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第1話


   1


 しとしとと、まるで死者の涙のような雨が降り続いていた。

 山下有希は、夜がもうすぐ訪れようとしている街を一人傘をさしながら歩いていた。

 その道は駅前からそのまま続く幹線道路となっていて、駅に向かう学校帰りの学生と時々すれ違う。近くの高校から家に帰る途中なのかもしれない。夕食を買って家に帰る途中なのか、スーパーの袋を手にぶら下げた主婦の姿も時々見える。仕事帰りの会社員の姿は見えなかった。仕事終わりとするにはまだ少し早い時間だった。

 有希はその道路を行った先にある、ある建物を目指していた。

 ここら辺のはずだけど。

 有希は立ち止まり、歩道の脇に寄る。そして肩に下げたバッグからスマホを取り出した。

 地図アプリを表示させ、自分の今いる場所を確認する。そしてその場所から二百メートルほどそのまま直進した場所に「R斎場」と記載されている建物の表記があるのを見つける。有希はそのR斎場を目指していた。


 大学時代の友人である佐藤美咲の電話番号で、有希のスマホに一本の電話がかかってきたのは昨日の夜八時過ぎだった。

 在宅で行っている仕事も終わり、ちょうど夕食の準備をしているところだった。

 机の上でブルブルと震え出したスマホを手に取り、表示を確認すると「佐藤美咲」の名前が表示されている。何だろうと思い、スマホの通話ボタンを押す。

「もしもし、美咲? どうしたの?」

「……夜分にすみません」

 美咲の声とは全く違う少し低い声が、その通話口から流れてきた。

「私、佐藤美咲の母親の、佐藤明子です。突然の電話、申し訳ありません」

 美咲の母親である佐藤明子からの電話だった。

 美咲との会話の中で時々明子の話も出てきたことがあって、美咲はシングルマザーである明子と二人で暮らしていることや、「母親は高校で国語の教師をしている」と美咲自身の口から聞いたこともあった。

 それに、美咲と二人で遊んだ後の帰りに、よく、

「これからお母さんと待ち合わせをしているんだ」

 と美咲は有希に言った。二人でお出かけをするような仲のいい母娘だった。駅前で待ち合わせをしていた明子にも、有希は何度か簡単な挨拶をしたことがある。その時に見せた明子の少し陰のある笑顔を思い出していた。

 美咲の母親である明子が、美咲のスマホを使って電話をかけてきた。なぜだろう、という思いと同時に、何か不吉なものを感じながら、

「あ、いえ」

 と答えた。

 少しの間、沈黙が挟まる。

 そしてその重苦しい沈黙を切り裂くように、明子はしゃべりだした。

「本日、六月一日の朝、美咲は亡くなりました」

「え?」

 有希は絶句する。

 美咲とは大学を卒業して五年が経った今でも親しい付き合いを続けていて、一週間前に会ったばかりだった。

「亡くなった……?」

「はい。交通事故でした」

「交通事故……」

「昨日の夜、美咲が横断歩道を歩いていたところに、車がその横断歩道に飛び込んできたようです。美咲は、近くの人が呼んだ救急車で直ぐに病院に運ばれたのですが、もう手の施しようがなかったそうです。私が病院に駆けつけた時には、ベッドの上で動くことも無く、目を閉じたまま横になっていました。そしてそのまま、今朝、眠るように亡くなりました」

 明子は落ち着いた口調で淡々と説明する。

 感情を失ってしまったかのようなその平坦な声が、逆に痛々しかった。

「山下有希さんと岡田奈緒さんの名前は、美咲からよく聞いていました。生前、美咲ととても仲良くしてもらって、本当にありがとうございます」

 岡田奈緒も有希の大学時代の友人だった。大学時代は有希と美咲と奈緒、いつも三人でいた。そしてその関係は大学を卒業した今でも続いていた。

「いえ、そんなことは……」

「通夜はR斎場で、明日、六月二日の十八時から行います。告別式は六月三日の十時から、同じくR斎場で行う予定です。美咲のスマホは携帯しておく予定なので、何かあればこの美咲の電話番号までご連絡ください」

「……わかりました。伺います」

「それでは失礼致します」

 突然かかってきた電話は、有希を置き去りにして同じように突然切れた。

 明子からの突然の電話のあと、有希は部屋の中に立ち尽くしたまま、しばらく呆然としていた。

 その電話がかかってきたことが現実世界のことではないような気がした。どこか全く別の世界の出来事のようにも感じた。

 美咲が、交通事故で亡くなった……。

 有希は心の中で、明子の言葉を繰り返す。

 何かの間違いではないのか……。

 先ほどの電話は、白昼夢なのではないのか……。

 右手に握るスマホに視線を落とす。だけどスマホの画面には、美咲の電話番号からかかってきた着信記録が偽りもなく表示されていた。


 有希はR斎場の場所をスマホの地図アプリで確認し終えると、スマホをバッグの中に仕舞う。そして雨の中、再び歩き出す。

 しばらく行くと、石垣と植木で囲まれた敷地が見えてきた。

 ここだろうか。

 敷地の中に視線を送る。

 その植木の隙間から、駐車場と、その駐車場の隣に大きな建物が建っているのが見える。

 そのまま石垣に沿って歩いていくと、敷地の入り口と思われる場所に着いた。幹線道路に面したその入り口には、「R斎場」というプレートが設置されていた。やはり思った通り、この場所が、美咲の通夜と告別式が行われることになっているR斎場だった。

 有希はその入り口で、気持ちを落ち着けるかのように少し立ち止まる。

 入り口からは車両用の道路がその敷地内に伸びていて、その道路に並ぶようにして歩行者用の通路が設けられていた。

 通路の上を、黒い服で身を包んだ人が、二人並んで歩いているのが見えた。その二人は有希から少しずつ遠ざかっていき、そしてそのまま大きな建物の中に吸い込まれていく。

 彼らも美咲の通夜の出席者だろうか。

 そんなことを考えながら、有希はその敷地の中にゆっくりと足を踏み入れた。

 建物の入り口では、


 佐藤美咲儀 葬儀会場

 通夜 六月二日 十八時より

 告別式 六月三日 十時から十一時


 と毛筆で書かれた案内板が、花に囲まれるようにして立てられていた。有希はその案内板を黙って見つめながら、先ほどさしてきた傘を閉じる。入り口の横に傘を入れるためのポリ袋が用意されていたので、そこから一枚とって傘をその中に入れた。

 そのまま入り口から建物の中に入ろうとした時に、入り口のすぐ横にR斎場内の簡単な施設案内図が設けられているのに気づいた。

 有希はまた立ち止まって、その施設案内図に視線を送る。

 R斎場には四つの葬儀式場があるようだった。

 施設案内図の下にはそれぞれの葬儀式場の予定表が付いていて、その中の第一式場の欄にだけ「佐藤家」と書かれていた。他の三つは空白だった。その第一式場の場所を頭の中に入れる。そして建物の中に入り、記憶した施設案内図に沿って歩いていった。

 第一式場の前では、白布を被された小さな机が一つ置かれていた。その机の奥側には若い女性が二人立っていて、記帳する弔問客に小さく頭を下げている。

 その二人の顔に有希は見覚えがなかった。

 美咲が勤めていた会社の人だろうか。それとも美咲の親戚の人だろうか。

 そのようなことを考えているうちに有希の前の弔問客が部屋の中に消えていき、有希の番が来る。有希は小さな声で、

「このたびはご愁傷様です」

 と言って、その二人の女性に小さく頭を下げる。そして机の上に置かれた芳名帳に自分の名前と住所を記入してから、バッグから香典を取り出して左側の女性に手渡した。

 すると右側の女性が部屋の入り口の方に手を差し向け、

「通夜式が始まるまで、こちらの控室でお待ちください」

 と有希に言った。

 会葬者控室の中に入ると、広い部屋の中央に机が二つ並んでいた。椅子は置かれていない。部屋の中には通夜式を待つ弔問客はすでに二十人ほど居て、立ったまま、ひそひそ声で話をしている。

 有希は入り口から少し入ったところで立ちどまり、部屋の中に視線を巡らせる。弔問客の中に、有希が知っている顔は見当たらない。奈緒もまだ来ていないらしい。

 後ろから、有希をすり抜けるようにして一人の弔問客が部屋の中に入って来た。

 その背中を見て、このまま入り口の近くに立っていたらこの部屋に入ってくる人の邪魔になると気づき、有希は入り口とは逆の部屋の隅にゆっくりと歩いていく。そしてその隅に着くと背中を壁に付けるようにして、亡くなった美咲のことを小さな声で語り合っている人たちを眺めていた。

 部屋の隅に立っていると、彼らの会話が小さな波動となって有希の耳にも届いた。

 彼らの中には、美咲が勤めていた会社の同僚や上司、そして後輩といった人たちもいるようだった。

 ある若い女性は、ハンカチで目頭を押さえながら、

「どうして佐藤先輩が、事故に……」

 と小さく嗚咽を漏らしていた。その女性を慰めるかのように、少し年配の女性が黙って彼女の肩に手を置いている。

 有希はその二人の様子を部屋の片隅から見つめていた。

 そして見つめながら、有希は、美咲の事故死を伝える電話が明子からかかってきてから今まで、自分は一度も涙を流していないということに今更ながら気づいた。


 美咲と初めて会った日のことを、有希は今でもよく覚えている。

 有希が大学に入学した、二〇一五年の四月のことだった。

 大学の構内はどこか浮ついた空気が溢れていて、新入生を自分たちの部活やサークルに入れようと様々な部活やサークルの学生たちが新入生を勧誘していた。あるサークルの学生は、構内を歩くまだ初々しい新入生に、

「Aサークルです。別に入らなくてもいいので、一度見学に来てみてください」

 とチラシを手渡している。また別のサークルでは野球のユニホームを着た学生が、

「君も野球やりたいよね」

 と新入生の男子生徒に声をかけていて、声をかけられた学生は、

「あ、いえ」

 と戸惑った返事を返している。

 有希は、どこのサークルに入るかをまだ決めていなかった。ただ、せっかく大学に入ったのだからサークル活動をやってみたい。そのような漠然とした希望だけを抱いていた。

 構内を歩いていると、目の前に、新入生の学生たちにチラシを配っている一人の女子学生が目に入った。

「あ、あなた。バドミントンやってみない?」

 彼女はその言葉と共に、一枚のチラシを有希に差し出した。

 その勢いに押されるようにして有希はそのチラシを受け取る。彼女はすぐに別の新入生に声をかけていた。

 有希がそのチラシに目を落とすと、

「バドミントンサークル 新入生歓迎会 四月二十八日 十八時から」

 と書かれているのが目に入った。

 別にバドミントンに興味があったわけではなかったし、他にもいくつかのサークルのチラシをもらっていたので、その歓迎会に出ることも考えていなかった。ただそのチラシを受け取ってしまった以上、彼女の前で捨てるわけにもいかない。有希はそのチラシをそのままカバンの中に入れた。

 それは本当に偶然だった。

 四月二十八日の大学の授業の後、あるサークルの歓迎会に出る予定だったのだけど、急遽その歓迎会が中止になるという連絡が回ってきた。その日の夜の予定が突然ぽっかりと空いてしまったのだ。仕方がない、と何もせずにそのまま家に帰ろうとした時に、ふと、数日前にもらった一枚のチラシのことを思い出した。

 カバンを開け、そのチラシを探す。カバンの隅にくしゃくしゃになってそのチラシは入っていた。

 新入生歓迎会では、有希はテーブルの隅に座っていた。

 先輩たちは新入生に色々と話しかけていて、場を盛り上げようとしている。だけど先輩の人数よりも新入生の人数の方が多く、その輪に加われない新入生も何人かいた。有希は生来が人見知りということもあって、そのテーブルの隅から、黙って自分の前で繰り広げられる会話をただ眺めていた。

「私、佐藤美咲。あなたは?」

 突然自分の隣から聞こえた声に驚いて有希は横を向く。

 一人の新入生が有希の方を見ていた。

 それが、佐藤美咲だった。

 綺麗な人だな、というのが美咲に対する第一印象だった。

「え……、山下有希です」

「ユキね。どんな漢字を書くの?」

「希望が有る、で『有希』」

「そうなんだ。素敵な名前ね」

 美咲は手に持ったソフトドリンクのコップをテーブルの上に置く。そして、有希に向かって、

「今日から、私たち、友達だよ」

 と言った。

「え?」

 有希は半ば唖然としながら美咲を見る。初対面の人にそのようなことを言う人は、今まで有希の周りには一人もいなかった。

「でも、私たち、今日初めて会ったばかりだし……」

「友達になるのに、時間なんて関係ないよ。その人の持つ空気を見て、自分がその人と友達になりたいと思うかどうか。私にとってはそれが重要だから」

「でも、会話だって、今初めてしたのに……」

「言葉を交わさなくても、その人のことは伝わるんだよ。これも私のポリシーの一つね。そして、私はあなたの空気を感じて、友達になりたいと思った。理由はそれだけで十分」

 美咲は、有希と友達になることがまるで決められたことであるかのように、言い切る。

 美咲は有希のどのような「空気」を感じて、有希と友達になりたいと思ったのか、有希には分からなかった。一見すると美咲の強引なペースに引きずられるようにして、有希はその日、美咲と友達になった。だけど、その強引なペースが、有希には不快ではなかった。有希にそのように感じさせる何かを、美咲は持っていた。

 こだわりが強くて単独行動を好む有希と、明るく、社交的な美咲。

 性格が正反対の二人だったのだけど、なぜかうまが合った。

 始めは二人が出会ったバトミントンサークルの活動の中で、たくさんいる新入生の中の二人という形で会話をしたり、一緒にサークル活動をしたりしていただけだった。だけどその関係がサークルの活動を超えて広がっていき、そして深くなっていくのにそれほど時間はかからなかった。

 有希は文学部に所属していて、美咲は商学部に所属していた。学部も学科も全く違っていたので大学の授業も基本的には違っていたのだけど、一緒に受講できる共通科目があれば二人で示し合わせて同じ授業をとったりしていた。

 そして大学の授業の合間やその後に、二人の都合が空いていれば二人して色々なところにでかけた。

 地方から東京に出てきたばかりの有希は、東京という街は別世界のどこか恐ろしい場所だった。だけど、美咲という友達が隣にいれば全然怖くなかった。美咲がその街を、いつだって本当に楽しい街に変えてくれた。

 その有希と美咲の二人の輪の中に、岡田奈緒が加わったのはいつだっただろうか。気づいたら、その輪の中に奈緒はいた。

 奈緒も美咲と同じ商学部の学生で、その商学部の授業の中で美咲と出会ったと奈緒の口から聞いたことがある。

 ある日、たまたま有希と奈緒が二人でいる時に、美咲との出会いの話になった。

「美咲ったら、私の顔を見た途端、『あなたは、私の友達になるって決まっているの』って言うんだよ」

 奈緒は穏やかな笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「私が『なぜ?』と聞き返したら、『理由なんてない。ただ、私が友達になりたいって感じただけ。でもそれって大切なことでしょ?』って言うんだもん。本当にびっくりした」

「そうなんだ。私の時と同じだ」

 有希と奈緒は思い出すようにしてくすくすと笑い合った。

 有希と美咲という二人の輪の中に、おとなしくて引っ込み思案の奈緒という輪がもう一つ加わっていた。三人の性格は全く違っていたのだけど、有希は美咲と一緒にいてもいつだって楽しかったし、奈緒と一緒にいてもいつだってリラックスした気分で自分自身を曝け出すことができた。

 美咲の、友達になりたいって感じた、という直感も馬鹿にはできないのかもしれない。

 三人でいると、有希はそう思うことも多かった。

 大学の中ではいつも三人で過ごしていたし、大学の外にお出かけする時もいつも三人だった。あの当時の有希にとって、三人で過ごすことが当たり前のことに思えたし、それはずっと変わらないと信じていた。

 有希と美咲と奈緒の三人は、美咲という太陽を中心にして、その太陽に惹きつけられる水星と金星のようなものだった。いつだって美咲を中心に回っていた。有希も、そしておそらく奈緒も、その美咲という太陽を中心に、喜んでその周りを回り続けていた。

 大学四年になると、大学の中の空気は急に慌ただしくなる。

 学生たちは様々な会社の会社説明会に参加し、エントリーシートを記載し、入社試験を受け始めるのだ。

 有希と美咲と奈緒の三人にも、その空気は同じようにやってきた。

 有希は、第一希望としていた広告代理店「クリエイティブ・エージェンシー」の内定をもらうことができた。美咲も、第一希望の国内大手商社「東洋トレーディング」の内定を勝ち取った。

 美咲から、商社を受けようと考えているという話を聞いた時は始めは驚いた。美咲はどこか現実離れした空想的な雰囲気を持つ女性だった。だけど、それと同時に、驚くほど現実的でシビアな面も持ち合わせていた。だから、美咲からその話を聞いた時は始めは驚いたのだけど、すぐに、

「美咲にぴったりな道かもしれない」

 と思った。

 奈緒だけは第一希望の会社に入ることができなかった。それでも、地元の製造業「山本製作所」の内定を何とかとることができ、春からその会社で働くことになっていた。

 それぞれが希望を持っていた。

 希望を持って前に進もうとしていた。

 卒業式の日、大学の講堂の前に三人は待ち合わせをして集まった。

 有希、美咲、奈緒。

 三人で輪になってお互いを無言で見つめる。

 そして美咲が口を開く。

「私たちは、いつだって一緒だよ」

 有希も、そして奈緒も頷いた。

 その美咲の言葉をお守りにして、三人はそれぞれの道に進んでいった。


 有希は、会葬者控室の壁に背中を預けるようにして一人立っていた。

 美咲が死んだ……。

 どこか、現実感がなかった。

 明日には、いつものように「有希!」と言って、その笑顔を有希の前に見せてくれるような気がした。

 目の前では相変わらず、美咲の会社の後輩と思われる若い女性が、

「佐藤先輩……。どうして、こんなことに……」

 という言葉を途切れ途切れにこぼしながら、小さく嗚咽を漏らしている。

 有希はその様子を見つめ続けていた。

 ぼろぼろと涙を流す女性を、黙って見つめ続けていた。

 有希の心の中で、いくつかの言葉が流れていく。

 そうか……。

 本当に、美咲は死んでしまったんだ……。

 もう自分は、美咲に会うことはできないんだ……。

 もう永遠に、美咲のあの笑顔を見ることはできないんだ……。

 有希は、自分の頬が何かで濡れているのに気づいた。

 右手でその頬に触れると、それは自分の目からこぼれ落ちた涙だった。

 有希は泣いていた。涙が次から次に溢れてきて止まらなかった。

 自分は、かけがえのないものを失ってしまったんだ……。

 その涙が、有希にそのことを教えてくれていた。

 通夜式は予定通り十八時から開始された。

 十五分前の十七時四十五分にR斎場の職員が会葬者控室に訪れ、弔問客をその控室から、通夜式が執り行われる第一式場に誘導する。有希は第一式場に向かう人たちの一番後ろに付いて、その控室を後にした。

 通夜式が始まる時間が近づいてきても、奈緒は顔を見せなかった。

 まさか、ここに来る途中に奈緒も交通事故に遭ってしまったのだろうか。

 心配になった有希は、会葬者控室で待っている時に、

「まだ美咲の通夜に来ていないみたいだけど、何かあった? 大丈夫?」

 というメッセージをメッセージアプリで奈緒に送った。

 メッセージにはすぐに「既読」の表記が付いた。

 それを見て、とりあえず奈緒の無事を確認できた気がしてほっとする。だけど、奈緒からの返信はなかなか返ってこなかった。

 十分ほどして、スマホがブルブルと震えて、返信が来たことを有希に知らせた。バッグからスマホを取り出してすぐにそのメッセージを開く。

 スマホの画面には次のような文字が表示されていた。

「ごめん、有希。どうしても体調が悪くて、今日はいけない。本当にごめん」

 有希は奈緒からの返信を黙って見つめる。

 奈緒は、大丈夫だろうか……。

 心配だった。

 有希はスマホの画面を黙って見つめながら、昨夜のことを思い出していた。


 昨夜、美咲の母親である明子から突然、美咲の事故死を知らせる電話がかかってきた後、有希はスマホを右手に握ったまましばらく呆然と立ち尽くしていた。だけど、なぜか奈緒に連絡を取らなければいけない気がして、震える指で、スマホの電話帳から奈緒の電話番号をタップした。

 奈緒はなかなか電話に出なかった。

 諦めて発信を切ろうとした時、その発信は突然通話に切り替わった。

 有希はスマホの受話器に耳を澄ます。

 啜り泣くような声が、小さく聞こえた。

「……奈緒?」

 有希の言葉に、電話口の向こう側で奈緒が小さな声で「うん」と答える。

「美咲のこと……、聞いた?」

「……うん」

 奈緒は掠れた空気のような声で答える。

 その奈緒の言葉の後、有希は何を言えばいいのか分からなかった。必死に言葉を探したのだけど、頭の中は真っ白に塗りつぶされていて、今のこの感情をどのような言葉で表現すればいいのか言葉が見つからなかった。自然とその電話は、有希の沈黙と、そして奈緒の小さく啜り泣く声に支配されるしかなかった。

「なんで……」

 奈緒の声が聞こえた。

「なんで……、美咲なの? なんで……、美咲でなければいけなかったの?」

「……」

 有希は言葉を返せない。

 その問いかけに何も答えられない。有希の方がその答えを知りたいくらいだったのだから。

「なんで……、なんで……」

 小さな嗚咽の隙間で、奈緒は何度も何度も呟き続けた。しばらくするとその呟きも聞こえなくなり、再び電話は沈黙に覆い尽くされる。

 それからどれくらいの時間が流れたのだろうか。

 有希は、その空気に耐えきれなくて、

「明日……、奈緒も通夜に行くよね」

 と電話口の向こう側で泣き続ける奈緒に、静かな声で尋ねた。

 奈緒は消え入りそうな声で「うん」と答えた。


 第一式場に消えていく会葬者の列に引きづられるようにして、有希は式場の中に入った。

 第一式場は十二畳くらいの部屋となっていて、扉から入って右側に祭壇が設けられている。その祭壇に向かって、中央を空けて左右に椅子が二列ずつ並んでいた。

 有希はその式場の中に視線を彷徨わせる中で、祭壇に目を奪われる。

 棺の周りを色彩の鮮やかな花で包んでいる、シンプルでいて心がこもった祭壇だった。そしてその祭壇の花に囲まれるようにして、美咲が微笑んでいた。いつも皆に見せていた美咲の笑顔が目の前にあった。小さく切り取られ、遺影という枠の中から会葬者に優しく微笑みかけていた。

 有希の前にすでに式場に入っていた会葬者は前から詰めるように椅子に座っていく。式場に一番最後に入った有希は、中央の通路を通って、一番後ろの席に腰掛けた。

 持っていたバッグを椅子の横に起き、背筋を伸ばすようにして前を見る。

 祭壇のすぐ前の遺族席に、明子の小さな背中が見えた。

 黒い喪服の着物を着て、心持ち俯いている。

 その隣の席は空いている。

 美咲の父親らしい人物は見当たらなかった。

 美咲の母親である明子がシングルマザーとは言え、血のつながった父親がいるのなら実の娘の通夜式に出ているはずだった。

 それなのにその姿が見えないということは……。

 有希は美咲自身の口から、自分の母親はシングルマザーであるということを聞いていた。美咲はそのことをまったく卑下する様子はなくて、むしろ誇るようにして有希に話した。

「私のお母さんは、一人で私を育ててくれたんだよ。そんなすごい人なんだよ」

 そのような言葉を何度聞いただろうか。

 だけど、美咲自身の口から、自分の父親についての話を聞いたことは一度だってなかった。なぜ自分には父親がいないのか。それを美咲は絶対に誰にも言わなかった。母親のことはよく話す美咲が、父親のことだけは一言も口にしなかった。

 こんな美咲にも、誰にも触れられたくない場所というものがあるのだろうか……。

 美咲と話していてそのように感じることはあったのだけど、誰にだってそのような場所を持っている。もちろん自分にも。

 だから、有希の方から美咲に父親のことを尋ねたことは一度もなかった。

 式場に最後に入った有希が座席に座り、会葬者が全て着席し終えると、しばらくして僧侶が入ってきて美咲の通夜式が始まった。

 読経の後、焼香の時間となる。

 前の席から順に祭壇に向かい、抹香をつまむ。先ほど控え室で泣き続けていた若い女性は、相変わらずハンカチで顔を押さえていた。

 自分の番が来ると、有希は静かに立ち上がった。通路をゆっくりと前に歩いていく。そして、祭壇のすぐ前に座る明子に向かって、一度頭を下げた。明子はどこか虚な目で有希を見つめ、同じように頭を下げた。

 有希は祭壇に向かって立つ。

 目の前に、美咲の笑顔があった。

 有希がいつも見ていた笑顔だった。そして、有希が本当に大好きな笑顔だった。

 一度頭を深く下げ、目の前の抹香を摘む。一度額に押しいただいたあと、抹香を静かに香炉の炭の上にくべる。そしてまた頭を深く下げた。心の中では、

「美咲、あの日、私と友達になってくれて、本当にありがとう」

 目の前にいる美咲に向かって、そのように呟いていた。


 通夜式は滞りなく終わり、弔問客は明子にお悔やみの言葉をそれぞれ伝えてから帰っていく。

 有希も明子と何か言葉を交わしたかった。一言、お礼を言いたかった。だけど、誰かに急かされるように話しをするのは嫌だったので、弔問客が消えていくのを、式場の片隅で辛抱強く待っていた。

 弔問客の最後の一人が式場から出ていくのを見届けてから、有希はゆっくりと明子に近づいた。

「山下有希です。お電話をいただき、ありがとうございました」

 有希は静かに頭を下げる。

 明子は「いえ」と首を小さく横に振り、そして有希の後ろに一瞬、視線を彷徨わせた。岡田奈緒らしき女性の姿が見当たらないことに初めて気づいたかのように、

「岡田奈緒さんは……?」

 と有希に尋ねる。

「奈緒は、体調が悪くて、どうしても来られなかったようです。やはり、美咲さんの突然の死に、大きなショックを受けているのかもしれません」

「そう……、ですか……」

 二人の間に沈黙が訪れる。

「あの日の夜……」

 明子が、何かを吐き出すように言葉を口にした。

「あの日の夜……、どうして美咲は、あのような場所にいたんだろう……」

「え?」

 有希が明子の顔に視線を向けると、明子は、有希の後ろにあった美咲の遺影をじっと見つめていた。

「美咲が事故にあった日の夜……、美咲は突然家を飛び出した。そして東京の郊外にあるT市の路上で事故にあった。美咲の口からT市のことなんて、今まで聞いたこともないのに……」

 T市は美咲の自宅から二時間もかかるような遠く離れた場所だった。

 有希は、明子の言葉にひっかかりを覚えた。

「美咲は、それまで自宅にいたのですか?」

 事故にあったのが平日の夜だと聞いていたので、事故は美咲の仕事帰りに起きた不幸な事故だと思い込んでいたのだ。

 明子は陰を帯びた顔で、有希を見つめる。

「実は、それまでの三日間、美咲は会社を休んでいたの」

「休んでいた……?」

「体調でも悪いのかって訊いたら、『何でもない。大丈夫だから』と言うだけで、他に何も言ってはくれなかった」

「……」

「だけど、その三日間、ずっと自分の部屋にこもっていた。食事の時だけは部屋を出てきたのだけど、何かに追い詰められているかのような、やつれた顔をして黙って食事を食べていた」

 有希は驚いていた。

 有希が抱く美咲のイメージの中に、明子の言うような姿の美咲は存在していなかった。そのような姿を想像することすらできなかった。

「そしてあの日の夜、行き先を一言も告げずに、追われるようにして家を出ていった」

「……」

「あの日の夜……、どうして美咲は、あのような場所にいたんだろう……」

 明子は冒頭の問いかけを再び繰り返す。

 有希は、明子の言葉を聴きながら、なぜ彼女は自分にこのような話をするのだろうか、と思った。

 明子の中で、水に浮いた一滴の墨汁のように広がっていく疑問をどうすればいいのかわからなくて、それをただ誰かに話したかっただけなのだろうか。そしてたまたま、明子の前に有希が立っているというだけだったのだろうか。

 あるいは、有希ならその答えを知っていると思ったのだろうか。

 だけど有希自身も、美咲の口からT市のことを聞いたことは一度もなかった。当然、明子の問いかけに答えられるわけがなかった。

 明子は最後に、誰かに問いかけるかのように言葉を吐き出す。

「何か、大切な用事でもあったのでしょうか……」

 明子は相変わらず、遺影の中の美咲の姿を見つめていた。

 だけど遺影の中の美咲は微笑むだけで、その問いかけに答えてくれることはなかった。

 美咲はもう、この世界にはいないのだ。

 もう誰も、美咲本人にそのことを尋ねることはできなかった。



挿絵(By みてみん)


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