自宅
鈴原さんとは、これ以上、あの刃傷沙汰を外部へ伝聞しない約束を取り付けて別れた。
ストーカー騒動。
水原は母親からの叱責後、自らの犯した身勝手な行動で首も回らない状況らしいが……最善を尽くさない理由にはならないだろう。
一番願うことは、軽井沢さんが平穏無事な毎日を送れること。
水原のせいで、未だ彼女は登校の際、俺の隣か、両親の運転する車の中でしか時間を過ごせない。あまりに不自由なその生活に、可哀想だとさえ思うのだ。
一日でも早く、彼女が通常通り登校出来るようになることを願うばかりだ。
ふう。
一日の疲れを労うように、俺は一つため息を吐いて帰宅することにした。
病院の最寄り駅へ向かい、電車に揺られ、数十分後に自宅の最寄り駅にたどり着いた。帰宅道をしばらく歩いて、俺はたどり着いた。
「ただいま」
病院終わり、帰宅する頃には外は真っ暗だった。
一軒家の我が家の中には灯りが点っている。両親はまだ仕事中だろう。
「お兄ちゃん、おかえり」
「ただいま」
妹の真那は、キッチンで夕飯を作っていた。香ばしい香りが、室内に漂っている。
「今日の夕飯は、カレー?」
「うん」
「手伝うよ」
「えー」
えっ、何その反応。
もしかして反抗期? お兄ちゃんのこと、嫌いになった?
「お兄ちゃんが手伝うと、あたしやることなくなるじゃん」
「働き者だなあ、このこのっ」
「うわー、うぜー」
微笑みながらそういう真那の顔には、うざいと思っているとは書かれていない。
いつも通りの妹との会話。
どうやら反抗期はまだ遠いらしく、俺は内心で少し安心していた。
真那は、俺より二歳年下の中学二年生。
いつかも思った通り、我が妹ながら俺と遺伝子が違うのか、とても可愛い。
「お兄ちゃん、ちゃんと家の仕事手伝ってよ。まったく」
真那の発言は、誰に似たのか結構適当だ。
「まったく。ちゃんとリビングでテレビでも見て休んでてよ。そんなところで手伝いたそうにうずうずされたら、料理し辛いよ」
普通ならここで、料理を手伝え、と言うところだろう?
しかし妹の真那は、逆張りとばかりに俺にテレビを見ているように指示をした。
まったく、やれやれなのはこっちだ。
俺も適当な発言が多い人種だが……その手の発言をする際には、自分に不利益が被るような形を取るべきではない。
まあそれは、他人の悪意……つまるところ嘘告白に何度もあってきた俺だからこそ、導いた答えかもしれない。
ここで俺に休んでいるように言ってしまったら、真那は一人で料理をしなければいけなくなる。
自らの手間を増やしているのだ。
今、真那は思っていることだろう。
ああ、失敗した、と。
一時のウケ狙いのせいで、兄に手助けしてもらえなくなった。
こんなはずじゃなかったのに〜〜〜、と。
「手伝い、本当にいらない?」
「大丈夫。任せて」
やれやれまったく、やれやれだぜ。
ウケ狙いとはいえ、整合性のため引くに引けなくなったか。それではコメディアン失格だぜ?
まあ、俺は真那の兄だから、あいつが泣きついてきたらいつでもすかさず手伝ってあげるのは当然なのだが。
……今更ながら気付いたが、もしかしたら真那はウケ狙いでもなんでもなく、俺を休ませたいだけなのではないだろうか?
……いやいやいや。
それはない。それはないわ。
だって、そんなことするメリットないじゃん。
妹は兄を便利なお財布としか思ってないって、匿名掲示板に書かれていた。匿名掲示板に嘘情報が書かれているはずない。
だから、真那からしたらここは俺を手伝わさせようとするのは当然のことなんだ。
でも、一応考えてみるか。
俺を手伝わさせるより、メリットになりそうなことを。
……例えば、そう。
真那は俺に好かれたくて、俺に手厚い援助をしてくれているとか、そんなことか?
……いやいやいや。
それはない。それはないわ。
兄を荒っぽく使うことはあっても、兄を労おうなんて妹が考えるはずないって、知恵袋に書かれていた。知恵袋に嘘情報が書かれているはずがない。
「そろそろ出来るよー」
「ご飯、よそうよ」
「大丈夫。座って待ってて」
馬鹿な。
適当な発言をするにもほどがある。
俺に仕事をさせないなんてそんな……一体、どんな風の吹き回しだ?
「なあ、真那?」
ご飯を食べながら、俺は真那に話しかけた。
「何?」
「何か欲しいもの、ある?」
「え?」
「欲しいもの。財布とか、アクセサリーとか、諭吉とか」
「……そうだねえ」
あっ、と真那は思い出したように、手を叩いた。
「お姉ちゃんがほしい」
「お前何言ってるの?」
「お兄ちゃんにお姉ちゃんになれって言っているわけじゃないよ?」
あ、違うんだ。良かった。
「あたし、もう自立出来るから……。お兄ちゃん、いつでも彼女を作ってね」
我が家の両親は仕事が忙しく、毎日のように残業をしている。
故に、夕飯時に家にいるのは俺達兄妹のみ。
俺が料理を出来るのは、そんな家庭事情が影響している。
小さい頃は、毎日のように真那の世話をしていた。
小さい頃の真那はわがままだった。
だから俺は、彼女の期待に応えるべく頑張った。
彼女がカレーを食べたいと言えば作ったし。
彼女がロールキャベツを食べたいと言ったら作ったし。
彼女が満漢全席を食べたいと言ったら作ったものだ。
俺からしたら真那は、まだ可愛い妹だ。
ただ、そんな真那が自立を口にする年頃になるだなんて。
「成長したなあ」
「完璧なお兄ちゃんには、まだ劣るけどね」
俺にお世辞も使えるなんて、本当に出来た妹だ。
お兄ちゃん、感極まって泣きそうだ。
「この人、あたしの本音が一切通じないんだけど……」
ニコニコしている俺に、真那は聞こえない声で何かを呟いた。




