『第6話 時と魔導と男と女』
6話となって、そろそろ基本の説明をいちいちしなくても良いかなと、魔玉の杖や精霊使いなどの説明を少し省いてみました。これまでの話を飛ばしていきなりこの辺りから読み始めた人は戸惑うかも知れませんが、名前から思い浮かべるイメージでだいたい合っています。
魔導師連盟ウブ支部。
他の支部同様、本館と少し離れて十字型の別館がある。広い敷地の中央に立てられた平屋で、呼び名は別館だが、むしろこの建物が支部の主体のようだ。大きさこそ本館の1/10ほどだが、建物自体から近寄りがたい雰囲気がにじみ出るように広がっている。関係者以外立ち入り禁止を空気で表しているようだ。ある意味、それは正しい。魔導を少しかじった人ならば、この建物の周囲に様々な魔導結界が施されているのがわかるだろう。まるで中の災いを決して外に出すまいという強い意志の表れのように。この別館は、様々な魔導実験の為に作られたものなのだ。
別館は東西南北に1部屋ずつ。地下に1部屋の計5部屋。ウブはもちろん、近くの小さな街の魔導師達からの予約もあり、10日待ちは当たり前、時期や実験内容によってはは30日以上先になる。
その別館、地上北側の部屋で、魔導師スノーレ・ユーキ・ディルマが魔導実験をしていた。床に描かれた魔導陣の中央に黄色の魔玉が置かれ、八方に火が焚かれている。夏に入ろうとしているこの時期、周囲への影響も考え、採光や換気に必要最低限の窓しかない室内はかなり暑い。実際、下着に魔導紋の描かれた薄い服を纏っただけの彼女は汗びっしょりだ。絹が彼女の肌に張り付き、肌が透けて見える姿はかなりエロチックでもある。
部屋には彼女の他に2人。魔導師連盟の記録係が2人、隅に座って彼女の実験記録を付けている。
スノーレが聞き取れないほどの小さな声で行う呪文詠唱に合わせて、その手にある杖の先端に付けられた魔玉が、魔導発動に伴い淡く光り始める。記録係が速記で詠唱を書き留めていく。
周囲の火が中央の台座に備えられた魔玉に吸い寄せられるように伸びる。それは魔玉まで、あと30㎝ほどの所まで近づくと壁に当たったかのように止まり、消えていく。それに合わせて中央魔玉が赤みを増していく。炎の熱を吸収しているのだ。熱を奪われた炎は消滅し魔玉の赤みはやがて溶岩のように光を帯びていく。スノーレは詠唱を続けながら、その目はじっと魔玉に注がれている。
ここだとばかりに彼女は詠唱を止めた。魔玉の光が消え、熱を完全に奪われた周囲の炎が消える。
中央魔玉は、相変わらず赤い光を帯ながら台座に留まっている。スノーレはそれに近づき、そっと触れた。周囲の炎の熱を吸収したにもかかわらず、表面はほんのり冷たい。
「熱吸収を確認、これより12時間かけて放熱を行います」
瞬間、魔玉の赤い光に白い亀裂が入る。
北の部屋で生じた重い爆発音と振動は他の部屋にも通じた。幸いなことに他の部屋の実験に影響は出なかった。
「記録係の報告では、魔導陣、魔導紋、詠唱、魔力バランスなどに問題はなかったとある。やはり原因は魔玉の劣化と見て良いだろう。何でも、すでに使用期限を4回越えていた品だそうだな」
「はい……新しいのを購入する余裕がなくて」
魔導師連盟ウブ支部副部長カール・スピンの前で、スノーレは焦げ跡の残る服のままかしこまっていた。服だけでなく髪も少し焦げ、眼鏡のレンズにはヒビが入っている。
スピンは今年30になる、将来を有望視されている男で、数年のうちに連盟本部に招かれるともっぱらの噂だ。それでいて、それを鼻にかける言動もないため、周囲の評判は良い。ちょっと垂れ目がち、痩せ型の長身で、スノーレより頭1つ分高い。黙っていればなかなかの良い男だが、昔、実験の失敗で上の前歯を1本失っており、口を開くとそこだけちょっと間の抜けた感じになる。
「あと30日もすれば、新しい助成金が下りたはずだ。それまで待てなかったのか」
問われて彼女の唇が固く閉じる。
「論文の修正が間に合わないか」
図星を指されて肩をすくめるスノーレ。
「焦る気持ちはわからないでもないが、劣化魔玉を使った実験では、結果の信憑性を問われかねない。遠慮はいらない。実験に不安要素があるなら相談することだ。そのために魔導師連盟はある」
「でも、お金の貸し借りはしたくありません。そのために人生をおかしくしてしまった人を何人も見ていますから」
「そうか、君は衛士だったな」
幸いにも部屋自体の損傷は小さく、スノーレに修復費用の支払請求はないとの報告に、彼女はホッと胸をなで下ろした。「失敗なくして成功なし」の信条から、魔導師連盟は実験失敗に伴う損害を実験者に求めることはしない。が、それにも限度がある。失敗が続きすぎるとなかなか許可が下りなくなるし、あまりにも準備が稚拙だといくらか請求されることになる。彼女に限らず、魔導研究家にとって費用は大きな問題だ。
(まいったなぁ……)
魔導師連盟支部近く。繁華街の一角にある音楽喫茶「ストロッツオ」
演奏家の卵達が日替わりでピアノやバイオリンなどで演奏する中、お客達がお茶を楽しんでいる。今も1人、フルートの音色で客の耳を楽しませている。卵だけあって未熟なところもあるが、それもまたひとつの味と客達も割り切って楽しんでいる。
そんな中、壁際の席でスノーレがこの店で一番安い果実茶と焼き菓子のセットを前に、紙の束に目を通していた。彼女が30日前に魔導師連盟に提出した論文で、審査員によって数カ所赤く添削されている。それは論文の不足分や注意を指示したものであり、そこを直したり、新たなデータなどで補足すれば採用してもいいですという印である。
今回の実験も、データ補足のためだった。
スノーレはこの街の衛士として働いているが、それは生活費と魔導の研究費を稼ぐためであり、生涯を衛士に捧げる覚悟はなかった。
彼女の研究は暖気や冷気を魔玉に閉じ込め、それを少しずつ放出して閉ざされた空間(室内、屋内)を快適な温度にするというもの。私の達の世界で言うエアコンの開発である。火炎魔導や冷気魔導などで無理矢理部屋を暖めたり冷やしたりすることはできるが、コントロールが難しく効いても短時間。火炎魔導など、火事になる可能性も低くない。彼女の他にこの研究をしている魔導師は何人もいるが、未だ実用化にはほど遠い。
彼女はワークレイ国の北にあるオータルという町に生まれた。冬になると雪に覆われ、火を絶やすことは死を意味した。彼女の祖母も、ついうたた寝してしまったために火が消え、そのまま凍え死にしてしまった。半ば凍り付いた祖母の遺体は、今も彼女の脳裏に焼き付いている。
冬の寒さをしのげる力が欲しい。漠然とした彼女の思いは、火を生み出す魔導の存在によって少しずつ形になり始めた。家族を説得し魔導を学び、ついにはオータルの魔導師学校でトップの成績を取るに至った。
だが、彼女はさらに魔導の研究をするために進んだ大きな町の魔導師連盟でつまずく。オータルのような小さな街でトップを取っても、もっと大きな町では通用しなかった。自分程度の魔導師は腐るほどいる。それを思い知っても彼女は諦めなかった。
少しずつ彼女は力を身につけ、その町でもかなり優秀な成績で卒業することができた。
彼女はさらなる研究の場所を求めて、魔導師連盟の総本部へ行こうとした。だが、総本部での研究を求める魔導師は多い。世界中の優秀な魔導師達と競い合い、彼女は負けた。
家族は彼女にオータルに戻ることを願った。オータルなら彼女は間違いなくトップクラスの魔導師として、それなりの地位に就けるだろう。
だが、彼女は諦めきれなかった。少しでも魔導を生かせる仕事、研究を続けるためにも実入りの良い仕事を求め、彼女はウブの衛士となった。仕事と平行して研究を続け、論文を魔導師本部に送った。魔導師連盟は各研究のために定期的に実験結果や論文を掲載した雑誌を刊行している。それを通して、同じような研究をしている魔導師達とつながりを持てるかも知れない。もしかしたら新たな研究チームの一員として参加できるかも知れない。実際、そのような目的で論文を送る魔導師は多かった。
そんな生活を続けて3年。未だに本部から声はかからない。しかし既に彼女の論文は4本掲載されている。これは地方の魔導師としてはかなりの実績と言って良い。そして今回の論文はかなりの手ごたえがあった。が、ここで問題が生じた。結論を導くための実験数が乏しいのだ。そこで今回の追加実験となったのだが……結果はご存じの通りである。
(カップと眼鏡の買物、控えないとな)
今、彼女は眼鏡をかけていない。ヒビの入ったレンズのままかけ続けるわけにはいかないし、予備を持ち歩いていないのだ。もっとも、彼女は伊達眼鏡なので眼鏡なしでも特に不自由はない。
すっかり冷めた果実茶に口を付ける。街で見かけ、つい目についたカップや眼鏡をつい買ってしまうのは彼女の趣味である。カップは買ったもののほとんど使わないものが多いし、眼鏡だって純粋にお洒落のためである。これらがなかったら、あと1、2回多く魔導実験が出来たかも知れない。
しかし、そうは思ってもやはり買い続けるのだろうなとも思う。それは魔導師連盟の掲げる
【魔導は人の生活をちょっとだけ豊かにするためにある】
という目標にある。彼女はこの言葉が好きだ。はじめて魔導師を志したときは、魔導は何でも出来る万能の力だと思った。しかし、魔導を学べば学ぶ程、魔導に出来ることなどほんのわずかだと言うことを思い知る。
そのわずかな力をどう使うべきか、それをこの言葉は教えてくれる。魔導のために生活レベルを落とすことは本末転倒なのだ。
(次の助成金で実験の準備を整えないと)
もらえる助成金と必要な機材の購入額とを頭の中で計算する。
「……それにつけても金の欲しさよ……か」
その呟きの応じるように
「スノーレ?」
男の声がした。
彼女が顔をあげると、彼女より少し年上っぽい、少々腹の出た男の顔が合った。顔つきは童顔っぽいのだが、細い目がどこか相手を値踏みしているようでどこかちぐはぐな感じを受ける。着ているものは上物だが、まだどこか「着られている」ようだ。
一瞬、彼女は誰なのかわからなかった。
その反応が、男に「人違いだったかな?」と思わせたのだろう。戸惑う姿が、彼女の中のある記憶と重なった。外見はかなり変わったが、その人となりのオーラ、気配が懐かしい人物と一致する。
「ボイル? ボイル・ユーノ・ポッド?!」
その名に男は笑顔になり、
「やっぱりスノーレか。こんなところで会うなんて。何年ぶりかな」
「10年ぶりよ。オータルで別れたっきり」
「そうか」
ふと寂しげに小さく顔を伏せると、彼女の傍らに置かれた魔玉の杖が目に入った。
「もしかして、魔導師になったのか?」
驚いたように彼女の前の席に座る。
「すごいな。俺は結局、魔導師にはなれなかった」
「魔導師って言っても兼業だから自慢できないわよ。助成金は出てるけど全然足りない。研究費をどうやって出そうかいつも頭を抱えているわ」
「いや、研究を続けられるだけでも十分すごい。何の研究?」
「冷暖気」
聞いた途端、彼の顔が暗くなった。
「そうか、君は成功しているんだ。どの程度? 実用化のめどは?」
「まだまだ実験段階よ。今日もやっと実験にこぎ着けたんだけど、使用回数切れの魔玉を騙し騙し使っていたのが響いて見事失敗」
「でも、それって使用期限を越えるぐらい実験をしたってことだろう。君ならうまくいくさ。何しろ」
『失敗なくして成功なし』
2人の言葉が重なり、笑顔になる。
「俺も魔導師になれたら君と一緒に研究が出来たんだろうな」
沈む彼の手を彼女は取り
「研究に遅いはないわ。もう一度、魔導師に挑戦する気はないの」
「無理だ。俺には素質がない。魔導の発動すら出来ずに……挫折したんだからな。それに、もう一度挑戦しようにも金がない」
魔導師になるためには資金がどれだけ必要なのか。それは彼女にもよくわかっている。無理は言えない。
「わかったわ。でも、専門家を支えるのは一般の人。魔導師でない人達の協力なくして私たち魔導師は進めない」
もともと魔導師連盟は魔導師でない人達の協力を得るために作られた組織だ。経済面ではなく精神面で。かつて魔導師と言えば、得体の知れない奴が何やら怪しげな研究をしている。存在自体が怖いものと見られていた。そう見られても仕方がない研究も多かった。これではダメだと一部の魔導師が社会に魔導の理解を求めて結成したのが魔導師連盟だ。世間の目よりも研究の方が大事だという魔導師を説得し、世の中を便利にするための研究を優先し、国の上層部に理解と協力を求める。それを何百年と続け、少しずつ世間の魔導に対する恐怖心を和らげ続けてきたのだ。
それが実を結び、今では魔導師は怖いどころか憧れる人も多い存在になっていた。
「今は何をしているの?」
「ヒールア商会ってころで雇われている」
「魔導品を扱うところじゃない」
魔導師連盟と契約し、魔導品の輸送、売買をしているところだ。大きな商会ではないが、彼女もその名は何度も聞いている。
「使いっ走りに毛の生えたようなもんだ。自慢できないよ」
「オータルには帰らないの?」
「帰れると思うか……聞いているんだろう」
言われて彼女はうなだれた。
ポッドはスノーレの幼なじみだった。小さい頃からよく遊び、「おとなになったらけっこんする」と決めていた。オータルのような小さな街ではそれほど珍しいことではない。仲の良い家同士で子供達を結婚させようというのは冗談交じりから本気までよくあった。最終的には本人の気持ちによるものだし「やだ」と言っても笑い話で済ませるものだが、子供達にしてみれば周囲からそう言われ、特に不満のない相手だと「この人で良いか」と受け入れる事も多かった。
彼はあまり気の強い方ではなかった。子供達の集団でもあまり先頭に立つことはなく、威勢の良いリーダーの後ろにくっついていくことが多かった。
そんな彼が「魔導師になる。冷暖気の魔導を極めるんだ」とオータルを出たのは10年前、しかし、彼は突然いなくなった。彼女が魔導師の道に進んだのは、彼に代わって冷暖気の魔導を極める目的の他にも、彼の行方を知りたかった理由もあった。
魔導師の勉強の傍ら、彼のことを調べ、かつて彼の先生だった魔導師にたどり着いた。事情を聞こうとして返ってきたのが
「彼は連盟の施設に夜、忍び込み、設備をめちゃくちゃにした上、備品を相当数盗み出して行方をくらました」
何でも魔力の使い方で行き詰まり、ストレスを貯めてノイローゼのようになっていたらしい。
設備の被害はかなりのものだったが、彼の親が借金して弁償、連盟側も彼を底まで追い詰めてしまった負い目でもあったのか、この問題を深くすることはなく、示談という形でまとまっている。
初めての魔導発動。これは魔導師を目指すものにとって最初で最大の難関だ。いくら理論を極めても、魔導の発動は別だ。魔導師希望の8割強はどうしてもそれが出来ず、脱落する。スノーレも初めての魔導発動にはかなり苦戦した。
その彼が突然、目の前に現れた。
× × ×
「ただーいま」
夜勤明けで帰ってきたクインとルーラは、入るなりそろって大あくびをした。明け方まで酔っ払いの乱闘に付き合わされたおかげで2時間近く残業し、やたら疲れた。帰る際に下のファウロ・ベーカリーでもらってきた朝食のパンを食べたら一眠りしようと、もう一度あくびをする。
「おかえり。私、ちょっと出るから」
入れ違いに出てきたスノーレを見て、クインのあくびが固まった。彼女は今日は遅番なので昼まで休みだ。午前中出かけても不思議はないが、問題はその出で立ちだ。普段着ないよそ行きの服にビーズの首飾り。髪にはピンクのシンプルな髪留め。彼女が持っている中でも上物の柔らかな楕円の銀縁眼鏡。化粧をし、唇にはうっすらと紅をさしている。
「スノーレさん、きれい」
「ありがとう。じゃあ行ってくるわ。もしかしたらこのまま出勤するかも知れないから。昼に帰らなくても気にしないで」
出て行く彼女に、ルーラは「いってらっしゃい」と手を振って見送る。
その横でクインは力強く何度も頷き
「あの気合いの入った化粧、全身からにじみ出るるんるん気分……間違いない。男よ。デートだわ!」
力強く断言する。眠気などきれいに消し飛んでいた。
「こうしちゃいられない」
袋からパンを取り出すと、口に押し込むように食べ始める。まずは朝食、栄養補給。口いっぱいに頬張ったパンを一気に飲み込もうとして……喉に詰まらせた。
その場でもがきながら、ルーラがさしだした水を飲み、パンを流し込む。
「出かけるわよ!」
「寝ないんですか?」
「寝るのは夜になってからでも出来るわ!」
クインはやる気満々で親指を立てた。
歩きながらスノーレは心がはしゃごうとウズウズしているのを感じていた。クインが見せるような浮かれた恋心など知らない。ポッドに対しても、結婚しても良いかなと思ってはいたが、激しい愛情を抱いていたわけでもない。
それでも久しぶりに出会ったその姿に、いろいろ話したい。聞きたい。空白だった時間をぎゅうぎゅうになるまで埋めたい。もちろん、気になることはある。彼の魔導品持ち出しも、衛士として気にはなったが、既に示談が成立している以上、余計な口出しは出来ない。ただ、彼自身示談を知らない可能性はある。ずっとそのことを公開し、怯えたところがあったとしたら、事情を話しておきたい。実家に戻って謝りたいというなら、自分がついて行っても良い。
知らず知らずにうちに、彼女は微笑み、足取りが軽くなっていく。
「やっぱりデートよ。いつの間に。私ですらまだいい男を捕まえていないのに」
スノーレの後ろ、距離をおいてクインとルーラが尾行していた。2人とも簡単な変装をしているが、スノーレが注意してみればすぐにバレる程度だ。特にルーラが持っている精霊の槍は身分証明遺書みたいなものですぐにわかる。それでも浮かれ気味の彼女は2人に気がつかない。
「クインさん。のぞきなんてやっぱりやめた方が」
「のぞきじゃないわ。純粋に親友として心配しているのよ。もしかして悪い男に引っかかっているのかも知れないじゃない」
言いながらもクインの顔からはニタニタが溢れている。
「ルーラは興味ないの?」
「あります」
「そうそう、若いうちは好奇心に従った方が楽しいわよ」
クインは満足そうに頷くと、2人そろっての尾行を再開した。
音楽喫茶ストロッツオ。バイオリンの音が流れる中、テラス席にポッドは先に座っていた。
スノーレの姿を見て、彼は軽く驚いた。昨日会ったときの彼女は実験の失敗のため髪も服もいくらか乱れ、眼鏡もかけていなかった。もちろん化粧もしていない。対する彼は昨日とあまり変わらない。
「驚いたな。一瞬君だとわからなかったよ」
談笑する2人を、ルーラたちは壁に身を潜めてのぞいていた。
「うーん、思っていたほどいい男レベルは高くないわね」
「顔で決めちゃ駄目ですよ」
「ルーラ、男ってのは、20才を過ぎれば性格やこれまでの生き様が顔や立ち振る舞いに出るようになるのよ。良い生き方をしている男は、自然といい顔になるの」
「その割にはクインさん。今まで好きになった人は」
言い終わる前のルーラの脳天にクインのチョップが炸裂した。
「一目惚れのプロの言うことを信じなさい」
「魔導品の売買って、あれって厳重な審査があるはずだけど」
「昨日も言ったけど、実際に売買するのは雇い主。俺はただの使いっ走りだよ。でも、簡単な口利きぐらいは出来る。何か必要な魔導品があったら言ってくれ」
スノーレは困ったように手を振り
「とても魔導品を買う余裕はないわ。昨日も言ったけど、使用期限切れの魔玉を実験に使って失敗したぐらいだもの」
「実験用の魔玉……更のものか」
魔導師が魔導の発動や実験用の発動媒体として使う珠。それぞれに特徴があり、専門の呼び名があるが、一般には全部まとめて魔玉と呼んでいる。実験用の魔玉は、それぞれの用途に応じて予め魔導紋などが記録されており、魔導師の負担を軽くしている。更のものというのは、そのような手が一切加わっていない状態のものを言う。
スノーレはカップを置くと、ポッドを見据え、息を整える。いい加減、切り出さないと。
「魔導品のことなんだけど」
彼は困ったようにそれを遮り
「あまり、そのことは聞かないでくれ」
「そうはいかないの。今の私は魔導の研究をしているけれど、別に仕事も持っているわ」
静かに身分証明カードを取り出し見せる。
「この町の衛士」
衛士の紋章が薄く印刷されたカードに、彼女の名前と所属が書かれている。裏返すと、そこには彼女の似顔絵。この世界には私たちの世界で言う写真がない。代わりに専属の絵師が隊員の似顔絵を身分カードの裏に描いている。
ポッドが強張り、青ざめた。
「でも安心して。その件についてはもう示談が成立しているわ。ただ、あなたがどの程度それを知っているか確かめたいだけ」
「示談って?」
「魔導師連盟と、あなたの実家との間で話し合いがついているって事。でも、姿をくらましたことで実家の人達はあなたに対してわだかまりが残っている。1度家に帰って謝った方が良いわ」
そっとテーブルの上で彼の手を取り
「このまま何もせず話し合いを先延ばしにしても、ずっと後ろめたさを感じたまま生きることになるわ。私、待ってるから」
潤んだ瞳で見つめられ、ポッドも彼女の手を握り返す。
のぞき見していたクインとルーラが思わず身を乗り出す。
そこへ
「見つけた!」
肩までかかるストレートな赤毛の女性が、魔物のような目でポッドを睨み付けた。
「休みの日に1人でこそこそ出かけて何だろうと思ってたら、こんなところで女と会ってたの!」
テーブルにつかつか歩み寄ると、いきなりスノーレをひっぱたこうとした。が、とっさに彼女はその手を受け止めた。
「何ですかいきなり。あなたは誰ですか?!」
「うるさい。この泥棒猫!」
叫ぶ女を、スノーレは後ろ手にねじり上げる。彼女も衛士だ。あまり得意とは言えないが、空拳(素手の格闘技)の基本は身につけている。
痛みに悲鳴を上げる女に、ポッドは
「スノーレ、ルシアを放してくれ」
言われて、つかんだ腕をもう一捻りして放す。これならいくらか痛みが続いてすぐまた襲ってくることはないだろう。腕を押さえてうずくまる女・ルシアの肩を心配そうに彼は抱いた。
「この人、知り合いなの?」
「あんたこそ、うちの人を誘惑して何のつもり?!」
「うちの人?!」
スノーレの顔が固まった。のぞき見していたルーラとクインの顔も固まった。
「この人は渡さないから!」
ルシアがテーブルの上のカップをつかみ、スノーレに投げつけると、ショックで動けない彼女はそれをまともに顔面に受けた。
顔を紫茶まみれにされ、眼鏡もずれたままたまらずその場にへたり込む。
さらにポッドを跳ね飛ばし、スノーレに掴みかかった。精神ダメージのでかい彼女は何も出来ずまともに押し倒される。
客達が慌てて席を立つ中、ルシアはスノーレに馬乗りになるとその髪をつかみ激しく揺さぶる。
「うちの主人を誘惑してただで済むと思わないでよ。この薄汚い泥棒猫。娼婦! 売女‼」
たまらずクインとルーラが飛びだした。
ルーラがルシアの腕をつかむと、14歳の女とは思えないパワーで引き剥がし、石畳に転がす。
「ポッド、この人は?」
クインに支えられて起き上がったスノーレが、まだ半ば呆然とした表情で聞いた。
「言ってなかったな。2年前、結婚したんだ。妻だ」
ルシアを抱き起こすように立たせて彼が言った。
「ごめん、今日はこれで失礼させてくれ。彼女に君のことを説明しないと」
申し訳なさそうに何度も頭を下げると、ルシアを支えて歩いて行く。その背中から「彼女は幼なじみで」「懐かしくて声をかけただけ」などいう言葉が聞こえてくる。
が、その言葉はスノーレの耳には入っていないようだった。ただ呆然と2人を見送っている。そのため、テラス席の隅にいた2人の客がそそくさと代金を払い、ポッド達と同じ方向に歩いていくのに気がつかなかった。
「ちょっと……」
クインの声がけにもスノーレは反応しない。彼女の目の前で手を振ってみても反応しない。
「生きてる? 反応ないとカンチョーするわよ」
18歳の女性がするにははしたない、人差し指を立てた両手を合わせてみせる。それに反応したわけではなかろうが、
「仕事行く」
ふらふらとクインを押しのけ、歩き始めるのを
「スノーレさん。杖! 魔玉の杖忘れてます」
ルーラが落ちた杖を拾って彼女の手に押しつける。魔導師が魔導発動に必須の魔玉の杖を忘れるとは……。
「あ、ありがとう」
魔玉に映った自分の顔に、やっと少し考えを取り戻したらしい。
「そう言えば、どうして2人はここにいるの?」
もっともな疑問を口にした。
クインは困ったように乾いた笑いを浮かべ
「友情がスノーレの危機を私たちに告げたのよ!」
親指を立て、舌を出して言い切った。
1分後、人差し指を立てた両手を合わせたスノーレが立ち去る後、お尻を押さえて悶絶するクインと、ひたすら周囲の客や従業員に頭を下げるルーラの姿があった。
× × ×
その日のスノーレの勤務は散々だった。大きな事件はなかったが、巡回中遭遇した事件で、攻撃魔導の練りがうまくいかず民家のカーテンに火をつけてしまったり、追いかけようと飛んだら看板に顔面を強打したり。普段ならまずやらないような凡ミスを連発した。おかげで始末書を書いて1時間以上も残業したが、おかげである程度冷静さを取り戻せた。
「さすがに昼間のあれはやり過ぎだよね」
彼女がつぶやくあれは、クイン達にやったことだ。確かに勝手にプライベートをのぞき見されたようで良い気分ではない。しかし、彼にも18の乙女に対する処罰として、あれは不味かった。
「そう言えば……あの時のお茶代、払ってない!」
きっとあの後、クインやルーラがお茶代を払ったのだろう。そう思うと、むしろ2人に申し訳なくなってきた。
実験用魔玉購入のため、今は出費をできるだけ抑えたいところだがやむを得ない。お詫びのお菓子(高いやつ)を買って帰ろうと着替えて帰宅しようとしたところ
「ディルマさん。お客が来てますよ」
セルヴェイが告げた。
「お客?」
「プライベートのようですが、若い女性の方です。ポッドの妻と言えばわかると」
正面ロビー。隅にルシアが座っていた。
「昼間は失礼しました。あの後、主人からいろいろ説明してもらいまして」
厳かに頭を下げる姿は、昼間と同一人物とは思えない。
話があるなら個室をと言うセルヴェイを丁重に断り、並んで座る。外は既に暗く、ロビーも閑散としている。
「幼なじみだそうですね。あまりの懐かしさから声をかけ、話をする時間を作ったと」
「それだけですか?」
普段のスノーレらしくないつっけんどんな言い方だ。逆にルシアの方がおどおどして、昼間の時と逆転している。
「親はあなたと結婚させる気だったらしいとは聞きました」
「そうです。でも誤解しないでください。親が軽く口にしていた程度ですし、私たちも愛し合っていたと言うより、特に不満もないし、この人だったら良いか。ぐらいの気持ちでした」
「それも聞きました。でも、私にとって、あなたは主人の昔の女なんです」
仕方がないとスノーレも思う。夫がかつて結婚まで考えていた女と再会し、自分に内緒で会っている。それを知って平気でいられる女性はいないだろう。
「要件だけ言います」
彼女は脇に置いていた小箱をスノーレに突き出すようにして
「受け取ってください。不適切かも知れませんが、ハッキリ言います。手切れ金です。主人とはもう会わないでください。町で会っても知らんぷりして、仕事上、どうしても言葉を交わさなければならないとしても、初対面として接してください。お願いします」
いきなりの言葉にスノーレはどう返して良いかわからない。
小箱を差し出す彼女は、怖いのを必死で堪えて強気に見せているように思えた。断られたらどうしよう。そんなことは関係ない。私は彼とよりを戻すのよ。そんな返事が来たらどうしよう。そんな予感と必死に戦っている。小箱の中は勝つための武器だ。そんな感じ。
そんな姿に、スノーレから元々たいしてなかった戦意がすっかり抜けていく。
「わかりました」
全く寂しくないと言えば嘘になる。しかし、目の前の彼女の姿から、今のポッドは自分とは別の人生を歩んでいるのが見て取れた。魔導師学校を飛び出したときの件も、示談が成立している以上は部外者にはどうしようもない。
「私の知っているポッドはもういません。たまたま、同じ名前の似た人が目の前を通り過ぎた。それだけです」
言いながら小箱を受け取った。彼女にとって小箱の中身はどうでも良い。ただ、約束したことを示す儀式のようなものとして受け取っただけだった。
その様子を、通路からセルヴェイがそっと様子をうかがっている。
「大丈夫。失恋なんてお腹いっぱい食べて一晩寝れば治る! 失恋の達人である私が言うんだから間違いない!」
クインがプラムのタルトを頬張り、もぐもぐする。
寮の食堂兼ロビー。スノーレが買ってきたお詫びの(高い)お菓子を前に、彼女の話をクインとルーラが聞いていた。
「その人もいろいろあったんでしょう。飛びだしたんじゃ、誰も頼れなかっただろうし」
紫茶のおかわりをルーラに注いでもらい
「彼にとっては、やっと落ち着ける場所が出来たって事。彼女に支えられて。私が割り込める余裕はないわよ」
スノーレの軽い笑い声はどこか乾いていた。
「でも……正直、やっぱキツいわ」
言葉には出さないが、スノーレは結局捨てられたようなものだ。
「最後に一発、その男をブン殴ってやれば良かったのよ。そうすれば気持ちの切り替えも出来たでしょ」
「それが出来ればね」
目の前のタルトを食べるでもなし、ただフォークで突っつくだけの姿に、ルーラが
「その男の人、殺しちゃうってのもアリですよ」
言った途端、スノーレとクインが激しく首を横に振る。
「ないないないない。それは絶対ない」
「あんたおっかないこと言うわね。それとも、実際やったことあるの?」
ルーラの口が「あ……」と言いかけるが、結ぶように閉じた。
「ところで、その手切れ金って何?」
クインが話題を変えようとスノーレが傍らに置いたままの箱を指さす。ルシアの持ってきた手切れ金の箱だ。
「そういえば、まだ開けてないのよね」
「手切れ金って言うぐらいだからお金……にしては箱なんて変よね。宝石にしては大きいし」
2人の前でスノーレは箱を開けてみる。きれいだが安物の布きれに包まれた珠がひとつ。
「何これ?」
目をぱちくりさせる2人に対し、スノーレはそれがなんだかすぐにわかった。昨日から彼女が欲しくてたまらなかったもの。
「実験用魔玉」
言われて、2人は脇に置いてある魔玉の杖を見た。杖の先端に固定されている魔玉と箱の珠は同じに見える。
「それって、高いの?」
「状態にもよるけれど、更なら10万ディル近くするわ」
クインが思わずのけぞった。ルーラはピンと来ないのか小首を傾げている。
「でも、問題は値段じゃないわ。魔玉には一個一個番号が登録されて、持ち主がわかるようになっているのよ。ほら」
杖を手にし、スノーレが軽く呪文を詠唱する。それを合い言葉に、ふたつの魔玉の表面に異なる13桁の数字が浮かぶ。彼女の発動用魔玉には、さらに末尾に記号がある。
「これで、この魔玉が誰のものかわかるようになっているの。用途別に記号もついているし。杖に使っている魔玉の記号は、魔導発動用を示しているの。盗まれたりした場合、追跡調査しやすいように。魔導師連盟の書類提出なしに、勝手に譲渡出来ないのよ。
とは言っても、番号を書き換える方法はあるし、盗難魔玉がそのまま闇市場に出回ることもあるから万全ではないけれど。正規の研究や魔導師である証明の1つにはなるわ。
何にしろ、魔玉はそう気軽に譲渡できるようなものじゃないのよ」
「でも、ポッドだっけ。そいつは今魔導品を扱っているところで働いているんでしょ。必要な手続を取った上で、あんたにあげたんじゃないの?」
「だったら良いけど。でも、これで魔導実験が出来る。今夜の内に書類を作って、明日一番連盟に出して、うまく実験場にキャンセルが出てそこに入れれば、論文の再提出に間に合うかも知れない」
半ば諦めていただけに、一縷の光が見えたのは嬉しかった。それに、実験に没頭できれば彼のことも忘れられる。
「けれど、実験が魔導の発展のためだったら、必要なものはただで使わせたら良いのに。魔導師連盟はどうしてお金取るんですか?」
ルーラが真顔で言った。その額をスノーレが軽くつつき
「魔導師連盟に関わるのは、魔導師だけじゃないわ。その人達は仕事で関わり、自分や家族の生活を支えなきゃいけない。だから連盟はその人達にお金を支払うし、そのお金をどこかで作らなきゃ行けないの。魔導師連盟は、魔導師でない人達によって支えられているんだから」
「そうそうって、まさかルーラ、またどっかの知らない人に給料上げたりしたないわよね」
心配げな顔を向けるクインに
「してませんよ。これでも、少しはお金のことをわかるようにしているんですよ。いずれは自由商人のお嫁さんになるんですから」
うっとり幸せそうな笑みを浮かべるルーラに、クインもスノーレも苦笑いを浮かべる。
スノーレは箱に入ったままの実験用魔玉を軽く撫でる。やはり引っかかるものはあるが、魔玉は魔玉だ。
「……あとは実験場が開くかだけど、こればかりはこちらで指定できないから」
開いた日時に急な事件でも起こったら、諦めるしかない。本業は魔導師と考えている彼女でも、衛士であることの責任の重さは知っている。
「スノーレ。もし実験日が私の休みだったら、交換しても良いわよ」
「あたしも」
2人の言葉も嬉しかった。
「その代わり、もう一個もらっていい」
言いながらクインがお土産のタルトをもうひとつ取らなければもっと嬉しかったのだが。
その時、玄関脇の鐘が鳴った。来客が鳴らす呼び鈴だ。
「珍しい。ファウロさんかな?」
ルーラが玄関の扉を開けると
「にゃあ」
虎猫を足下に控えさせた男の衛士が立っていた。
「オレンダさん」
衛士隊第2班のシェルマ・オレンダだ。スノーレと同じく魔導師で、足下にいる使い魔・虎猫のアバターとの感覚共鳴による偵察を得意とする。班は違うものの今まで何度か一緒に任務に当たったことがあり、彼女たちとは顔なじみだ。
「ルーラ、オレンダさんがデートの誘いに来たわよ」
言われて彼は顔を赤らめ、違いますと首を横に振る。もっとも、本人はまだ肯定していないが、どうも彼がルーラに好意を持っているらしいと言うのは、彼女自身をのぞいて皆感じとっている。
「今日はディルマさんに話を聞きたくてお邪魔しました」
「私?」
スノーレが真顔で立ち上がる。彼が彼女たちをラストネームで呼ぶときは、仕事がらみの時だ。
× × ×
思いっきり頬をはたかれ、倒れたルシアをポッドが慌てて抱き起こす。
「馬鹿野郎。何てことをしたんだ!」
そんな2人にヒールアが怒りの叫びを向ける。
「勝手に商品を持ちだしたことは謝ります。許してください。魔玉の代金は必ず払いますから」
「ボス。私からもお願いします。代金の支払いは、私の給金を差し引いてかまいませんから」
「俺が怒っているのはそんなことじゃない」
ヒールアの一睨みで2人が縮こまる。60に手が届こうという彼は体つきこそ腹が突き出し、不健康そうだが、眼力はへたなチンピラ程度ならそれだけで腰を抜かすほど強烈だ。それに睨まれ、ルシアもポッドも床にへたり込んだままだ。
「俺が怒っているのは、ルシアが待ちだした魔玉が、裏用のだって事だ」
「裏……」
その意味に気がつき、2人の目が見開く。
「それじゃ、あれは闇市場用の」
「登録番号の書き換えも済んだ奴だ。それをよりによって衛視に渡しただと」
「けれど、ただもらっただけならば、すぐに使うわけじゃないでしょう。事情が変わったとかいって返してもらえば」
横から別の職員が口を出す。
「そうだな。だが、返せと言ってごねられても面倒だ。正規品を用意するから、渡したのは不良品だったとか何とか言って取り替えてこい。明日の昼には客が来る。それまでにだ」
言葉は優しげだが、口調は有無を言わさぬ力がある。
ヒールア商会。魔導師連盟とつながり、各支部への魔導品輸送などを請け負う傍ら、連盟の許可をもらい、魔導品の一部を一般に売買している。扱う商品量は多くはないが、魔導品はどれも効果で利益率が高いため、結構な利益を上げている。
その一方で、彼らは魔導品の横流しも行っていた。正規の商品を「不良品のため破棄」などとしたり、洪水や火災など災害に遭って紛失したなどとして少数誤魔化す程度だが。正規の品ばかりである。闇市場でも高く売れる。もちろん、足がつかないように登録番号は書き換えてある。この場合はそれが徒になった。番号が書き換えられた魔導品が、ヒールア商会にあった。魔導師連盟は徹底調査を行うだろう。
「はい」
慌てて駆け出すルシアに「私も行く」とポッドもついていく。
「フェザー。お前もいけ」
壁際にもたれて様子を見ていた細身の男が無言で動いた。肌は乾き、髪もカサカサ、まるでミイラ一歩手前と言った感じだが、目だけは生き生きとしている。
「わかってます。最近はこの町も物騒ですからね」
ポッドがヒールアの下で働くようになったのは、彼が魔導師学校を飛び出して間もなくだった。持ち出した魔導品を金にしようと、まだそれほどでもなかったヒールア商会に持ち込んだのだ。だが、すぐに盗品だとバレた。
もうだめだと諦めた彼だったが、ヒールアは彼を衛士に突き出すことはせず
「どうだ。俺の所で働かないか。どうせ行くところなんざないんだろう」
と世話をし始めたのだ。それは自分の言うことを聞き、いざというときは使い捨てに出来る奴が欲しかったと言うだけだったが、彼に選択肢はなかった。こうなったらと彼は腹をくくり、今までのことは全て忘れてヒールアの下で働く決心をした。
こき使われることを覚悟した彼だが、ヒールアは意外と面倒見が良く、住むところも食うものも用意してくれた。慣れない仕事で倒れたときも、ゆっくり休ませてくれた。それは裏社会の暗黙のルールのようなものだった。法も正義もあてに出来ない裏社会で生きるには、何よりもそこで生きる者達のつながりが大事だった。義理と情を、両者が相反するときは義理を立たせる。それが裏社会の法なのだ。
彼にとってそこは魔導の発動すら出来ず、肩身の狭い思いをし、発動に成功した連中からは馬鹿にした目で見られていた魔導師学校よりもずっと居心地が良かった。
ヒールアが魔導品の横流しをしていることはすぐにわかったが、今更、それを連盟や衛士に訴える気はなかった。劣等者に冷たい表社会よりも、意外に優しい裏社会の方が真っ当に思えたのだ。もちろん、裏切ったり失敗したりで命を取られた人達も多く見た。だがそれは、それを放置したら多くの仲間が犠牲になる故の罰なのだ。
性格的にこの手の組織の上に立つのには向いていないポッドは、何年経っても下っ端だった。だが、信用できる下っ端としてヒールアから重宝された。「いざというときのために小金を貯めておけ」「金に困っている奴は、金のために裏切る」というヒールアの教えに従い、ある程度金銭的な余裕も出来た。
ルシアと知り合ったのは2年前だ。良心が借金を返せず売られ、娼館で客を取らされていたものの、娼婦になりきれず客から敬遠されていたのをヒールアが下働きとして安く買い取ったのだ。娼婦よりずっとマシだと思ったのだろう。彼女はヒールアや彼の部下達を熱心に世話した。中には彼女に手を出そうとした男もいたが
「馬鹿野郎。ルシアはてめえらの下半身のために買ったんじゃねえ。家政婦として買ったんだ。どうしてもあいつに手を出すって言うんなら、俺から買って女房にしろ。あいつを買った値の3割増しだ。高い? 仕入より安い値で売る奴がどこにいる?!」
と黙らせた。彼自身もルシアには手を出さなかった。
そんな彼女にポッドは惹かれた。周囲の男達にかわいげのない振る舞いをする彼女が、ある日、台所の隅にへたり込む疲れた目の彼女を見たとき、自分と重なった。もう、他に居場所はなくここに我慢できる環境を作るしかない。そんな強気がふと途切れたときに見せた目に惹かれた。
それから彼は今まで以上に金を貯め、ヒールアの指定した値に達したとき、彼はルシアに求婚した。もちろん、スノーレのことを忘れたわけではない。しかし、彼にとって彼女はとっくに過去の思い出になっており、後ろめたさは感じなかった。
ルシアとの結婚はあっさり認められた。ヒールアが部下を集めて「今日からルシアはポッドのものだ。他人の女房に手を出す奴はうちにはいらねえからな。わかってるな」と忠告し、2人の方が引いてしまうほどだった。
子供は出来ないが、2人の生活は順調と言って良かった。ただ、予想外だったのは、ルシアの嫉妬深さだ。仕事の付き合いでちょっと女性の色気を売りにした店に行くと、途端に機嫌を悪くした。だが、それ以外は特に気にするほどのことはない。仲の良い夫婦だった。
先日、ポッドがスノーレと出会ったのは本当に偶然である。ウブの魔導師連盟と次の魔導品仕入の確認であり、下っ端の彼でも勤まる仕事だった。かつては持ち出しの一件から魔導師連盟に行くのはできるだけ避けたかったが、あれから何年も経ち、もう大丈夫だろうとすっかり肩の力が抜けてしまった。
用件を済ませ、たまには良いだろうと近くの店でゆっくりお茶などしていると、かつての自分が本当に遠い存在に思えてくる。なつかしさから家族や友達、スノーレのことをふと思い浮かべていたとき、その本人がいたのだ。驚きと懐かしさから声をかけてしまった。もちろん10年近く経ち、彼女はすっかり大人になっていた。ちょっと服や髪に焦げ跡があるのが気になったが。
驚いたのは彼女が魔導師になっていたことだ。自分にくっついて歩き、「およめさんになる」と言っていた彼女が、自分に出来ないことを成し遂げてここにいる。しかもただ魔導師になっただけではない、その後も研究を続けている。助成金が出るとは言え、一介の魔導師が研究を続けるのがどれだけ大変か彼は知っている。
今まで忘れるようにしていた過去が波のように押し寄せてくるのを感じた。同時に、彼女の姿が自分を責めているようにも見えた。自分の尻拭いを彼女がしているようだ。
だが、彼女がもう一度魔導師の道を進めてきたとき、彼は不思議と気持ちが冷めていった。魔導師の道は、もう自分にとって縁のない道だと悟った。途端に気が楽になり、改めて会うことまで約束した。
別れた後、さすがにこれはルシアに知られたらまずいと思った。それで、もう一度だけスノーレと会い、思う存分語り合って終わりにしようと決めた。まさか、翌日、2人で会っているときに彼女が現れるとは。
ストロッツオから出て行き、事情を説明しながら彼は今、自分が愛しているのはスノーレではなく彼女だと感じた。
しかし、ルシアはそうは思わなかった。彼が言い訳すればするほど不安になった。それはスノーレが
「私より美人(と思う)!」
「私より若い(ように見える)!」
「私より胸が大きい(気がする)!」
しかも彼の手を取り、見つめるスノーレの目は、明らかに再び交際を求める恋する女性に見えた。昔の女が、彼とよりを戻そうと誘惑しているように見えた。
彼を取られたくない。どうすればあの女を諦めさせることが出来るのか。
迷った彼女の耳に届いたのは、スノーレがお金に困り、実験用魔玉も買えないため研究が止まっていること。今まで別れ話を金で解決して来た様子を何度も見ていた彼女にとって、彼の代わりにその魔玉を渡せばと考えた。ただ、魔玉は彼女の今の蓄えで買えるものではない。彼女は紹介に保管されていた魔玉の1つを持ち出し、スノーレに手切れ金として渡したのだ。後で謝罪し、代金は必ず返すと約束するつもりで。
しかし、事の事情を説明した時点でヒールアは真っ青になった。その魔玉は正式な取引用ではなく、闇市場に流す用だった。既に番号の書き換えなどの偽装を終え、相手に代金と引き換えに渡すだけとなっていた商品。
こうして、2人はヒールアの怒りを買うことになった。
事の流れを知ったポッドの心境は複雑だった。この自体を無事まとめるのはもちろんだが、ルシアは何らかの罰を受けなければならないだろう。ここから横流しがバレたら、商会にとって大打撃だ。担当が勝手にやったことにしても、事業自体の大幅な縮小は避けられない。
最悪の場合、ルシアは殺される。ポッドにとってそれだけは避けたかった。
そのためにも、スノーレの手に渡った魔玉を取り戻さなければならない。たとえ彼女の命を奪うことになっても。
「彼女の寮がわかったわ。第4繁華街にあるファウロ・ベーカリーってパン屋の3階」
衛士隊本部から出てきたルシアが先に立って歩き、ポッドとフェザーが後に続く。ポッドの手には交換するための魔玉がある。
「魔玉を持ち出す前に、声をかけるか確認すべきだったな」
フェザーの言葉に、ルシアが口を尖らせた。言い返したくても、自分のミスだからしようがない。
何としてでも騒ぎにならないよう納めなければならない。ストロッツオの騒ぎで、ポッドとスノーレのつながりも知られている。
ポッドは寮に足を向けながら、フェザーの様子をうかがった。彼がいるのは2人を助けるためだが、同時に2人の監視、いざというときは口封じをするためだ。
既に夜も更け、繁華街の店も閉めている。遠く川辺の屋台街の灯りだけが微かに見える。
もちろん、ファウロ・ベーカリーも閉めていた。しかし、3階の窓からは明かりが漏れている。
「よかった。まだ起きている。スノーレだったら良いけれど」
通用門に回る。さすがにこの時間では閉まっているかと思いきや、すんなり開いた。
3階に上がり、呼び鈴を鳴らす。
「どちら様?」
のぞき窓が開き、スノーレの顔がちらと見えた。
「夜遅く済みません。ルシアです。実は先ほどお渡しした魔玉ですが、私の手違いで不良品を渡してしまいました。それで、急いで代わりの魔玉を持ってきたんです」
のぞき窓から見えるように魔玉をかざす。扉が開いてスノーレが顔を出したす。
「こんな時間でなくても、明日で良かったのに」
「もしも君が実験に使ったら、大変なことになる。それで急いできたんだ」
「待ってて。魔玉を持ってくるから」
奥に引っ込む姿に、ポッドは息をつく。
「よかった。無事に済みそうだ」
しかし、フェザーだけは油断なく階段を見下ろしている。順調なときほど用心が必要というのは、法に触れる仕事をしている者達の常識だ。
「おまたせ」
戻ってきたスノーレと魔玉を交換し
「これで、お別れね」
「ああ」
寂しげに見つめ合うスノーレとポッドの姿に、ルシアが唇を噛む。
簡単な挨拶をして扉を閉めると、スノーレは扉の脇に隠すように立てかけておいた愛用の魔玉の杖を手にし、伺うようにそっと扉ののぞき窓を開ける。
ちょうど階段を下りていく3人の姿が見える。彼らが踊り場を曲がるとき、ふと見上げたフェザーと目が合った。
(しまった!)
慌ててのぞき窓を閉めるが、衛視としての経験と勘が、ミスを犯したことを知らせる。
通用門を出ると、フェザーは2人に小声で
「歩きながら聞け。バレたぞ」
まさかというように2人が足を止める。それにフェザーが顔をしかめ
「馬鹿野郎!」
途端、路地からクインとルーラ、オレンダが飛び出す。
「衛士隊よ。抵抗は止めなさい」
フェザーの腕がしなり、その手から短い矢が飛ぶ! 弓を使わない、手投げ用の矢だ。
体をずらしてそれを避けたクインがサーベルを振るう。フェザーは巧みにそれをかわし、間合いをとっては矢を投げる。
その間にポッドがルシアの手を取り走り出す。それを見てフェザーも逃げる。
「闇よお願い!」
ルーラが精霊の槍を掲げて祈る。
走るフェザーの視界が闇に包まれた。暗いのではなく全くの闇。周囲はもちろん、自分の体も見えない。
思わず足を止めた彼を魔導の雷が貫く! 2発! 3発! 4発‼
周囲の闇が晴れ、月と外灯に照らされた彼の体が現れ、そのまま倒れた。
少し離れたところには、精霊の槍を構えたルーラと魔玉の杖を構えたオレンダ。彼女が闇の精霊でフェザーを包み、足を止めたところをオレンダが電撃魔導で攻撃したのだ。彼は攻撃魔導は不得手でたいした威力はないが、生け捕りが基本の衛士にはむしろ都合が良い。
連撃で動けないフェザーを見て、2人は「やったね」とばかりに拳を合わせた。
路地をルシアの手を取りポッドが走る。
「戻るの?!」
「まだわからない」
ポッドは迷いを答えた。スノーレと会ったとき、彼はヒールア商会の名前を出している。それに、彼女に渡した魔玉。登録番号を調べれば、ヒールア商会に下ろされたものであることはわかる。自分たちに目をつけられた以上、商会にも手が回っている可能性は高い。
しかし、商会への足がかりとして自分たちに目をつけたのならば、まだそこまで捜査は進んでなく、自分たちの忠告は間に合うだろう。
しかし、既に衛士の手が回っていたら、戻ることは捕まりに行くようなものだ。戻るべきかこのまま逃げるか。
「ポッド、そこまでよ」
頭上からの声に、たまらず足を止め見上げる。
魔玉の杖に横座りになったスノーレが宙に浮かんでいた。
「ヒールア商会には前々から調査されていたの。今頃は別の班が強制捜査に入っているわ」
2人の前に下りたスノーレは、改めて杖を構えた。魔玉に手をかけ、つまむように引くと青白い魔力の矢が生まれる。小さくパチパチ火花が散る雷の矢だ。威力は抑えているので死ぬことはないが、直撃を受ければ先ほどのフェザーのように体が痺れてしばらく動けなくなる。
「見逃してくれ……って言っても無理だろうな」
静かに頷くスノーレ。
「あなたがどれぐらい商会の裏を知り、手伝っているかは知らない。けれど、逃げずに自首すれば情状酌量の余地があるわ。もしかしたら1、2年の懲役で済むかも知れない。その後、2人でやり直せば良いわ」
「懲役の後、か」
ポッドは苦笑いし
「世間は君が思っているほど、前科者に優しくはないよ。むしろ、相手をいたぶるのを正当化する格好の大義名分になるんだ。それに僕はボスに恩がある。裏切る事なんてできない」
「そんな言い方は止めて。本当に撃つわよ」
向けられた攻撃魔導からルシアをかばうように立ち位置を直しながら、ポッドは目で周囲を伺う。逃げ道を探っているのだ。
夜のため人通りはない。脇道はあるが少し離れている。
その様子にスノーレは息を飲み、魔導を放つべきかどうか迷う。
「スノーレ、撃っちゃダメ」
ポッド達を挟んだ反対側から、サーベルを抜いたクインが歩いてくる。
風が吹き、スノーレの前にルーラが降り立った。
「クイン、ルーラ」
精霊の槍を構えながらルーラが
「スノーレさん。まだこの人のことが気になっているんでしょう」
一瞬言葉に詰まりながら、「そんなことはない」と言いかけるのを
「どんな理由があっても、そんな人を傷つけて、捕まえたりなんかしたら、ずっと心にひっかかりますよ」
「そのとおり!」
クインがサーベルを構え
「だからこの2人を捕まえるのは、私たち他人の仕事! わかってるわね、ルーラ」
「はい! スノーレさんは下がって、何もしないでください」
その言葉には有無を言わさぬ力があった。スノーレが用意していた攻撃魔導が消える。
得物を手に、逃がさないという気迫を纏い2人との間合いを狭めるルーラとクイン。
ルシアをかばいながら、壁際に追い詰められるポッド。彼女の手が震えながら彼の服の裾をつかむ。
クインとルーラがタイミングを合わせ、挑みかかろうとしたとき、
「手間は取らせません」
ポッドが静かに手首を組む形にして両手をさしだし、ルシアも少し遅れてそれに続いた。
2人が素直に手枷をはめられるのをスノーレは唇を噛みながら見ている。あのままクインとルーラが来なかったら、自分は2人を打ち据えられただろうか? 捕まえ手枷をはめ、連行できただろうか。もちろんそれは衛士としての務めだし、そのつもりだった。でも。
今更ながら、先ほどルーラに言われたセリフが身に染みる。
「後は私たちがやるから、スノーレは戻って休んで」
そう言うクインたち、いつもよりずっと頼もしく、大人びて見えた。
スノーレの目からどっと涙が出た。突然に驚くクインとルーラを両手で抱きしめ
「ありがとう……」
目を閉じ2人を抱きながら、彼女は自分が癒されていくのを感じていた。その様子に戸惑った2人の表情が和らいでいく。
「ルーラさん」
オレンダが走ってきて
「ヒールア商会に強制捜査を行います。うちの隊だけでは手が足りないので、応援お願いします」
「よっしゃあ。せっかくだし一暴れしますか」
ルーラの代わりにクインが答える。もちろん、ルーラとスノーレにも異存は無い。
「あの……」
彼は辺りを見回し
「応援はルーラさんだけでも。逃げた2人を追わなければならないでしょうし」
「え?」
きょとんとして辺りを見回す。捕まえたはずのポッドとルシアの姿はどこにもない。油断大敵。あまりにも素直に捕まったのですっかり油断していた。
『逃げられたぁーっ!』
3人の叫びを小さく背中に受けながら、ポッド達は手枷をはめたまま裏通りをひたすら走り続けた。
夜の静けさを破ったのは、ヒールア商会本社の扉が大きく開かれ、きしむ音だった。
「衛士隊だ! 魔導品横領の容疑で強制捜査を行う。邪魔立てするものは妨害者として強制排除する!」
東衛士隊第2隊隊長ユーバリの声が響き、第2隊を中心とする衛士達が突入する。ルーラたち第3隊も応援として参加している。
彼らの前に立ち塞がるかのようにヒールアが低姿勢で
「横流しなど何かのお間違いでは。私ども魔導師連盟から許可をいただき、真っ当な商売をしております」
「黙れ。フェザーたちは既に捕らえてある。抵抗すると却って罪は重くなるぞ」
途端、ヒールアの目つきが変わり、
「やれ!」
叫んで後退するのを合図に、彼の後ろから衛士達めがけて矢が飛んでくる。が、衛士達に届く前に突風が吹き荒れ、矢は全てあらぬ方向に曲げられ、壁や天井に突き刺さる。ルーラが風の精霊にお願いした力だ。
それに会員達がひるんだ。矢で衛士をひるませ、その隙に逃げ出すつもりだったのが逆になった。こうなれば衛士隊に分がある。突入した衛士達に会員達は次々と打ち据えられ、逃亡を図った者達も、外で待ち構えていた衛士達に取り押さえられた。
「あんたが親玉ね」
追い詰めたクインがサーベルをかざす。
「ポッド達はどこ?」
魔玉の杖を構えたスノーレが問う。
「ポッド……そうか、あいつは逃げられたか。てことはルシアも一緒だな」
「逃げる先に心当たりがあるなら言いなさい!」
「そいつは無理だな。手下を守るのもボスの仕事だ」
言いながら小剣を抜く彼の姿に、クインは感心したように息を漏らし
「良いじゃない。あんたのいい男レベルが1つ上がったわよ。でも、それとこれとは別」
ヒールアが突っ込んでくるが、剣の腕ではクインに及ばない。あっさり剣をたたき落とされ、そのまま打ち据えられて床に倒れた。
× × ×
朝。ウブから南に延びる道をポッドとルシアが歩いていた。
スノーレ達から逃げた2人は「俺達下っ端の家までいちいち見張りはつけていない」と考え、真っ直ぐ自分のアパートに戻ると、手近な荷物と金を持ち出した。その際に手枷を外し、着替えもした。そしてウブを離れるべく、ここまで来たのだ。
「これからどうするの?」
「とにかくウブから離れる。できるだけ遠くの町に行ってやり直すんだ」
「ボスは私たちを許してくれるかしら?」
「スノーレは前々から調査が入っていたというが、今回の件が決め手になったのかも知れない。だとしたら……」
温厚なボスでも許さないだろうなと思う。
「今はとにかく、逃げることを考えよう」
幸いにも2人の貯めた金はそこそこの額だ。旅費と、しばらくの生活費にはなる。
ふと彼は足を止め、小さくなりかけているウブを振り返った。
(スノーレ……)
自分に向けて攻撃魔導を構えた幼なじみの姿を思い出す。
故郷にいた頃、自分を兄のように慕ってとことこついてきた幼い彼女。
魔導師学校に行くことが決まり、彼がすごい魔導師になって帰ってくることを信じて疑わなかった彼女のキラキラしていた目。
再会したときの、既に少女ではなくなり、自分がなれなかった魔導師になっていた彼女。自分がすっかり諦めていた冷暖魔導の研究を続けている彼女。
そして再び、攻撃魔導を構える彼女の姿に繋がる。
(結局、俺は君を裏切ってばかりだ)
「あの女のことを考えているの?」
振り返ると、ルシアが不安げな目を向けていた。
彼はそれを受け止め、和らげるように彼女を抱きしめ
「言っただろう。スノーレには懐かしくてつい声をかけただけだ。俺が選んだのは、お前だ」
彼女が心細さから逃れるように抱きしめ返してきた。
(スノーレ、本当に、さようならだ。君なら私と違って冷暖魔導品を作り出せる)
もう一度。昨夜、自分たちに攻撃魔導を準備しながら会話する彼女の姿を思い出す。多少なりとも魔導の基本を学んだ彼ならわかる。ある程度魔導の発動を維持しながら他のこと、会話などをするのはとても難しい。魔導への集中が途切れるからだ。しかし彼女はそれをした。それだけでも、彼女がどれだけ魔導の才能があり、それを開花させ身につけているかがわかる。
(あとは、まかせた)
それで全てをお終いにするかのように静かに頷くと、ルシアの肩を抱き、歩き出す。
もう、ウブを振り返ることはなかった。
衛士隊本部の一室。
スノーレ、クイン、ルーラはそろって始末書を書いていた。特に2日連続となるスノーレはトホホな情けない顔をしている。
「仕方ないでしょう。手枷までしたのにまんまと逃げられたんですから。始末書に加え、1割減給で済んで良かったと思わないと」
始末書の完成を待つセルヴェイが紫茶を入れながら語る。
「商会への捜査がうまくいったから良いですけれど、これで親玉に逃げられていたらへたすれば3人ともクビでしたよ」
そういう彼は軽く笑っている。本気で彼女たちがクビになるとは思っていないからだ。
「今度から捕まえたら足枷もしよう」
「でも、そうなったら自分で歩けませんよ。前みたいに私たちがかついでいくんですか」
ルーラが指折りかついで
「相手にも寄りますけど、2人までです。抵抗されたらそれ以上は無理です」
「かつぐだけならOKなの?」
真顔のルーラに、クインが呆れたように言う。
そんな2人をよそに、スノーレは始末書を書きながら頭の中で必死に計算していた。
(給金×90%+助成金-実験用魔玉の代金-魔導実験場の使用料及び雑費-次の給金までの生活費……新作のカップとメガネは何とか我慢して……)
かなり苦しい。
「ルーラ……」
「何です?」
「寮の近くで、何か食べられる動植物ってない?」
「ありますよ。町外れのセンメイ川には貝や川蛇がいますし、野苺はそろそろ食べ頃です。でも、取り過ぎはダメですよ。今度一緒に行きましょう」
そこへドアがノックされ、
「失礼します。ディルマ衛士はこちらだと伺いましたので」
スピンが顔を出した。スノーレが腰を浮かせ
「副支部長。何かありましたか?」
「実験用魔玉の余裕が出来たので伝えておこうと思ってな。君なら知っているだろう。魔導品を扱う業者に強制捜査が入ったため。そこへ下ろす予定の魔導品が行き場を失った」
「え?」
唖然とする彼女の左右で、クインとルーラが「それって」と顔を見合わせた。
「でも、お金が」
「助成金の受給時払いにすればいい。常時はダメだが、状況が状況だし君には実績もある。1度ぐらいはいいだろう。連盟が何か言ってきたら、私が対処する。どうだ、今のうちに買っておくか」
「買います! それとあの、実験場のキャンセルがあれば」
わかっているというようにスピンが笑い
「あったから来たんだ。今日の昼の2時からだが出来るか? 出来るなら、君の予定を入れるが」
「2時?!」
勤務がある。が、そんな彼女の脇をクインが突っつく。何と見る彼女に、クインは自分と彼女を呼びさし、入れ替える。自分と休みを変えてあげるという意味だ。
「出来ます! すぐ準備にかかります」
頭で高速計算。実験して論文を修正して、何とか再提出に間に合う。
「大丈夫ですか? 丸1日以上寝てないでしょう」
「大丈夫です! 気持ちは最高潮です。終わったらまとめて寝ます!」
心配げなセルヴェイに即答し、猛烈な勢いで始末書を仕上げると、
「スノーレ・ユーキ・ディルマ。早退します!」
始末書を渡して部屋を飛びだしていく。
遠ざかっていく足音に、スピンが微笑むのを見てセルヴェイが
「随分と彼女に肩入れしますね」
「上司として有能な部下を応援しているだけです。それに、魔導師になることを望む人は多いですが、実際に魔導を発動できるようになれる人は少ない。それで身を立てたり、さらなる高みに挑むことが出来る魔導師はもっと少ない。
衛士隊が衛士としての彼女を応援しているように、私は魔導師としての彼女を応援しますよ」
そんなスピンをじっと見つめていたクインが
「よし!」
立ち上がって彼を指さし
「あんたのいい男レベルが上がった!」
真顔で言われ、彼が「どうも」と前歯の1本抜けた笑顔を返す。だが、彼女はそれに反応を示さず満足げに頷いた。「いい男」の前には前歯の1本や2本、どうということはないのだ。
魔導師連盟ウブ支部別館東の実験場。
数名の魔導師が立ち会いする中、スノーレは愛用の魔玉の杖を掲げ、床の魔導陣中央に掲げられた黄色い実験用魔玉の前で小さく呪文を唱えていた。
八方に火が焚かれた中、下着に魔導紋の描かれた薄い服を纏っただけの彼女は汗びっしょりで詠唱を続ける。体は疲れていても、その目は先日の実験の時以上に力が宿っている。
部屋には彼女の他に2人。魔導師連盟の記録係が2人、隅に座って彼女の実験記録を付けている。
呪文詠唱に合わせて淡く光る魔玉に導かれるように、周囲の火が中央の台座に備えられた魔玉に吸い寄せられるように伸びては魔玉手前で消えていく。
支部本館の副支部長室。スピンは大きく開かれた窓から別館を見ていた。初夏の日差しの中、書類を団扇代わりにして自分を扇ぎながら。
今度は実験場が爆発することはなかった。
(第6話 おわり)
スノーレ話。彼女は自分は「魔導が使える衛士」ではなく「衛士を副業にしている魔導師」と思っています。周りがそう見ているかはともかく。私たちの世界で言えば、大学院で研究を続けるもそれでは食べていけず、非正規で働く感じでしょうか。もちろん、だからといって衛士としての仕事をおろそかにはしません。
本作品を含む「ベルダネウスの裏帳簿」の作品世界では、魔導師はいろいろ出ているので割とよく見る職業のように思うかも知れませんが、それは舞台が特殊なだけで、実際に魔導師として食べている人は少数。ウブにおいて魔導だけで食べている人は、連盟の幹部をのぞけば5人ぐらいです。ほとんどの魔導師は別に仕事を持っており、魔導を生かせるときにはそれを使うといった感じでしょうか。
今作品も、書いている間に予定していたラストが変化しました。最初考えたときはルシアは登場せず、ポッドは素直に捕まるものの「懲役が終わるまで待っているから」というスノーレに対し、自分が彼女の重荷になりことは出来ないと自ら命を絶つ。自害する彼を前に呆然とする彼女のアップで終わりというものでした。
でしたが、逃げてからスノーレと再会するまでポッドがどんな生き方をしていたかを考えているうちに、本編のようなラストになりました。彼はルシアを得て図太く、たくましくなったのです。