正義と愉悦
階段を上って囚人がたくさんいそうな一階へ行こうとしたら、階段の中間地点で誰かが揉めていた。
ステンレスの板を踏む複数の音が聞こえてきて、そっと刺激しないよう音を立てずに上ってみる。見ると、三人の金髪と茶髪の男たちが黒髪の男を暴力という力でいじめていた。黒髪の顔を拝見するために、横目で覗くと僕の母親を殺した囚人だった。思わず目が合う。僕は固唾を飲んで、目線を逸らした。
ここで彼を助ければ、絶対に僕のことを良い人だと思うにちがいない。しかし三人を相手にするとなれば、厄介だ。三人とも筋肉質であり、僕の細身では全くといって歯が立たないだろう。最悪死ぬ恐れがある。とはいえここで動かなければ、彼と仲良くしてその後裏切るという流れに持っていくことはできない。復讐するためなら、なんだってするさ。例え命を犠牲してでも、僕はアイツを助けたい。
「おい、そこの囚人三人! 僕が相手をしてやる。だからそいつに手を出すな」
そう喚き散らすと、三人に睨まれた。その眼光は全員鋭い。足がガタガタと震え出し、顔が青ざめていく。だが、ここで引き下がってはダメだ。アイツらを倒さなければ。
僕はボクシングのような構えをしてから、茶髪の男に殴りかかる。そのパンチは受け止められてしまい、強く握りしめられた。痛みで顔が歪む。なんて強さだ。こんなの僕では勝てない。彼は得意げに腕の筋肉を見せながら言う。
「俺とやろうってのか? 面白い奴だ。後悔させてやるよ」
男は僕の手を握ったまま、投げ飛ばした。後頭部を手すりの下の棒にぶつけて、赤黒い血が流れる。床に血が垂れて、少しだけ赤く染まる。眩暈に襲われ、あたりがぼやけてきた。もう何が何だか分からない。疲れた……。
こいつらには力で勝てないと確信し、僕は腕を噛み締めた。圧倒的な力を目の前に、僕は非力だ。これ以上戦うことができない。もう……だめ……。
「諦めて溜まるものか」
気を失う前にそんな言葉が頭をすり抜けて行った。それを最後に記憶がなく、気がついたら階段の中間地点で眠っていた。
すでに母親を殺した男はおらず、あの三人は血まみれのまま死んでいた。階段の至る所に赤黒い血が付着していて、僕の右手にも血が着いていた。血は階段に所々垂れている。恐らく復讐相手が傷口を抑えて階段を上ったのだろう。悲惨な状態なのも目に見えてわかる。
初めてだ、人を殺してしまったのは。相手に怪我を合わせたことは何度もあったが、息を引き取った相手はいなかった。頭が真っ白になっていき、本物の囚人になってしまったことを悟る。全く身に覚えがないけれど、僕は発狂して階段を下った。
前なら制御できていたはずだが、気を失ったから制御できなくなったと容易に推理できる。これでは相手に嫌われるどころか、警戒されてしまうに違いない。復讐がしづらくなってしまった。彼とはどう接すれば良いのだろうか。今はとにかく関わらないほうが良いので、違う場所へ行くことにした。
地下三階の扉を開いて、廊下を走った。その廊下には空の牢屋がずらりと並び、A級の囚人が全員脱走したことがわかる。行く当てなどなく、とにかく進むことに専念。休めそうな場所を探してひたすら走った。
牢屋を見ていたら、牢屋の一つに一人の囚人がこちらに背を向けたままベッドの上で寝転がっていた。白髪のサラサラヘアからアルマだということがわかる。
「アルマくん、ちょうどいいところに!」
牢屋に近づき声をかけたが、返事はない。もしかして寝ているのだろうか。彼は気分屋だからあり得るが……。
開いている牢屋を開けてそっと近づくと、彼が喋りかけてくる。
「復讐失敗したんだな。残念だったね」
「なんでわかったの?」
「気配が死んでいたから」
背中を向けているので、表情は分からない。しかし声はいつもより冷たい。そっけない感じがして、首を傾げてしまう。
「それと、もうお前とは関わらないことにした」
「……え?」
突然そのようなことを言われて、困惑してしまう。何かよくないことをしてしまったのだろうか。あるいはもう気に入らなくなったからいらないのだろうか。こんなに早く見捨てられるとは思えず、足が震え上がった。無力な僕を呪いたい気分だ。
「なんで?僕のこと、使えない奴だと思ったから?」
「いや、それは違う。お前といれば、ガルドに目をつけられてしまう可能性が高い。ガルドはまだヒロキのことを看守だと思っているだろう。看守と仲良くする囚人なんて、変な目で見られるに決まってる」
確かに。それは一理ある。ガルドはこの囚人の中のトップであり、リーダー。食堂でしていた抗争を見て、ガルドの名前をたくさんの囚人が知っており募っているように見えたから、そう結論づけられる。
そんなやつに悪い意味で目をつけられたら、消されてしまう確率が高い。そしてアルマは、自分のことしか考えていない自己中心的な人物。これらから推測出来るとしたら、囚人仲間から悪い印象を与えたくないのでとりあえず今は縁を切るということ。
僕はその言い分を理解して、牢屋から無言で去って行こうとした。ちょうどその時、肩に何かがかかる。左肩を少し動かすと、金色のネックレスが落ちてきた。それを拾う。
「御信用ナイフだ。身を守るときに使え」
ネックレスの紐には金色の四角い板が垂れ下がっていて、それを握りしめて振ると、ナイフが出てくるという仕組みらしい。彼がそう説明してくれた。
御信用ナイフを前ポケットにしまい、牢屋から速やかに出ていく。
足音が離れたの確認してから、アルマはベッドから身を起こした。小さなため息をつく。
「はぁ……嘘も見抜けないとは。あいつは人を信用しすぎだ。そう思わないか?ハリス」
牢屋の物陰から一人の男が出てきた。腰が少し曲がっている、痩せ細った男だ。金髪の髪は強いパーマがかかっていて、前髪で両目を隠している。彼は何も返さずに、無言と無表情を貫く。アルマは大きなため息をついて、視線を前に向けた。
「ま、他の男になんか興味ねえだろうよ。お前のことだし。で、あれは本当なのか?」
「はい、本当ですよ」
「そうか……。厄介なことになったな」
「というと?」
「じゃあ。まず聞くが、なぜ俺たちは船に乗せられていると思う?」
「バトルロイヤルをするためでは? 一人になるまで殺し合い……」
看守が牢屋を徘徊する際、よくその話をしていたため大体の囚人は知っている。しかし、彼はそれを否定する。
「いや、それは看守が船の舵をとっていたらの話だ。今舵をとっているのは、間違いなく囚人だろう。気づいているか?船の行き先が違う場所になっていることを」
アルマは船を出た際、あることに気づいていた。囚人が脱走しておらず平穏が保たれていた時は島が近くにたくさん見えており、月も真上にあった。がヒロキと共にカードや履歴書を出した際、そんなに時間が経っていないにも関わらず島々や月は遠ざかっていた。かなり速いスピードを出して、反対方向に進んでいたのは明白。
「だが、今はどうだと思う?」
「……?」
「外に出ればわかるだろう。今は停船している。船が揺れてないからな。つまりは、外部から狙われやすいということだ。俺が予想するに、今後三つの事件が起きるだろう。一つは内部攻撃。他は外部攻撃」
淡々と話しているように見えるが、内心アルマは焦っていた。表情には出ないが。
「外部って……一体、アルマ様には何が見えているのでしょうか?」
彼は無言を貫いたまま、ベッドから立ち上がる。ハリスに大きな背中を見せて、ポツリと呟く。
「俺に見えているのは、暗闇だ。その闇の中に、二匹のネズミが舞い込んでいるかもしれない」
「それは先ほど話していたあの男も含まれていますか?」
「いや、それはない」
アルマは振り返って即答する。ハリスの近くまで歩みを進めた。
「ヒロキ……あいつは違う意味で危険だが、それ以上にもっと警戒しなければいけない人物がいる。それは……」
彼にだけ真相を話した。この男ならば口が硬いし、一番信用できる。ハリスはアルマが話した内容をバラしたことが一度もないほど、狂酔していた。
彼は前髪にかかっている目をキラキラと輝かせながら、ワクワクした口調で話す。
「そういうことですか……アルマ様は賢いですね。防犯カメラを壊しておいてよかったです。音声も読み取れないはずです」
「ありがとう」
口だけで笑みを浮かべて、牢屋から去っていった。その後ろからハリスが隠れてついてくるものの、いつものことなので気にしていない。ヒロキになぜか嫉妬心を剥き出しにしていたが、別に構わない。たくさんの人間に愛されるのは、とても愉悦的で気分がいいのだから。