悪女の目覚めと出会い-8
「気持ち悪い、かぁ…」
ひとりその場に残されたわたしは、落ちてぐちゃぐちゃになったサクルを拾おうとしゃがむ。
ここまで嫌われてるとは思っていなかった。今のアナスタシアはまだ十二歳だ。そんな幼い彼女がこんな目に遭っていたと思うと、胸が痛い。
本当の両親を亡くし、リヴィエール家では夫人に冷遇され、親友だと思っていたエミリアに全てを奪われて。
(アナスタシアのことを本当に大切にしてくれる人はいたのかな……)
色々な感情が込み上げてきて、少しだけ目頭が熱くなるのを感じながら、わたしはサクルに手を伸ばす。
すると、ふいに上からため息混じりの声が聞こえてきた。
「食べ物を無駄にするなんて、これだからお貴族さまは嫌ですね」
その声に勢いよく後ろを振り向けば、レインが立っていた。
至る所に巻かれた包帯は痛々しいが、お風呂で身体を清め、服も綺麗になったおかげか、より一層彼の美しさに磨きがかかった気がする。
「い、いつからここに……」
「ご主人さまが先ほどの女性にサクルを差し出されたぐらいですかね」
(それってつまり最初からじゃないか。全く気配を感じなかった…)
呆気に取られるわたしをよそに、彼はぐちゃぐちゃになったサクルを拾いあげる。そしてあろうことか、そのまま口へと運んだのだった。
「ちょっと! 床に落ちたのなんて汚いよ!」
「汚い? ご主人さまには分からないと思いますが、俺のような人間にとってはこれぐらいが充分ですよ」
ぺろりとサクルを完食し、そんなことを言ってのける。
「ご馳走さまでした。なかなか美味しかったですよ、チョコレート味」
「……お腹痛くなっても知らないよ」
「大丈夫ですよ。そんなことより、こんな美味しいものを捨てるだなんて、あの女性には人の心がないんですかね」
レインがどこか馬鹿にしたように言い放つ。
「お母様にも色々あって…仕方ないの」
「関係ないと思いますけど。まあ、俺を拾ってくれたのが、あんな冷たい人じゃなくて、ご主人さまのような心優しいお方でよかったと、心底思いますよ」
レインの立場でお母様に対してそんな物言いは許されることではない。他に誰かが聞いていたら、確実に罰を受けることとなる。なので、本来は主人であるわたしがしっかりと叱らないといけない。
だけど、それよりも今のわたしは感謝の気持ちでいっぱいだった。言葉は悪いが、彼なりに慰めてくれているのだと分かるから。
「……ありがとう」
その言葉にレインが少しだけ微笑んだような気がした。
あの後。一度レインと落ち着いて話した方がいいと思い、自室に彼を招いた。
そして温かいお茶を用意し、部屋の中央にあるソファに隣同士で座った。こうして近くで見ると、よりレインの美しさを実感する。
(本編では確か基本的には仮面で顔を隠していたのよね…後々、素顔が分かったとき、界隈が荒れた記憶があるわ)
冷めないうちにと、お茶を飲むように勧めたが、彼は一向に手を付けない。その代わりに物珍しそうに部屋の中を見渡している。
「何か気になる?」
「いえ、べつに……ただ、ご主人さまの部屋ってこんな感じなのかと思って」
「普通じゃない? というか、そのご主人さまって呼ぶのやめない?」
従者といえど、ご主人様と言われるのは少し居心地が悪い。いつの間にか敬語になっていた言葉遣いも、せめてふたりの時はやめてほしいと伝える。
しかし、レインは首を横に振った。
「契約を結んでいる以上、立場は弁えないといけませんので」
「契約?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。彼となにか契約を結んだ覚えなどない。
目を丸くしながら瞬きをするわたしを見て、レインはため息をついた。そして、着ていた服を捲り、自身の身体に刻まれた紋章を指差した。
「ほら、あのときこの紋章と同じ魔法陣に血をたらしたでしょ? アレは俺がご主人さまには一生逆らえないようにする隷属の誓約魔法の儀式ですよ」
「隷属の、誓約魔法…」
その言葉にハッと思い出した。
隷属の誓約魔法──禁術の一種で、奴隷の教育に使われるものだ。隷属の紋章を身体に刻まれたものは、主人の命には一切逆らえない、逆らった場合は命を持って罰するという恐ろしい契約。
(作中でもその設定あったのに、どうしていまになって思い出すのよ! わたしの馬鹿!)
今さら後悔しても、もう遅い。
隷属の契約の儀式を済ませたということは、いまわたしとレインの間には立派な主従関係が結ばれており、彼の生死はわたしの手の中にある。
気づかない内にとんでもない誓約を交わしていた事実に、顔から血の気が引いていく。
「い、い、今すぐその誓約を破棄したいのだけど、どうすればいいの?!」
「さあ? そんなの奴隷側が知るわけないでしょ。というか、別にご主人さまには不都合ないのだからこのままでよくないですか?」
当然だと言わんばかりのレインの態度に思わず納得しかけたが、すんでのところで我に帰る。
「よくないよ! ねえ、契約解除! とか唱えたら破棄できたりしないかな?」
「そんな簡単にできたら意味ないでしょ」
「そうかもしれないけど…でもこのままだと困るの」
わたしの言葉ひとつで彼の生死が左右されるなんて、荷が重すぎる。それに後々こういう物騒な縛りは死亡フラグになりやすいのだ。早急に排除しないと。
ひとり慌てふためくわたしにレインが「ああ」と何かを思い出したかのように、声を漏らした。
「たしかどんな誓約も無効化する力を持った女がいるってのは聞いたことありますよ」
「無効化する力…?」
ふと、嫌な予感がして背中に汗が伝う。無効化する力ではないが、近しい力を持った少女をわたしは知っている。
「ええ。何でもその女の力は破壊の力も無効化できるほどに強いので、世界を救う力だと言われているらしいです」
(やっぱりエミリアのことだ!)
無効化というと少し違うが、エミリアのソウル魔法は反転だ。なので、いまもしエミリアがわたしたちにソウル魔法を使えば、契約を結んだ状態を結んでいない状態へと反転させることができる。
実際、ゲームの中でもアナスタシアとレインの誓約を解除したのはエミリアだ。そして、誓約による縛りがなくなったレインはアナスタシアに対して……持って、これ以上はちょっと思い出したくない。
「大丈夫ですか? 顔色悪いですけど」
「……気にしないで、続けて」
「なので、どうしても隷属の誓約を破棄したければ、頑張ってその女を探すしかないですね。すごく大変そうですけど」
どこか他人事のように言うレインに相槌を打ちながら、わたしは考えていた。
隷属の誓約は破棄したいが、レインとエミリアはなるべく接触させたくない。なぜなら、ふたりが上手くいけば、わたしが殺される確率が高まるからだ。
だけどこのまま隷属の誓約を継続して、万が一わたしのせいでレインが死ぬことになったら、人殺しのアナスタシアなどお母様が絶対に許さない。
(それこそよくて追放、悪くて処刑では…?)
険しい表情を浮かべるわたしに、今度はレインが首を傾げる番だ。
「何か不都合でも?」
「不都合しかないよ! だってわたしがレインの生死を握ってるだなんて…」
命令をしなければいい話だが、何か間違いがおこる場合もあるかもしれない。万が一のことを考えると、やはり隷属の誓約は早急に破棄するべきだ。
(だけど、レインとエミリアには上手くいって欲しくないし……あー、もー! どうしたらいいのよ!)
ひとり、何かいい方法はないかと悩むわたしをよそにレインがニヤリと笑った。
「ご安心を。俺は強いので」
彼が強いことなんてわたしが誰よりも知っている。味方であればとても心強い強さだが、敵に回ると非常にやっかいなことも。
「なので、どんな命令でも必ずやり遂げて見せます。だから心配しなくとも大丈夫ですよ」
いやいや、そういうことじゃない。的外れなレインの励ましに、思わず項垂れた。
やはり彼と出会ってしまった時点で色々と詰んでいたのかもしれない。すっかり冷めたお茶を口にしながら、ついにわたしは考えることを放棄したのだった。