感謝
扉が開く音に、俺はそっちを見やった。
一体、誰が見舞いに来てくれたのか。その人物を視界の端に捉えた瞬間、自分の頬がほころんだことに、俺は気付いていなかった。
「やあ、軽井沢さん」
俺は、まずは彼女へ挨拶をした。
思えばいつも彼女と会う時、俺は受け身の姿勢を貫いてきた。いつも、彼女の方から俺に歩み寄ってもらっていたのだ。
まあ今回も、彼女の方から歩み、来てもらったことは違いない。
だけど、俺から彼女に挨拶をしたのは、多分今回が初めてだった。
さっき思った。
軽井沢さんに会いたいと。会って、話したいと。
ただ俺は、あの時の俺が自らの欲求を満たすことしか考えていなかったことに気付いた。
邪な感情ではない。
もっと純粋な、無垢な欲求だ。
だけど、その欲求が満たされた今、俺は自らの望みが果たされ、言葉を失った。
会いたい。話したいと思ったのに、一体何を話すのか、考えていなかったのだ。
いつもなら、適当に言葉を紡ぐことが出来る。
なのに今、どうしてか彼女へ向けて発する言葉が何も浮かんで来ない。
ただまもなく、俺は気付くのだ。
病室に来てくれた軽井沢さんは……いつになくしおらしい。
「……手首、大丈夫?」
「え?」
「え?」
包帯を巻いている手首を痛ましいと思って尋ねたが、思いもよらぬ返事が返ってきた。
心ここにあらずの軽井沢さんに、俺は首を傾げた。
「……ああ、大丈夫です」
「そう?」
「はい」
病室はしばらく、静かになった。
「今日は酷い目に遭ったね」
今日の軽井沢さんはしおらしい。思えば当然の話か。あんな辛い体験をしたのだから。
恐怖で怯えているのかもしれない。
だから、きっとあの出来事は早く忘れるべきなんだ。
笑い事に出来るように、乗り越えるべきなんだ。
だから、一石を投じるべく、俺は苦笑しながら言った。
ただ結果的に、これは俺の失策だった。
深く考えていなかったのだ。
今日の軽井沢さんがしおらしい原因は、当たっていただろう。
あの刃傷沙汰で間違いない。
だけど、恐怖から彼女がしおらしくなった。
その考えが間違っていたのだ。
だって彼女は……俺が気絶した後、水原を叱責したのだ。
彼女は強い人だ。嫌がらせを受けた人を、カッターナイフを突きつけられた相手を、叱責出来るのだから。
それくらい強い彼女が……恐怖からしおらしくなる?
そんなことあるはず……ない、とは言わない。だけどきっと、ここまでしおらしくなることはない。
彼女がしおらしくなった理由。
それは結局、巻き込んだ人がいるからだろう。
「ごめんなさいっ」
そしてそれは……他でもない、俺だった。
深く頭を下げた軽井沢さんの声が、震えていた。
俺は虚を突かれて、何も言えなかった。
「ごめんなさい。……あたしのせいで、手を怪我してしまった。頬も怪我してしまった……。あたしが、あたしが……あの人を挑発しなかったら、そんなことにはならなかった」
挑発。
そんなことをしていたのか、彼女。
本当、強かな人である。
……ただ、俺は何も彼女が水原とやらを挑発したことを間違いだとは思っていない。
そもそも今回の件で、俺が怪我をしたとして、彼女が頭を下げる程、俺に謝罪をする理由もわからない。
「君は何も悪くないだろ?」
それは真理であり、事実である。
「あたしのせいです……。あたしの……っ」
「……それはじゃあ、あいつの言い分に従うことが正しかったってこと?」
まあ、あいつが軽井沢さんに何を要求したかはわからないが……一連の流れを勝手に想像すれば、自ずと答えらしきものは見えてくる。
だから、軽井沢さんは黙った。
彼女自身、思っているのだろう。水原の言い分に従うことが、正しかったはずがないと。
「……どうして」
未だに頭を上げない軽井沢さん。声は依然、震えていた。
「どうしてっ、あなたはそんなに優しいんですかっ!」
ようやく顔を上げた軽井沢さんは……また怒っていた。
「どうして謝らせてくれないですかっ。どうして怒ってくれないんですか……っ。どうして、あたしを許してくれるんですか……。あたしのせいで、傷ついたのにっ!」
泣き叫ぶ彼女に、俺は頭を掻いた。
自責の念に駆られる彼女には悪いが……どうしても言いたいことがある。
逆の立場になってみろ。
もし俺がストーカー気質の女に付け狙われたとして、そいつにカッターナイフを振りかざされそうになったところを軽井沢さんが助けてくれたとして。
……君は、そんな立場になった時、俺を叱責するか?
でも、逆の立場になったことを連想したからわかることもある。
もし俺が、自分のストーカーのせいで彼女を傷つけたとしたら、多分、同じように謝罪をしただろう。
でもそれは多分、彼女に許してほしいからじゃない。
自分を許したいから。
罪悪感から、解放されたいから。
……まあ、今更ながら俺に厄介なストーカーはいないし、逆の立場になることはないだろう。
それは一つ良かったこと。
ただ今、個人的に一つ悩みを解消しても……結局、彼女の救いにはなりはしない。
でも、今更俺がどんな言葉を言ったとて、彼女が俺の言葉で救われることもないだろう。
……なら、俺に出来ることはもう何もない。
本当にそうだろうか?
彼女に、このまま良心の呵責に苛まれろと?
そんなこと、俺は望んでいない。
どんなことを言っても、救いになることはないだろう。
でも、そんな俺でも彼女にかけられる言葉がある。
「まあ、そういう日もあるよね」
いつものように、適当にはぐらかすように、俺は言った。
いつも通り。
いつもと、同じように。
「怪我で済んだんだから、もういいじゃないか」
俺は微笑んだ。
「あの時、めっちゃ厄介なストーカーいたよねって、笑えるようになるべきだよ。抱え込んだって仕方ない」
「……でも」
「時間が経てば傷は癒える、どんなに思い悩んでも。でも、君のそれは立ち直らない限り、一生君を蝕むよ」
「……どうして、あたしのせいで君が傷つかないといけないんですか?」
「この世界は不条理とでも思うかい? 実は最近、俺も知ったことなんだけど……意外とこの世は、捨てたもんじゃないらしい。例えば俺も、つい最近悪魔のような男に有らぬ濡衣を着せられかけた。この世界はおかしいと思ったさ。でも、俺がそんな、周囲もドン引きするような濡衣を着せられた時、カッターナイフを向けられた相手にでも向かっていってくれる勇敢な友達がいたんだよ。案外、この世も捨てたもんじゃないと思った」
軽井沢さんの目は、どうしてそれを知っているのか、と問うていた。
でも、それはきっと言わない方が良いだろう。たくさん考えるだけ、辛いことを思いだす機会も減る。
何より、彼女の疑問を解消するより、俺には伝えたい言葉がある。
「そして、ありがとう、軽井沢さん。君のおかげで、俺は余計な濡衣を着せられずに済んだ」
「……お礼を言われることなんて、そもそもあたしのせいなのに」
「……軽井沢さん、俺は君に謝ってほしくてこの怪我を負ったわけじゃない」
「……え?」
謝ってほしくて、この怪我を負ったわけじゃない。
咄嗟に言ったものの、じゃあ俺はどうしてあの時、身を挺して彼女を守ったのだろう?
言った後になって、俺は考えた。
いいや、思い出そうとした、が近いか。
……あの時、俺が考えていたこと。
すぐに、それは思い出せた。
だって、思い出す必要もないくらい、それはシンプルなことだったから。
あの時、俺が考えていたこと。
それは、ただ友達を守りたい、と……ただ、それだけだった。
俺はあの時、友達を守りたかったから身を挺した。
その友達は、手首こそ捻挫したが外傷はなかった。俺の願いは果たせられた。
……だったら。
俺の願いが果たせられたなら……謝罪よりも、ほしい言葉がある。
「ありがとぅ……」
掠れるような、小さな声だった。
「ありがとうございます、槙原君」
「……こちらこそ、ありがとう。軽井沢さん」
まもなく、軽井沢さんは俺に飛び込んできた。
頬ずりしながら、彼女は小さな赤子にでもなったように、うわんうわんと大きな声で泣き叫んだ。
病室に、彼女の泣き声がこだました。
そんな彼女の温もりを感じながら、俺は思っていた。
……痛い。
カッターナイフで切れた右手は、軽井沢さんの体に踏まれていた。
頬ずりされた方の頬は、水原とやらに殴られ、口内が切れた方の頬だった。
……まあ。
空気を読むのならそれは言わない方が痛い痛い痛い!
「槙原君……ありがとう。槙原君、槙原君……」
しばらく、軽井沢さんは離れてくれそうな気配はない。
あんなことを言った手前、軽井沢さんに離れてくれとも言えない。
……もしかして今、今日一で詰んでる?
一章完。チビデブブサイクって語呂いいよね。そう思った方は、感想、評価、ブクマよろしくお願いします。
バレンタインプレゼントをおらにくれ。
一話閑話を入れる気である。




