冷静に
がむしゃらに明るい廊下を走った。一方通行なので、迷わずに進める。
後ろから木の棒を振り回しながらやってくるので、非常用出口のドアを開けてギリギリの隙間を通った。やってくる可能性もあるため、ドアは何事もなかったかのように閉めておく。囚人の左手を挟んでしまったが、気にしている場合じゃない。
地図はすでに暗記していた。というのも、ここへ来る四日前。看守長と出会って話をしていたからだ。その時に船の設計図を渡されて、お得意の暗記力を発揮。全て頭の中にインプットしている。
このまままっすぐ行けば、確かエレベーターと階段があったはず。まっすぐ行ったら、地下二階を巡回できる。今現在、囚人が徘徊しているのでそれができる可能性は極めて低いし、する必要もない。
「よし、このまま階段の前まで……!?」
小刻みに揺れる音が鼓膜に響いて、目を見開いた。上下に分かれている階段の目の前までやってきたが、階段の上から足音が聞こえてくる。上に上りたいのに……と肩を落として、落胆。絶体絶命のピンチではないか。歩いているのは、生き残った看守かあるいは囚人か。
地下三階にいたあいつらはすでに地下一階や一階・屋上へエレベーターや階段を使い、看守を制圧しているとも考えられる。ここはスルーするべきだろう。争いはできるだけ避けたい。
僕はその道を通り過ぎ、まっすぐ進むことにした。不運なことに、通り過ぎる道には囚人が二人立っている。背の高い方は、鼻をヒクヒクと動かした。
「これは……血の匂い……ヒャッハァ!!」
僕に気づいて軽くジャンプしたかと思ったら、走ってこちらまで追いかけてくる。真っ白な肌をした怪物が、腕を広げたままこちらへ迫ってきた。歯が異常に白くて、気味が悪い。まるで吸血鬼のようだ。
「待てよ、俺の獲物!!」
荒らげた声が近くまで聞こえてくる。これはやばいぞ!エレベーターに乗らなきゃ、殺される!でも……開くとは限らない。
一番奥にあるエレベーターの方へ、顔を青ざめたまま突っ走る。これじゃあ、エレベーターがある角を曲がって囚人が来たなら挟み撃ちだ。まず助からない!
そんな強い願望が叶ったのか、エレベーターがこの状況とは対照的に軽やかな音を鳴らして開いた。その扉から一人の黒髪の囚人が出てくる。僕はそいつの番号を眺めた。403321。
無理やりそいつを腕でどかして乗ってから、左手の甲に視線が向く。見たことのある蛇の刺青があった。母親を殺した殺人鬼だ。
エレベーターの扉は閉まってしまい、顔を拝めずじまい。チャンスを逃すなんて……悔しい。
「くっそ! くっそ!」
エレベーターの扉を両手で強く何度も殴りつける。怒りで顔が歪んだ。この手で潰してやりたい!
怒りに支配され、顔が真っ赤になる。殺意という黒いオーラが溢れていった。今すぐ殺してやりたい。
そんな腹が煮えくりそうな時。聞き覚えのある男のハスキーボイスが背後から聞こえてくる。
「あの胡散臭い奴に恨みでもあるのか?」
声のトーンからしてジョナサンではない。彼ならもう少し太くて訛りが強いし、こんなに掠れがかっていない。一体誰だろうか?
「なんだと?」
後ろを振り返ると、オレンジ色の囚人服を着た白髪の男が立っていた。茶色くて、闇のありそうな瞳でこちらを見てくる。
顔立ちが整っていて眉目秀麗。髪は白くサラサラしていて、前髪は左側にボサボサと纏めている。男の僕でさえ、何度も見入ってしまうほどの美青年だ。背が高くて、頬筋がピクリとも動かない。そんな冷徹さが一層美を際立たせている。まるでお人形さんみたい……。
彼は表情を変えることなく、エレベーターの壁に寄りかかり腕を組んで偉そうにしている。ヘリコプターの中にいたあの人だ。
「エレベーターの扉が壊れても知らないよ」
不躾な態度にムカついた僕は彼の服の肩あたりを強く握りしめ、エレベーターの壁に押し付ける。怒りのまま、唾を飛ばした。男は全然動揺していない。その光景が余計に苛立たせる。
「偉そうに言いやがって!人の気持ちも知らないくせに!」
「まあまあ、落ち着けよ。怒りに任せても解決なんかしない。冷静になって考えろ、そうすれば自分がどうしたいのか見えてくる」
「冷静に……?」
そう優しい声で諭されたら、少し考える余地が出来た。確かにこの人の言う通りだ。僕は目の前のものに囚われすぎていて、冷静さを失っていた。こんなんだから、感情がコントロールできないんだよ。
ゼエゼエと荒々しい息を吐いていたら、囚人に背中をさすられ抱きしめられた。外国人特有のスキンシップには、やっぱり慣れない。
その手は少し暖かさを帯びていて、徐々に落ち着くことができた。初めて出会った時は腕を引っ張ってきたやばい囚人だと思っていたが、案外気が効くのかもしれない。
僕は彼の肩から手を離し、エレベーターの上表示を眺める。もう地下一階だ。チンと軽やかな音を鳴らして、エレベーターの扉が開く。避難用の廊下に繋がっている。自分が行きたかった場所を、いつの間にか押してくれていたようだ。
囚人とは歳が近いと思うので、フラットに話しかける。
「ありがとう。気持ちが楽になったよ」
手を振ってエレベーターから出たら、彼自身、後ろからついてきていた。ここへ何しに来たのだろうか。
「君もここに用があるの?」
「まあね。それよりさ」
質問には一切答えず、話を進めてくる。
「お前、看守だろ。そのズボンで分かる」
「あっ……」
すっかり忘れていた。
あの時気が立っていたため、自分の姿をじっくりと見ていなかった。下は看守のズボン。上は何も着てない状態で、胸あたりにばつ印が。こんなの自分は看守ですって自白しているもんだ。
相手は囚人で、人を何人も殺してきた殺人鬼。何をされるのか、分かったものじゃない。
実際この船に収監されているのは、二人以上赤の他人を殺してしまった者ばかり。死刑制度が多くの国から排除されたこの世界では、船に収容されとある土地に運ばれるという。その土地は海に囲まれた島であり、そこに囚人たちを放って殺し合いをさせる。まさにデスゲームが開始。一億円もらえるという条件下で、残り一人になるまで終わらない最悪な殺戮を繰り広げる。最終的に死刑と同じ状態になってしまった。残った一人は一億円などもらうこともできず、結局は食料と飲料が無くなり、餓死で死亡する。
救いようがないデスゲームは、この島を所有する国の政府たちが厳密に管理しているため、他の国に情報が漏れることもなかった。完全密室だ。
この船コーパスデコイ号にいる囚人に自分が看守だとバレてしまったら、先ほど廊下で見た通り、確実に殺される。顔が青ざめていき、彼からそそくさと離れた。
「殺されるとでも思った? 殺すならもうとっくに首にナイフを刺して殺してる。安心しなよ、お前は絶対に殺さない」
彼の眼差しを見て、本気でそう思っていることが伺える。僕はそれを聞いて安心し、再び廊下を歩きはじめた。