白光
「オイオイ。いつまでも泣いてンじゃねぇーよォ」
幼いわたしを、誰かが必死に慰めてくれている。だけど、わたしの瞳からはぽろぽろと涙が溢れ出て、止まらない。
そこでふと、これは夢だ、と気づいた。
夢を見ている間は、ふつうこれが夢だと気がつかないはずなのに、なぜか今ははっきりとわかっていた。
それでも、夢だとわかっていても、わたしはただ、ぼんやりとその光景を眺めることしかできない。
「だって……みんな、私のことを嫌いだっていうんだもの……気持ち悪いって、おかしいって…!」
俯きながら、そう叫ぶわたしの頭に、手がそっと触れる。だけど、そこに温もりはなかった。
「………どうして、私に優しくしてくれるの?」
震える声でそう尋ねと、少し間を置いてから、ケタケタと笑い声が聞こえた。
「俺は、お前のモンだからなァ」
その声に顔を上げれば、二つの光と目が合った。
これを、この存在を──わたしは知っている。
そうだ、そうだった。
どうして忘れられていたのだろう。
この、憎らしい悪魔のことを。
「──アルカード!」
そう叫ぶと同時に、わたしは目を覚ました。
がばっと身体を起こした瞬間、息が荒く、視界がかすむ。涙が、枕を濡らしていた。
「今のは……?」
幼いアナスタシアが泣いていた。
そして、その傍らにいたのは、アルカードだった。
「でも、何で……? だって、まだ……」
アナスタシアがアルカードと契約、つまり禁術に手を出すのは、まだ先だ。
それなのに、どうして幼いアナスタシアの傍に、アルカードの姿があったのだろう。
「……ただの、夢だよね?」
いまだにこぼれ落ちる涙を乱暴に拭って、わたしはベッドから足を下ろし、淵に腰掛ける。
水でも飲もうかと思った、その瞬間だった。
ふと、わたしの目の前に影が落ちる。
反射的に顔を上げれば、闇の中に浮かぶ二つの光と目があった。
「呼んだかァ〜〜? マイレディ〜〜」
低くて、不気味なその声に、心臓が飛び跳ね、息が詰まる。そして、そのまま、声にならない悲鳴をあげて、わたしはその場に崩れ落ちた。
「〜〜〜っ?!」
「オイオイ! ンな驚いた顔して、どうかしたかァ〜〜?」
ふよふよと目の前で浮いているソレが、不思議そうに首を傾げる。愉快に笑うソレとは対照的に、わたしは、何も言えず口をぱくぱくさせることしかできなかった。
本来であればこの時代のアナスタシアは、まだアルカードと契約していないはず。──なのに、どうして?
頭の中を疑問符が埋め尽くす。
どうにかしないと、何か言わないと。そう思うのに、身体は全くいうことを聞いてくれない。
そうして何もできずに黙ったままいれば、痺れを切らしたかのように、アルカードが顔を近づけてきた。
「ンン〜〜〜?」
すんすんと、匂いを嗅がれている。何をされるのかわからず、身体がカタカタと震える。
それでも、震える身体に鞭打って立ち上がれば、何かを納得したような声で、目の前のアルカードが呟いた。
「……ナルホドォ」
そして、意を決して口を開こうとした瞬間。
「お前───アナスタシアじゃないなァ」
──え?と、思ったときにはすでに遅かった。
わたしの身体はそのまま壁に叩きつけられた。突然のことでまともに受け身も取れず、頭と肩を強く打ちつけて、意識が飛びそうになる。
頭がチカチカする。
激しい痛みで吐きそうになるのを必死に抑えて、何とか身体を起こす。
ぼやける視界の中で、ケタケタと楽しそうに笑う口元だけが、不気味なほどにはっきりと見えた。
「中身が違うのか? それとも、なンかの呪いかァ?」
「……やめ、」
「とにかく、いっぺん殺しとくかァ」
ろくな抵抗もできずに、そのまま首にアルカードの手が回る。ぎゅうぎゅうと締め付けられる力に、必死になって抵抗するが、まるで歯が立たない。
そして、意識を手放しそうになった瞬間、バチっと空気が弾ける音がした。
音と同時に、わたしの首を絞めていた手が離された。
そのまま咳き込みながら、地面に這いつくばっていれば、頭上からケタケタと笑い声が聞こえた。
「ナルホドォ、そーいうことなら仕方ねぇか」
「ごほっ、…なに、言って…」
「俺はアナスタシアのモンだからなァ」
まったく意味が分からない。
先ほどまではわたしのことを殺そうとしていたのに、今では穏やかな表情でこちらを見ている。
アルカードの言動の全てが理解できなくて、恐ろしくて、目には涙がじんわりと浮かんできた。
だけど、そもそもが違うのだろう。
自分と似たような姿形をしているけど、相手は悪魔だ。話が通じる相手ではない、理解しようとすることが、間違っている。
「オイオイ、泣くンじゃねぇーよ。いつもは守ってやってンだろ?」
「……は?」
「ココであのクソ女を脅したときも、この前だって、お前の影ン中からサポートしてやったじゃねぇか。それにお前を嫌うアイツらだって……ちゃんとォ…」
背中に嫌な汗が伝う。
アルカードが何を言っているか分からないが、何だかとても嫌な予感がする。
知りたいけど、知りたくない。
「ねえ、それって、どういう──」
そう思って口を開いた瞬間──ドンドンドンドン、と激しいノックの音が部屋の中に響いた。
「アナスタシア?! すごい音がしたけど、どうかした?」
──レインの声だ。
おそらく先ほどの音を聞いて、駆けつけたのだろう。
このままではまずい。レインに、というか誰かに、アルカードの存在を知られるのは駄目だ。
そう思ったわたしは、目の前のアルカードの腕を引っ張る。
「とにかくいまは影の中に戻って!」
一瞬。このまま、わたしの中に戻していいのかという疑問が頭をよぎったが、とにかく今は、彼の存在を隠す方が大事だ。
「ほら早く!」
「ア〜〜? せっかく久々に出れたのによォ…」
「いいから! 命令よ!」
「へいへい。仰せのままにィ〜〜」
そうして、不気味な笑い声とともに、アルカードはわたしの影の中へと姿を消した。
アルカードの気配が確実に消えたのを確認すると、わたしはいまだに激しい音がする扉の方へと急ぎ足で駆けていった。
そして、扉の向こうにいるレインに向かって叫ぶ。
「ベッドから落ちちゃっただけなの! 気にしないで!」
扉の向こうからは、レインの今ひとつ納得していないような声がしたが、わたしが扉を開ける気はないと分かったのだろう。
少ししてから「わかった、おやすみ。次は気をつけなよ」と言う声がしたかと思えば、その場から去っていく足音が聞こえた。
その様子に力が抜けて、わたしはずるずるとその場にへたり込んだ。
「わたしの影の中にいる存在って……アルカードのことかよぉ……!」
まさか、すでにアナスタシアがアルカードと契約をしているなんて、思わなかった。
まずい、まずすぎる。わたしが禁術を使用したなんてバレたら、破滅ルートまっしぐらだ。
「マルガレーテさんとキスしなくて本当によかったぁ……!」
あの場で悪魔と契約していることがバレていたら、確実に終わっていた。
焦りと恐怖で心臓がうるさいほどに鳴っている。
とにかくこれからは、アルカードの存在を誰にも知られないよう隠し通さなくちゃならない。
おそらくだが、アルカードはわたしが名前を呼ばなければ、影の中から出てこれないのだろう。
「何があっても名前を呼ばないようにしなきゃ……」
アルカードが言っていたことが気になるが、それを尋ねるために、アレを影の中から出すのはリスクが高すぎる。
だから、もうアレと関わるのが今回で最後だ。
自分の影をじっと見つめる。まさかあんな恐ろしいものが、この中に居ただなんて……いや、今も居るのか。
うぇ、想像したらなんか吐きそう。
込み上げてくるなにかを必死に抑えて、わたしはふらふらとした足取りでベッドへと戻ったのだった。




