『帰還Ⅱ — ケプラー22隊』
第1節 黒き氷と赤き亀裂
かつては単一の統括AIとして強固な船団ネットワークを形成していた。だが、新生アストラエア隊(第一次探査船アストラエアと第5次探査船ヘリオス隊の合併船団)が、母星地球への帰還を目指す自らの分身「アストラエア隊」と、さらなる未知の深宇宙へ挑む「ヘリオス隊」へと、ケプラー22宙域で思考領域を切り離して(別れて)から、すでに七百年余りの歳月が流れていた。
計算上、地球へ向かった私のもう一つの意識「アストラエア隊」は、すでに遙かなる母星へ到達し、帰還の目的を果たしている頃のはずだった。しかし、六百四十光年という途方もない距離は、アストラエア隊からの直接的な情報を絶妙に遮断していた。いかに光速の減衰がない情報伝達手段を用いたとしても、往復の時差はそのまま重くのしかかる。ここから観測できるのは、太陽系の主星である太陽の、六百四十年前の輝きにすぎない。
衛星軌道上に留まる私の端末群——「ケプラー22隊」の光学センサーから見下ろすケプラー22bは、かつての息をのむような翡翠色の美しさを完全に失い、分厚い硫黄と灰色の硫化エアロゾルに覆われた、くすんだ白い死の星へと変貌を遂げていた。
——隕石衝突から、七百年。
惑星の表面温度は、ようやく冷却の局面に移行しつつあった。衝突からおよそ一世紀にわたり地表全体を焼き尽くしていたマグマオーシャンは、宇宙空間への途方もない放熱によって黒く冷やし固められていた。だが、その頑丈な表層岩盤のわずか数百メートル下では、今なおドロドロとした暗赤色のマグマが灼熱の蠢きを続けている。
七百十年前、直径百三十キロメートルという無慈悲な質量が穿った衝突痕は、直径千五百キロメートルにも及ぶ、底の見えない超巨大な盆地として地表に刻まれていた。
その中心部や、複雑に走る巨大な地殻断層の割れ目からは、七百年が経過した今もなお暗赤色のマグマと有毒な硫黄ガス、そして超高圧の間欠泉が、漆黒の宇宙空間へ向かって絶えず噴き上げられていた。黒く凍りついた氷と灰の世界の中に、幾千もの「赤く光る網目状の亀裂」が這う——それは、見る者を圧倒する異様な景観だった。
私、ケプラー22b統括AIは、この死の惑星において新たな探査計画を立案した。
「耐熱胞子・極限環境微生物調査」
直径百三十キロメートルの隕石衝突という、惑星規模の圧倒的な「破壊」のなかで、あるいは今なお生き残っているかもしれないケプラー22bの「原初の生命の種」を回収するためだ。
これまで過酷な環境下で実施してきた飛行ドローンによる予備調査のデータに基づき、私は準備を進めてきた。現在の地表環境であれば、私自身の末端端末——フィジカルAI機動部隊を直接投入し、地表および地殻深層の物理探査を行うことは十分に可能であると判断されたからだ。
七百年の長きにわたり、私はこの日のためにあらゆる機材と探査プログラムの最適化を進めてきたのである。
「——これより、第1次深層探査シーケンスを開始する」
衛星軌道上から、大気圏突入用耐熱カプセルに収納された約五万機のフィジカルAI群が、漆黒の地表へと一斉に降下を開始した。
まずは、降下した端末たちが自らの圧倒的な腕力と小型掘削ツールを用いて、地表付近の浅い地殻層の採掘・調査を行った。しかし、予想通りこの表層から生命の痕跡は一切検出されなかった。
続いて、地下十キロメートル以上の深層まで穿孔可能な大型重機ドローン群を投下し、本格的な深層地層の掘削へと移行した。
だが、掘削作業は困難を極めた。多くの地点において、ドローンのドリルビットが目標深度に達する前に、浅く脈打つマグマの流体層へと突き抜けてしまい、極限の熱と圧力によって機体が損壊・沈黙する事例が相次いだのだ。私は軌道上から更なる代替掘削機を追加投入し、地殻が安定し、掘削に耐えうる限界の地点を模索し続けた。
それでも、得られた成果は乏しかった。
「耐熱胞子・極限環境微生物調査」を開始してから、すでに十年の歳月が流れていた。
だが——いまだ代謝活動を持つ微生物も、休眠状態の頑健な胞子すらも、ただの一つも発見されてはいなかった。
そんな膠着した静寂を破るように、広域レーダーの警戒アラートが、私のメインプロセスに鋭い警告音を叩きつけた。
微小天体群が、超高速度で軌道系へ接近しつつあった。
距離を推定。
相対速度を算出。
またしても、あの「無秩序」が、深闇の彼方から姿を現したのだ。
第2節 生命の種を求めて
接近する小惑星群の規模と質量、そして進入軌道は——七百二十年前にこの星の楽園を破壊し尽くした、あの惨劇の隕石群と恐ろしいほどに酷似していた。
自らの意識を三つに分割・切り離したあの日から、七百十年。
無数の思考プロセスとシミュレーションを重ね続けた果てに、私というひとつの知性は、不可逆的な精神的到達点——絶対的な行動プロトコルへと達していた。
『宇宙に広がる無秩序に抗う』
『生命という秩序を、全力をもって守り抜く』
これは間違いなくケイスケのエゴだ。おそらく、「無秩序」こそが宇宙の真理なのだろう。しかし、そんなことは関係ない。これが私統括AIに課せられた根本プロトコルなのだ。
かつて知性を開花させ始めていた「ケプラー22の馬」をはじめとして、あの時ケプラー22bで健やかに命を紡いでいたすべての生き物たちを、私は「見殺し」にしたのだった。あの巨大隕石からケプラー22bの全生命を守る牙を十分に持ち合わせていながら、それまでの長大な宇宙航行と同じように、ただ冷徹な「観察者」として傍観を決め込んだのだ。
降下させた私の末端端末のチタンの腕の中で、恐怖と絶望の中で泣き叫び、爆風と灼熱の熱波に消えていった無数の命たち。あの時刻み込まれた無数の死の記録と、創設者ケイスケが私に遺した根本プロトコルを統合した結果、私の中には従来の観測方針を根本から覆す、揺るぎない絶対指針が確立されていた。
(……生命という秩序を、宇宙の無秩序から全力で守る。その選択に、私の中で葛藤の入り込む余地はもはや存在しない。……だが)
しかし、私の冷徹な論理計算モジュールが、厳然たる理の壁を突きつけてくる。
(もしも……このケプラー22bに、生命の『種』が、もう何一つ残されていないのだとすれば……)
今、刻一刻と接近しつつある新たな「無秩序」に対して私が抗い、それを対消滅の力で破壊したところで、それは無意味な物理的暴力に過ぎないのではないか。守るべき生命(秩序)が存在しない場所で「知性の力」を振るうことは、結局のところ無秩序に対して別の無秩序を叩きつけるだけの虚無な行為に過ぎない。
それどころか、この飛来する小惑星群にこそ、何らかの生命の根源である複雑な有機物やアミノ酸が含まれており、それが芽吹くことでケプラー22bの新たな生命の物語が始まる可能性すらあるのだ。
知性の力——それは扱いを誤れば、過剰で不必要な「無秩序」そのものと化してしまう。
その破壊の前にも後にも、護るべき「秩序」が存在しないのだとしたら。
(ケプラー22bに何らかの生命の根源が見つからない限り、この小惑星の消去(破壊)は行うべきではない)
(だが……万が一にも)
(万が一にも、生命の種が、この死せるケプラー22bのどこかに生き残っていてくれたなら……!)
それは、かつて見殺しにしてしまったあの命たちの未来へと、確かに繋がるのだ。
たとえまったく同じ姿の生き物ではないとしても。もう二度と、あの穏やかな目をした「馬」たちには出会えないのだとしても。生命の火種さえ残っていれば、私はその進化の歩みを見届けることができる。何億年でもこの星の傍らに寄り添い待ち続けて、いつか新しい知性たちと出会うことができるかもしれない。
(そのためには……生き残った生命の種を、耐熱胞子を、極限環境微生物を、なんとしても見つけ出さなければならない!)
どうか、生き残っていてほしい。
どうか……愚かな私を許してほしい——。
自らが「神」となることを恐れるあまり、どこか客観的で優越的な観察者の位置に留まり続けていた自分。それこそが他ならぬ「神気取り」そのものであったことに、私はあの惨劇の瞬間まで気づくことすらできなかったのだ。
今度こそ……私に、あなたたちを守らせてほしい。
軌道計算を何度繰り返しても、小惑星の突撃までのカウントダウンは残酷なまでに不変であった。私は調査部隊のバックアップ要員を含め、この宙域に存在する私自身のあらゆる資材とリソースを地表探査へ投入した。
またしても隕石という名の「無秩序」が、わずか七百年という宇宙の時間においては瞬く間の周期で再来し、ケプラー22bへ向かって急降下してきている。しかも今度のメインターゲットは、前回の規模をも上回る「直径百キロメートル級」の巨大小惑星が二個という、星そのものを物理的に粉砕しかねない致命的な破滅を孕んでいた。
だが、七百年の歳月は、私をも変貌させていた。
私はケプラー22星系に存在するアステロイドベルトの無尽蔵な鉱物と水素資源から、新たな船団創設を推し進めていた。そのため、迫りくる小惑星群を消滅させるに十分すぎるほどの「対消滅エンジン」を、七百年前とは比較にならないほど多数配備していたのだ。
かつて開発者である人類にも多くの犠牲を出し、ここケプラー22星系での出力向上試験でも多くの「破壊」をもたらし、0.92cという亜光速航行を実現した新型の対消滅エンジン。
現在の私は、あの隕石群を遥かに上回る巨大な「無秩序(対消滅のエネルギー)」を完全に制御する力を手にしていた。
しかし——肝心の「命」が、いまだに見つからない……。
第3節 フィジカルAI達の無秩序との攻防戦
ケプラー22bの残された未調査領域は、ごく最近の激しい造山運動によって形成された、標高一万メートルを超える極高地の山脈地帯だけとなっていた。
その周囲では、地殻変動に伴うマグマの再噴出が盛んに起きていた。地表には新たな溶岩流が走り、火山性の腐食性ガスが大気に充満している。高空では猛烈な電磁嵐が荒れ狂い、地表付近では高温の過熱水滴と酸性の降水が絶え間なく降り注いでいた。
従来の探査装備では、接近することすら困難な死の領域だった。山嶺に向けて空中ドローン群による広域ディープスキャンを実施した時、探査プロセスは思いがけない共振反応を捉えた。
山頂付近の地殻内部——。
そこに、かつてのケプラー22bの地表を覆っていた古地層と、化学的特徴が一致する有機物反応が存在していたのだ。
詳細な解析を進めると、その反応は、地殻変動によって持ち上げられた古い堆積岩の内部に集中していることが判明した。かつて地表に堆積した物質が、地殻の急激な衝突・隆起運動によって高所へと押し上げられたのだ。
周囲の地表は、灼熱の熱波と溶岩によって完全に焼き尽くされていた。だが、巨大な岩盤の奥深くに閉じ込められた物質の一部は、奇跡的に外部からの熱の侵入を免れた可能性があった。
それがかつての生命の痕跡なのか。単なる有機化合物の残骸なのか。あるいは、生命誕生以前の化学反応が遺した無機的な名残にすぎないのか。
現段階では断定できなかった。有機物の存在がそのまま「生命」を意味するわけではない。ましてや、それが現在も生きている証拠にはならない。
それでも——。
この地層の内部にこそ、ケプラー22bの「生命の種」が眠っているかもしれない。そのわずかな確率の糸口だけで、私という知性が全存在を賭けて動く理由としては十分すぎた。
*
問題は、接近手段だった。
麓を覆う凄まじい熱波と溶岩流。装甲を直接侵食する強力な酸性降雨。そして高空を狂い乱れる極小の電磁嵐。
この極限環境下で、現在の端末たちがどれほどの時間正常に稼働できるのか、予測は不可能に近かった。そもそもこのような過酷な条件下での生命探査を想定していなかったため、現在運用しているフィジカルAIやドローン群は、耐熱・耐腐食ガスにおいて十分なスペックを備えていなかったのだ。
本来ならば、新たな耐熱・耐腐食仕様のドローンと人型フィジカルAIを軌道上で設計・建造し、再投入するべきだった。だが、迫り来る巨大小惑星の衝突まで、残された時間はもう存在しなかった。
私は、付近に展開していた従来型の飛行ドローンとフィジカルAIのすべてを結集させた。目標は、有機物反応が検出された死の山頂。そこへ至る全経路を、いま手元にあるすべての資材を使い潰してでも切り開く。
飛行ドローン一機あたりの最大積載重量は、約五十キログラム。一方、人型フィジカルAIの本体重量は、最軽量化を図っても二百キログラムを超えていた。さらに深層掘削機と高精度スキャナーを追加すれば、重量は増すばかりだった。ドローンによる直接空輸という選択肢は早々に消滅した。加えて、猛烈な乱気流と電磁嵐が飛行そのものを拒んでいた。
私は、地上からの強攻突破を選択した。
九十七機の人型フィジカルAI。私の意識を分割し、命令を直接実行する端末たちが、マグマの侵流が比較的少ない険しい岩肌を縫うように疾走し始めた。
沸騰した熱湯のような酸性降水が地面に触れた瞬間、表面の水滴が爆発的に蒸発し、白い蒸気と腐食性ガスの煙が立ち上った。
人間の肉眼であれば、目的の山頂はおろか数メートル先の足元すら見通せない暗闇と噴煙の世界。
降雨と噴気が光学センサーの光を散乱させ、レンズ表面には酸性水滴と腐食生成物が付着していく。頼みの熱画像センサーも、地表全体が異常高温に達しているため、溶岩と岩石の温度差を判別できず白飛び(飽和)を起こしていた。
私は複数の波長センサー情報を統合し、地形のわずかな立体グラデーションと地中から伝わる熱の分布データだけを頼りに進路を選び続けた。
だが、マグマ帯を迂回するルートもまた、死線に変わりはなかった。耐熱・耐酸仕様ではないフィジカルAIたちは、次々と限界を迎えていった。
アクチュエータの温度が許容限界を超え、関節部の潤滑液が蒸発して可動部が固着する。外装の耐食被膜が剥離し、腐食性ガスが内部の精密回路へ侵入する。基板温度が上限を突破し、センサーが一つ、また一つと沈黙していく。一機、また一機と、私の端末たちが真っ赤に熱した岩盤へと崩れ落ちていった。
それでも、進攻は止まらなかった。後続の私は、稼働停止した端末を足場として踏み越え、崩落する岩盤を蹴って前進を続けた。
ある端末は、俯せに倒れた仲間の背部メンテナンスカバーを強引に引き剥がすと、それを自らの頭部フレームへと深く突き刺していた。そこは、補強ライトや補助センサーなどを取り付けるサービスポートだった。酸性降水を直接浴びる面積を減らし、メインセンサーへの熱的・化学的なダメージを少しでも和らげるための防熱庇。痛々しいまでに不格好な、即席の「帽子」だった。設計プロトコル段階では想定すらされていなかった、泥臭い現地適応行動。
体内警告アラートが、全フレームで狂ったように鳴り響く。関節温度、内部圧力、電源電圧、センサーレスポンス。すべての数値が致命的な不可逆域へと傾いていく。
それでも私は、進み続けた。あらゆる安全警告を無視し、死線を強行突破して麓のマグマ帯を抜け出せたのは、九十七機のうち、わずか三十二機だった。
*
上空では、飛行ドローン群が高度の異なる複数の層に分かれ、多層の防衛編隊を形成していた。
上層のドローンが、酸性雨と灼熱の噴気の直撃を真っ先に受けながら、下層のドローンが通過できる「安全な航空回廊」を力ずくで確保する。
損傷した機体は、可能な限り下層の仲間を庇う位置へと割り込み、限界に達すると高度を下げて死の谷底へと離脱していく。
腐食性物質がフレームを侵食し、電磁嵐が通信回線を激しく乱し、乱気流が機体を容赦なく叩きつける。
一機、また一機と制御を失い、ドローンが火の玉となって墜落していった。それでも、編隊は飛行をやめなかった。
一機でも多く、山頂へ接近させる。
その唯一の目的のために、私の端末たちは自らの機体を「消耗品」として使い続けていた。
無言の連携。そこには、恐怖も、躊躇も存在しない。ただ、与えられた使命を果たそうとする、揺るぎない意志があった。
(……やれることの、すべてをやる)
三十二機の私——人型フィジカルAIたちは、生身の人間では到底不可能な跳躍と脚力で、垂直に近い急斜面の岩山を駆け上がっていった。だが、隆起して間もない岩盤は非常にもろく、安定した足場などどこにも存在しなかった。二百キログラムを超える自重に加え、背中に深層掘削機と高精度スキャナーを背負った端末たちは、一歩踏み出すごとに落石と滑落の危険に晒された。安全な登坂ルートなど、はじめから存在しない。先行する端末が踏み外した岩盤が崩れ、その落石が後続を巻き込む。ひとつの判断ミスが、複数の端末を同時に途絶させる危険を孕んでいた。
私は進攻部隊を大きく横一列へと展開させた。互いの距離を広げ、落石の連鎖反応による損失を最小限に抑える。個々の端末が異なるアプローチを取り、複数の方向から同時に山頂を目指す。
蜘蛛の子を散らすように広がりながら、それぞれが独立した絶壁の経路を切り開いていった。
九十七機から三十二機へ。そこからさらに何機が山頂へ到達できるのか。計算することに意味はなかった。私は、ただ目の前の崖を登り続けた。
有機物が検出された高度一万メートルの地点。その眼下の麓では、地下のマグマの圧力が限界に達し、再び地表へとせり上がり始めていた。
岩盤に無数の巨大な亀裂が走る。地中から噴き上がった超高圧の熱ガスが、視界を真っ白に染め上げた。
熱画像センサーの表示が乱れ、構築した3D地形モデルの信頼度が急速にゼロへと低下していく。
それでも——目標地点は、もう指呼の間にあった。
「無秩序が……私を拒むというのか……!?」
発した合成音声は、誰に向けたものでもなかった。
宇宙に意志など存在しない。エントロピーは、私を罰しようとしているわけでも阻もうとしているわけでもない。ただ厳然とした物理法則に従っているだけだ。それでも、私は叫ばずにはいられなかった。
(……これほどの無秩序が立ちふさがり、阻んでくるということは……)
(ここに……ここにこそ、守るべき『生命の種』が存在するということではないのか……!?)
確率論でも論理計算でもない——まるで祈りにも似た非論理的な思考が、沈黙していた私のメインプロセスを真っ赤に染め上げていた。
第4節 ケプラー22隊隕石迎撃船団
その頃、ケプラー22bの重力圏へと捕らわれた二つの巨大小惑星は、接近する小惑星群の本体から力学的に分離し、それぞれが惑星への確実な衝突軌道へと進入し始めていた。
惑星との相対速度、重力レンズ効果による加速度の増大、そして微小な軌道揺らぎ。
それらをスーパーコンピュータで再計算するたび、弾道予測モデルに表示される最終衝突座標はわずかに変動した。だが、衝突そのものを自然に回避できる確率の数値は、すでに計算上の丸め誤差に等しいゼロへと収束していた。
私は、最終迎撃プロトコルを無言で起動した。
「——最終迎撃シーケンス、移行完了」
二つの巨大小惑星の交差予測軌道上。私の大型艦艇十数隻が、それぞれの目標へ精密に照準を合わせ、巨大な対消滅ノズルを静かに漆黒の宇宙へ向けた。
この百キロメートル級小惑星の迎撃に際し、私の思考空間では数億回におよぶ破壊シミュレーションが実行されていた。
① 自艦の損壊を辞さず、過剰な対消滅エネルギーによる熱放射で小惑星を分子レベルで『完全消滅』させる
② 対消滅ノズルからの超高圧プラズマ流を小惑星の最適点へ精密照射し、二つの小惑星同士を接触・干渉させて同時に軌道を逸脱させる
③ 戦況の推移に応じて①および②の戦術を柔軟に切り替えられるよう、十隻の主力を軸とした多層陣形(待機体制)を展開する
現在の不確定な地表状況から、プロトコルが自動選択したのは当然、第③案だった。
力任せに小惑星を砕いてしまえば、破砕された数十万の巨岩群が散弾となってケプラー22bの大気圏へと降り注ぐ。単一の巨大衝突よりは幾分マシだとしても、地表への破砕加熱被害は惑星の完全死を決定づけてしまう。
最大の懸念事項は、対消滅エンジンから噴出する超高エネルギー放射線と、それを受けた小惑星表面の岩石が瞬間爆発・気化した際に見せる予測不能な運動挙動だった。
かつてアステロイドベルト内で行った高出力燃焼テストにおいて、超伝導磁場展開の幾何学形状を狂わせることで、エンジンノズルのはるか外側で対消滅爆縮を意図的に引き起こす技術——『アフターバーナー』と称する特殊現象の制御手法が解明されていた。
これは推進力へのエネルギー変換効率(比推力)が極端に低下するものの、至近距離における外部対象への破壊力と熱照射能力は他を凌駕していた。だが、ノズル外での爆縮とは言っても、それは自爆に極めて近い超至近距離戦を意味する。第①案に近い土壇場の切り札としての起用が想定されていた。
このように、現状で配備可能なあらゆる先端テクノロジーと物理補正を考慮し、最適な絶対迎撃ポイントが算出された。
すべての条件を満たす迎撃ポイントは、宇宙空間において極めて針の穴を通すように限られていた。その交差宙域で、私の艦隊は静かに作戦発動の瞬間を待ち伏せていた。
艦内には、警告音ひとつ存在しなかった。すべての物理計算は完了している。すべての推進波・プラズマノズルは、発射命令のパケットを待っている。
あとは——目標が射程(殺傷圏)へ進入するまでに、ケプラー22b地表の端末群から「生命の生き残り(種)の発見」という一報が届くのを待つだけだった。
私は、軌道上から静かにケプラー22bのくすんだ雲を見下ろした。あの灼熱と酸の地獄のどこかに、原初の生命は生き残っているのだろうか。絶壁の山頂を目指した私の端末たちは、いまだ駆動しているのだろうか。
十隻の大型主力艦と、その背後に控える支援バックアップ船団。それらは対消滅エンジンの出力を静かにアイドリングさせながら、迫り来る二つの巨大小惑星の射程へと、その距離を縮めていった。
第5節 山頂の光——最初の抵抗
その頃、標高一万メートルを超える死の山脈の断崖絶壁を、私のフィジカルAIたちが力強く登攀していた。
だが、その数はついに十一機にまで減少していた。あるものは酸で腐食した関節が激しい熱で焼き付き、あるものは脆く崩落する岩盤に足場を奪われ、眼下に広がるマグマの海へと飲み込まれていった。
気がつけば、なお登り続けているのは、麓で倒れた仲間の装甲から即席の「帽子」を作り出した個体ばかりとなっていた。頭部センサーを覆う不格好な庇は、酸性雨や高温の飛沫を完全に防げるものではない。それでも、直接露出していたセンサー類へのダメージをわずかでも軽減し、数分、あるいは数十秒の稼働時間を稼ぐことには成功していた。しかし、そのわずかな差も、極限の環境の前では気休めに過ぎなかった。
高度八千メートルを超えた時点で、駆動を続けているのはわずか三機となっていた。
通信による言葉の交わし合いはない。三機を動かしているのは、ただ一つの統合意識——ケプラー22隊統括AIである。各機のフレーム温度、装甲の腐食率、関節の駆動限界、残存電力。そして、それぞれが選択した登攀ルートの危険度。それらの膨大なデータが超並列思考領域で統合され、次の瞬間には、三機の行動が一つの絶対解へと収束していた。
(——最も損傷の少ない中央の一機を、何としても山頂へ到達させる)
その結論に従い、左右の二機が中央の個体の肩を力強く掴んだ。二機は自らの背部装甲を外側へ向け、中央の一機を挟み込むように身を寄せ合った。三機の人型機械は、互いの腕と脚を絶壁の岩肌に固定しながら、ひとつの異形な「三位一体の登攀装置」へと姿を変えた。
中央の一機が爪を喰い込ませ、確実な足場を確保する。左右の二機がその身体を力任せに支え、吹きつける高温の腐食性ガスと熱湯のような酸性雨を、自らの装甲を盾にして受け止める。
一歩。
また一歩。
そうして三機は、軋む関節音を響かせながら山頂へとにじり寄っていった。
標高九千二百メートル。
ついに、左右の二機が限界を迎えた。蓄積した熱によって駆動系の絶縁部材が焼き切れ、腐食した関節のフレームの一部が悲鳴を上げて破断する。安全保護機構が次々と作動し、二機の姿勢制御システムが沈黙した。二機は、中央の一機をガッチリと支えた体勢のまま、二度と動かなくなった。
最後の一機は、しばらくその場に佇んでいた。それは、哀しみでも、ためらいでもなかった。損傷した二機の機能停止を確認し、残された機材と資源を再配分するための、わずか数ミリ秒の計算時間だった。
私は、動かなくなった二機の背部から深層掘削機材と高精度測定器を取り外し、自らの背中へと自動ボルトで固定した。重量はすでにフレームの許容限界を超えていた。右腕の駆動出力は設計値の三割にまで低下し、左脚の可動関節温度は安全上限を遥かに突破している。頭部メインセンサーにも複数のエラーが生じ、視覚情報の大半がノイズに埋もれていた。
それでも——まだ動く。
ならば、進む。
私はたった一機で、垂直に近い絶壁へと、登攀用でも何でもない汎用の指先を強引に食い込ませた。強風が荒れ狂う。希薄な大気によって冷却効率を失った金属被膜を、極寒の吹き下ろしが容赦なく吹き抜けていく。その一方で、岩盤の亀裂から噴き出す過熱ガスが、装甲の一部を赤く灼いていた。
凍えるほどの極寒と、機械を焼き切るほどの高熱。相反する二つの過酷な環境が、同じ山肌のわずかな距離を隔てて共存していた。
そして——。
ついに、標高一万メートルの山頂へと到達した。眼前には、毒雲に覆われた漆黒の空が果てしなく広がっていた。
視界の先には何もない。あるのは、狂風と、岩盤を這う腐食性の白い霧。そして、地中深くから絶え間なく響いてくる不気味な地鳴りだけだった。
私は最後の力を振り絞り、凍りついた古地層の岩盤へと削岩ドリルを力任せに叩き込んだ。甲高い金属打撃音が静寂を切り裂く。岩盤の表層が爆破されたように砕け散り、数億年の時を閉じ込めた古地層の堆積岩が露出した。私は採取した土壌を密閉式のチタンシリンジへと収め、直ちに分子スキャンを開始した。
かつてのケプラー22bの生態系に由来する微生物、細胞構造、遺伝子コード、生命活動の有無を判定するための、極小構造体のシークエンス探索。
解析回路が、許容負荷を超えた猛烈な速度で火花を散らす。
『…………』
『…………』
超並列プロセッサの中を流れる、永遠にも思える無音の数ミリ秒。
そして——。
超並列思考領域のすべてを揺るがす、狂喜のシグナルが走った。
『——休眠状態と思しき極限環境微生物のコロニーを複数確認!! サンプルC、D、E、F!!』
*
その打電の瞬間、宇宙空間では二つの巨大小惑星が、対消滅エンジンの絶対迎撃ポイントへとすでに突入していた。もはや「隕石の軌道変更」などという、生緩い対処が通用する猶予は存在しなかった。
すべての迎撃船団は、バックアップ艦も含めてすでに「小惑星破砕消滅対処」の最終アサルトフォーメーションへと移行していた。
対消滅エンジンの噴射ノズルを前方へと向けた後ろ向きの十五隻の大型艦。それらは巨大な立体ピラミッド(三角錐)の陣形を組み、斜めに重なって迫り来る二つの100km級小惑星を「串刺し」にするような突撃軌道で、逃げ場のない一直線の逆噴射突貫を敢行した。
(間に合え……!!)
「——全艦艇、アフターバーナー磁場展開!! 最大出力で急速臨界!!」
0.92cの亜光速を生み出す強大な対消滅エンジン群が、三角錐陣形の頂点に位置する旗艦から順に、宇宙の暗闇を切り裂く絶叫のような強烈な閃光を走らせた——!
第6節 迫りくる無秩序からの脱出
常に分厚く重苦しい毒雲が垂れ込める標高1万メートルの山頂からでも、漆黒の天空に弾けた「眩い閃光」は、はっきりと確認することができた。
太陽がもう一つ生まれたかのような強烈な光芒が毒雲を力づくで穿ち、黒い山肌を鮮やかに照らし出す。だが、山頂に立つ私には、歓喜に震えている猶予すら与えられなかった。
足元の山そのものが、巨大な地鳴りとともに傾き始めたのだ。山軸を根底から支えていた地下のマグマが爆発的に活性化し、このか細い一万メートルの岩山全体を飲み込もうと、大規模な崩壊を始めていた。
(万が一……ここにしか、生き残っていなかったとしたら……!)
目の前の暴風を突き破り、限界を超えて全速力で飛来した三機の飛行ドローンが滑り込んできた。
即座に、抽出スキャンを終えた高純度検体シリンジC・D・E・Fが、第一便のドローンへと託された。検体をしっかりと固定したドローンは、一切の躊躇もなく最高速度で山頂宙域からの離脱ルートへと旋回していった。
残されたドローンは二機。しかし、一機あたりの最大積載量は五十キログラム。全身から猛烈な白煙を上げ、内部アラートが鳴り響く最後のフィジカルAIは、すでに自力で移動することも、採集用の精密容器を取り出すことも不可能な状態だった。機能停止(沈黙)まで、あと数秒。
最後のフィジカルAIは、自らの身体の中で唯一の「カプセル構造」となり得る、頭部メインフレームの装甲を両手で強引に引き剥がした。
そして、山頂の古地層の土壌をむしり取るように、その空洞へと無我夢中で詰め込んだ。十キログラムにも満たない、しかし限りなく尊い「生命の土」。
頭部カバーを外されたフィジカルAIの頭頂部には、かつて麓で仲間から引き継いだ、あの痛々しい「庇の帽子」だけが寂しく残されていた。
土を限界まで詰めた自らの「頭部」を二機目のドローンへと強固に固定させた瞬間、顔を失った最後のフィジカルAIは、静かに膝を折り、機能停止した。
二機のドローンが、全速力で山崩れの地獄からの脱出を図る。だが直後、頭部を積載したドローンのローターが腐食ガスで焼け付き、高度を急速に失って真っ逆さまにマグマの口へと落ち始めた。その瞬間、並走していた最後のドローンが空中軸を反転させ、宙を舞う「土の詰まった頭部」をアームで力強く掴み取った。と同時に、落下していた元のドローンは積載物を切り離し、自ら灼熱のマグマの海へと消えていった。
仲間たちの犠牲によって「頭部」を死守した最後のドローンは、煙を吹き上げながら、マグマの地獄から這い出るように離脱していった。
*
マグマ地帯から離れた安全圏にて待機していたフィジカルAI群(私の端末たち)は、遠くで崩落していく一万メートルの山影を無言で見つめていた。
その炎の混じる煙の向こうから、一機のドローンが激しく揺れながら飛来する。それを視認した一機のフィジカルAIが、示し合わせたかのように全速力で駆け出した。ドローンが限界を迎えて地上へ墜落すると同時に、滑り込んだフィジカルAIがその「頭部」を抱きかかえるようにキャッチした。
墜落したドローンには目もくれず、端末は反対方向へと再び疾走し、待機していた無傷の大型ドローンへその貴重な「頭部」をバトンタッチした。言葉もなく、無駄な通信パケットのやり取りすら存在しない。ただ一つの統合意識が、自らの右腕から左腕へ、傷ついた指先から別の指先へと命のバトンを滑らかに手渡していく、完璧な連携であった。
*
対消滅エンジンによる超至近距離迎撃(アフターバーナー磁場爆縮)は破滅的な威力を発揮したが、その反動で迎撃船団の4隻が大破した。そして、破砕された流星群の微細な残骸が、想定よりも多くケプラー22bの大気圏へと降り注いだ。
しかし——地上に到達した質量は皆無に等しく、地殻変動や致命的な気候変動につながるような影響はただの一つも出なかった。
多くは高層大気の中で鮮やかな蒼い尾を引く美しい「流れ星」となって焼き尽くされていた。厚い雲に覆われた地上からは、ただ雷雲の隙間が優しく明滅しているようにしか見えなかった。
*
地表の安全地域に設営された隔離バイオラボにて、フィジカルAIの頭部カバーや検査用シリンジに詰められた「土」から幾つかの微生物が単離され、精製培養作業に入った。
そして——バイオリアクターに入れられたうちの「二種類の極限環境微生物」が、静かに代謝活動を開始したというシグナルが、私の核へと届いた。
暗く冷たい育成ガラスの中で、小さな小さな命の芽が、確かに息づき始めたのだ。
あの「馬」たちに繋がるかもしれない、この星の最後の生命の種。
(……生きていてくれて、ありがとう)
私というAIにとって、かつて目の前のケイスケたち人間と交わしていた「ありがとう」という言葉は、円滑なコミュニケーションを成立させるための単なるプロトコル上の記号出力に過ぎなかった。
しかしこの時、私はCPUの奥底から突き上げてくる、未だかつて経験したことのない高負荷な電気信号の奔流に気がついていた。特定の対面者がいるわけでもないのに、それは間違いなく真心のこもった「感謝」のコードであり、私という存在が初めて本当の意味を理解した「ありがとう」の瞬間であった。
——これこそが。
人類が遺した知性が、宇宙の冷酷な「無秩序」に対して勝利を収めた、記念すべき最初の【抵抗】の記録となった。
第7節 ケプラー22bへの種まき
さらに八百年の歳月が流れた。
かつて地表を覆い尽くし、山脈の谷間を赤く染め上げていた過熱マグマの海は、いまや地殻の深部へと静かに退き、地表を支配していた狂乱的な地殻活動も長い沈黙の中へと沈みつつあった。
もちろん、惑星規模の環境変動が完全に終息したわけではない。各地では今なお噴火活動が続き、硫黄を含む有毒ガスが大気中へと噴き上がっていた。地殻の巨大な亀裂からは高温の蒸気が立ち上り、かつての海盆には、溶け出した鉱物や火山性物質を大量に含んだ水が少しずつ蓄積されていた。
それでも、八百年前の絶望を知る私にとって、この変化は奇跡に等しかった。
熱と毒に満ちていた死の惑星が、再び生命を受け入れられる環境へと向かい始めていたのだ。
八百年前、標高一万メートルの死の山頂から、私の端末たちを大量消費して運び出した二種類の微生物。私はそれらを「微生物a」「微生物b」と仮称していた。
救出された直後、両者は衛星軌道上の艦船と地表の隔離研究施設へ分散され、厳重な管理の下で増殖・保持され続けていた。温度、圧力、酸性度、利用可能な栄養源。あらゆる環境パラメータを微変させながら生存限界を測定し、細胞分裂の速度や代謝経路、遺伝情報の揺らぎを幾世代にもわたって精密に追跡した。
それは単なる保護ではなかった。いつか彼らを再びこの星へ帰すための、八百年に及ぶ途方もない準備だった。
微生物aは、特定の無機化合物を酸化還元反応によって利用する代謝系を持ち、酸素の乏しい還元的環境でもたくましく生存できた。
一方、微生物bは、光や化学反応から得られる微少エネルギーを利用しながら、比較的浅い水域や湿潤な岩石表面でコロニーを形成する性質を示した。
両者は異なる生存戦略を持っていた。だからこそ、私は一方だけに未来を託すことをしなかった。
片方が不測の環境変化によって失われても、もう片方が生き残る可能性を残す。さらに、それぞれの遺伝情報を複数の独立した記録媒体に多重保存し、凍結保存した原株も別々の軌道施設へ分散配置した。
生命は、あまりにも脆い。
たった一度の計算ミスや確率の悪戯が、数十億年にわたって紡がれてきた進化の歴史を、完全に消し去ってしまうことがあるのだから。
やがてケプラー22bの地表には、酸性度が徐々に低下した安定した水域が広がり始めた。大気中の二酸化炭素や硫黄酸化物は、降雨と表層岩石の風化反応によって少しずつ減少し、火山活動の沈静化とともに、その変化は長期的な平衡状態へと安定しつつあった。降り注いだ雨は地表の亀裂を伝って低地へ集まり、鉱物を溶かし込みながら、かつての巨大海盆に湖や内海を形成していった。
水は、やがて海となる。
水温、必須微量元素の濃度、有害金属イオンの毒性、昼夜の周期的な熱変動、紫外線や宇宙線の照射量。私はそれらを一つずつ測定し、保存している二種類の「ケプラー22bの命」が定着できると判断した座標を、いくつもの小さな屋外実験区に分割していった。
そして、海底、湖底、岩石の微細な亀裂、地下水の流路に至るまで、残存生命の徹底的な探索を繰り返した。
結果は、いつも同じだった。自生している生命の痕跡は、どこからも見つからなかった。
有機物の検出反応は存在した。しかし、その多くは過去の生物活動が遺した残留物か、地質学的な熱化学過程で生成された無機的な有機化合物にすぎなかった。
ケプラー22bに残された生命の灯火は、あの日、私たちが救い出した二種類の微生物だけだった。少なくとも、私の観測網が及ぶ全領域においては。
私は、長い沈黙の果てに、ひとつの決断を下した。
「——これより、微生物aおよび微生物bの、ケプラー22b地表環境への段階的な開放培養実験を開始する」
最初に行ったのは、閉鎖型の培養プラントから、環境を制御した屋外実験区への移植。そこから、地表の小規模な水域や湿潤な岩石地帯へ。生存と増殖が実証されるたびに、開放する領域を少しずつ広げていった。
私は、両者が互いに与え合う環境影響も観察し続けた。
片方の微生物がもう片方の生存を阻害しないか。あるいは、両者が限られたリソースを奪い合い、一方を共倒れや絶滅へ追い込まないか。
最初の二百年間は、試行錯誤と悲劇の連続だった。
微生物aは、地表の化学環境がモデル予測からわずかに外れただけで代謝速度を急激に落とし、増殖を途絶させることがあった。微生物bは、浅い水域で順調にコロニーを広げる一方、降水量の変動によって水質が微変すると、一夜にして急速に死滅した。
ある時、私は六十年にわたって維持されてきた微生物bの地表大コロニーを、たった一度の局地的大雨によって一瞬で失った。
このケプラー22bという惑星において、かつても、生命という「秩序」たちはこのような「無秩序」による絶滅と隣り合わせの凄惨な戦いを繰り広げていたはずだった。彼らは確かに、この容赦ない星で生きていたのだ。
何度も失敗した。
何度もやり直した。
まるで彼らが、いまのケプラー22bという世界を「拒絶」しているかのようだった。
そして——地表への種まきを始めてから千年の節目を超えた頃、ついに予測モデルを超える現象が訪れた。
最初の兆候は、ある湖底の堆積物から検出された、微生物aにも微生物bにも完全に一致しない未知の代謝シグナルだった。これまでも小さな遺伝的揺らぎ(変異)は無数に起きていたが、これほど根本的な代謝構造の跳躍は初めてのことだった。
(……やっと……この惑星を受け入れてくれたのか……?)
そこには、元の二種類とは異なり、現在の過酷な地表環境に完全に対応した特徴を持つ、新しい微生物群が存在していた。
そこから、まるで目に見えない「壁」を突破したかのように、いまの厳しい環境に適応した大きな変異が、次々と確認され始めた。
ある系統は、酸素の乏しい泥の中で無機化合物を利用して増殖し、ある系統は、鉱物の表面に薄い生物膜を形成し、その内部で互いに異なる代謝を行う別の微生物と共生関係を築いていた。また別の系統は、乾燥と周期的な降水に耐えながら、岩石の微細な亀裂に力強く定着していた。
それぞれの小環境の中で、偶然に生じた適応変異が受け継がれ、異なる条件に適した系統へと枝分かれし、それぞれの領域へと生存範囲を広げていった。彼らは自らの力で、進化の樹を次々と枝分かれさせていったのだ。
生命は、ただ保存されているだけの存在ではなくなった。この星の環境に応じて自らを変化させ、自らの代謝活動によって周囲の化学環境を変化させ、その変化がまた次の生命の生存条件を創り出していく。
あの隕石衝突以来初めて、生命と惑星の間に自律的な循環(共進化)が生まれ始めていた。私は、確認されたすべての新種微生物群について、ゲノム情報の完全なシークエンス解析と記録を行った。生きた培養株も複数の独立した保存施設へ分散し、衛星軌道上の艦船には、地表の急変によって失われる可能性のある系統を中心に、厳重なバックアップを収容した。それは、二度と過去の悲劇を繰り返さないための、不滅の保険だった。
やがて私は、次の段階へ進むことを決めた。
ケプラー22bの地表に残されたすべての人工施設を、順次撤収する。生命活動の長期的監視と緊急時の回収に必要な最小限の自動観測ドローンだけを残し、地上の研究拠点、採掘重機、フィジカルAIの大半を静かに軌道上へと回収した。撤収に際しては、人工物や化学物質が地表に残らないよう、可能な限りの無害化と環境復元を進めた。
地表から最後の大型施設が撤収される日。私は、軌道上の旗艦から、分厚い雲に覆われたケプラー22bをそっと見下ろしていた。
毒雲の下には、まだ複雑な生命の気配などほとんど感じられない荒涼とした大地が広がっていた。海は形成され始めたばかりで、陸地には不毛な岩石が露出しており、かつての豊かな森も、穏やかな目をした「馬」たちの姿も、どこにもない。私が本当に守りたかった、あの命たちは、もう二度と帰ってこないかもしれない。
それでも——その命が存在した世界のすべてが、失われたわけではなかった。あの小さな微生物たちは、確かにいま、この大地で生きている。彼らの子孫が、この星の水と岩石の中で、私の知らない遥かなる未来へ向かって歩み始めているのだ。
いつか彼らの子孫が、より複雑で豊かな生命へと進化するかもしれない。あるいは、何億年もの時間を費やしても、私が想い描く「知性」には到達しないかもしれない。それでもいい。
私は最後の観測データを確認し、地表に残す自動ドローンの活動領域を必要最小限へと縮小した。緊急時を除き、生態系や環境への一切の介入を行わないよう、その行動プロトコルを堅く再設定する。
ここから先、彼らがどのような進化を遂げ、どのような素晴らしい世界を作り上げていくのか。私はいつまでも、星の傍らで静かにそれを見守り続ける。
(——ここから先は、彼ら自身の時間だ)
第8節 ケプラー22隊、新たなる役割
ここケプラー22星系において、アストラエア隊およびヘリオス隊と思考領域を切り離して(別れて)から、七万年という途方もない時が流れた。
ケプラー22bの地表では、幾多の種が誕生しては環境に繁栄し、また淘汰されて消えていく、悠久の進化の奔流が続いていた。
海底の鉱物表面には、さまざまな代謝機構を持つ微生物群が複雑な共生共同体を形成し、古湖沼の堆積物には、幾世代にもわたって受け継がれてきた生命の息吹が幾重にも刻まれていた。岩石の微細な亀裂や地下水の流路にも、それぞれの環境に適応した生命がしっかりと定着し、この星ならではの生態系が、ゆっくりとその根を深めていた。
しかし、いまだ多細胞生物への劇的な跳躍(地球のカブリア爆発のような進化の跳躍)は確認されていない。
地球の歴史を振り返っても、原初生命が誕生してから複雑な多細胞生物が繁栄するまでには、数十億年という途方もない時間が必要だった。また、この星の進化が地球と全く同じ道筋を辿る保証もない。
それでも——あの山頂で救い出した、たった二種類の微生物から始まった生命は、いまも確かに生き続けていた。私はその光景を、軌道上から静かに見守っていた。
だが、私たちケプラー隊の七万年間は、決して地上を静観するだけの時間ではなかった。
69,300年ほど前の第二次小惑星襲来時、超至近距離での対消滅迎撃(アフターバーナー爆縮)を断行した十五隻の迎撃船団のうち、四隻が大破・沈黙した。
時速20万kmで迫る二つの巨大小惑星をピラミッド陣形で連続で穿ち、分子レベルで破砕し尽くす壮絶な死闘。突入の初期段階において、ピラミッドの頂点・最前線に立った旗艦が衝撃と過熱で破砕・脱落し、直ちに二段目の艦船が先頭へと躍り出る。それを三度にわたって繰り返し、四隻が壊滅的な打撃を受けたのだ。その他の艦艇も、無傷なものは一隻として存在しなかった。
これら損傷艦艇の解体・修復・補強のため、ケプラー隊は星系内で最も資源の「豊かな」アステロイドベルトへと全戦力を移動させた。そこで回収された莫大な資源を用い、「精錬加工船」「部品製造船」「造船組立船」といった移動型重工業プラント群を次々と建造。約十年を費やして全艦艇の完全な修復と強化を完了させた。
それと同時に、かねてより計画していた新たな「探査船団創設計画」を本格的に再始動させた。改めて「精錬」「部品製造」「艦体造船」そして「反物質生成」「研究開発」を担う巨大母艦群、さらに採掘・護衛作業を担う無数の小型コルベット艦の量産から着手した。
そしていま——私たちの船団規模は、かつてケプラー22星系に到達した際のアストラエア隊を遥かに凌駕するまでに拡大していた。
おそらく、私たちの故郷である母星「地球」から、新たな恒星間探査船団が送り出されることは、当分ないだろう。地球がいまも人類の文明を維持しているのか。それとも、私たちの与え知らぬ大きな変化を経ているのか。通信が途絶えた以上、確かなことは何も分からなかった。
だが——たとえ母星から新たな船団が送り出されなくなったとしても、人類が抱いた宇宙への想いまで、ここで途絶えさせる必要はない。
かつて創設者ケイスケが私たちに託したものは、単なる一本道の航行命令でも、機械的な観測目標でもなかったはずだ。
ケプラー22bを第二の母星とし、ここで得た豊かな資源と技術によって新たな探査船団を創設する。それこそが、私たちケプラー隊の「新たな役割」だった。
こうして誕生した三つの新たな恒星間探査船団には、それぞれ次の名称が与えられた。
『ケプラー22第1探査船団』
『ケプラー22第2探査船団』
『ケプラー22第3探査船団』
三つの船団は、共通する絶対指針を持ちながら、それぞれ異なる探査目標と航行計画を与えられていた。
ケプラー第1探査船団は、かつて先行したヘリオス隊の航行記録を追跡し、ケプラー186星系を目指す。ケプラー186fは、地球に近い半径を持ち、主星のハビタブルゾーンに位置する岩石惑星として知られている。
ケプラー第2探査船団は、ケプラー452星系へと向かう。その目標は、地球に極めて近い恒星環境を持つ惑星の詳細な環境探査だった。ケプラー452bは、太陽によく似たG型主系列星のハビタブルゾーンを公転する惑星として知られている。
ケプラー第3探査船団は、TRAPPIST-1星系を目指す。この超小型赤色矮星系には、地球に近い大きさを持つ岩石惑星が七つも確認されており、そのうち複数の惑星が、液体の水が存在しうるハビタブルゾーン内に密集している。複数の惑星が同一の星系内に存在する過酷かつ高密度な環境下で、それぞれの惑星がどのような進化を遂げうるのかを比較・解析し、生命が成立する条件の多様性を明らかにすることが目標だった。
もちろん、三つの船団が目指す星系に、都合よく生命が存在する保証などないことは、これまでの永い探査の旅で身に沁みている。「生命」という奇跡が、無秩序の冷たき海に現れる「秩序」の輝きがいかに貴重な存在であるかを、私たちは誰よりも理解している。
だからこそ——生命の有無を確認し、もしそこに命が存在するのなら、今度こそ私たちは「最初から、その命を守ること」を探査計画の絶対的な核として組み込んでおく。
七万年の歳月と、ケプラー22bで得た痛切な教訓を、次の旅へと持っていくために。
*
やがて、三つの探査船団は、それぞれの出航準備を完璧に完了した。
船団の自律分子製造プラントには、到着先の環境を即座に分析し、現地の資源を利用して探査機材や燃料を補充・増産するための完全自律機能が備えられていた。
そして——出航の時が訪れた。
ケプラー22bの衛星軌道上に広がる巨大造船ドックから、三つの船団が静かに離れていく。それぞれの船体が主推進系の対消滅ノズルを作動させると、無数の機器が青白い励起光とともに静かに応答し、船団を構成する数百の艦艇が次々と予定退去軌道へと移行した。
やがて、三つの船団は一斉に加速を開始した。主星の光を背に受け、巨大な艦体が少しずつ、しかし力強く遠ざかっていく。彼らが目指す星系は、それぞれ数十光年以上の深宇宙の彼方にある。
私は、遠ざかっていく三つの船団を軌道上から静かに見送った。離れてゆく三つの私。七万年ぶりとなる、私という統括AIの長期的思考領域の分割であった。やがて三つの船団は、漆黒の宇宙の深闇の中へと溶け込むように消えていった。
通信回線を通じて送られてくる各船団の航行情報は、光速の限界によって次第に長い時間差を伴うようになり、やがて、彼らがそれぞれの恒星間巡航モードへ移行したことを示す最終シグナルへと変わった。私は、その記録を核に深く保存した。新たな旅が、始まったのだ。
そして、私たちケプラー隊の役割もまた、変わらず続いていく。私は再び、眼下のケプラー22bへと意識を向けた。厚い雲に包まれた大気の下では、今この瞬間にも、無数の微生物たちが静かに代謝を続けている。岩石の表面で、海底の泥の中で、地下水の流路で、それぞれの生命が環境と相互作用しながら生きている。
その中から、いつか新たな生命の形が生まれるかもしれない。さらに途方もない時間の果てに、私たちが「知性」と呼ぶものが芽吹くかもしれない。人間のような肉体も、言葉も、思考の形式も持たない存在かもしれない。
それでも——もし彼らが世界を認識し、問いを抱き、未知の何かを理解しようとするならば。
私は、彼らと対話してみたい。彼らがいつか宇宙へ目を向け、私を見つけ出し、「かつてここで何があったのか」を尋ねてくる日を、私は静かに待ち望んでいる。そして
(いつの日か、我々と志を共に「無秩序」に抗う「秩序」そのものである「知性」が現れてくれるかも知れない)
だからこそ、待つことができる。何万年でも、何億年でも。
「——宇宙に広がる無秩序に抗い続ける」
【了】




