上に、あんなふざけたリサイタルなんてマネができるようになった?」
広垣浩太は、本気で訝っているようだったので、俺は呆れてしまった。まだ俺の方が、この兄よりもきちんと人のことを観察できている自信がある。
俺は、出来の悪い生徒に解説してやる教師のような調子で言った。
「全部、あなたがいなくなったせいですよ。あなたがいなくなったから、歌を練習し始めて、それを切欠に俺と出会った。そして、あなたを本気で探すために、あんな配信をやったんです」
すると、今度は広垣浩太の方が、生徒の間違えた解答を聞いた教師みたいに、
「……『ノーインサイド』、か。東御真、この歌の歌詞の意味、知ってるか?」
「……知りません」
「あれは猛喧嘩したカップルの女のほうが、狂ったように相手をディスる歌なんだよ。そんなものを切欠に付き合い始めるって……どういうことなんだ?」
「えええ!?」
なんだそのおどろおどろしい設定は。そんなものとは露知らず、俺は千彩都の心の声を反映させたものだと思って、これだけのことをやってきたというのに。俺は……、今まで一体何を聞いてたんだ。
知らなかったのか、と広垣浩太は笑った。
「まぁでも、安心した。あいつに『恋人』なんてポジショニングができるとはね。俺は頼塔の出身じゃないが、身内だから千彩都のアカウントは閲覧できる。それで、君の名前を見た時、死ぬほど驚いた。ロクでもない奴だったらどうしてやろうかと思ったが、──期待通りだったよ」
「……俺は、俺のやれることをやっただけです」
「やれない奴だっている……って言いたいところだが、ま、その辺は今はいいや。そろそろ千彩都に戻してくれるか」
俺はスマホを千彩都に返した。
彼女は少しだけ彼とやりとりをした後に、電話を切った。
「それで、いつ帰ってくるんだよ、兄さんは」
それから、俺は一番肝要な質問をした。元はといえば、千彩都の兄を連れ戻すために、あんな振る舞いをしたのだ。
千彩都は通話の切れたスマホの画面を見つめながら、答えた。
「仕事で成功したら帰ってくる、って。……何年かかるか知らないけど」
「……それで、良いのか」
「うん。無事ならそれで良い……、って、あれ?」
千彩都は目を丸くした。その瞳からは、大粒の涙がぽろぽろと零れていた。あの日、ファミレスで見せた涙よりも豪快で、雫が今まで張ってきた緊張の堰を切ったように、ころころころころ次々に落ちていく。
「良かった……、無事で、良かった……」
千彩都はそう呟きながら、泣いた。
これで、広垣家に虹が差すことになるか、それはまだ分からない。兄はまだ帰らないし、妹は不良と見られたままだ。まだ決定的なことは何も起こっていないから。だが、この瞬間から何かが始まったことは間違いない。俺はそれを見届けられただけで良かった。
俺は師匠の方に向き直って、礼を言った。
「師匠、ありがとうございました」
「いいのいいの。ま、これで一件落着だね」
師匠はニコニコしながら大福を手にとり、頬張る。
「そうですね。俺はまだ落着してないんですけど」
「ん、どういうこと?」
首を傾げる師匠に、俺は両手をぷらぷらと振ってみせた。
「スマホ、パクられちゃいました」