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『第8話 魔族ぞくぞく』


「ここにありてここになき地よ。今、我らの地と汝らの地をここに結びつけるものなり。我が魔力を一滴の始まりとし、汝らの魔力を持って応えよ。この世にあらざる魔導の世界。魔界の者達よ」

 ウブの魔導師連盟実験場。その1つで魔導師が禁じられた儀式を行おうとしていた。

 魔導師ルシフィアス、27才。この世を、人を憎み、忌み嫌い、それ故それらを自らの手で破壊しようとする者。彼の心に巣くうもの、それは「あいつら死ねば良いのに」である。自分の嫌いなものが自分より高く評価されるのが嫌だった。この世に存在して良いのは自分が認めたものだけだ。自分にいらないものはこの世にもいらないもの。そんな彼を周囲は「最低」と呼んだ。だが、ひとつだけ最低ではないものがあった。魔導の才能である。

 床の魔導陣の境界線は鶏の血が描かれ、中の文字は豚の血で書かれ、中央に描かれた3つの正三角形からなる九芒星は人の血によるもの。

 実験室の隅には、中央の紋様を描くのに使われた血の持ち主だった鶏が横たえられている。そして魔導陣の中央に3人の男が気を失って横たわっている。魔導実験の立会人たちだ。

「今ここに3つの魂に導かれ、我の下に来たれ。力に満ちし魔界の者よ。エロイムエッサイム、エロイムエッサイム。我は求め訴えたり」

 どこかで聞いたような呪文を唱える。憎悪の呪文は異世界共通らしい。

 魔導陣が揺らぎ始めた。蜃気楼のように。揺らぎは魔導陣の上だけで、その外にはわずかな乱れもない。空間が溶けるように混ざり合い、極彩色の斑模様が心臓の鼓動のように大きく、小さく蠢いていく。中央の男達の姿も、魔導陣の紋様もそれに飲み込まれていく。それに合わせて魔導陣の外側の空気も振るえ始めた。中の歪みが外に出ようともがき、その震えが伝わっているかのようだ。

「心の承認を司り、その要求に応えし魔界の王。我は汝をここに導く。汝の名はテン・ゼロ!」

 ルシフィアスの狂乱の笑みと叫びに合わせるように、魔導陣の歪みが少しずつ収まり、上の空間の透明度も増していく。

 歪みの中、生贄として用意された3人の姿は消え、代わりに人型のものが片膝をついているのが見えた。

 空間が晴れるに従い、人型のものの姿がハッキリ見えるようになっていく。

 2本の腕と2本の足。細長い胴体に頭。だが、その姿は人間ではない。あえて呼ぶならば「人のフォルムを持った甲虫」だろうか。手足やボディラインはオレンジ色の地肌に黒の斑模様が浮かぶ外骨格で、関節部からは濃茶の体毛らしきものが見える。人よりも長い指が4本。足の指は前に3本、後ろに1本と鳥のようだ。頭部は複眼のように見える大きな目が2つ。口は小さめで、小さな牙が見える。蜂の頭に蟻の口のようなものか。そしてお尻に当たる部分から鳥のような黒い尾羽が生えている。

 それがゆっくり立ち上がり、静かに見回した。自分がいる場所を確認するかのように。

「おお。よくぞ来た。承認の魔人テン・ゼロよ。伝承とお姿が違いますな。人の記憶というものはいい加減なものです」

 ルシフィアスが満面の笑みで魔導陣に近づいた。だが、決してその中に入ろうとはしない。

「テン・ゼロよ。我と契約を。その力を我の世における承認のために使う誓いを」

 魔導陣を挟んで彼は魔人と向かい合う。静かに、言葉もなく。

 魔人はしばし彼の顔を見ていたが、やがて静かに首を傾げた。まるで「何言ってんだ、こいつ?」とでも言いたげに。

 その時、扉が激しく叩かれた。

「ルシフィアス。ここを開けなさい。あなたの提出した申請書に虚偽の疑いがある。至急実験を止めてここを開けなさい」

 聞き覚えのある、魔導師連盟ウブ支部の副部長カール・スピンの声だ。

「やっと気がついたか。だがもう遅い……いや、ギリギリ間に合ったのかな」

 言いつつ彼は契約書を改めて魔人に突き出した。

「さあ、早く契約を。予め断っておくが、あなたが拒否すれば私はこの魔導陣を操り、あなたに魔界にもないような痛みと苦しみを与えることが出来る。魔人の魔力は人間を遥かに凌駕する。が、それでもこの魔導陣の戒めを破ることは出来ない」

 扉が固いもので何度も叩かれる。中から開ける様子がないので、無理矢理ぶち破ろうというのだ。

「非常事態だ。ある程度の被害は覚悟の上です。ルーラさん。荒っぽくてかまいません!」

 外からスピンの声がする。

 途端、大地が激しく揺れた! 床に亀裂が入り一部が陥没する。壁が割れ、天井が崩れる。

 床の魔導陣が真っ二つに避けた!

 扉が歪んだところを外からの強い衝撃。扉が室内に倒れ込んだ。舞い上がる埃の向こうに、メイスを構えたイントルスの姿が見える。

 開いた扉からサーベルを手にしたクインと弓を構えたスラッシュが飛び込むが、強烈な瘴気に出迎えられ足が止まる。

 部屋の中央。亀裂が入り砕けた魔導陣の中、魔人が立っていた。魔導陣が壊れたため、中の瘴気が漏れている。

「遅かったか……」魔人を見てスピンの顔が強張った。「魔界の魔族……魔人」

「これが魔族というやつか……」

「お話しの中だけの存在だと思ってたわ」

 イントルスとクインが得物を手に身構える。さすがに正面から突っ込むほど馬鹿ではない。

「魔族だかなんだか知らねえが、先手必勝!」

 馬鹿が1人いた。空拳の使い手ギメイだ。2人の間を駆け抜け、魔人の顔面に蹴りを入れようと跳ぶ!

 魔人が静かに右腕を上げ、二の腕の外骨格(のように見える部分)で彼の蹴りを受け止めた。魔人は身じろぎもせず、ギメイが逆に跳ね返るように床に転がった。

「硬ぇ。何だこいつ?!」

 スラッシュが続けざまに矢を放つ。それらは全て魔人に命中するが、かすり傷与えることも出来ずはじき返される。

「だったら!」

 スラッシュが狙いを変える。目だ。人よりも大きな複眼のような目に矢を放つ。

 瞬間、魔人の目を薄い膜のようなものが覆った。矢はその膜に弾かれてむなしく床に落ちる。

「無駄だ無駄だ。魔人を舐めるな」

 高笑いしながらルシフィアスが魔人の背に隠れる。

 天井が崩れて日の光が差し込み魔人を照らす。光に興味を持ったのか魔人が空を見た。その隙を突いて一気にクインとイントルスが間を詰める。サーベルとメイスが魔人を乱打する。顔を、体を、腕を、足を! だが、2人の同時攻撃にも魔人はびくともしない。

 スノーレが攻撃魔導で魔神を狙う。いつものように様々な力を帯びた魔導の矢で。

「下がって!」

 クイン達が下がるのに合わせて攻撃魔導を放つ。

「氷炎雷撃!」

 立て続けに氷と炎と雷の矢を放つ。魔力を練る間がないので威力は小さい。ダメージを与えるよりも、性質の違う矢をぶつけて弱点を探ろうというのだ。

「うりゃりゃりゃりゃりゃ!」

 奇声を上げながら片っ端から放つ様々な性質の魔導矢が次々と魔人に直撃。周囲に熱気と冷気と電撃の余波をまき散らかす。

 天井が爆発するかのように破裂し、魔人が外に飛びだした。背中の甲殻が開き、薄い、蝙蝠のような形の翼を広げて空中に止まった。その体にはわずかなダメージの跡すら見られない。

「まさか、あれでノーダメージ?!」

 スノーレが真っ青になって魔人を見上げた。

 魔導師連盟支部上空。魔人は静かに空に止まっていた。ゆっくり見回しウブの街を見下ろす。何かを考えるように指を額に当てて軽くうつむいた。途端、魔人の周囲を風が吹いた。

 衛士姿のルーラがいた。風の精霊の力を借りて空中に止まって魔人と対峙している。

「次は、あたしが相手です」

 静かに精霊の槍を構える。

 その様子を、壊れた実験室からメルダー隊長をはじめとする衛士隊第3隊の面々とスピンが見上げていた。

「単純な力くらべなら精霊は魔導師数十人……いや、数百人にも匹敵すると言われている。彼女が力負けするようなら」

 メルダーの解説にスピンが

「負けるなら?」

「お手上げだ」

 降参するようにメルダーが両手を挙げた。

 その脇。崩れた天井に押しつぶされてルシフィアスが白目を剥いていた。


 空中で対峙するルーラと魔人。と、いきなり魔人が逃げるように飛んだ。

 風の精霊にお願いしてルーラが後を追う。

「お願い!」

 精霊石を通じて風の精霊に語りかける。魔人の周囲の風を乱して飛ぶ妨害をするように。しかし、

「え?」

 精霊はそれを拒否した。

 魔人の飛行は止まらない。むしろ速度を増して住宅街の中に入っていく。彼女を撒こうというのか。

 後を追う彼女だが心の内は動揺していた。先ほど精霊が魔人に対する干渉を拒絶したこと。それで彼女は大事なことを忘れた。精霊の力は強力だが微調整が出来ない。町中のような障害物の多い場所を風で飛ぶのは難易度が高い。

 T字路を魔人がほぼ直角に曲がる。普段のルーラなら難なくそれに続いたはずだが、今の彼女には曲がりきれない。先には建物のベランダの角があった。

 この勢いで角にぶつかったら。焦る彼女だが間に合わない。ぶつかる!

 その寸前、無数の細い触手が彼女の体に絡みつき、角の寸前で止めた。

「え?」

 触手をたぐるように見上げると、そこには魔人がいた。伸ばした右腕の甲殻がいくつかに割れ、その隙間から伸びた無数の細い触手が彼女に絡みついている。触手自体かなり長く、10メートル以上離れた彼女に楽々届き、さらに余裕がありそうだった。あの勢いの彼女を止めるだけの強度と弾力も持っている。

 触手で結ばれたまま、魔人とルーラは静かに建物の屋上に下りた。

 彼女に絡みついた触手がほどけ、魔人の甲殻の中に収容、甲殻が閉じた。

 その姿をルーラは唖然として見上げ

「助けてくれたの?」

 魔人は無言のまま彼女が手にする精霊の槍を見ては小さく頷き、彼女の頭を軽く撫でた。まるで小さな子供をあやすかのような撫で方。

 もう一度頷くと魔人は翼を広げ、弾けるように飛んでいった。ルーラは呆然として追いかけることすら忘れている。

「ルーラ!」

 そこへスノーレが飛行魔導でやってきた。


   ×   ×   ×


 衛士隊の牢の中。囚人服姿のルシフィアスは小さな明かり用の窓から外をのぞき、高笑いしていた。

「ふははははは。愚かな人間共よ。これで勝ったと思うな。間もなくテン・ゼロが私を解放する。それが始まりだ。私の力を認めなかった己の愚かさを知るが良い」

 留置場に響く高笑い。

「うるせーぞ、おい監視。あのバカ黙らせろ」

 他の牢から文句が上がった。


「精霊が魔人への攻撃を拒否した?」

 ルーラの報告を聞いたトップス東衛士隊隊長は怪訝な顔をした。

「はい。私も友達だけど、あの魔人も友達だから邪魔は出来ないって」

「それはつまり。あの魔人も精霊使いということか?」

 その説明に一同が息を飲んだ。魔導師連盟ウブ支部の一室。普段は会議室として使われている部屋が、臨時の魔人対策本部として使われていた。そこで第3隊の面々とトップスがルーラの話を聞いていた。隅にはスピンの姿もある。

「はい。見た感じ、魔人は精霊石を持っていません。ですから精霊石なしでも精霊と心を通じ合えるんだと思います」

「頑強な肉体と強力な魔力だけでも厄介なのに。その上精霊も奴の味方か」

 メルダーが頭痛を抑えるように額に手を当てた。

「スピンさん。ルシフィアスがテン・ゼロと呼んだ魔人に弱点はないのですか?」

 皆がスピンを見る。彼は困ったように

「弱点どころか、テン・ゼロがどんな力を持っているかすらハッキリしないんです」

「でもよ。あのバカが召喚したって事は、ある程度奴のことはわかっているんだろう」

 ギメイが片手を軽く上げて発言した。

「わかっているような、いないような。そもそもあの魔人がテン・ゼロかすらハッキリしません」

「何だそりゃ?」

「遠回りになりますが、まずは魔人について説明させてください。皆さんは魔界というのはご存じですか?」

「私たちの住むのとは別の世界のことでしょう。小説なんかでよく使われる。で、魔人というのはその魔界に住む人のこと。魔族なんて呼び方もされるけど」

「魔族は頑強な肉体と強大な魔力を持ち、私たちの世界を手に入れるべく、機会を虎視眈々と狙っているなんて言いますが」

「魔界の王ザダンの名は聞いたことがある」

 勝手に言う一同をスピンは軽く制し

「古代魔導文明の遺跡に残された記録に魔界の存在が記されています。本来なら決して交わることのない別世界。その記録を分析した一部の魔導師が、この世界と魔界を結ぶ魔導陣を作ることに成功しました。しかし魔界の環境は私たちの世界とはあまりにも違いすぎて、うかつにつなげると私たちの世界に大きな被害を及ぼすこともわかってきました。そのため、魔界とを結ぶ魔導は魔導師連盟でも最高レベルの機密事項、封印と言っても良いものです」

「それほどのものをどうしてルシフィアスが手に入れたのですか?」

 イントルスの疑問はもっともだ。

「それについては私のミスです」

 スピンが申し訳なさそうに唇を噛んだ。

「私もかつて、魔界に興味を持っていろいろ研究していました。魔界とをつなげる魔導陣の作成にも一度成功しました」

 一同がどよめいた。

「詳しい経緯は略しますが、私は結局この研究を断念しました。……前歯の2、3本で済むうちにね」

 苦笑いする彼の口から、前歯の抜けた歯がのぞいた。

「しかし自分の研究です。断念しても記録を破棄することは出来ず、資料の奥底にしまっておいたんです。それを彼が見つけ、独自に研究を進め、今日この事態になったんです。

 話を魔人に戻しますが、古代魔導文明の記録にはおかしな所がありました。魔界については記録があるにもかかわらず、魔人についての記録がないんです。魔界の環境がほとんど。生物についての記録もありましたが、魔人のものではありません。

 魔人はその後、私たちの文明になってからの研究で確認された存在なのです。そして私たちは魔界に関する研究を封印した。ですから私たちの持つ魔人に関する知識は、そのほとんどが想像によるもの。魔人とはこういう存在に違いないと言った決めつけです」

「研究する以上、推測と事実とは分けて記録するものでは」

 スノーレが異議を唱える。衛士であると同時に魔導研究者でもある彼女にとって、事実と推測をごっちゃにすることは信じられない。

「魔導師の恥を語るようですが、魔界の研究者は見栄っ張りが多くて1番成果の高い解釈を記録として残す傾向があります。魔人の召喚、接触に成功しても、その魔人は魔界においてどういう立場なのかを魔人の自己申告や魔導師の決めつけを事実として断定するんです。

 例えば先ほど名前の出た魔界の王ザダン。これは接触した魔人が自分は王であると語っただけで、裏付けはありません。魔人が召喚者が何も知らないのを良いことに、ただからかってみただけかも知れません」

「自称・魔界の王かよ」

 ギメイが呆れて言った。

「しかし魔導師にとっては通りすがりの魔人Aよりも、その世界の王と接触したという方が箔がつきますからね。

 そもそもおかしいでしょう。王がいきなり異世界に、たった一人召喚されて動揺もせず我は魔界の王ザダンである。なんて言いますか? いきなり異世界に召喚されたら、どんな王だって動揺しますよ。それに王ならば、当然周囲には護衛をはじめ様々な守りがあるはず。適当に召喚したら、たまたま玉座に開いて王1人とだけ話が出来たんですか。

 魔族が私たちの世界を狙っているなんてのもそうです。そうならとっくに王宮の中心に魔界の門を開いて奇襲をかけていますよ。中には環境の違いから魔族は私たちの世界に長く留まれないなんて説もありますが、だとしたら彼らはどうして自分たちが存在出来ないこの世界を狙うんです? この世界に彼らにとって価値あるものがあってそれを狙っているならばその近くにいる人間に接触して取引します。

 なので、私は魔族というのは力は持っていても私たちへの敵対心はほとんどないと考えています。そりゃあ中にはこの世界を支配しようという魔人もいるかも知れませんが、それはあくまで超少数でしょう。

 失礼、これも私の推測ですね」

 しゃべりすぎて脱線しかかったのを恥じるように軽く咳払いし

「ルシフィアスの召喚は私の過去の実験記録を元にしたものです。私の召喚は特定の場所とをつなげるもので、特定の魔人とをつなげるものではありません」

「つまり、魔人側も自分たちの世界のどの辺りに人間が魔導陣で繋げてくるかわかっているということか。ならば、その時に備えて魔人を待機させておくことも出来る」

「いつ繋がるかわからないのにずっと待っているなんて。随分気の長い話ですね」

 スノーレの言葉にクインがぽんと手を打ち

「つまりこういうこと?」


●クインの勝手な想像・その1

 魔界の建物の一室で人間界から2つの世界を繋げる魔導陣が発動する。

 別室。魔人の1人が扉を開けて

「ザダンさん。人間界から召喚です」

 トイレの扉が叩かれ、中から

「すまん。ちょっと食い過ぎて腹の具合が、誰か代わりに行ってくれ」

 ソファで横になり、女性魔人のヌードグラビアを見ていた魔人が顔をあげ

「食い意地はって魔界まんじゅうを1人で50個も食うからだ。わかった。ちょっと行って来る」

 グラビアを置いて別室へ。そこで展開している魔導陣に入っていき

「ふははははは。我を呼ぶのは誰だ。我が名は大魔王ザダン」

 魔導陣を通してルシフィアスの前に現れる。


 クインの説明に、一同が頭を抱えた。

「お役所仕事か……」

「そもそも、魔人達にとってそんな面倒くさいことをするメリットがあるんですか?」

 スラッシュの意見ももっともだとばかりに皆が頷く。

「だったら」


●クインの勝手な想像・その2

 魔界の建物の一室で人間界から2つの世界を繋げる魔導陣が発動する。

 その前に数人の魔人が並ぶ横で、蝶ネクタイの魔人が

「いよいよ始まりました。魔界バラエティー『人間をからかいまショー』召喚しに来た人間達をどれだけ騙せるか。エントリー№1。サトウ・スズキさん」

 魔神の1人がポーズを取って魔導陣に入っていく。

「ふははははは。我を呼ぶのは誰だ。我が名は大魔王ザダン」

 魔導陣を通してルシフィアスの前に現れる。

 感涙する人間の姿が魔界のスクリーンに映り

「53点。うーん、ちょっとありきたりすぎましたね」

 魔神達の気のない拍手が響く。


 クインの説明に、一同が頭を抱えたまましゃがみ込んだ。

「馬鹿すぎる……」

「だいたい、いつ召喚してくるかもわからないのに悠長に待っているはずないでしょう」

「そこはそれ、人間界と魔界とは時間の進み方が違ってて、私たちの1年が魔界では5分ぐらい」

「せっかくの推論ですが」

 スピンは真顔で答えた。魔導研究においては事実を元に様々な推論がかわされる。その中にはぶっ飛んだものも多く。彼女の説にも彼は平常心を保つことが出来た。

「ルシフィアスの召喚は、私の異世界接続魔導陣を彼なりに改良したものです。ですから繋がる魔界の場所は今までとは違う、少なくとも私が試みたのとは別の場所です。あなたの仮説は繋がる場所が過去と同じであることが前提になっています」

「そっか。じゃあ、向こうもどこと人間界が繋がるかわからないわけだ」

 はたと気がついたようにクインがぽんと手を打った。


●クインの勝手な想像・その3

 夜。魔界の裏道を酔っ払った魔人が、折り詰め片手に千鳥足で歩いてくる。

「魔界の民は気楽な家業ときたもんだ♪」

 酔いどれ声で下手に歌いながら

「魔王や魔神にゃなれそうもねえが、人間世界に召喚されりゃ。けっこう箔がつくものさ♫ ちょいとした話のネタになる。とくらぁ」

 途端、目の前に光が溢れ、魔導陣が現れる。

「ん。何だこりゃ? うわぁぁぁぁ」

 魔導陣に吸い込まれる魔人。後には、彼の持っていた折り詰めだけが残された。

「お待ちしておりました。偉大なる魔界の王よ」

 魔導陣の前でルシフィアスが両手を広げ歓迎する。

 その前には、すっかり酔いの醒めた魔人がきょとんとして立っている。


 クインの説明に、一同が頭を抱えて床に倒れていた。

「コメントが思いつかない……」

 そこへ衛視の1人が飛び込んできて

「西地区で魔人と衛士隊が接触、戦闘に入りました!」

 途端、皆が真顔になり跳び起きた。


 留置場の中、ルシフィアスの高笑いが轟いた。

「愚かな人間達よ。お前達に魔王テン・ゼロを止められるものか。テン・ゼロを前にしたものは、皆、無力に打ちひしがれ、己の価値のなさに絶望するのだ!」

「うるせーぞ。同じようなセリフばっかり繰り返しやがって。他に言い方知らねーのか!」

 他の牢からの声が少し小さくなっている。文句も言い疲れたようだ。


   ×   ×   ×


 戦闘があった西地区の河川敷公園は、樹木が焼け、屋台が壊れ、建物には亀裂が入り戦いの傷跡を無数に残していた。

「何だ奴は? 剣も矢も攻撃魔導も通じん。早く手を打たないと、とんなことになるか?!」

 ウブ西衛士隊隊長フィル・ワイドが苛立ちを隠さずトップスに食ってかかる。魔神の召喚を防げなかった東衛士隊に文句の1つも言いたくなる気持ちを隠そうともしない。

 被害状況を見回したスピンは怪訝そうに顎をなで

「1つ伺いたいのですが」

「何だ?」

「魔人はどんな攻撃をしてきましたか?」

 ワイドの口が止まった。

「見たところ、これだけ広範囲で戦いがあったにもかかわらず、怪我人がいない。魔人が本気で暴れたらとてもこの程度では済みません」

「何が言いたい?」

「召喚された直後に東の衛士隊と交戦したとき、魔人は自分から攻撃したりせず、ただ衛士の攻撃を受け、かわし、逃げただけです。ここでもそうだったんじゃないか。ここの被害のほぼ全ては、かわされたり弾かれたりした衛士の攻撃によるものではないかと思っただけです」

「こちらの攻撃が一切通用しないのだ。焦って攻撃が大げさになったところは……確かにある」

「気を悪くしないでください。あなた方の攻撃を責めているのではありません。何しろあの魔人に関してはわからないだらけ。分析するには、何だろうと奴の動きや対応を材料にするしかありませんので」

「奴が積極的に攻撃しない理由があるのか?」

「魔人を召喚した魔導師は捕らえたままです。魔人は何のために召喚されたかもわからず、戸惑っているのかも知れません」

「様子見だというのか」

「だとしたら、へたに刺激するのは危険です」

「召喚した魔導師をエサにして奴をおびき寄せるというのは?」

 ワイドの提案にトップスが苦笑いで

「おびき寄せても対抗策がなければ意味がないだろう。何しろ今のところ奴に有効な攻撃がない。へたに召喚魔導師を取り戻されたら大変なことになるかもしれん」

 その答えにワイドも納得するしかない。


 被害現場をルーラ達第3隊の面々はベンチに座って見ていた。

「これだけの戦いの中、怪我人を出さないとは。あの魔人、力の使い方を心得ている」

 力神ゴーディスの信者でもあるイントルスにとって、戦いは力加減のうまさを図る場でもある。使うべき時に使わなくても、使うべきでないときに使っても被害は大きくなる。

 クインが隣に座っているルーラが何か迷っているよう見えて

「どうしたの?」

「怒られるかも知れないけれど……あの魔人さん。悪い魔人じゃない気がする」

 その言葉に皆が彼女を見た。彼女には、先の戦いで自分を助け、頭を撫でていった魔人の姿がどうしても頭から離れなかった。

「確かに、あの魔人は我々の攻撃をあれだけ受けても決して反撃せず、ただ逃げるだけだった。強者の余裕かも知れないが」

 イントルスが自分たちの全力攻撃を受けまくっても無傷だった魔人の姿を思い出す。

「あるいは俺達を馬鹿にしているかだな」

 ギメイは面白くなさそうだ。

「理由が何であれ、向こうから積極的に攻撃してこないというのはありがたい」

 トップスとワイドがやってきた。今までの会話を小耳に挟んでいたらしい。

「だがいつまでもおとなしくしているとは限らない。何とか奴かどこにいるかだけでも把握しておきたい」

「過去の記録からも、魔人は私たち人間同様の知恵があることは明らかです。ならば、魔人の立場を考慮して、彼……性別があるかはわかりませんが、とりあえず彼と言います。彼が何を考え、どう動くかを予測することは出来るはずです」

 一同の視線がワイドに集まる。

「彼は逃げるときルシフィアスを助けなかった。彼にとって召喚者はその程度の存在なんです。私は先ほどフェイリバースさんが言ってた『勝手に召喚された魔人』の可能性を考えています。少なくとも、承知の上で召喚されたのなら彼を放っておくような事はしないでしょう」

「その割には落ち着いているように見えたけど。勝手に召喚されたなら、何が起こったのかもわからず、もっとあたふたすると思います」

 スノーレに意見に彼は頷いたが

「あまりにも突飛で急だったため、認識できずぼーっとしていただけかも知れません。そこへ私たちがいきなり攻撃をかけてきた。幸いにも自分を傷つけるほどではなかったので、とりあえず逃げた。

 彼はこの人間界のことを話には聞いていても、詳しいことは知らないかも知れません。ちょうど皆さんが魔界や魔人の存在は知っていても、魔界とはどんな世界か、魔人とはどんな生き物なのかを具体的に知らないように。

 でも、今は違う。信じるかはともかく、彼は自分が人間界に召喚されたというのを可能性の1つとして認識しているのでは」

「決めつけすぎではありませんか?」

 そういうイントルスにスノーレが

「決めつけじゃなくてとっかかりの仮説です。なんだかわからないときは、わかる範囲で仮説を立て、それを基に捜査を進めるべきです。新しい情報が得られたら、それに合わせて仮説をどんどん修正していけば良いんです」

「そういうことです。そこで魔人が次に何をするかですが。先ほどは否定しましたが、途方に暮れた魔人が改めてルシフィアスとの接触を試みる可能性はあります。彼に誰かつけておいた方が良い。それになんだかんだ言っても彼はこの召喚事件の首謀者ですし。それは私がやりましょう。いろいろ聞きたいこともあります」

 承認を求めるようにスピンに見つめられたトップスは、言うまでもないと頷いた。

「他にどう動くかだが、お前らだったらどうする。いきなり知らない世界に召喚されたら」

「まず現状把握ですね。でも、魔人が人間界のことをどれほど知っているか?」

「ラウネ教会は? あそこは情報の塊みたいな場所だし。まずそこへ行くんじゃ」

「魔人がラウネのことを知っていますか?」

 クインの意見はあさりスラッシュに否定される。

「魔人さん、知らない世界で攻撃されて、困っているだろうなぁ」

 ルーラがそこに魔人がいるかのようにぼんやりと空を見上げ

「お腹も空いただろうし」

「それよ!」

 クインが叫んだ。

「あの魔人だって、生きることを優先するはずよ。だったら水と食べ物を手に入れることを考えるはず」

 なるほどと皆が首を縦に振る。

「問題は魔人が何を食べているかですね。人間と同じものとは限らない」

「生き血をすするとか。若さを吸い取るとか」

「それについては少ないですが記録があります」

 スピンが会話に割って入り

「召喚した魔導師が出した紫茶と菓子を食べたそうです。魔人は人間以上に個々の肉体に違いがありますが、根本的なところはそれほど変わらないはずです」

「じゃあ、私たち人間と同じものを飲んだり食べたりするって事ね」

「栄養になるかはわかりませんが、害はないようです。とりあえず空腹を満たすだけなら問題ないようです」

「でも、あの魔人がそれを知ってますか?」

「しなくても、何か食べ物を探すとき、それが食べられるかどうか判断する目安として人間が食べているかを材料にする可能性は高い」

「すると狙うとしたら、外からもそれが判断出来る屋台とかの出店。あるいは食料品店か」

「出店ならみんな食べているだろうけど、食料品店ならただ買っていくだけだから食べ物かどうか判断出来ないでしょう」

「やはり屋台か。テラス席を設けている店も危ないな」

 トップスが答えを出すかのように絞り込んでいくが、

「隊長、ウブだけで出店の集まっているのは何十箇所もありますよ」

「個人の店舗も入れたらキリがありません。衛士を総動員しても見張りきれません」

「わかっている。とりあえず外からものを食べているところが見られない店は除外して良いだろう。飲食席を外に出している屋台の出店を中心に見張ろう」

「出来れば近くに身を潜める場所のあるところ」

「騒ぎを大きくしたくないなら、人が多すぎるところはむしろ敬遠するのではないか」

「こうして話をするだけではどうしようもない。スノーレとルーラは空から魔人を探せ。スノーレは魔導探知眼鏡を使え。魔人が魔導を使ったとき反応するかもしれん。他のものは食料品店の並ぶ商店街を回れ。魔人と遭遇しても手を出すな。人的被害が出なさそうならば、見失わないように距離をおいて見張れ」

 メルダーが指示し、一同が簡単に打ち合わせて散っていく。

「私は本部に戻ってできるだけ人をかき集めよう」

「ワニゲーター騒ぎを思い出しますね」

「あれより始末が悪い。あれより強くて知恵もある。こちらを刺激しようとしない分、立ち回りも考える。なのに相手の資料は皆無に等しい。ほとんどが推測、手探りの捜査だ」

「すみません」

 申し訳なく謝罪するスピンに、

「謝る時間があったら対策してくれ。直接相手をする我々と違って、一歩引いた場所からの分析、対策はあなた方しか出来ない」

 言われてスピンは走り出す。目指すは衛士隊本部、ルシフィアスのいる留置場だ。


   ×   ×   ×


 西に沈みはじめ、力が衰え始めた陽を魔人はアパートの4階から見ていた。そこは誰も借り手がないまま空き室になっていた部屋で、たまたま部屋主が風を通そうと窓を開けていたところを潜り込んだのだ。

 壁にもたれて座り、じっと体を休めながら魔人は部屋の中を何度も見回した。部屋の中にいくつか家具はあるが、中はみな空だ。

 魔人が何を考えているのかなどわからない。これから行おうとする悪事を考えているようにも、追われるのに疲れているだけも見える。途方に暮れ、涙を流さぬまま泣いているようにも見えた。

 扉越しに足音が聞こえる。他の部屋の住人が帰ってくる時間なのだ。もちろん魔人にそんなことはわからないが、ここに居続けることはまずいと感じたのだろう。静かに自分が入ってきた窓に歩み寄り、そっと外を見た。その足取りは重い。魔人は静かに自分の腹に手を置いた。ルーラたちの推測は正しかった。魔人は腹が減っていた。とにかく何か食べたかったが、何を食べて良いのかがわからなかった。

 窓から見た通りの向こう、この世界の生き物が住居として作り上げたらしい箱の下の部分に灯りが見えた。開かれた窓ごしに何やら小さな薄茶色の塊が見える。形や一部の色が違う塊が、同じ塊同士に分けられて置かれている。丸いもの、平べったいもの、四角いもの、棒みたいなもの。人間達が度々入っていてはその塊を取り、出て行く。

 今もまた1人の人間が袋を持って出てきた。袋の中身はいくつかの塊。人間は袋からその1つを取り、口にした。一部を食いちぎり口を動かす。その時の人間はとても嬉しそうに見えた。

 その塊が人間の食べ物であると知った魔人は窓を飛びだし、一直線にその塊がある箱に向かっていく。

 人間が出入りした穴の上には、何やら文字らしいものが刻まれた板が飾られていたが、もちろん魔人にはその文字は読めない。

 「ファウロ・ベーカリー」


 客の途切れたタイミングでリムルは厨房で働く夫に声をかけた。

「焼き上がりの予定は?」

「今焼いているコーンブレッドで今日は最後だ」

 相変わらず無愛想だがどこか優しげな声が返ってくる。

「今日は売れ行き良くないねぇ」

 店内に残ったパンはいつもより多い。何でも街を化け物がうろついているとかで、みんな外出を控えているらしい。ファウロ夫妻は2人とも33才。子供はいない。欲しいとは思っているが、こればかりはパン作りのようにはいかない。

 入り口の扉が開き、つながれている鈴が鳴る。

「いらっしゃ……」

 言いかけたリムルの口が固まった。

 開かれた扉から魔人が入ってくる。

 リムルの悲鳴が轟いた。


 留置場にルシフィアスの高笑いが響こうとして、むせた。

「げーげー。おい看守、水をよこせ」

「ずっと笑ってばかりだから。他にすることはないのか」

 牢の鉄格子の向こうに現れたのは看守ではなくスピンだった。手には丸めた紙を持っている。

「おやおや副支部長サマ。その様子では、我が魔人テン・ゼロに手を焼いているようですな。いくらあがいても無駄なこと。テン・ゼロはお前達が絶望するまで破壊を止めない。絶望、失望、己の存在自体に自信をなくさせるのがテン・ゼロの望み」

「ならば、あの魔人はテン・ゼロではない」

 ルシフィアスの表情が初めて陰った。

「あの魔人は、これまでに自分から私たちを攻撃したことはない」

「お前達の力など無意味だとわからせるため、わざと好きなように攻撃させているのだ。そんなこともわからないのか。副支部長サマ。あんただってかつては魔人と接触を試みた1人だろう」

 再び彼の顔に自信がみなぎり始めた。

 スピンは拳を固く握りしめる。握る紙に皺が寄るが、すぐに力を抜くと、紙を彼に向かって広げて見せた。

 紙には所々模様の抜けた魔導陣が描かれていた。

「それは……」

「あなたが魔人召喚に使った魔導陣だ。君の資料に基づき再現してみたが、一部わからないところがある。確認しようにも実物は突入時に床と一緒に壊れてしまい判読出来ない」

 スピンは空欄になって場所を指さし

「この部分に描かれた紋様は何だ?」

 その質問に唖然としたルシフィアスだが、すぐに喜びを隠しきれない笑みを浮かべる。

「そうだ。何をするにも、この私の力に頼るしかない。その魔導陣を再現して何をする気だ?」

「魔界の門を開く。もう一度、ここと魔界を繋げる。その後どうなるか、君ならわかるはずだ」

 うっすら開く口から前歯が足りない歯がのぞく。それだけ見ると間抜けだが、口の上にある2つの目はぞっとするほど冷たかった。

 思わずルシフィアスが後ずさるが、負けてたまるかとばかりに踏みとどまりお前の考えはわかっているぞとばかりに

「いいだろう。魔導陣を完成させてやる。ただし私を釈放して魔導陣の場につれていけ。修復の最期は私自らやる」

 おびえを必死に撥ね返そうとするその目を見たスピンは、口元を緩ませ背を向けた。

「準備が出来たら手を回す。それまで牢で途方に暮れているふりをしていてください」

 留置場から出たスピンをトップスが出迎える。

「魔人が見つかった。うちの女性衛士達が寮として使っている建物の1階、パン屋に籠城している」

 最期まで聞かずにスピンが走り出した。


 ファウロ・ベーカリー店内。

 魔人は店内のパンを片っ端からつかんでは貪るように食べ続けた。吟味する様子はない。平パン、食パン、サンドイッチととにかく手当たり次第だ。

 二の腕の甲殻が我、無数の触手が伸びてはパンをつかんで口まで運ぶ。

「ちょっ、ちょっと。何してんのよ。うちのパンだよ」

 リムルの口調は勇ましいが、レジのテーブルに隠れて顔をのぞかせてなのでいつもの迫力がない。震える手に力を込め、立ち上がろうとしたところを、後ろから大きな手が伸びてその肩を押さえ込む。

「へたに動くな」

 振り返ると夫ルーベント・ファウロの顔があった。

「こいつが噂の魔人か」

 彼はじっとパンを食い続ける魔人を見つめた。2人の目が合う。

 魔人がファウロと対峙し、腰を落としては身構える。だが、その間も触手を動かしては棚のパンを取り、口に運んでいく。

 突然魔人の動きが止まり、喉を押さえて苦しみだした。

「な、なんだい。やめとくれ。うちのパンに変なものは入っちゃいないよ」

 触手が身悶えるように大きくしなり、棚に残ったパンをなぎ払い、たたき落としていく。

 その苦しみを見ていたファウロはレジの横にある水差しと大きな木のコップを持って魔人に近づく。

「あ、あんた。危ないよ」

 妻の訴えを無視して、彼は魔人の前に立つと彼にわかるよう、大きな身振りでコップに水を注ぎ込んだ。そして見せつけるように半分飲むと、減った分を新たに継ぎ足して魔人の前に置く。

 魔人が触手ではなく腕を伸ばしてコップをつかむと、先ほどのファウロと同じようにして水を飲んだ。続いて水差しを奪うように取ると、直接グビグビと飲み干した。

 それで落ち着いたのか、魔人は静かにコップと水差しをテーブルに置く。

「慌てて食うから、パンを喉に詰まらせるんだ」

 彼は厨房に入ると、釜から焼きたてのコーンブレッドをのせたトナーを手に戻ってきた。

 トナーを置くと、魔人の目の前でコーンブレッドを1つ取り2つに割ってみせる。白い身の中に黄金色のコーンがぎっしり詰まり、甘い匂いが広がった。

 彼は割った半分を自分の口に運び、残りの半分を魔人にさしだした。魔人は戸惑いつつもそれを受け取り、口に運ぶ。

「あんた……」

 レジ越しに心配そうな目を向けるリムルに彼は

「大丈夫。こいつは……腹が猛烈に減っているだけだ」

 トナー上の焼きたてコーンブレッドを次々食べる魔人の姿にファウロは静かに頷いた。魔人の食べ方にはわずかに変化があった。今まではただ空腹を満たすためだけに片っ端から口に運んでいたのが、ゆっくり噛みしめ、味わう気配があった。

 トナーを空にしてやっと魔人は落ち着いたのか、静かに辺りを見回す。店にあったパンは半分以下に減っている。ファウロは床にたたき落とされたパンを拾い上げながら

「えらく食ったな。魔人はみんな大食いなのか?」

 不器用な笑顔を向けられ、魔人は肩をすくめた。それはまるで申し訳ないと恐縮しているように見えた。

「あんた。衛士達だよ」

 リムルが窓の外を指さした。

 カーテン越しに衛士達の姿が見える。

 それを見た魔人が動いた。リムルごとレジを跳び越え奥に走る。

 奥に扉がある。今まで潜んでいた建物から、それが外と通じる出入り口だと言うことを知っていた魔人はそこから外に出る。

 ちょうどやってきたルーラたちと鉢合わせ。

 一瞬動きが止まった魔人とルーラたち。が、魔人はとっさに彼女たちから逃げるように目の前の階段を駆け上がる。

「そっちに逃げるな!」

 階段を上った先は彼女たちの寮だ。慌てて追いかけようとするクインに、段上の魔人が身構える。狭い階段、魔導などで攻撃されたら逃げ場がない。彼女はとっさに入り口の陰に隠れた。

 身を翻して階段を駆け上がる魔人の足音を、登り口でクイン、ルーラ、スノーレはじっと聞いていた。追いかけたいが、待ち伏せされたら終わりだ。


 夜。ベーカリーを遠巻きに囲む衛士達。寮への階段登り口にはイントルスとスラッシュが武器を手に見張っている。

 女子寮となっている3階に点いている灯りをルーラは見上げ

「あの灯り。光の精霊です」

 光源によって照らされる灯りと違い、光の精霊による灯りはその空間そのものがぼんやりと光に満たされる。精霊使いである彼女には馴染の光だ。

「信じにくかったが……魔人が精霊の力を借りられるというのは本当なのか」

 彼女と並んで見上げていたトップスが頭を掻いた。

 そんな2人を慰めるかのように、足下にいた虎猫が鳴いた。衛士隊第2隊に所属する魔導師オレンダの使い魔アバターである。

「アバター、お願いね」

 ルーラがお願いすると、任せてとばかりに一声泣いてアバターが階段を駆け上がる。猫だけに足音1つしない。普段衛士の偵察、侵入役をしているだけに度胸も据わっている。

 2人が店内に入ると、片付けられた店の中央にオレンダが座り、魔玉の杖を手にしたままじっと目を閉じている。彼は今、アバターと感覚共有している。アバターの見聞きしたものが全て彼にも伝わってくる。これを用いての遠距離偵察が彼の得意捜査だ。別隊の彼をわざわざ応援に呼んだのは、この能力があるからだ。

 周囲ではメルダーを初めとする第3隊の面々。そしてスピン、ファウロとリムルもいる。ここ、ファウロ・ベーカリー店内は臨時の本部となっていた。

「魔人の姿はありません。入り口……扉が開いています」

 目を閉じたままオレンダが報告する。今、アバターは3階、寮の入り口の扉まで来ている。

「開けっぱなしか? 不用心だな」

「閉めると閉じ込められるような気がして嫌なのかも」

 たとえ閉まっていたとしても、アバターは使い魔として並の猫を遥かに超える身体能力がある。鍵さえかかっていなければノブに飛びつき、回して開けることが出来る。

「ちょっと。口で言われてもわからないわよ。あんたが見ているのを私たちにも見せることは出来ないの? 一応、私たちのプライベート空間なんだから」

「一応、出来ますけれど」

 なんか渋る彼に

「だったらやりなさいよ。部屋の主である私たちも一緒に見た方がいろいろ役立つでしょ」

「それはそうだけど、感覚共有の中身を投映するって、ものすごく魔力を消費するのよ」

 スノーレが助け船を出した。

「どれぐらい持ちそう?」

「5分持てば」

「やりなさい」

 強いクインの口調に彼も諦め、杖を突き出すように前にかざす。魔玉を中心に空間が歪み、アバターの視界が映し出される。ちょうど入り口の扉が半開きになっている。

「入ります」

 視界が移動し室内に入る。女性衛士3人にとっては見慣れた室内のはずだが変な感じだ。視点が低いせいだろう。

 共有のキッチンと居間が見えるが魔人の姿はない。

「私の部屋の扉が開いています」

 スノーレに言われて手前の扉が半開きになった部屋に近づきのぞき込む。

 魔人が立って分厚い本を開いていた。

「私の百科事典」

 その通り。魔人はスノーレ所有の百科事典の一冊を取り出し、開いては感心したように小さく頷きページをめくる。こちらに背を向けているためアバターには気がつかないようだ。

「人間の文字が読めるのかな」

「絵を見ているだけかも」

「あの魔人、学者さんなんじゃ」

 ルーラの言葉にクインがまさかと苦笑いするが、スピンは

「かもしれません。私たち人間も性別、性格、職業は千差万別。魔人だってそうでしょう。私たちはあの魔人について何も知らない」

 魔人が動いたのでアバターが一時下がって身を潜める。

 じっとしていると、魔人が出てきて別の部屋に入る。

「私の部屋?!」

 クインが叫んだ。

「入ります」

 アバターを進めようとするオレンダに

「待って。部屋を片付けてない!」

 クインのストップに皆がコケそうになった。

「そんなこと言っている場合ですか?」

 その間にアバターは先ほどまで魔人のいたスノーレの部屋をのぞき込む。本棚はきれいに揃えてあった。

「あの魔人、見た本をちゃんと戻している」

 スノーレの言葉にスピンが納得したように頷く。

「オレンダ、いいから進め」

 トップスの指示でアバターを進ませ、慎重にクインの部屋をのぞき込む。脱いだ服や雑誌がテーブルやベッドに放り出され、お世辞にも片付いているとは言えない。

「魔人め。私の部屋をめちゃくちゃに荒らしたわね」

 クインがどこか棒読みじみたセリフを吐く。皆が心の中で「嘘つけ」とツッコんだ。

 魔人も部屋の様子に戸惑っているようだ。首を傾げ、ベッドの上の布きれを手にした。

「私のぱんつ!」

 何だろうと彼女のパンツを手にし、ひっくり返したり透かしたりしている魔人の姿にクインが

「止めて。手を離して」「じっくり見るな」「匂いを嗅ぐな」「食べるなぁ!」

 叫んでも声が届くはずもなし。

「あ、吐き出しましたよ。良かったですね。パンツは食べ物じゃないってわかったみたいです」

 ルーラが慰めになっていない言葉に

「あの魔人、殺す!」

 サーベルを手に1人飛び出そうとするのをイントルスが羽交い締めにして押さえる。

 皆が呆れる中、スピンとスノーレだけは真顔で魔人の映像を見ている。

「副支部長、これって」

「ああ、間違いない。あの魔人は人間についての知識がないか、あっても人間界というものがあるぐらいだろう」

「何でそう言い切れるんです?」

 クインに質問に彼は

「君のパンツを食べたのが証拠です」

 彼女の目が点になった。呆れたようにスノーレが息をつき

「副支部長。もう少し順序立てて説明してください」

 言われて自分の説明が不味かったことに気がつき、スピンは軽く咳払いをした。

「では改めて。見ての通り、あの魔人は甲虫と鳥と獣を混ぜたような外見をしている。私たちにとっての『服』がないんです。だから下着を見てもそれがなんだかわからなかった。もしもあの魔人が人間について知識があれば、私たちは布や皮を身に纏い、肌を守ったり飾り立てる風習があることを知っているはず」

「じゃあ、私たちの着ている服をあの魔人は」

「皮膚だと思っているんでしょう。衛士の皆さんは同じ制服を着ているので同一種と思っていますよ。

 魔人が人間について知らないのは、ルシフィアスが召喚しようとしたのとは別の魔人だからです。前に話に出ましたが、彼はいきなりこの世界に召喚された、ただの通りすがりの魔人なんです。

 ならば事態を解決する最善策は、あの魔人を魔界に帰すことです。いきなり知らない世界に召喚されて訳がわからずとりあえず自分を攻撃してきた生き物たちから逃げていた彼も、今は状況を察し、空腹も満たされて落ち着いて対処出来る精神状態になっているはずです。

 私たちに敵意がなく、もう一度魔界とこの世界を繋げようとすることを知ってもらえれば」

「繋げるって、そんなことが出来るの。まさかあのバカ魔導師に」

「その必要はありません」

 スピンは丸めた紙を取り出し、広げて見せた。それにはルシフィアスが使ったあの魔導陣が一部欠けた状態で描かれている。

「これはルシフィアスが召喚に用いた魔導陣です。床に描かれていたものを写しました。床が壊れていたせいで一部不明瞭なところがありましたが」

「不明瞭なままでも繋げられるんですか?」

 スラッシュがもっとな疑問を口にする。

「無理です。何とかルシフィアスから聞き出そうとしたんですが失敗しました。でも欠けた部分はあの魔人が知っています」

「でもあの魔人って、ただの通りすがりなんでしょ」

「詳しいことは省きますが、この魔導陣に描かれた紋様は人間界と魔界のどこをつなぐかを示しています。要するにこの紋様は魔界の」

「住所か?!」

 トップスが合点がいったように手を打った。

「そうです。だからあの魔人に聞けば欠けた部分がわかります。全く同じでなくても、ここなら魔界に戻った後、自分の家まで帰れる程度に近い場所になるでしょう」

「面倒くさいな。適当じゃ駄目なのか? 同じ魔界なんだろ」

 ギメイが言うのを

「そんなこと、同じ人間界だからってウブからさらった人をアクティブや戦東群国の果てに放り出すようなものです。それに適当に描いて魔界の火口や海の底と繋がったら大変です。溶岩や海水がこちらの世界に流れ込んできますよ」

「そりゃそうだ」

「なので私たちに敵意がないことを知ってもらい、この魔導陣の完成に協力してもらえれば。魔導師連盟に一緒に来てもらい、魔導陣の作成に協力してもらえれば1番良いのですが」

「スピンさん、魔人の言葉を話せるんですか?」

「いくつかの単語は知っています。あとは気合いとゼスチャーで何とかします」

「何とかって」

 呆れる声に

「可能性はあると思います。百科事典に興味を示したり部屋を観察したりするところを見ても、知的探究心の高い魔人だと思います。あとはどうやって敵意がないことを知ってもらうかですが。エルティースさん。協力をお願いします」

「あたし?」

 ルーラが自分を指さし驚いた。

「あの魔人は精霊使いとしての力も持っている。精霊を通して、私たちに敵意がないことを伝えて欲しいのです」

「精霊を通訳にするのか」

「ええ。出来ますか?」

「それぐらいなら出来ると思いますけれど。でも、細かいことまでは無理です」

「十分です。魔人を対話の席に着かせるのが目的ですから。それからは私の仕事です」

「俺も行く。あの魔人に悪意はないという意見に賛成だ」

 ファウロが前に出たので一同驚いた。

「大丈夫かい?」

 心配げな妻の声に彼は胸を張り

「俺と魔人は1つのパンを2つに分けて食べた仲だ」

 それ、違うんじゃと言いたいのを皆が飲み込む。それでも心配げな顔のリムルに彼は

「信用しろ。俺はお前が亭主に選んだ男だぞ」

「あんた……」

 そこへ馬が駆けてくる音が聞こえた。衛士隊の事務員セルヴェイが慌てて馬を飛ばしてきたのだ。彼は店内に駆け込み

「大隊長が来て手の空いている衛士達を集めています。準備が出来次第、魔人に総攻撃をかける気です」

 その報告に一同が驚く。

「まさか。あの大隊長がそれをする?」

 東西に分かれているウブの衛士隊のまとめ役としてトップに立つ大隊長。ほとんどお飾りで、実務は東のトップス隊長、西のワイド隊長に任せっきりである。

「実績を立てる良い機会と思ったのでは」

 大隊長がウブの政界進出を考えているのは彼らも知っている。ここで魔人を倒せば大きな実績となる。

「仕方がない。ルーラはスピンさんたちと一緒に魔人と接触、魔導陣の完成に協力しろ。準備が出来次第、魔人を魔界に帰せ。メルダー、後の指揮は任せる」

「トップス隊長は?」

「本部に戻る。大隊長を相手に少しでも時間を稼ぐ」

 言うとセルヴェイと共に店を出て行く。残されたメルダーは皆に向き直り

「ルーラ、スピンさんとファウロさんを連れて魔人と接触しろ。接触後はスピンさんに従え。クインとスノーレはいつでもルーラたちの助けに入れるように3階入り口付近で待機。スラッシュ、イントルス、ギメイは私と一緒に建物周囲を警戒、野次馬達を近づけるな。リムルさんはここから離れてください」

「すみません。ディルマさんにはやってほしいことがあります」

 スピンが片手を上げてスノーレに向き直り

「魔導師連盟に戻り、ルシフィアスが使った魔導陣の修復準備を。床を片付け、直せる範囲で魔導陣を修復、支部に残っている者がいたら手伝わせろ。渋るようなら私の命令だと言え」

 メルダーが頷くのを見て彼女は「わかりました」と店を飛び出す。

「スノーレの代わりにギメイ、クインと一緒に待機しろ」

「りょーかい!」

 張り切って拳を鳴らすギメイ。

「魔人がクインさんの部屋を出ました」

 オレンダが肩で息をしながら報告する。

 皆が一斉に共鳴映像を見ると、魔人がちょうどクインの部屋の前で、残ったルーラの部屋と窓を見比べていた。

「調べるか出て行くか迷っているみたいだな」

「……すみません……限界……」

 映像が消え、オレンダが静かに倒れた。

「魔力切れですね。ありがとう」

 床に倒れたまま静かに寝息を立てている彼の頬をルーラが優しく撫でる。彼は数時間このままだ。

「魔人が外に出たら接触するだけで大変です。急ぎましょう」

「わかりました。おかみさん、オレンダさんをお願いします」

 一礼してルーラがスピンの後に続いて店を出る。


 3階。キッチン前で魔人はアバターの喉を撫でていた。魔人にとって猫は未知の生き物。用心すべき存在なのだろうが、不思議と警戒心は起こらなかった。アバターも素直に顎をなでられていた。

 魔人はなにを考えているのか? いくらか空腹をしのげたもののそれだけだ。むしろ心が落ち着いてきたからこそ今、自分の置かれた状況がわかってきた。自分はこれからどうすれば良いのか。

 気配を感じ魔人が入り口を向くと、扉が静かに大きく開いてルーラとファウロ、スピンが現れた。

 身構え、逃げられるだろう窓を見る魔人の心に優しい声が届いた。精霊の声だ。ルーラが精霊石を通じて、自分たちが敵ではないと彼に訴えているのだ。

 さらに彼女の後ろにいるファウロの姿に魔人の警戒心は緩んだが、その隣にいるスピンの姿に緊張が増す。この世界に連れてこられたとき自分を攻撃してきた生き物の中に見た姿だ。

 スピンもそれはわかっているのか、緊張した面持ちでルーラの前に出ると静かに奇声を発した。ルーラとファウロには荒げていないだけで奇声と言って良いものだったが、それは彼の知る数少ない魔人が会話に使う単語だった。それは謝罪の単語。私たちの言葉に直せば「ごめんなさい」だ。

 それを言いながら静かに近づいてくる彼に、魔人も警戒心は解かないまでも攻撃を仕掛ける様子はない。何となくこの人間達が自分と話がしたいらしいと言うのは感じ取れた。アバターが鳴いてルーラの下に行ったのも緊張を和らげた。

 ルーラに促され一同は居間に場所を移した。魔人もついてきたため、どうやらこちらの様子を見るぐらいのゆとりはあるらしいと3人は感じた。ファウロがテーブルに持ってきた紙袋を破いて広げる。中身は店のパンだった。

 少しでも警戒心を解こうと3人がパンを口にすると、魔人もそれに合わせた。

 それに満足したスピンがいよいよとばかりに未完成の魔導陣を広げた。途端、魔人か緊張するのがわかる。

(お願い。彼の質問に答えるよう魔人さんに伝えて)

 ルーラにお願いされた精霊たちが、とりあえず魔神にそれを伝える。もちろん細かなニュアンスまでは伝わらない。が敵意がないことだけでもわかって欲しかった。

 それが届いたのか、魔人は静かにスピンを見た。とりあえず話は聞こうという感じだ。

 スピンは魔導陣の空欄になっている4ヶ所を指さし、肩をすくめる。続いて魔導陣を広げるように手を広げ、魔人をその中に入れるような仕草をする。魔導陣を通じて魔人を向こうに帰したいというつもりの仕草だ。だが、果たして魔人に通じるか?

 魔人は静かに魔導陣の欠けた部分を見つめている。

 スピンは静かにペンとインク壺を魔導陣の傍らに置いた。続いてペンを取り、別に用意したメモ用紙に線や適当な文字を書いて見せた。これが筆記用具であることを伝えているのだ。

 魔人はゆっくり、迷っているように目の前の3人を見つめた。

 スピンが先ほどとは違う声を出した。単語ではない。短いが紛れもない言葉。もう一度、ゆっくり同じ言葉を繰り返す。

2人の目が合った。複眼に見える魔人の目が全てスピンに向けられる。

 ルーラとファウロも無言で2人を見つめている。2人とも意味はわからないが、この無言の間がこの問題を解決できるかを決める大事なものだと感じ取っていた。

 魔人の手が魔導陣の紙を引き寄せた。ペンを取ると、インクをつけて空いている場所に紋様を描き込んでいく。1つ終えるとまた1つ。魔導陣の向きを変えて描き込んでいく。その間、ルーラたちは呼吸を忘れたかのように息を飲んで魔人の手を見つめていた。

 全ての空欄に紋様を描き込んでも、魔人は魔導陣を返さなかった。既に描き込んである紋様の1つを線で消し、別の紋様を描き込んだ。さらにもう1つ。

 スピンの手に汗が滲む。紋様は魔界のどこに繋がるかを示す住所。それをこの魔人は指定している。これが罠だったとしたら。

 空欄を埋め、2ヶ所訂正した魔導陣を魔人が返してくる。スピンは腹をくくった。魔人がこちらの意図を組んで協力した以上、こちらも彼を信じるだけだ。

「さっそく魔導陣の作成に入ります。完成したら合図しますから、魔人を魔導師連盟支部まで連れてきてください」

 魔導陣の紙を手に出ていくスピンの背中に

「スピンさん、さっきは魔人の言葉でなんと言ったんですか?」

「『希望をくれ』!」

 彼が手にする魔導陣。それは希望なのだ。

 階段を駆け下りた彼を、メルダーが馬を用意して待っていた。


「魔導陣が完成するまで時間をつぶさないと。魔導師連盟で待っているわけにはいかないのか」

「他の衛士が攻撃しに来るみたいですから」

 彼らが魔導陣のことを知ったら、そちらにも攻撃を加えかねない。それぐらいは彼女にもわかる。

 3階に残された3人の空気は重い。せめて言葉が通じればと思う。それは魔人も同じらしい。彼は話題を探すかのようにクインの部屋に入り、なんと彼女のパンツを手に戻ってきた。

 それを指さし首を傾げてみせる。これがなんなのかわからず、気になってしようがないらしい

「これって、何て説明すれば」

「私に聞かないでくれ」

 さすがにファウロも困っている。そこへ

「なに人のパンツ持ち出してるのよ。この変態魔人!」

 真っ赤になったクインが駆け込んで、魔神の手からパンツをひったくった。

「クインさん、魔人さんはこれがなんだかわからないんですよ」

「そんなのわかってるわよ!」

 叫ぶやいなや、クインはその場でいきなり制服のズボンを下ろし

「これよこれ!」

 自分がはいているパンツを指さした。

 魔人も彼女が穿いているパンツと今まで謎だった布きれを何度も見比べ。同じものだと理解したらしい。納得したように何度も頷いた。

「ったくもう。人間界に来るんだったら、人間のことぐらい勉強してきなさい!」

 無理矢理召喚された身に無茶なことを言いながらズボンをはき直し

「あんたもなに見てんのよ!」

 入り口からのぞいていたギメイに怒鳴りつけるが、彼は気にもせず魔人に向かって

「おい。パンツに手を出しても中には手を出すな。俺のだからな」

 途端、クインが無言で彼に向かってずんずん歩き出す。慌てて階下に逃げる彼を追って姿を消すと

「私のパンツの中身はいい男のモンよ! あんたのじゃない!」

 階下から聞こえる声の意味がわからず、唖然としている(ように見える)魔人に苦笑いするルーラの表情が固まった。

 魔人の背後、半開きになった窓から向かいの建物が見える。その屋上に、こちらに向かって弓矢を構えている衛士が見えた。

「止めて!」

 叫ぶと同時に放たれた矢は建物に飛び込み魔人の後頭部を直撃する。が、堅い音と共に弾かれ床に落ちた。

 ん? 何か当たったかなと言いたげに魔人が振り返ると、衛士は慌てて隠れる。

「場所を変えましょう!」

 ルーラが魔人の手を引いて自分の部屋に駆け込む。精霊を通じて魔人に自分についてくるようお願いすると、彼女は窓を開け、風の精霊にお願いして外に飛び出す。魔人も後に続く。その際に翼が引っかかって窓枠が壊れて外に落ちた。

「外に出たぞ!」

「追え!」

 下から衛士達の叫びと

「刺激を与えるなと言ったはずだ。なぜ攻撃した?!」

 メルダーの叫びが聞こえる。


   ×   ×   ×


 魔導師連盟ウブ支部別館。先の戦いで半壊した中、スノーレは数人の魔導師達と共に床の破片を片付け、新しい魔導陣の下敷き・下陣を作っていた。

「ディルマさん。これって魔界とをつなぐ魔導陣ですよね。良いんですか、修復なんかして」

「緊急事態です。仕上げはスピン副支部長がやりますから、それまで出来る範囲で」

 渋る魔導師達にハッパをかけるスノーレだが彼らの動きは鈍い。今している仕事を勝手に中断させられた上、手伝わされるのが魔界とをつなぐ魔導陣の修復なのだから無理はない。

 それでも瓦礫を片付け、床をならし、魔導陣の基本円周部分は描き終えた。あとは中の紋様だがこれは描くのに躊躇する。魔導陣は魔玉の杖をペンに、魔力をインクに描く。濁りを防ぐため紋様は発動する魔導師が全て描くのが基本だ。数人で分けて描いても良いが、紋様に含まれた魔力にどうしてもブレが生じる。

 そこへ馬の走る音が聞こえてきて

「お待たせしました。準備は?!」

 スピンの乗った馬が走ってきた。

「あとは紋様を描くだけです。飛行魔導は使わなかったんですか?」

「私は使えないんです」

 馬を下り、腰のベルトに差した魔玉の杖を抜きながら描きかけ魔導陣に走って行く。

 魔導灯の灯りの中、彼は魔導陣の前に立ち魔玉の杖の柄を伸ばす。彼の杖は柄が伸縮式になっている。普段は30センチほどしかないが、使用時は1メートルほどのに伸ばす。先端の魔玉に魔力を帯びさせ円周にそっと触れる。彼の魔力に反応して円周が淡く光る。濁りのない、輝きの線が円周を流れる。

「さすがです。完璧な下陣ですよ」

 魔人に空欄を埋められた魔導陣の図を魔導師の1人に広げさせる。

「あの、ルシフィアスは鶏の血で描いたと」

「通常と同じで魔力を使って描きます。まったく、私の記録をどう解釈すれば血で描こうと思うのか」

 紋様を描き始める。杖を手に魔玉を床に触れさせ動かすと、彼の魔力がインクのように床に紋様を描いていく。

 次々と描いていく様子にスノーレが目を見張る。一応、魔導師に図を広げさせてはいるものの、彼はほとんどそれを見ずに描いていく。最初から彼の頭に入っているようだ。

「スノーレさん。魔人をこちらに連れてきてください。戻る途中で魔人を攻撃するためらしい衛士を何人も見ましたから気をつけて」

「わかりました」

 飛行魔導で飛んでいく彼女を見送りながら、魔導師の1人が不安げに

「副支部長。本当に大丈夫なんですか? こんなことをして」

「失敗しても、私がクビになるだけです。皆さんは周囲を見張って。まずいと思ったら逃げてください」

 言いながら彼は紋様を描き続ける。

 そう言われては逃げにくい。魔導師達は半ばあきらめ顔で周囲に散っていく。


 夜空をルーラと魔人が飛ぶ。下から時折攻撃魔導が放たれるが、距離があるため火炎魔導や電撃魔導は当たらず、爆炎魔導も距離感がつかめないのか、かなり離れた場所で発動する。

「何とか落ち着ける場所を見つけないと」

 ルーラは焦っていた。今のところ魔人はついてきているが、自分たちに攻撃が加えられているため、ルーラたちをこのまま信じていいのか迷いが生じているかも知れない。

 魔人が速度を上げて彼女に並ぶと、腕から触手を伸ばして彼女を優しく撫でる。それはまるで「大丈夫。君たちを疑ったりしない」と教えているようだった。

「おい。高度を下げろ。攻撃しにくい」

 衛士の制服を着た魔導師が飛行魔導で近づいてきた。魔人に顔を向けられると慌てて離れる。

「攻撃を止めてください。魔人に戦う意思はありません!」

 叫ぶルーラに衛士は舌打ちし

「洗脳されているのか?! 目を覚ませ。君は魔人に操られ、利用されているだけだ」

「どうしてそんな考えになるんですか?!」

 そうこうしている間も、下からは攻撃魔導が魔人に向けられる。

 その様子を第3隊の面々はファウロ・ベーカリーの前で見ていた。

「あいつら。俺達がしたことを無駄にする気か?!」

 見上げながらギメイが吐き捨てる。何とかしようにも、空を飛べない彼らはただ見ていることしか出来ない。

「魔導師連盟に行く」

 メルダーが一同に向き直り

「あの魔導師はそう簡単にはやられない。それよりも魔人を帰す魔導陣が壊されたら何にもならない。魔導陣を守る」

 走り出すのを皆が慌てて続く。走りながらスラッシュが不安の声を上げる。

「隊長。それって、仲間の衛士達と戦うことになりますよ」

「場合によってはそうなる。それが嫌ならここに残れ。スラッシュ、こんなことで新婚生活をふいにすることはないぞ」

「お忘れですか。結婚の時に散々もめましたよ。それに比べたら」

「イントルス」

「使うべき時に力を使わないのはゴーディスの教えに反します。それに、私の力は弱きものを守るために使いたい」

「あの魔人は強いぞ」

「知らぬ世界に何もわからぬまま一人放り出されたものを強いとでも?」

「クイン」

「ここで逃げたら、私はいい女でなくなります。いい男を捕まえるには、私がいい女でいなくちゃ」

「ギメイ、衛士になったばかりにお前に、付き合うほどの義務はないぞ」

「嫁さんが覚悟を決めたのに俺が逃げるわけにはいきませんよ」

「誰が嫁さんよ」

「いいねぇ。俺が嫁さんって言ったら自分のことだと思ってくれるのか」

 笑うギメイに、クインの拳が炸裂する。

 夜空を攻撃魔導が飛び交う中、彼らが走って行く。

 その背中をファウロ夫妻が見つめ、やがて頷き合うと店に入っていった。


 大空をルーラと魔人が縦横無尽に飛び回る。魔導師はそれについていくだけで精一杯だ。

「しぶといな」

 ルーラは困り顔だ。先ほどから彼を振り払おうと飛び回っているのだが、彼はけっこう飛行魔導が得意なのか、なかなか振り払えない。精霊に風を乱して飛ばす方法もあるが、彼が対応に失敗したら、地面や建物にぶつかって大怪我をしてしまう。それは避けたい。

 さらにもう一人魔導師が飛んできた。

 飛びながら、ルーラは魔導師連盟のある方角にスノーレの飛ぶ姿を見つけた。

 魔玉の杖に横座りになって飛ぶ彼女が、杖から手を離して両手で大きな丸を作る。魔力で安定させているとはいえ、手を離してもほとんど体勢が崩れないのはさすがだ。

「魔人さん、ついてきて」

 追う2人の魔導師をちらと見ると、センメイ川に向かって飛ぶ。魔人がすぐ後ろにつき、2人の魔導師が後を追う。

 川面すれすれを飛ぶルーラと魔人。魔導師達は上空からそれを追うが

 ルーラたちが橋をくぐった途端、姿が消えた。

「隠れた?」

「あそこには地下水道の出入り口があったはずだ」

 そこに入られたら大変だ。魔導師達が慌てて確かめようと川面近くまで下りたとき、川の水が爆発するように盛り上がり、2人を飲み込んだ。

 たまらず激しい流れにもみくちゃにされる2人の魔導師を

「ごめんなさい」

 と川面すれすれを飛ぶルーラと魔人が拾い上げる。2人とも魔玉の杖を手放していた。

「杖は後で見つけます」

 手近な河川岸に2人を下ろすとそのまま飛んでいく。杖を失い、魔導が使えない2人に追う術はない。


「よし……完成だ」

 魔玉の杖を手にしたスピンがゆっくり体を起こしながら息をつく。

 彼の前には描き上げたばかりの魔導陣があった。中央には正三角形を3つずらすようにして描き出された九芒星。それを3重の円周が囲み、円周の間には様々な紋様が描かれている。内側の円周に書かれたのが人間界の現在位置を示す紋様であり、ルシフィアスが描いたのと全く同じだ。その外側はつなぐ先の魔界の住所を示す紋様。あの魔人によって示されたものだ。

「あ、あの……生贄とか使うんですか?」

 外を見張りながら彼の様子をちらちら見ていた魔導師が聞いた。スピンは笑って

「魔人を帰すほんの数秒開くだけですから私1人の魔力で十分間に合います」

 頭上からスノーレが下りてきて

「魔人が来ます」

「始めます」

 スピンが頷き杖を構え直す。魔玉が彼の魔力を受け輝き出す。

「ここにありてここになき地よ。今、我らの地と汝らの地をここに結びつけるものなり。我が魔力を一滴の始まりとし、汝らの魔力を持って応えよ」

 魔導陣の3つの円周が虹色に光り始める。まぶしさはない、どこか温かみを感じる光り。まるで古き友人の家を訪ねるような温かさと懐かしさの光。それは明らかに冒頭のルシフィアスが行ったものとは違っている。

「我らが地の門をここに刻み、掲げよう」

 九芒星を構成する三角形の1つが白く輝く。

「我らの望む地の門をここに刻み、しるべとしよう」

 九芒星を構成する三角形の1つが赤く輝く。

 白い三角が宙に浮き、赤い三角が地に沈む。ように見えた。

 明らかに冒頭、ルシフィアスが行ったのとは違う。何よりも場の空気が違う。魔界と繋がろうとしているのにこの場所の空気は落ち着き、まるで涼やかな水辺のテラスのようだ。

 スノーレがハッとして赤い三角を見た。その中に、明らかに人間界ではない風景が見える。あの魔神と似た外見を持つ生き物が何人か見え、皆こちらを見上げている。繋がる魔界の光景だ。そして、明らかに向こうもこの場が人間界と繋がろうとしていることがわかっている。

 頭上で歓喜の叫びが聞こえた。

 ルーラと共に到着した魔人が故郷の地に声を上げたのだ。赤い三角の向こうの魔人達も彼の姿が見えたのか、両手を広げ歓迎の意を表している。

 それぞれの世界の門となっている2つの三角形が大きく広がり、魔導陣の外円周いっぱいまで広がる。

「2つの門よ。我が心の想いを、我が魔力を鍵とし開けよ。2つの門を繋げ、生きとし生けるものの道となれ」

 最後の三角が虹色に輝き

「副支部長、衛士達が来ます!」


 連盟の門から西の衛士隊大隊長ワンドが10人近い衛士を連れて走ってくる! 頭上の魔人と地の魔導陣の光でなにが起ころうとしているのか察したらしい。

「これ以上魔人を呼び込むことは許さん!」

 その叫びにスピンは舌打ちをし

「説明している時間はありません。何とか……1分で良い! 時間を稼いでください」

 スノーレとルーラが地に下り、ワンド達に向かって得物を構える。

「ルーラ、ごめんなさい。私たち罪人として牢屋行きかも」

「精霊の友達は私にも友達です。友達を守って後悔なんかしません」

 2人が微笑み身構えるその前に、魔人が降り立ち身構えた。彼も戦うつもりなのだ。

「あなたが戦う必要はないわ。あなたはこのまま魔界に帰って」

「そうです。みんなそのために頑張ったんです」

 2人の声に耳を貸さず、魔人は両腕を横に伸ばす。腕の甲殻が開き無数の触手が伸びると、それらは1つに束なり硬質化する。剣だ。左右の腕の触手を剣と変え、二刀流のように身構える。それは魔人が初めて見せた戦いの意思だった。

 突撃してくるワイド達。

 受けて立とうと身構える魔人。

 もう少しで接触すると言うとき、双方の間に矢が突き刺さった。

 思わず足を止めるワイドたちに、横からメルダー達第3隊が挑みかかった。

 ギメイの拳が、クインとメルダーのサーベルが、イントルスのメイスが、スラッシュの矢が襲いかかる。

 スラッシュの矢が牽制する中、メルダー達と西の衛士隊の乱戦。

「貴様ら、どういうつもりだ」

 剣を交えながらワイドがメルダーを睨み付ける。

「私たちは最善と思われる解決をしようとしているだけ。事が終われば、我々も処分を受けましょう」

 サーベルを構えるメルダーに、ワイド達も「こいつら、本気だ」と改めて構える。

 だがいくら第3隊が頑張っても人数が違う。西の衛士達だって腕の立つものは多い。すぐに突破されてしまうだろう。

「スノーレ、ルーラ!」

 サーベルを振るいながらクインが叫ぶ。

「非常事態よ。私たちごとやっちゃいなさい!」

 その言葉に2人は目を合わせ「いくわよ」とばかりに頷く。

「八方・魔導炎!」

 スノーレが炎を帯びた魔導の矢を乱戦状態の上に放つ! 上空でその矢は8つに拡散、彼らを取り囲むように地面に落ちると、反時計回りに走って炎の円を作り出す。円の完成と同時に円周の炎が一斉に立ち上り、巨大な炎の壁となって一同を取り囲む。炎の熱気と迫力に思わずワイド達の動きが止まる。

 今だとばかりにギメイが目の前の衛士の体に飛び乗る。イントルスが、メルダーが、クインが得物を地面に突き立て、それを足場に高く飛び上がる。

「ごめんなさい!」

 ルーラが精霊の槍を地面に突き刺すと、それを受け取った大地の精霊が炎の円周の内側を一斉に陥没、ワイド達衛士を落っことすと、彼らを捕まえるように地面を横滑りさせてガッチリ捕まえる。

 前回披露したスノーレとルーラの連携による広範囲捕縛方。まだ荒削りだが、うまくいけば効果範囲内の相手をまとめて無力化出来る。

「無駄無駄。こいつに捕まったら終わりだよ」

 衛士の頭に乗っかっていたギメイが飛び降りた。その衛士は体の大半を埋められて身動きが取れない。見回すとワイド達ほぼ全ての衛士が体を埋められている。全身でなくても手足の1本、手首足首の先を埋められただけでも身動き出来なくなる。

「何とかうまくいったな」

 自分の得物や目の前の衛士の体を足場にして高くジャンプしたメルダーたちは何とか捕縛から逃れられた。なにが起こるかわかっているから出来たことだ。その代わり彼らの武器はみな地面の下だ。

「ルーラ、この捕縛はどれぐらい持つ?」

「500数えるぐらいは捕まえてくれるそうです」

「魔人を帰すには十分な時間だな」

「お前達、後悔するぞ」

「後悔しない生き方なんてつまらねえよ。西の隊長さん」

「始末書を書いたことのない衛士を信用出来るんですか?」

 ギメイとクインがニヤニヤしながら魔導陣の方に走って行く。これから起こることを見逃してたまるかと言うように。

「部下の失礼をお許しください」

 体を半分埋められ動けないワイドにメルダーが片膝をつき頭を垂れた。


 スピンがおのれの魔力で人間界と魔界の門を結びつなぎ合わせる。

「交わらざるべからずなれど、今、一時の交わりをここに!」

 2つの世界の空気が混ざり合い、激しい風が巻き起こる。だがそれは外側だけで、魔導陣の中心付近は、台風の目のように静まりかえっている。

 第3隊の仲間と共にルーラとスノーレが魔人の手を取り駆け寄ってくる。

「副支部長!」

「準備は出来た。魔界に帰れます」魔人に語りかけ「あなたが帰り次第、すぐに門を閉じます。急いで」

 目の前の魔導陣を見つめた魔人は、両腕の剣を触手にほどき、腕に戻す。

 翼を広げ、ゆっくりと魔導陣の上に移動、まるで挨拶のようにスピン達に頭を垂れ、立ちポーズのままゆっくり足から下がり、門を通って魔界に帰っていく。

 魔人の姿が完全に魔導陣から魔界に消えると、スピンは再び杖を掲げ

「つながれし門よ。時は過ぎた。流れを止め、門を閉じよ」

 輝く魔玉を魔導陣に向ける。が、魔導陣に全く変化は見られない。

「?」

 訝しげにスノーレがスピンを見た。彼の表情は驚きに固まっている。

「副支部長?」

「門が……閉じない!?」

 その言葉に皆が一斉に息を飲んだ。

「魔界側から閉じるのを妨害している。なぜだ?!」

 彼らの目の前で、再び魔導陣から魔人がゆっくりと姿を現す。しかも少し遅れて別の魔人が2人姿を現す。一同が思わず武器を構えた。

「ルーラさん、前のように魔導陣の破壊を」

 さすがに焦ったスピンが叫ぶ。だが、慌てて精霊の槍を構えるルーラは動きを止め

「精霊が待てって言ってる」

 3人の魔人が魔導陣から歩いて出てくる。外見こそいくらか違うが、3人とも甲虫をベースに獣や鳥などの特徴を持った姿で同じ種族と思われた。1人は体の紋様がドット柄でテントウムシを思わせ、もう1人は頭部の左右からクワガタのような角を生やしている。3人の魔人は、1人1つずつ、人間大の半透明の繭を抱えていた。

 皆の見ている前、魔人達が繭をそっと下ろした。

「これは?」

 訝しげに繭を見るスピン達の前で、魔人が指で繭の表面を撫でる。と、まるでそれに沿うように繭が切り開かれ、中から胎児のように丸まっている3人の魔導師が現れた。意識はないようだが、微かに唇が動き呼吸しているのがわかる。生きているのだ。

 スピンが息を飲んだ。ルシフィアスが魔人を召喚するのに生贄として用意した魔導師達だ。彼らは召喚時に魔人と入れ違いに魔界に放り出されたのを保護されていたのだ。繭は魔界の過酷な環境から彼らを守るための防護膜なのだろう。

 いつのまにかメルダーもそばまで来て、じっと繭の中の魔導師達を見た。

「あ、ありがとう」

 スピンが頭を垂れた。知らぬ間に涙が出ていた。

 3人の魔人が静かに顔を見合わせ頷いた。用は済んだとばかりに、再び魔導陣の中に戻り魔界へと足から沈んでいく。そこへ

「間に合ったか?!」

 大きな紙袋を抱えてファウロ夫妻が走ってくる。

「ファウロさん。どうしてここに」

「土産を持ってきた」

 リムルと一緒に魔人達に近づくと紙袋を開けて中を見せる。店のパンがいっぱい入っていた。

「新しく焼く時間がなかったから店の残り物だが、持っていけ」

 魔人が喜びの声を上げ、歩み寄ると魔導陣越しにパンの袋を受け取り後ずさる。

 後ろの魔人が「何だそれは」とばかりにのぞき込もうとすると、彼は中のパンを1つ取り口にくわえた。それを見た2人が袋からパンを取り同じようにかぶりついた。これはいいとばかりに食べながら何度も手を叩く。

「今日は良いが、次に来るときはちゃんと代金を払えよ」

 ファウロの言葉がわかったのは知らないが、魔人はそれに何度も頷いた。

 その様子を見たクインも彼に

「あんた。私のパンツの件も特別に許してあげるわ。そしてもうひとつ」

 彼女は魔人に親指を立てて見せ

「あんたの良い男レベルが上がった!」

 それに応えるように彼は空いている手で同じように親指を立てて見せ、そのポーズのまま魔導陣、魔界への門の中に沈んでいく。

 彼らが完全に魔界に戻ると、魔力の流れの収まりに合わせて三角の輝きが消えてもとの大きさに戻る。

 完全に門が閉じると、魔導陣はまるで砕け散るように光りの粒となって霧散、後にはただの床だけが残った。


   ×   ×   ×


「あの魔人が強い上、分別ある人で助かりました」

 半壊した別館を窓から見下ろしながらスピンが安堵の言葉を吐いた。別館は立入禁止のロープが張られ、衛士が交替で見張っている。魔導陣は完全に消滅したもののそれはこちらの話で、魔界側から繋げてくる可能性があるというワンドの言葉により立入禁止にしてあるのだ。

 魔導師連盟本部。副支部長室でスピンはトップスと今後の打合せをし、一段落してお茶をしているところだ。

「強いと言うより頑丈だった。甲殻が弱ければ、召喚直後に我々の一斉攻撃で終わっていた」

「その場合、私たちは勝手に異世界の人間を誘拐したあげくなぶり殺しにした最低生物ということになりますね」

「違いない。しかし、今回の騒ぎで1番得をしたのはお前さんじゃないか」

 笑いながらトップスはスピンに

「何しろ魔人について新しい情報が手に入りまくったんだからな。今は休止中とはいえ、魔界研究の魔導師としては小躍りしたい気分じゃないのか」

「否定はしません。特に魔人が精霊と交流出来ることがわかったのは大きな前進です。今後、魔界との扉を開く際には精霊使いに同席してもらうことになるでしょう。ルーラさんとは仲良くしておかないと」

「研究を再開する気か?」

「私たちが魔界の研究をしているように人間界の研究をしている魔人もいるはずです。その人達と接触出来れば。向こうも同じ事を考えてくれれば良いんですが」

 真顔のスピンにトップスは呆れて

「おいおい止めてくれ。今回みたいな騒ぎがしょっちゅう起こったらたまったもんじゃない」

「私もこれ以上歯を欠けたくはありません。しかし騒ぎを最小限に抑えるためにも人間界と魔界、お互いの理解と交流が必要だと思いませんか。そう考えればラウネ教会やサークラー教会の協力を得られるかも知れません」

「なるほど……」

 トップスは目を細め

「まさかお前さん、わざとルシフィアスが資料を見るよう仕掛けたんじゃあるまいな。リスクは全部奴に押しつけ、自分はメリットだけ手に出来るように」

「勘ぐりすぎですよ。支部長が戻れば私も管理責任を問われるでしょう。幸にも人的被害は出ませんでしたが、騒ぎの被害次第では、私もクビになりかねません。そんな危険な真似をしてまで魔界との門を開こうとは思いませんよ」

 自重気味に笑う彼にトップスも笑顔を返し

「お前さんは出世するよ。魔人にだって悪い奴はいるだろう。利用されないよう気をつけろ」

 出て行く彼が閉めた扉を見ながら、スピンは静かに口元だけの笑みを浮かべ

「……大きなリターンを得るには、リスクも覚悟しないとね……」

 ふと真顔に戻り

「そう言えば、あれをどうしよう……」

 困ったように天を仰いだ。


 留置場の中、ルシフィアスの高笑いが轟く。

「待っていろ愚かな人間よ。いずれテン・ゼロに絶望したものたちが私に救いを求めてやってくる。そのときこそ私の勝利の時だ! はーっはっはっはっ」

「うるせえ、アホンだら!」

 夜通しルシフィアスの馬鹿笑いが響く。看守達は彼に救いを求めたくなってきた。


(第8話 終わり)



 物語の舞台はよくある「剣と魔法の世界」なのに人間以外の異種族が出てこない本作。エルフ、ドワーフ、ゴブリン、何それ美味しいの? という状態も何だかなとばかりに出してみました魔界の住人。魔物と言うより仮面ライダーに出てくる怪人のようなイメージですね。一応、個人名は考えていたのですが、人間の言葉はしゃべれないし文字も書けない。1人しか登場しないこともあってただの「魔人」で終わりました。再登場するとしたらその時は名前が出るでしょう。人間に興味を持ち、単語の羅列程度の会話なら出来るようになっているかも知れません。最初に覚える単語はきっと「パン」でしょう。

 作者的にはやっとファウロさんの出番を作れたと少しホッとしました。セルヴェイさん同様裏方的立ち位置なので、出番はあってもほとんどスポットが当たらないんですね。


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