記憶の欠片
霧が立ち込める薄暗い森の中、リュウは古びた鍵を握りしめ、荒い息を吐きながら必死に逃げていた。背後からは、乾いた枝を踏みしめる不吉な足音が迫る。鋭い呼吸音、低くうなるような声が霧の中から響き、追跡者たちが確実に距離を詰めてきているのがわかる。
その姿は霧に紛れてはっきりとは見えない。しかし、黒い影がちらつき、鋭い光が刃物の反射として瞬く。リュウの心臓は激しく鼓動し、冷たい汗が額を伝う。足が鉛のように重く感じられ、息が喉を焼く。それでも、握りしめた鍵の感触が彼にわずかな勇気を与えていた。
「怖れるな、前へ進め」
亡くなった父の声が心の奥で響く。しかし、恐怖は容赦なくリュウの胸を締め付け、思考を曇らせていた。逃げれば逃げるほど不安は膨らむ。まるで自分の弱さが追跡者そのもののように感じられた。
迷子になりかけたその瞬間、霧の向こうにかすかな光が差し込むのを見つけた。希望の光に導かれるように、リュウは駆け出しかけたが、ふと足を止めた。父の言葉が再び心に響く。
「真の強さとは、力の大きさではなく、何を守るために立ち上がるかだ」
リュウは深く息を吸い込み、恐怖の正体を見つめ直した。逃げるだけではなく、冷静さと決意を持たねばならないと気づいたのだ。彼は素早く辺りを見回し、追跡者を一時的に惑わせるための隠れ場所と逃走経路を見つける。霧の影に身を潜め、相手の動きと足音を耳で追いながら、呼吸を整える。
再び走り出したとき、リュウの足取りには迷いがなかった。真っ直ぐに走り出し、ついに光の源へと辿り着く。そこには苔むした古い扉が静かに佇んでいた。震える手で鍵を差し込み、慎重に回す。扉は軋む音を立ててゆっくりと開いたが、今度は不安ではなく、父の教えが彼を支えていた。
扉の向こうに一歩を踏み出した瞬間、幼い頃の父親との思い出が鮮明に蘇る。暖かな夕暮れ、父が語った言葉が胸を打つ。
「困難に直面したとき、恐れるのは自然なことだ。しかし、それをどう受け入れ、どう進むかが大切なんだ」
部屋の中は薄暗く、長い時を経た静寂に包まれていた。中央の机の上にはひときわ目を引く箱が置かれ、リュウは慎重に蓋を開けた。中には、黄ばんだ古びた羊皮紙が丁寧に革紐で束ねられて収められている。
羊皮紙をそっと広げると、そこには複雑な図と暗号が緻密に描かれていた。中央には星座のような配置の印があり、複数の円と線が交差している。その線は単なる地図ではなく、特定の天体の動きや、古代の儀式で使用された幾何学的なパターンを示しているようだった。
リュウは羊皮紙の端に書かれた詩的な言葉に目を留めた。
「三つの影が交わるとき、真実の光が現れ、鍵はただ、心の目で見える」
彼は周囲を見渡し、机の上のランプを取り上げて紙の裏側に光をあてた。すると、光の角度によって浮かび上がるかすかな線が現れた。羊皮紙には隠されたインクで書かれた暗号が存在していたのだ。
記号は「Δ」「Ω」「Σ」を組み合わせたパターンで、それぞれが未知の場所を指し示す地図に対応しているようだった。リュウは慎重にそれを解析し、父から学んだ記号学の知識を頼りに解読を進める。
ついに、暗号の中心に隠された指示を読み取ることに成功した。それは「北の石碑、沈む太陽の影が示す先を探せ」というメッセージだった。その瞬間、リュウは羊皮紙の隅にさらに小さな隠しポケットがあることに気づく。
そこには、別の小さな紙片が折りたたまれており、短いメッセージが記されていた。
「君がこれを読む頃、次の扉が開かれる。信じる心が真実を導く。— 父」
リュウは新たな手がかりとしてその紙片を胸にしまい、決意を新たにした。
これは終わりではなく、父親の遺志を継ぐ旅路の本当の始まりであり、さらなる謎が彼を待ち受けているのだった。