義母と娘-1
真っ暗な世界で、わたしの名前を呼ぶ誰かの声が聞こえてくる。
けれど、とてつもなく身体が重く、目を開けることすら億劫だった。
このまま眠っていよう。そう思ったのに──名前を呼ぶ声は止まらない。それどころか、だんだんとうるさくなってきた。
(ったく、いったい誰なのよ……無視、無視)
そう考えていた次の瞬間──むぎゅっと、容赦なく頬を掴まれる。
鋭い痛みと同時に視界が開け、反射的に目を見開いた。
「あら、ようやく目を開けたのね」
さらりと揺れる銀色の髪。その奥で、紫色の瞳がわたしを見下ろしている。
自分の上に跨り、痛いぐらいに頬をつかんでいるこの少女を、わたしは知っている。──いや、知っているどころじゃない。
「──アナスタシアっ?!」
大声で彼女の名前を呼ぶと、「うるさい」と怒られてしまった。だけど、わたしはそれどころではない。
「ど、ど、どうして……アナスタシアが……!」
いま目の前にいるのは、まちがいなく本物のアナスタシアだ。わたしの中にいることは知っていたけれど、いざ姿を目の前にすると、動揺を隠せない。
「間抜けな顔ね」
──いや、同じ顔でしょ。
という言葉は、すんでのところで飲み込んだ。
言ったら最後、面倒なことになるのは目に見えている。案の定、わたしの考えを読んだかのように、彼女の指に力がこもった。
「私はそんな顔しないもの。一緒にしないでちょうだい」
「な、なんで?!」
「お馬鹿さんね。貴女の考えることなんて、手に取るように分かるわ」
楽しそうに笑う彼女の顔は、見慣れた自分の顔と同じはずなのに、まるで別人のように思えた。
(顔も声も同じなのに、表情ひとつでこんなに違って見えるだなんて……)
どこか異様な光景に目を奪われ、一瞬見惚れてしまう。けれど、今の自分の状況を思い出して、慌てて口を開いた。
「というか、ここはどこ?! なんでアナスタシアがわたしの前にいるの?!」
「うるさいわね。少しは落ち着きなさいな」
「落ち着けるわけないでしょ!」
背中に、嫌な汗がじわりと滲む。
もし、彼女が目覚めたのだとしたら──!
「ここは私と貴女だけの「心の世界」よ」
思考を遮るように、アナスタシアが言った。
「……心の世界?」
「ええ。だから、ここなら誰にも邪魔されず、ゆっくりお話しできるわ」
どういうことだろう。
意味が分からず首を傾げていると、彼女はわたしの上から退き、向かいに腰を下ろした。
「私に聞きたいことがあるのでしょう?」
「えっ」
向かいに座る彼女にそう尋ねられ、わたしは思わず息を呑んだ。
彼女に聞きたいことは、山ほどある。悪魔のこととか、本当の両親のこと……教えてくれるなら、全部知りたい。
「色々とあるけど……全部、教えてくれるの?」
「面倒だから、ひとつにしてちょうだい」
ならば、いまわたしが一番知りたいのは、やっぱりあのことだった。
「お母様……リヴィエール夫人と、何があったのか知りたい」
その言葉に、彼女はわずかに目を細めた。
そして、指を軽く鳴らすと、目の前に大きな鏡が現れたのだった。
「貴女には大切なものってある?」
「え?」
その問いに、まっさきに思い浮かんだのはレインのことだった。すると、鏡の中に彼の姿が映し出される。
その様子に、彼女が不満げな声を漏らした。
「貴女、男の趣味が悪いのね」
「へっ?!」
「女の子みたいで、全然好みじゃない」
「なっ」
「それに私、赤色って嫌いなのよね」
いったい、何の話だ。
お母様のことを尋ねたというのに、どうして悪口を言われなくちゃいけないのだろう。
「今はレインの話じゃないでしょ! あと、アナスタシアの好みじゃなくても、わたしは大好きだからいいの!」
「人の身体を奪っておいて、随分と勝手な言い分ね」
「ゔっ……」
──ごもっともすぎる。
何も反論できずに黙っていると、彼女はふっと微笑んで言った。
「まあいいわ。……人でも物でも、何でも構わない。誰だって大切なもののひとつやふたつ、あるものでしょう? 彼女の場合、それは夫と息子だった」
鏡の景色が、ぐにゃりと歪む。
そこに映ったのは、お母様の姿だった。
「この家にやってきた時、あの人は私のことを歓迎してくれたわ。前から娘が欲しかった、なんて言って」
幼いアナスタシアの手を引き、笑うお母様。
今はもう二度と見られない光景に、胸の奥がちくりと痛んだ。
「だけど、あの日。運悪く、アルカードといるところを彼女に見られてしまった。アルカードはさっさと殺せばいいなんて言ったけど、そんなことをしたら疑われるのは私でしょう?」
悪魔って本当に野蛮で困るのよね、なんて言うけれど、全く困っているようには見えない。むしろ、楽しそうだ。
「だから、私はあの人にお願いをしたの」
「……お願い?」
「ええ。いま見たこと、聞いたこと、全てを忘れてほしいって」
鏡の中のお母様は、首を横に振っていた。
「だけど、あの人は頷かなかった。だから、私はあの人に魔法をかけたの」
「……魔法?」
「ええ。貴女もよーく知っている素敵な魔法よ」
その言葉に、嫌な予感がする。
そんな心情を見透かすように、アナスタシアがわたしの耳にそっと口を寄せた。
「貴女があの子と結んでいる契約、あれって便利よね。他人を意のままに操ることができるのだから」
「──っ! アナスタシア!」
「ふふっ、そんなに怒らないでちょうだい」
それに、楽しいのはここからなんだから──と、彼女の声が聞こえたかと思えば、次の瞬間、鏡の表面が大きく波打った。
そして、その場に耳を裂くような悲鳴が響く。
鏡の中には、泣き叫んでいるお母様の姿が映っていた。




