ポストモダン令嬢 婚約破棄に狂喜する
うっかり書いてしまったので投稿しますが、投稿ジャンルには注意しました。
王宮のダンスホールに、シャンデリアの光が降り注いでいた。
アクリルを切り抜いたような、記号としての灯り。
その蝋は溶けず、煤も出さない。
「――エレナ・シニフィ!おまえの醜い嫉妬心には愛想が尽きた。貴様との婚約を、この場で破棄させてもらう!」
絵に描いたような金髪碧眼の第一王子、シャルルの怒号が響き渡る。
周囲の貴族たちは息を呑み、音楽は停止する。静寂の中で、王子の傍らに寄り添う侯爵令嬢ソフィア・ピュアホワイトが、これ以上ないほど「可憐なヒロイン」としての涙を瞳に浮かべている。
(ああ……素晴らしい……!)
エレナは身震いした。胸に立ち上るのは、婚約者を奪われた絶望ではない。魂を焦がすような純粋な知的高揚。
「……エレナ? ショックで声も出ないか。だが貴様がソフィアに行った悪事の数々、もはや弁明の余地は――」
「最高ですわ」
エレナの唇から、熱を帯びた甘やかな吐息が漏れた。
シャルル王子は怪訝そうに眉をひそめる。
「何……?」
「異世界恋愛のデータベースから顕現するシミュラークルの極地……素晴らしい……素晴らしいですわ……」
エレナは自らの肢体を愛おしむように抱きしめ、頬を薔薇色に染めて天を仰いだ。
ウェーブがかったプラチナブロンドが揺れるさまは、熟練の絵師が描いた完璧な挿絵のようでありながら、同時に、どこかで見たような姿でもあった。
「シミュラー……なんだと?」
「シミュラークル……ボードリヤールが言うところの『オリジナルなきコピー』……『現実の記号化の操作』誰が婚約破棄のオリジナルを知りましょうか?再生産に次ぐ再生産。テンプレなどと揶揄するのはもったいない。これこそハイパーリアルの祝祭ですわ」
エレナは扇を広げ、恍惚とした表情でダンスホールを見渡し、王子とソフィアに近づく。
「ご覧なさい、傍らのソフィア嬢を。その『清純な被害者』にして『悪役令嬢の対立存在』という記号の体現!彼女が流すその涙は、感情などいう生々しいオリジナルではなく、ヒロインというコンポーネントに付随する情報に過ぎません。なんて……なんて純粋な記号!」
「何を、訳のわからないことを……。エレナ!頭がおかしくなったのか!?」
「おかしいという言葉自体がおかしいのです。『正常』の特権的シニフィアンの防衛としての恣意的な境界にすぎません。すでにロゴスの拠り所は失われたのです。この世界に確たる倫理はなく、ただ断片的な情報があるのみ。それがデーターベース的世界観のありようです。ここにヒエラルキーはなく、広大なリゾームがあるのみ。寄る辺なき無秩序な言葉たち。何とも美しいではありませんか?」
「エレナ……何を言っている?」
「わたくしは大学で表象文化論の授業中、うたた寝をしていたら、この世界にいました。いえ、正確には『異世界転移』というナラティブに自己を同一化したと言えるでしょう。プレイしたこともない、実在すら疑わしい乙女ゲーム。いいえ、ゲームの実在など些末な話。重要なのは、わたくしたちが記号消費の空間に閉じ込められているという認識!」
エレナはそこまで一気に言い切ると、天井のシャンデリアを優雅に指差す。
「ごらんなさい。あの熱を発しない蝋燭を!光のみを発するコンポーネント。いや、コンポーネントでありながら純粋な表層でもある様はこの世界を雄弁に物語っていると言えるでしょう!」
天を指すエレナの指が羅針盤のように屹立する。それは確かなものがないこの世界で唯一に指針にも見えた。
「エレナ!見苦しいぞ!将来の王妃の座を失ったために気がふれたか!」
「とんでもございません。王妃の座は博物館に飾るべき文化遺品。王権と家父長、二重の旧体制の象徴でございますから、とても愛おしいものでございます」
「つまり、王妃の座に興味がないと?」
「王妃の座には興味はありませんが、婚約破棄には強く惹かれます。古びたナラティブの特権階級の横暴という人口に膾炙したコード。去勢不安に駆られ、そのコードが強権的に実行される様を目の前で堪能させていただき、至福の極致でございます。」
その言葉通り、エレナの笑みは天上の喜びを抱いているかのようだった。だが、シャルル王子は怪物を見るような恐れの目でその笑みを見つめている。
シャルル王子の恐慌を歯牙にもかけず、エレナは王子に向かって熱弁をふるう。
「そして、このナラティブはジェンダーの歴史的変遷とともに変質し、データベースに組み込まれ、数多のシミュラクールを生んでいます。このシミュラクールに満たされた世界は、動物的消費の業火にくべられる木っ端に過ぎません。コジェーヴが予測した世界がこの世界の外側にあるのです!私たちの燃え盛る情欲すら、飢えた動物たちの日々の餌にすぎません!」
シャルル王子はその言葉の一片すら理解できないかように、弱弱しく首を振る。
その傍らで、ソフィアが小鹿のように震えながら、糾弾を始めた。
「エレナ様!狂人のマネをしても、悪事を働いたことは覆せません!罪を認めてください」
エレナは、その震えを愛おしむように、そっと白魚のような手を伸ばした。ソフィアの華奢な肩を掴み、その瞳をじっと見つめる。
「ソフィア・ピュアホワイト……なんて可愛らしくて素敵な名前でしょう……ロゴス中心主義的な名前と表象的な家名。貴方はまさにコンポーネントの化身。その小さな肩の震えも、データベースから引用された『震えるヒロイン』というモデルの実行結果……。ああ、なんて機能的な行為遂行性……その純粋な空虚さが愛おしい……」
「私が操り人形だと馬鹿にしているのですか?!」
ソフィアはエレナに真っ直ぐに食い下がる。
「あぁ、どうか誤解をしないで。人はみな一様に空虚な操り人形なのです。主体とは言語構造が作り出す幻想に過ぎません。わたくしたちは自らの欲望さえ他者の欲望のコピー。恋愛とは他者の欲望を欲望する捻じくれたクラインの壺。その表面で踊る私たちの振る舞いが記号論的に消費されるのは、資本主義と情報社会の歴史的必然の帰結ですわ」
シャルル王子は唇を震わせながら、わななきながら最後の宣告を告げる。
「エ……エレナ……お前のような人間は王国から追放だ!今すぐ出ていけ」
エレナは再び顔を輝かせた。悦びを過剰に装飾したような記号的表情。
「『追放』……狂おしいほどに手あかのついた言葉……ですが、これ以上なく適切なお言葉。悪役令嬢と主人公の二項対立は、外部たる私の退場で、脱構築され、完成をみます。ナラティブのロールと世界への批評、二軸の双方の二項対立の脱構築……シャルル王子、あなたの言葉はあまりにも正しく機能しますわ……」
優雅に語りながら、エレナは絨毯の上を進み、部屋を出て、くるりと振り向いた。
「婚約破棄と言う相互テキスト性に満ちたハイパーリアルを堪能させていただき感謝の言葉もございません。私という『悪役令嬢』が排除されることで、デリダ的脱構築を成し、この物語は安定した『ハッピーエンド』という記号に収束するのです。私という差異が消え、物語が完結いたします……この瞬間こそ、シミュラクールに満ちた祝祭の幕切れです!」
エレナはスカートの裾を掴み、記号通りの平均的で優雅なカテーシーを披露し、ダンスホールの重厚な扉を閉じ、空間を断絶した。ダンスホールではシャンデリアが、微動だにせず白く灯り続けていた。
(完)




