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『第3話 ルーラの初給料』


 ウブの北東にあるラインバー公園。センメイ川とヒャコン川が合流する場所にあるここは、花壇と広場、遊具に溢れた市民憩いの場である。

 公園を囲むように屋台が店を出し、食べ物や子供のおもちゃを求める人達で賑わっている。まだ夕暮れには早いが、この日は多くの人達で賑わっていた。

「何だとこの野郎!」

「面白ぇ、お前の面は酒のつまみにちょうど良い」

 いや、賑わいすぎていた。10人近い男が酒の勢いも手伝って殴り合いを始めていた。周囲の連中がはやし立て、もはや喧嘩と言うより催し物の1つのようだ。しかし、だからといってほおっておくわけにはいかない。

「拳を下ろせ。衛士隊だ」

 号声とともに彼らの間に入ったのは、ウブの衛士隊。東地区衛士隊第3隊隊長ネグライド・バー・メルダーだ。

「おお、衛視様の登場だ」

「どうです一杯。上物を驕りますよ。何しろ今日は給料日だ」

 酔っ払いから差し出されたジョッキを

「勤務中だ」

「まあまあ、衛視様。そんな堅いこと言わずに」

 断るメルダーに、酔っぱらいの1人がジョッキの酒を注ぐようにかけた。たちまち周囲が笑い、そのさらに周囲が危なさを感じて後ずさった。

「君たちは少し酒を抜いた方が良いな」

 腰のサーベルの鯉口を切るのを見た男達が

「おお、衛視様参戦!」

「俺、いっぺん衛士のツラを殴ってみたかったんだ」

 殴りかかってくるのを、メルダーは軽く避けざま相手の膝の裏を蹴った。男の膝がかっくんと折れ、地面に転がる。

「何だこの野郎!」

 自分から食ってかかったのも忘れ、男は立ち上がるとメルダーに掴みかかる。が、彼は風に揺らぐ蔓のようにその腕をかわしていく。

「へたくそ。パンチってのはこうするんだ!」

 見かねた男の仲間がメルダーに殴りかかるが、これもまたかわされていく。さらにもう1人が加勢した。3人の攻撃を巧みにかわしていくメルダーだが、さすがに不利に見える。

 その様子に

「メルダー隊長」

 野次馬を遠ざけていたルーラ・レミィ・エルティースが愛用の石槍を手に駆け寄ってくる。

「ルーラ、君は周りを見ていなさい」

 髪の酒を指で払いながら制するが、現れた14歳の女衛士は酔っぱらい達には良いエサだった。

「お、可愛らしい衛視様の登場だ」

 酔いの回った足で男が近づき、強烈な酒の匂いと共にルーラに掴みかかる。彼女はその腕を流しざま、石槍の柄で男のすねを叩いた。

 痛みに叫び男がすっころび、周囲から笑い声が起きる。男の頭に血が上った。

「この小娘がぁ!」

 掴もうとするが、その手は彼女にかすりもしない。

 このスターカイン国でも屈指の槍使い・トップス衛士隊長から毎日稽古をつけられている彼女だ。酔った男の動きなどスローモーションのように見える。

「ちくしょお!」

 ついに男が手近な屋台から商品の串焼きや果物を片っ端からつかんでは彼女に投げ始めた。

 メルダーにあしらわれていた男達も、手近な椅子を手にして振り回し始めた。こうなってはさすがにメルダーもただ避けているわけにはいかない。サーベルを半回転させ、峯で男達を打ち据える。

「この野郎、やりやがったな!」

 倒れた仲間の姿に男達が一層興奮した。日頃から衛士達に対する不満もあったのだろう。10人以上がメルダーに襲いかかる。直接襲いかかる者、離れてものを投げる者。巧みにそれらを捌いているメルダーだが、衛士隊でも強者に入る彼でもさすがに分が悪い。

「何か……何かいい方法は」

 その様子をなすすべもなく見ているルーラに、先ほどから挑んでいた男が後ろから組み付いた。

「捕まえたぁ」

 酒臭い息を吐きかけられた彼女に怒りの表情が浮かぶ。

「こんのぉ!」

 山育ちでずっと仕事を手伝っていた彼女はへたな男顔負けの力がある。男の腕をつかむと、力任せに引き剥がし、そのまま男を投げ飛ばした!

 痛みに悶える男をそのままに、彼女は川縁まで駆け寄り

「水の精霊、あいつらの頭を冷やしてやって!」

 精霊の槍を川面に突き刺す。精霊の槍の穂先は精霊石で出来ている。精霊使いである彼女はそれを通じて自然界を司ると言われる精霊たちと意思を通わすことが出来る。

 精霊石を通じて彼女の思いを受けた水の精霊は、OKとばかりに川面を持ち上げ、津波のように公園に流れ込む!

 3メートル近い高さの並がメルダーと彼を襲う男達をまとめて飲み込んだ!


「ルーラ、トップス隊長が前に言ったな。精霊の力は強い、使い方によっては却って被害を大きくする」

 髪から水を滴らせながら言うメルダーの横で、ルーラは申し訳なさそうに肩をすくめていた。

 2人の目の前には、雨でもないのに一面ぐっしょりと濡れた公園広場があった。倒れた屋台。濡れた地面に散らばった売り物のおもちゃや食べ物。もちろん、もう売り物にはならない。

 商品をめちゃくちゃにされた屋台の主人達がずぶ濡れのまま2人の前に並んで睨み付けている。

「弁償はしてもらえるんでしょうね」

「……あとで衛士隊に請求書を回してくれ……」

 メルダーがため息をつき、ルーラがさらに肩をすくめて小さくなる。

 騒ぎのもとになった男達は、水に揉まれて酔いが醒めたのか、騒ぎを恐れて全員逃げていた。


   ×   ×   ×


 ウブの衛士隊本部。その日、衛士達はどこか違っていた。皆どこか落ち着かず、そわそわしたりウキウキしたり。

 市内の見回りから戻る足はいつもより早くしっかりとし

「ただいま戻りました」

 の声もいつもより力が入っている。

 第3隊の部屋もそれは変わらない。クイン・フェイリバースは笑顔を絶やさず、スノーレ・ユーキ・ディルマは考えながら指折り数えている。

 扉が開くと皆が一斉にそちらを見る。

 いくつもの袋の入った箱を抱えたギガ・バーン・イントルスを伴い、モルス・セルヴェイが入ってきた。

 皆が嬉しげに腰を上げた。

「お待たせしました……隊長とエルティースさんは」

「別室で始末書を書いてます」

 トリッシィ・スラッシュが答える。今夜は妻と食事する予定の彼は鏡を前に櫛で髪を整えている。

「そうか、ならば戻るまで待ちましょうか」

 途端、皆が不満の顔に変わった。

「冗談です」

 セルヴェイが冗談を言うほどこの日は特別だった。

「それでは、春3回目の給金をお渡しします」

 この日は衛士隊の給料日だった。


 この世界は春夏秋冬がそれぞれ100日。計400日で1年となる。衛士隊の給料は25日ごと、1季節に4回。この日は春の75日なので春3回目の給料日となる。

 給料は基本的に現金で支払われる。受け取った人が自分の机で給料袋を開け、明細と中の金額が一致することを確かめるのはこの日の風物詩である。すぐに金を数えるのは浅ましいという声もあるが、後でなんだかんだ言うより、もらってすぐ確認した方がいいという声も多い。

 給与を確かめ、定時の鐘が鳴ると皆が一斉に帰り支度をはじめる。この日ばかりは残業をする者はほとんどいない。

 暗くなると、遅番と夜勤以外、すっかり人がいなくなる。

「はい。良いでしょう」

 提出された始末書と報告書を確認したセルヴェイは

「それではお疲れ様。エルティースさんは初めての給金ですね」

 彼女の名札のついた袋を渡す。

「入隊時期の関係で半分ほどですが、次からは満額支給になります」

 受け取りの書類にサインし、袋を受け取ったものの、戸惑いの顔を見せる彼女にセルヴェイは戸惑いを見せ

「どうしました?」

「い、いえ。何でもありません」

「明細書の中の金額が一致するかを確認してください。違っていたらすぐに知らせてください。少なかった場合、あまり時間が経ちすぎると差額が支払われない場合があります」

「はい」

 自分の席に戻り、金額を確かめる間も、彼女は戸惑っていた。いや、戸惑っていると言うより、給金の意味がわかっていないようだった。

「どうしました? 給料をもらったら喜ぶものですよ」

「働いて、お金をもらうってよくわからないんです」

 イントルスとセルヴェイが意外そうな顔をした。

「欲しいものがあれば何かと交換すれば良いし、交換するものがなければ何かお手伝いをして、そのお礼としてもらえば良い。村では、みんなそうしていました。あたし、村を出るまでお金って使ったことがなかったんです。見たことはありましたけど」

「それは……エルティースさん、あなたの村は小さかったのでしょうね」

 セルヴェイに言われてルーラは頷いた。

「小さいから、みんなが知り合いだからそれで良かったんです。でも、人が多くなると、全然知らない人達と繋がらなければならない。それには、間に入るものがいるんです。お金はその代表みたいなものです。

 お金は、知らない人達ともののやりとりを速やかに行うために生まれたんです」

 ルーラは軽く笑みを浮かべ

「セルヴェイさん。ザンと同じ事を言ってる」

「ザン? 聞いています。あなたの想い人である自由商人ですね」

「はい。お金の使い方を知れば、人とのつながりは一気に広がる。世界がぐんと広くなるって」

「自由商人らしい言い方ですね」

「でも、ザンだって村に来ていたときはお金じゃなくて物と交換していた……」

 言いつつも、どこか納得できないようにルーラは革袋の中から硬貨を1枚つまんで眺めた。彼女にとって、初めて働いて手にしたお金だった。


   ×   ×   ×


 月のきれいな夜だった。

 ルーラは1人帰路についていた。まだ深夜とは言えないが、14才の娘が1人で歩くには遅い時間だ。もっとも、精霊使いの衛士である彼女を襲おうという不埒者はよほどの人数か強者でない限り返り討ちに合うのがオチだが。

「給料かぁ」

 他の人なら何に使おうとかいろいろ考えるのだろうが、彼女にとってはこれといって欲しいものはない。住むところがあり、仕事があり、友人がいて、目指す目標もある。どれも、これ以上のお金は必要ないものばかりだ。あえて言うなら寮費だが、それはすでに彼女の手に渡る前に差し引かれている。

 斜めがけにした鞄に入れた給料袋がやけに重かった。

 ちょうどセンメイ川の橋にかかったときだった。

 橋の中央に1人の男がいた。50過ぎだろうか、くたびれた服につかれた顔、すっかり疲れ果てた様子で、黙って欄干越しに川面を見ていた。

 その人がやけに気になったのは10日あまりとはいえ、衛士として働いてきた彼女のカンだろうか。

 男は大きく天を仰ぐと、今にも泣き出しそうな顔で欄干に足をかけ、その向こうに飛び降りようとした。

「危ない!」

 とっさにルーラが駆けた。精霊に頼む余裕は無い。

 やはり怖かったのだろう。男は彼女の声に一瞬、飛び降りるのをためらった。その隙に彼女は飛びつくように男にしがみつき、供に橋を転がっていく。

「なんて事をするんです。死んじゃったりしたら、死んじゃうんですよ」

「死なせてくれ。娘に合わせる顔がない」

 ほとんど泣きわめくような叫びで振りほどこうとするのを、ルーラが腕をねじり上げるようにして組み伏せる。

「痛い痛い、止めてくれ。死んじまう!」

 その叫びに彼女が力を抜く。と、それに合わせて男は彼女を振りほどき、そのまま欄干を越えて川に飛び込んだ。

 それを追ってルーラも川に飛び込む。精霊の槍の穂先を川面に突き立てるようにして

「お願い!」

 穂先が川面に触れた途端、川の水が彼女を中心に引いていき川底が現れる。そのまま川下に向かって走る! それに合わせてぽっかり水の抜けた川の穴も移動する。

 流される男に追いつく。流す川の水がなくなったため、男の体が川底に落ちた。

「死ぬ、死ぬ、助けて」

 自分から飛び込んだくせにあがき続ける男だが、周囲の水がなくなったことに気がつき、動きを止めた。

 ルーラは彼を捕まえると、そのまま肩にかついで川岸に走る。彼女が走るのに合わせて、川の水のない部分が移動する。

 河川敷に一気に駆け上がると、男を下ろしてルーラは大きく息をついた。

「な、なんだお前は。何をした。化け物か。魔族っていうやつか」

 精霊使いを知らないらしい男は、恐怖の目でへたりながらルーラから遠ざかる。

「そんなことより、どうして死のうとしたりするんです」

 むくれ顔を向けるが、男はむしろ彼女がまだ幼さの残る少女と気がついて

「何だ、子供か」

「子供だからどうだって言うんです。あなたこそ大人のくせに、簡単に死のうとしたじゃないですか!」

「大人の事情ってもんがあるんだ。子供は口を出すな」

「子供に口を出されるような生き方をするからです。どうして死ぬんです!」

「子供が金の問題をどうこうできるか?!」

「お金の問題?」

「そうだよ。できる限りのことをしたが、どうしてもあと15,000ディルばかり足りない」

「なんで必要なんですか?」

「娘の治療代だ。その薬代の支払いに金を借りた……病気はもう治ったんだが、支払が残っている」

「待ってもらえないの?」

「1年近く待ってもらって、もう駄目だと言われた。1ディル欠けてもだ。あちこちに頭を下げてかき集めたが、どうしても15,000ディル足りない」

「払えなかったらどうなるの?」

 途端、男は黙り込んだ。

「おじさん、死んじゃったらせっかく治った娘さんが悲しみますよ」

「そんなこと言ったって……だから言いたくないんだ。どいつもこいつも、えらそうに説教だけして何もしねえ」

「そっか……」

 途端、男が川に走り出そうとするが、ルーラはその服の裾をしっかりつかんでいた。

「放せ!」

「駄目!」

 男を思いっきり引きずり倒す。

「はい、これあげる」

 彼女はバッグから給料袋を取り出し、そのまま男に握らせた。

「確か、15,000ちょっとあったはずだから。これで死ななくて良いんだよね。娘さんのところに帰って」

 きょとんとする男をおいて、そのままルーラは走って行った。

 しばし呆然としていた男だったが、次第に怒りに肩をふるわせ

「ふざけやがって。あんなガキがそんな金持っているわけ無いだろ。とことん俺を馬鹿にしやがって!」

 袋を地面に叩きつけた。途端、袋から金貨がこぼれ出る。

「え?」

 男は愕然として、月の光を受ける金貨の山を見つめた。


「バッカじゃないの!」

 ファウロ・ベーカリー3階。ルーラとクイン、スノーレが寮として住んでいるフロアの居間に、クインの怒声が響き窓が震えた。

「全然知らない男に給料まるごとあげてくるなんて、あんたの頭どうかしているんじゃない!」

「でも、お金がないと本当に死んじゃいそうだったから」

「だからって名前も事情もろくに聞かないで給料やるな! あんたみたいのはお人好しでも世間知らずでもない。ただのバカって言うのよ!」

 今にもルーラに掴みかかりそうな彼女を、後ろからスノーレが必死で羽交い締めにして押さえる。

「私もね。衛士になっていろいろなバカを見てきたけど、あんたがバカのチャンピオンよ。ダントツで優勝よ!」

「優勝ですか」

 笑顔のルーラを

「喜ぶな!」

 一声怒鳴ると、

「だいたい、給料全部あげて、あんたは次の給料日までどうするのよ。食べ物は?」

「朝は下でパンが食べられるし、欲しいものがあったらみんなに分けてもらうか、いろいろお手伝いをしてそのお駄賃で食べ物もらうか。町外れに行けば食べられる野草や木の実があるし、川で貝や魚も捕まえられるし。公園には跳虫とトカゲがいるから」

「食べ物以外は?!」

「春は衛士の制服着ているし、夜の私服や下着は3着もあるから大丈夫。洗濯は自分でするし、針と糸もある。住むところはここがあるし。何とかなります」

 あっけらかんと言う彼女に、クインもスノーレも呆れかえる。

「もう寝る! このまま話を続けたら、ルーラを斬るか殴るか蹴飛ばすかしそうだわ」

 クインはそのまま居間を出て行った。

「あたしのしたことって、そんなに変なことですか?」

 ソファに座り直したルーラは、力なくスノーレに聞いた。

「そうね。私も正直言って呆れたわ」

 スノーレは紫茶を入れ、カップの1つをルーラの前に置いた。

「あなた、前に言ったわよね。自由商人のお嫁さんになるんだって。だったら、お金の使い方は絶対に覚えなければならないことでしょ」

 そう言われると、ルーラも肩をすくめるしかない。

「あなたは結論を急ぎすぎた。もっと事情を詳しく聞けば、何か良い方法を思いつくかも知れない。追い詰められた人は、うまく頭が回らなくて、簡単なことすら思い浮かばないことが多いから」

 その言葉に、ルーラはしょげながら紫茶を口にした。甘酸っぱい暖かさが喉を通っていく。

「でも、あなたのしたことは悪いことじゃない。クインだって、あんなに怒ったけど、あれはあなたに怒ったんじゃないわ」

「え?」

「あなたのしたこと以上に、他にその男の人を助ける方法を思いつかない自分に怒ったのよ。例え一時しのぎに過ぎないとわかっていても」

「一時しのぎ、ですか」

「ええ。推測でしかないけど、その男の人。あちこちお金をかき集めたって言うけど、具体的にはどういう方法だと思う? 知り合いや友達、職場での給金前借りなら、その前の段階、薬代の支払いの段階でしているはずよ。

 だとすると、今回は、どこか金貸しから借りたのね。その中には、違法な高利貸しも入っているかも知れない。だとしたら、大変なのはこれから。それらの取り立てが始まるわ。金額は利子の分増えている。もう借りるあてはない。今夜以上に苦しむことになるわ」

「じゃあ、あたしのした事って」

 自信を失いそうなルーラの前で、スノーレは力強く

「間違っていないわ」

「え?」

「適しているかどうかはともかく、人を助けようとしてしたことは『間違っていない』わよ」

 真っ直ぐ向けられた言葉にルーラの顔が少し和らぐ。そして気がついた。

 スノーレの後ろ、廊下への扉が少し開いている。そこからむくれ面でのぞき込んでいるクインが、無言で親指を立てた。


   ×   ×   ×


 2人の部下を控えさせたヂリアス・ベーベは、テーブルの金貨の山に頬をひくつかせた。

「あんたから借りた金。間違いなく返すぞ。借用書を出せ」

 どうだとばかりに意地の悪い笑みを浮かべるのは、ルーラが金を渡したあの男である。名をタルゴ・ニーベルトと言う。

「よ、よく用意できたな」

 笑顔を引きつらせて借用書を渡す。

「出来ると思ったから、返せって言ってきたんだろ」

 金を用意できた余裕からか、ニーベルトの声には挑発が混じっている。

「いや、思っていなかった」

 差し出された借用書を受け取ると、ニーベルトはそれが本物であることを確かめて破りはじめた。

 さらに、それを暖炉に放り込む。わずかに残っている燃えさしに載せられたそれは、たちまち燃えて灰になった。

「さあ、これで用事は終わりだ。金を持ってさっさと帰れ。茶を出すほど俺はお人好しじゃねえ」

「いや、まだ話はある」

 ベーベは金に手を伸ばすことなく、椅子に座り直す。

「確かに俺のところの借金はこれでゼロだ。だが、お前さん、この金をどうやって作った?」

「そんなこと、お前には関係ないだろう」

「そうとは限らん。この金が天から降ってきたとは思えん。どこかから借りたのだとしたら、取り立てるのがわしらから別の奴に変わるだけだ。そうだろう」

「そんなこと、お前らのしったこっちゃねえ」

「最後まで聞け。そしてお前はそれを返すためにまた別の金貸しのところに行く。前より高い金利のところにな。お前さんは知らないかも知れないが、金貸しの間ではやばい奴の名簿ってのが回されててな。そこに名前が載れば、借りようとしても断られる。借りられるとしても、ずっと高い金利がかかる。

 お前さん、覚えがあるんじゃないか。もう、お前さんに金を貸すやつはないぞ」

 ニーベルトの頬がひくついたのを、ベーベは見逃さなかった。

「そこでだ、ひとつ良い話がある。乗ってくれれば、こいつはまるごとお前さんにやろう」

 目の前の金貨の山を指さして、ベーベはにやりと笑った。


 別室で、ニーベルトの娘・オレアは1人で服の繕いをしていた。ベーベが来ると彼女はいつも父から部屋を出された。だから彼女は父と彼がどんな話をしているか具体的には知らない。しかし、微かに漏れる声などから、父が彼から借金をしていることはわかった。

 ここ数日、父が金策のために走り回っていることは知っている。仕事が終わると夜遅くまで帰ってこない。

 昨夜、父が1人で机に突っ伏して

「……あと15,000……それだけで良いのに……」

 と悔し涙に暮れているのをこっそり見たときは、どれほど声をかけようかと思った。15,000ディルは大金と言うほど高額ではないが、たかがというほど少額でもない。微妙な金額だ。

 オレアも病気から回復して、簡単な内職をするようにはなったが、そこまでの蓄えはない。

 それが先ほどニーベルトが歓喜の声と共に帰り、ちょうど来たばかりのベーベに金貨の山を見せつけたのだ。勝利と歓喜の笑いと共に。

 しかし、喜ぶ父とは反対に、彼女の気持ちは暗く沈んでいた。

(お父さんは、あのお金をどうやって手に入れたんだろう)

 ほとんどはどこかから借りたらしいが、最後の15,000ディルはどうも違う気がした。しかし、それを聞いてはいけない気がする。いや、聞くのが怖かった。

 やがてベーベが

「返事は明日で良い。期待している」

 何やらふくみを残した言い回しで出て行くと、ニーベルトは帰ってきたときの威勢はどこへやら、難しい顔をして黙りこくっていた。

 オレアが声をかけても

「何でも無い。もう寝る」

 と彼女を残して寝室に行ってしまった。

(いったい、何があったんだろう)

 テーブルには、ベーベが持って帰ったのか金貨は残っていない。最後の15,000ディルが入っていた袋が無造作に置かれているだけだ。

 彼女は袋を手にするときれいに折りたたむ。何かに使えるかも知れないと、袋などは大事に取っておく癖がついてしまった。

「あれ?」

 折りたたむ袋に妙な感触がある。何だろうと袋を開けて中を見ると、奥に引っかかるようにして細長い紙があった。中の金貨に揉まれたのかクシャクシャだ。

 何だろうと取り出してみると、それは給与明細書だった。記された金額は15,078ディル。受取人の名前として「ルーラ・レミィ・エルティース」とある。

 彼女の体がびくっと痙攣するように震えた。

(これ……エルティースという人のお給料……どうして父さんがこれを……まさか?!)

 最悪の事態を彼女は思い浮かべた。

(まさか父さん。この人からお金を盗んで……)

 確かめたかった。しかし、彼女はどうしても本人にそれを聞く勇気が湧いてこなかった。


 ウブの衛士隊本部。4階建て煉瓦造りの建物をオレアは見上げた。長い月日が煉瓦を煤けさせていたが、それはむしろ歴史と威厳を感じさせる。衛士隊本部はウブに3つ「東衛士隊本部」「西衛士隊本部」「衛士隊総本部」がある。東と西が事実上の本部であり、衛士隊総本部は本部と言うより様々な事件の資料館、東西合同の任務を話し合う会議場という色合いが強い。

 彼女の前に立っているのは東衛士隊本部である。

「どうしよう……」

 自分から来たのに、いざというと中に入る勇気が出ない。彼女の鞄には、ルーラの給料明細が入っている。

 彼女は昨夜一睡も出来なかった。父がエルティースという人からお金を盗んだという考えがどうしても頭から離れない。

 もちろん、彼女は別の可能性も考えた。

 父がエルティースという人が落とした給料袋を拾い、つい魔が差して自分のものにしてしまった。いや、それでも泥棒には変わりない。

 エルティースから給料袋ごとお金をもらった、あるいは借りた。それは有り得ないと思った。実際はそれが正解なのだが、彼女はどうしてもそれを受け入れられなかった。

 可能性としては、拾った説が一番受け入れやすかった。それならエルティースは衛士隊に届けたに違いない。だから、衛士隊に行けば何かわかるはず。そんな思いが彼女をここまで足を運ばせた。

(お父さんは盗んでいない。拾っただけ、拾っただけ、拾っただけ……)

 勇気を出して衛士隊の建物に入る。

 中に入ると、目の前には待合室とその向こうに受付が見えた。昼前ではあるが、10人近い人が受付に並んで番号札を受け取っている。彼女もそれに習い、名簿に名前を書き込み番号札をもらう。

 呼ばれるまでの時間が、彼女にとってどれだけ長く感じられたことか。

 昼食休憩だろうか。受付の人が別の人と変わって最初に彼女の番号が呼ばれた。

「どのようなご用件でしょうか?」

 いかにも事務員というような地味な顔、年は30才ぐらいだろうか。白いシャツに腕貫を付けた彼は、穏やかな笑顔を向けた。胸の名札には【モルス・セルヴェイ】とあった。

「あ……あの……」

 どう切りだして良いか良いかわからない。それでも彼女は給与明細書を出し

「このルーラ・レミィ・エルティースという人がここに来ませんでしたか?」

 肝心なことを言っていない。しかし、セルヴェイはその給与明細書を見ると目つきが変わった。細く、相手を捕らえるような視線を向ける。事務員から狩猟者に変わったようだった。

「あなたはこの方のお知り合いですか?」

 給与明細書を指さしながら、静かに語りかける。

「あ、あの……この人は……」

「ルーラ・レミィ・エルティース。我が衛士隊の一員です。この給与明細書は、昨日私が給与と供に彼女に渡したものです。どうしてこれをあなたがお持ちなのか。お話を伺わせてもらえませんか」

「衛士!?」

 途端、オレアがその場にへなへなとへたり込んだ。

 セルヴェイが鹿のような華麗さで受付を跳び越え、彼女のそばに降り立った。

「ここでは何ですので、別室にどうぞ」

「お……お父さんを許してください! 悪気はなかったんです!」

 いきなり彼女は泣きわめき、哀願するようにセルヴェイにしがみつく。周囲の人達が何事かと視線を2人に向けた。

「お願い。許して! うっ!!」

 突然オレアが胸を押さえ、大きく口を開けて痙攣し出した。そのまま倒れ、空気を求めるように口をぱくぱくさせ、白目を剥く。極度の緊張が、彼女の病をぶり返させたのか?

「医者を呼んでください!」

 セルヴェイの叫びに周囲の人達が慌てて

「魔導師を呼べ。治癒術を」

「治癒魔導ではダメですよぉ」

 近くの女性が歩み寄り、オレアのそばに膝をついてそこへ彼女の頭を乗せる。肩にかかるほどの癖のある金髪に薄いピンクのカチューシャをつけている。

「あなたは?」

「薬草師ですぅ。足を持って、膝を少し立たせてくださぁい」

 なんか力の抜けそうな言葉だが、有無を言わさぬ力があった。セルヴェイはオレアの足を持ち、膝を少し立たせる。

「聞こえますかぁ。出来れば口をすぼめて、ゆっくり呼吸してくださぁい」

 衛士隊受付は大混乱に陥った。


   ×   ×   ×


 この世界で8大神と呼ばれる神々のひとつサークラー。

「人々は互いに交流しあうことで生活は潤い、幸せになっていく」

 この教えを基本とするため、交流神と呼ばれている。教会をあげて商人、それも多くの場所を行き来する自由商人を支援しているため商売神、金の神などと呼ぶ人もいる。

 この世界において、商人のほとんどはサークラーの信者である。もっとも、教えを信じているのではなく、信者となった方がいろいろと便利だから入信という「とりあえず信者」が半数以上であるが。

 そんな性格のため、サークラー教会はいつも人が集まっている。町で一番人の出入りが激しい場所と言われるように、今日も多くの馬車が出入りする。近くの街への乗合馬車、これから他の土地へ向かう、あるいは他の土地から戻ってきた自由商人の馬車。

 ウブのような大きな町だと、一日中、人や馬車が出入りがある。皆がここで情報交換をしたり、街道の盗賊対策に護衛を雇ったりしている。仕事を求めてやってくる人、従業員がほしくていい人を紹介して欲しいとやってくる経営者。

 教会周辺はそんな人達目当ての屋台が並び、ここは一年中ちょっとした祭りのような賑わいを見せている。大きさも、敷地面積で言えば8大神の教会ではもっとも広い。

 そんな教会の一室で、ニーベルトは教会の馬車の出入りなどをチェックしていた。勝手に出入りさせては馬車を止める広場はすぐ一杯になってしまう。時には依頼を受けて特別馬車の受け入れや出発の準備をしなければならない。

「おい」

 彼の上司がやってきて、そっと彼に耳打ちする。

「今日の夜10時から明日の4時まで、1番から3番まで入れるな、A-5だ」

「はい」

 返事をしながら、予定表に済マークを書き込む。

(……来た……)

 A-5クラスは特別仕立ての馬車だ。見かけは普通の馬車だが、車体には鉄板が仕込まれ、耐攻撃魔導の紋様が密かに書き込まれている特殊輸送用馬車だ。それだけではない。積み荷かわからないように、荷の上げ下ろしには周囲に人払いがされる。

 もちろん、ニーベルトにもこの馬車の積み荷は聞かされない。しかし、想像はつく。

 多額の現金だ。貴金属類も含まれる。

 給料日に合わせて、信者達は教会にお布施を納めに来る。1人あたりの額はたいしたことは無いが、何しろ人数が多い。集まる額はかなりのものになる。

 それらは信者の商人に貸し付けたり、教会の維持費に使われたりするが、常に使い切るわけではない。余剰金が出れば不足している別の教会に移される。明日、出発するのがそれだ。

(久しぶりの輸送だ。少なく見積もっても2,000~3,000万。5,000万を越えるかも)

 想像するものの、桁が大きすぎてピンと来ない。彼の借金よりも0が2つ多い。

 それが却って彼の罪の意識を薄れさせる。


 職員用の休憩室で一息つくと、ニーベルトも大分落ち着いてきた。

 昨夜、ベーベが彼に提案したこと。借金を帳消しにする条件が、この輸送馬車の情報だった。その性質上、いつ出発するかはギリギリまで決められない。出入りの多い時間帯なら他の馬車に紛れる事が出来るが、それだけ人目につく。深夜なら人目が少ない代わりに、誰かに見られたとき目立つ。いつ出発するかは教会側がいつも頭を悩ます問題だ。

 何のためにベーベがこの輸送馬車の情報を知りたがるのか。彼にも想像はつく。

(あいつら……輸送馬車を襲うつもりだ)

 そのために馬車がいつ出発するかを知りたかったのだ。馬車の目的地がわかっているのだから、出発時間さえわかれば待ち伏せが出来る。

(もしかしたら、あいつら、この情報を知るために俺に金を貸したのかも知れねぇ)

 だが、さすがにそれは無理があると自分で否定する。彼が金を借りたのは1年近く前だ。

 彼は考えるのを止めた。深入りするとろくなことになりそうもない。

 とにかく、輸送馬車に関する情報をできるだけ集めて、今夜、ベーベの所に持っていく。情報と引き換えに金をもらい、次の休みに貸し手を回って借金を返す。それで終わりだ。数日とはいえ利子が付くが、それはあの15,000ディルから出せば良い。

 昨夜、彼に金をくれた女の子のことを思い出す。もちろん彼はルーラの名前も素性も知らない。今となっては、

(あの娘は、俺を助けるために、どこかの女神が姿を変えてやってきたんだ)

 とも思う。

 後は自分が情報を流したことをバレないようにすれば良い。

 それに輸送馬車を襲うといっても、教会だって馬鹿じゃない。腕の立つ、信頼できる戦士や魔導師を護衛に雇っている。生半可な襲撃など返り討ちにされるのがオチだ。そう考えると大分気分が楽になる。

 その時だ。聞き覚えのある声が窓の外から聞こえてきたのは。

「それでは明日から4日ほど、お世話になります」

 彼の身体が固まった。昨夜聞いただけだが、忘れようもない、ルーラの声だ。

「それにしても、衛士隊に入隊した精霊使いが、こんな可愛らしい少女とは」

 この男の声も聞き覚えがある。教会の警備主任だ。

「どうです。衛士隊を辞めてうちに登録しませんか。精霊使いが1人いるだけで請け負える仕事の幅が広がるのですが、何しろ数が少なくて」

「ありがとうございます。けれど、あたしはまだ衛士隊で学ばなければならないことがたくさんありますから」

 窓からそっと外を見る。この休憩室は2階にある。窓の下で、警備主任と、昨夜のあの娘が話をしている。彼女は衛士の制服を着て、もう1人、眼鏡をかけた女衛士と一緒にいた。

 脳をむき出しにされて直接ひっぱたかれたような衝撃だった。

「それでは明日、馬車の警護をお願いします。くれぐれも時間厳守でお願いします」

 警備主任の言葉が2発目の衝撃。

「確認しますけど、ウブに戻るまでの間、宿と食事は」

「もちろん、こちらで全て持たせてもらいます」

 その返事に眼鏡の女衛士・スノーレはほっとした。

「スノーレさん、心配しすぎですよ」

「心配もするわよ。戻るまでずっと馬車に寝泊まりして、固くなったパンの耳かじっている気?」

 ルーラが肩からかけているバッグには、昼の弁当としてファウロ・ベーカリーでもらったパンの耳が入っている。そこではサンドイッチを作るのに、口当たりを柔らかくするためパンの耳を切り落としている。次の給料日まで彼女のお弁当はその耳だ。

「固くなってもパンの耳は美味しいですよ」

「そういう問題じゃなくて」

 困ったようにスノーレは手で額を押さえた。

 その会話をニーベルトは聞いていなかった。衝撃のあまり、壁にもたれるようにへたり込み、絶望の表情を浮かべている。

 そんな彼を、休憩室の他の人達が何事かと寄ってきて。

「おい、大丈夫か?」

 そのうちの1人が声をかけるが、彼にその言葉は届かない。

(あの娘が衛士……しかも、あの馬車の警護をする?)

 彼の脳裏に、馬車を襲撃するベーベ達の様子が浮かぶ。

 警護の戦士達を次々殺していき、ついにはルーラも彼らの手にかかる。

 馬車を奪って去って行くベーベ達。後には護衛の戦士達の死体が転がっている。その中にはルーラの死体もあった。

「おい、誰か医者を呼べ」

 目を見開き、歯をガチガチ鳴らしながら震えているニーベルトの様子に、周囲の人達が慌てて医者を呼びに行った。


   ×   ×   ×


 夜、厚い雲が月をすっぽり隠していた。

 街を照らすものといえば、ブロックの角に置かれた外灯だけ。特に大事な設備があるわけでもない場所に魔導灯は設置されていない。街の灯りは不細工な斑模様となっていた。歩く度に光と闇が交互にやってくる。

 そこを歩くニーベルトの心はずっと闇だった。その上足が少しもつれている。酔っているのだ。

 昼間、体の調子が悪いと彼は早退したものの、家に帰る気にはなれず、少ない手持ちの金でずっと安酒をあおっていたのだ。

「ちくしょう。神様ってのはこの世で一番性格の悪い奴だ。よりによって……」

 しかし、愚痴を言いつつも彼は1つの決断をしていた。

 彼はポケットの中の紙を握りしめる。それに合わせて、彼の足取りは少しずつしっかりし始めた。

 光と闇を交互の進む彼の後を、1匹の虎猫が静かについていく。が、彼はそれに気がつかなかった。


 小さな繁華街の隣のブロック。一見するとただの個人住宅だが、ここは金貸ヂリアス・ベーベの職場兼住居である。

 ニーベルトは表通りからは見えない位置にある小さな扉を開けて中に入った。金貸しは客が入りやすいよう、あまり人目につかないところに出入り口を備えているところが多い。

「何とか間に合ったな」

 2階ではベーベが数人の部下を連れて待っていた。今夜は暑く、窓から流れ込む風が心地よい。

「約束の情報だ」

 ニーベルトから渡された紙をベーベは開いて確かめる。

「間違いないな」

「少なくとも、俺が聞いたのはそうだ。急な変更はあるかも知れないが、そこまではどうしようもねえ」

「そりゃそうだ。おい」

 部下に合図し、金貨の入った袋を前のテーブルに置く。いそいそと袋の中をのぞいたニーベルトの顔色が変わり

「約束より少ないぞ」

「当たり前だ。お前が持ってきた情報が本当なのかまだわからないからな。残りの金は事が済んだ後に渡す。わかったら帰れ。安全のため、明日は頭が痛いとかいって休んだほうが良いぞ。昼間倒れたそうだからちょうど良い」

「なぜそれを?」

「馬車の情報はわからなくても、ヒラ職員1人の情報なら俺たちも手に入れられるって事だ。だから、変な真似はするなよ」

 薄ら笑いを浮かべるベーベの目は笑っていない。その視線に射貫かれて、ニーベルトの足が震えだした。

 その様子を庭の木の枝に座っている虎猫が窓越しにじっと見ていた。その視線は、まっすぐベーベに向けられている。


「バリアス……間違いない。盗賊バリアス・ボーボです」

 シェルマ・オレンダが愛用の魔玉に手を乗せたまま言った。目を閉じた彼の視界には、使い魔アバターの視界が広がっている。

 ベーベの家から数ブロック離れたところに止めてある馬車。その中で、衛士隊第2隊隊員の魔導師オレンダは使い魔の虎猫・アバターを通じてニーベルトを尾行、屋敷の中の様子をうかがっていた。

 彼を挟んでルーラとスノーレが頷き合う。

「盗賊ボーボなら聞いたことあるわ。現金の輸送ばかり狙う盗賊よ。とんでもない奴が出てきたわね」

「さっそくみんなを呼んで、踏み込みましょう」

 拳を固めるルーラにスノーレは首を横に振り

「いま踏み込むよりも、連中が集まったところを一気に捕らえたほうがいいわ」

「ニーベルトが出てきたわよ」

 御者に扮したクインが御者台から声をかけてくる。

 ベーベの家から出てきた出てきたニーベルトは、肩をすくめ、何やら沈んだ顔をしている。

「ありがとう。もう共感はいいわ」

 スノーレに言われてオレンダが大きく息をつく。ゆっくり目を開けては閉じ、目の周りをマッサージする。いかに使い魔とは言え、他の生き物と感覚を共有するのはかなり疲れる。

「ごめんなさい。私たちのことで余計な仕事をさせて」

「とんでもない。隊同士で助け合うのは当たり前です」

 心配げな顔のルーラに笑顔を見せるオレンダ。

 そこへ彼の使い魔・虎猫のアバターが戻ってきた。

「お疲れ様」

 言いながらオレンダが出した干し魚を、アバターは喜んで食べ始めた。

 それに微笑むオレンダの腹も鳴る。

「失礼」

 気まずそうに彼が頭を下げた。使い魔との共感は、魔力だけでなく体力も使う。

「食べますか。パンの耳」

 ルーラが微笑みとパンの耳の袋をさしだした。

「ちょっと、」

 歩いて行くニーベルトの背中を見ていたクインが眉をひそめた。ベーベの家から男が1人現れ、彼をつけはじめたのだ。

「……なんかやばくない」

 クインの声かけに、わかっているというようにスノーレが頷く。

「このまま尾行する?」

「馬車は目立つわ。私とルーラが後を付けるわ。彼が無事家に戻るか見届けた方が良いみたい」

「わかりました」

 とルーラが精霊の槍を手にする。

「僕が行きます」

 オレンダが愛用の魔玉の杖を手に顔をあげた。

「またアバターを使うかも知れません」

「でも……」

 アバターとの感覚共鳴で披露している彼に、さらに仕事を任せるのはとためらうスノーレだが、彼の真剣な目を見て折れた。

「わかったわ。私と交代」

 パンの耳をくわえたルーラとオレンダが馬車を降りてニーベルトの後を付ける男の尾行をはじめる。そのまた後ろをちょこちょことアバターがついていく。

 その彼の背中を見ながらクインが、野次馬根性丸出しの笑みを浮かべ

「ちょっと、もしかしてオレンダの奴、ルーラのこと、狙ってるの?」

「さあ。可愛い子だなぐらいは思っているかも知れないけど……」

 ルーラを追うオレンダの背中を見つめながら慈愛の目を向けるスノーレ。その横で、クインは楽しげに下世話な笑みを浮かべている。

「何か、面白くなりそう」

「クイン、悪趣味」

「大丈夫、いい女たるもの、人の恋路は邪魔しないわ。面白く見物するだけ」

 声を殺して笑う彼女の横顔に、スノーレは呆れたように息をついた。


「これしかねえんだ……これしか……」

 ニーベルトは家々の向こうに見える建物を見て、自分に言い聞かせるように呟き続けた。

 その建物は東衛士隊本部。夜も更けているため、部屋のほとんどは灯りが消えている。点いているのは受付と夜勤の衛士のいる部屋だけだ。

(ベーベのことを話して捕まえてもらう。それが一番だ。馬車を襲うことさえ止めさせられれば、あの娘も無事で済む)

 もちろん、それにより自分の借金は残ったままだし、情報を流したことで、自分も罪に問われるかも知れない。だが、このままでいるよりずっと良いと思った。

(ごめんなオレア。役に立たない父親で。でも、俺は……)

 先日、橋の上で金の袋を渡したルーラの顔が思い浮かぶ。初めて会っただけの自分に名前も告げずに金を渡して走り去った娘。

(あの娘が危険だっていうのに、何もせずに目を背けることはしたくねえ)

 顔をあげ、思い切って1歩踏み出そうとしたとき

「お前の家はそっちじゃないだろう」

 すぐ後ろから男の声がした。ずっと彼を付けていたベーベの部下。名をビーコと言う。

 背後から手を回し、ニーベルトの口を塞ぐとすごい力で路地裏に引っ張っていく。

「衛士隊に駆け込むつもりだったか」

 人の姿が見えないのを確かめると、ビーコはニーベルトを振り向かせ、手にした大振りのナイフを彼の腹にぶち込んだ。

「ぐっ」

 ニーベルトの顔が、体が固まり、小刻みに震える様子にビーコはにやりと笑い

「あいにく、あのままお前を信用するほど俺達は甘くない」

 さらに深くナイフをねじ込む。

 その時、彼の背後で猫の鳴き声がした。続いて

「こっちよお兄ちゃん。アバター、どこ?」

 女の子の声に続いてまた猫が鳴く。複数の走る音が近づいてくる。

 ビーコはニーベルトの顔を見て、もう助からないと判断したのか、彼を突き飛ばすとそのまま逃げ出した。

 入れかわるようにルーラとオレンダが走ってくる。

「大丈夫ですか?!」

 彼女の声を受け、倒れたニーベルトが微かに目を開けた。

「あ……あんたか……」

「黙って。今、治癒魔導をかけます」

 オレンダが杖の魔玉を彼の傷口に近づける。傷口からは血が流れ、路面を赤く染めていく。

 静かに目を閉じ、集中するオレンダの精神を受け、魔玉が淡く光り始める。治癒魔導。生き物が持つ治癒能力を魔力で増幅させるもので、このような外傷の治癒に対して高い効果を発揮する。照明魔導と並び、魔導師連盟が魔導師達に習得を義務づけている魔導だ。

 その光に諭されるように傷口からの出血が収まっていく。

「ちょうどいい。明日の馬車の護衛は止めろ……奴らが……襲う……」

「黙って。治癒以外に体力を使わないで」

「いやだ……これだけは言わせてくれ……あの金……すげぇ助かった……ありがとう……」

 それだけ言うと、彼は静かに目を閉じ、動かなくなった。


   ×   ×   ×


 翌朝。小雨が降る中、サークラー教会から2台の馬車が出発した。人目を避けるように、まだ教会の門も開かれず、朝を告げる鐘も鳴らない時間に。馬車の窓は閉じられ、御者も厚手のフード付きマントで顔がわからないようにしている。もっとも、こちらは単に小雨対策かも知れないが。

 それを教会から少し離れた建物の1つ。うっすらと開けた3階の窓からのぞいている目があった。

「よし、予定通りだ。ボスに知らせろ」

 カップの紫茶をすすりながら、待機している魔導師に言う。魔導師は頷くと建物の裏から飛びだし、そのまま飛行魔導で一気に飛んでいく。もちろん、町中での無許可飛行は禁じられているが、そんなこと、彼らは気にしない。

 魔導師は休むことなくウブを飛びだし、街道沿いに飛んでいく。

 10分も飛んだだろうか、街を外れ、山沿いの道に魔導師は降り立つと、脇の林に駆け込んだ。

「どうだ?」

「予定通り出発しました」

 林の中には、ベーベが10数人の部下を連れて身を潜めていた。

「そうか、ニーベルトは何も言わず死んだらしいな」

 ちらと横にいるビーコを見た。彼がニーベルトの死を確認せずにその場を離れたのが気になっていたのだ。

「ボスは慎重すぎます。手ごたえはあったし、教会にも奴が死んだと連絡が入ったんでしょう」

「慎重すぎなきゃ、長生きはできない。打合せ通りに行くぞ」

 部下達が頷き、散っていく。


 雨が止み、雲から日が顔を出して辺りを照らす。

 ぬかるみの残る道を、サークラー教会の馬車が2台やってきた。現金輸送に使われる特別仕様の馬車だ。

 山沿いに入り、曲がりくねった道、林に挟まれた見通しの悪いところにさしかかったとき。

「やれ!」

 林に潜んでいたベーベの合図で、魔導師たちが爆炎魔導を発動する。

 馬車の前で爆発! 爆炎魔導としては小規模だが、馬たちを驚かせて足を止めさせるには十分だ。

 御者が慌てて馬を静めようとするところ、盗賊達が矢を射掛ける。これで御者を仕留め、代わりに盗賊仲間が馬車を乗っ取りそのまま逃げる手はずだ。

 しかし、矢は御者台に届く前、突如吹いた風に逸らされ、明後日の方向に飛んでいく。

「何だと?!」

 盗賊達が驚く中、御者達が馬車の中に逃げ込んだ。義者を失い、その場に留まる馬車を盗賊達が取り囲んだ。

「中の奴ら。出てこい。そこまでサークラー教会に義理立てすることはないだろう。抵抗さえしなければ命は助けてやる」

 ベーベが馬車に語りかけた途端、2台の馬車の扉が勢いよく開き、サーベルを手にしたクインが飛びだした。

「そろいもそろって、いい男レベルが低いわね」

「何だと?!」

 続いてルーラ、スノーレら第3隊の面々が次々と馬車から飛び出す。

 出てきたのがみな衛士の制服を着ていることにベーベが驚いた。

 最後に降りたメルダーが

「衛士隊だ。無駄な抵抗はやめろ。抵抗するなら容赦はしない」

 もう一台の馬車からは、ユーバリ隊長、オレンダをはじめとする第2隊が現れ、盗賊達を取り囲む。

「逃げろ!」

 ベーベの合図で盗賊達が獲物を手に一斉に逃げにかかる。そうはさせないと衛士隊が応戦する。

 クインのサーベルが、イントルスのメイスが盗賊達を打ち倒す。

 隙を突いて飛行魔導を発動、上空に飛ぶ魔導師を、スラッシュの矢とスノーレの攻撃魔導が撃ち落とす。

「あなたね。あのおじさんを殺そうとしたのは」

 何とか衛士の囲みを突破したビーコの前に、ルーラが立ち塞がる。

「その声は、あの時の」

 彼女の声が、昨夜ニーベルトを殺そうとしたとき邪魔をした声だと気がついた。

 小剣を手にルーラに襲いかかるビーコだが、彼女はその剣を巧みにかわし、精霊の槍で受け流す。

 剣では不利と悟ったのか、彼は一気に彼女に詰め寄り掴みかかった。相手は女、力勝負なら勝てると踏んだのだ。

 だが、その伸ばした彼の腕を彼女は片手で受け止めると

「だあっ!」

 気合いと供に彼の腕を持ったまま投げ飛ばす。

 しこたま地面に叩きつけられ、ビーコが悶絶した。

 何人かが衛士の囲いを突破したが、その足にスラッシュの矢が突き刺さる。

 ベーベが林に逃げ込んだ。これなら木が邪魔をして矢や攻撃魔導を使いづらいと踏んだのだ。

「ルーラ、奴の足を止めろ!」

 メルダーの叫びにあおられ、彼女は林に駆け込んだ。山育ちの彼女は足場の悪さはそんなに気にしない。

 距離が縮められたベーベは「捕まってたまるか」と振り向きざま球を投げる。

 それはルーラのすぐ前の木にぶつかり破裂、辺りに粉が広がり、彼女に降り注ぐ。

 たまらず目を押さえて足を止めるルーラ。目潰しの粉だ。目がヒリヒリした。

「逃げさない」

 しかし、目が痛くて開けられない。細く開けて何とかベーベの姿を捕らえたが、とても追いかけられない。無理に走ろうとしたところ、凹みに足を取られ転倒する。

 ベーベの薄ら笑いが遠ざかっていく。

(何か方法は……)

 凹みから這うように上がった彼女は、先日、クインと落とし穴に落ちたことを思い出した。

「お願い!」

 大地の精霊に叫ぶようにお願いしながら、精霊の槍を地面に突き刺した。精霊石の穂先から大地の精霊に彼女のお願いが届く。

 瞬間、林を走るベーベの足下が陥没した。まるで落とし穴のように。たまらず悲鳴とともに彼の身体が地中に消える。

「な、何だ?!」

 穴の深さは2メートル程度。とっさに受け身を取ったので怪我はない。木の根をつかんでは穴をよじ登る。何とか穴から頭を出したとき

「捕まえて!」

 ルーラの叫びに応えるように、陥没部分が横に、彼を挟み込むような形で閉じた。

「な、何だこりゃあ!」

 ちょうど胸から下を生き埋めにされた形のベーベがもがく。が、こんな状態でいくらあがいても自力で抜け出せるはずがない。

 あがいているうちに

「はい。そこまで」

 駆けつけたクインにサーベルを突きつけられ、さすがの彼も観念した。

 ルーラもスノーレとオレンダに手を引かれ

「大丈夫?」

「目をこすらないで。盗賊の目潰しは厄介です。すぐに洗いましょう」

 馬車に戻って目を洗うと、やっと少し楽になってきた。

「油断したな。次から気をつけろ」

「はい」

 メルダーに注意されて肩を落とす彼女に

「しかし、さっきのはいい手だ。大地の精霊に作ってもらう落とし穴か」

「とっさに。うまくいって良かったです」

「機会を見つけて練習しろ。うまく使えばかなり便利で強力な捕縛方法になる」

 滅多に見られないメルダーの笑みに、思わずルーラも「はい!」と頷いた。

「ルーラぁ~っ」

 林からクインの声がする。

「何とかしなさいよ。抜けなくて困っているんだから」

 彼女がイントルスと2人がかりで半ば埋まったベーベを引っ張り出そうとしているが、大地の精霊はがっちり彼をつかんで離さない。

 ベーベもすでに諦めたのか、抵抗もせず、時折「いでででで、体がちぎれる!」と悲鳴を上げて引っ張られている。

「あ、いま行きます」

 慌ててルーラは林に走っていった。


   ×   ×   ×


「お世話になりました」

 衛士隊本部に併設している病院。そのロビーでニーベルト親娘が深々と頭を下げる。彼の退院に付き添うため、ルーラとクイン、スノーレもここに来ていた。

 彼の腹部にはまだ包帯が巻かれているが、傷はほとんど塞がって、普通に歩く程度ならほとんど支障はない。

 ベーベ……いや、盗賊バリアス・ボーボが捕まって3日後。ニーベルトは傷も癒え、本日退院となった。傷ついた直後にかけられた治癒魔導の効果は大きかった。

「本当に。教会にも口添えをしてもらい。おかげでクビにならずに済みました」

 どんな事情があるにしろ、盗賊に現金輸送の情報を流した罪は大きい。本来なら彼もボーボ同様、牢にぶち込まれ、職場もクビになるところだ。しかし、結果的に彼の証言により輸送馬車襲撃が明らかになったこと、オレアが衛士隊を訪れたことによりニーベルトのことがわかったことなどから情状酌量すべきとの声も上がり、特例としてサークラー教会に衛士隊が解雇を避けるよう依頼したのだ。

「もっとも、異動されて給料も減りましたが」

「仕方ないわよ。支払期限まで何とか頑張りましょう」

 罪は軽くなっても、借金が消えたわけではない。減給され、これからも厳しい生活が続くのは避けられない。

「エルティース様からお借りしたお金も必ずお返しいたします」

「返さなくても良いよ。あれはあげたんだし」

 笑うルーラの頭を、クインとスノーレが同時に小突く。

「いいから返されなさい」

「そうそう。あんた本気で次の給料日まで固くなった残り物のパンで過ごすことになるわよ」

 2人は揃ってニーベルトを見据え

『ということで、ちゃんと返してください!』

 声が見事にハモった。

「もちろんです」

 背筋を伸ばして答えるニーベルトを見て

「全額返したとき、あんたの良い男レベルが上がるわよ」

 うんうんと頷くクインに、彼はきょとんとした顔を返した。


 ファウロ・ベーカリー3階居間。

「はい。これは私からのプレゼント。やっとあなたのイメージがついたわ」

 とスノーレがカップを一客、ルーラの前に置いた。少し表面が凸凹した大振りの、鮮やかな、それでいて優しい色合いの若葉色のカップだ。把手は芽吹いたばかりの若葉を模している。

「あたしのイメージ?」

「そう。私ね、新人さんが来るとその人から感じたイメージのカップをプレゼントしているの。もちろん、私の勝手な思い込みだから、後で、あれ、何か違うなと思い直すこともあるけれど」

 カップを愛おしげに撫で

「ルーラ、あなたは大樹の芽よ。ひと踏みで潰されそうな小さな芽。しかし踏まれた直後はへたっても、すぐに立ち上がる。生命の力に溢れ、みんなを守れる大樹になれる可能性がある。みんなを強い日差しから守り、寂しい人の目を楽しめる花を咲かせ、お腹の空いた生き物を癒す実を付ける。そんな力を内に秘め、体現する成長を思わせる若い芽」

 じっと見つめられ、ルーラが照れくさそうに笑顔を返す。

 改めてみると、3人のカップはみな違っている。クインのカップは純白に赤の紋様が描かれた、いかにも良家のお嬢様風なカップ。スノーレは薄黄色の妙に厚ぼったい、飾りっ気はないがどこか見ていて暖かくなってきそうなものだ。

 そんなスノーレの姿にクインは笑いをかみ殺し

「よく言うわ。ルーラ、あんまり本気にしちゃ駄目よ。買いまくったカップの処分したいだけなんだから」

「え?」

「スノーレはね。給料が入るたびに気に入ったカップを買ってくるの。それがたまって食器棚いっぱいになっているのにまた買うのよ。で、新人へのプレゼントって事でみんなにあげてるの。無駄遣いも良いところよ」

 棚のひとつに歩み寄ると「ほら」とばかりに扉を開ける。中には色とりどりの様々なカップが所狭しと並んでいた。

「良いじゃない。気分に合わせてカップを変えるんだから。疲れたときにお気に入りのカップで紫茶を入れて一休みするのが良いのよ。それに、あなただって給料の度に新作だって服買うじゃない。ろくに着る機会もないくせに」

「機会が来てから買うんじゃ遅いのよ。それに、いい女は中身だけじゃなく見た目にも気を遣うものよ」

「その機会っていつ来るのかしら。一度も袖を通さない服を買いまくる方が無駄でしょ」

 睨み合うクインとスノーレに、ルーラもなんとかなだめようと

「2人とも。お金の使い方でそんなにいがみ合わなくても」

『あんたが言うな!』

 声をハモらせて2人はルーラを睨んだ。


 月のきれいな夜。ファウロ・ベーカリー3階の居間は精霊の光に溢れていた。

 ブロックの片隅に一台の馬車が止まっている。ボルグル種と呼ばれる骨太の馬に大きめの馬車。その御者台で1人の男が手綱を握ったまま彼女たちの部屋を見上げている。

「まるで心配のあまり、娘の職場までついてくる過保護な父親だな」

 馬車の陰からトップスが姿を現した。面白がるような笑顔を御者台の男に向けている。

「それほど気になるなら、衛士にさせず手元に置いておけ」

「そんなことをしたら、ルーラの可能性を潰してしまう」

 灯りの点いた3階の窓を、男は切り傷のある左目で見上げた。

 元気で明るい女達の声が窓から聞こえてくる。

「西の方を回るつもりなので、しばらくウブへは立ち寄れません。ルーラをよろしく頼みます。トップス隊長」

「自由商人も大変だ」

「大変だから面白いんです」

「やり過ぎるなよ。お前を牢にぶち込むことになるぞ」

「その前に逃げます」

 手綱をならし、馬車が動き始める。その姿を見送りながら

「またな。ザン・ベルダネウス……」

 トップスが小さく手を振った。


(第3話 おわり)



 ルーラのお金の考え方に関わるので、初期にしか出来ない話。ということで3話にしてやっとルーラが主人公っぽい話です。

 タイトルは他にもいろいろ考えましたが、初任給とかはじめての給料とかでなく、初給料という「あれ? この言い方で良いのか?」と一瞬戸惑うような言い方にしました。これはルーラがまだお金、給料というものに馴染んでいないことを表した……つもりです。

 今回、ベーベ相手にルーラが使った大地の精霊による捕縛方、これから使う度に洗練され、「ベルダネウスの裏帳簿」本編では彼女の得意技となります。

 橋から身投げをしようとした人にお金をあげるという展開、落語「文七元結」が基です。もっとも、こちらの主人公はお金をあげる前に散々悩みますが、ルーラはこの時点ではお金に対する執着心がないため、あっさりあげています。この時の彼女の心は、どちらかというと落語「唐茄子屋政談」の若旦那に近いですね。

 文七元結で思い出すのが、先代(5代目)の三遊亭円楽がラジオ日本の「円楽流古典噺 現代世相鏡」という番組で同噺の解説で紹介した逸話です。

 初代・三遊亭円朝が「江戸っ子というのはどういう人なのか?」と聞かれたとき、説明するのが面倒くさかったのか、この文七元結を演じたというもの。この話の主人公こそが、江戸っ子と呼ぶに相応しい人と彼は感じていたのでしょう。

 ちなみにこの番組、1時間枠なのですが、毎回1、2本の噺と解説を途中CMなし、最後までぶっ通しで放送していました。途中何回か休みはありましたが、約1年続いたので40数回、ラジオ日本に音源が残っていたら、是非CDにして販売して欲しいです。解説書つき全話セットにすると10万近くになるかも知れませんが、私は買います。

 私の手元にはそれを録音したテープがいくつかあるのですが、電波状況が悪くて雑音がひどいんです。最終回の「小間物屋政談」なんて、ジャズみたいな音楽が重なって聞こえてくる。


 作品を書いていると、書いているときはなんとも思わないのに、書き終えてしばらくしてから「あの書き方で良かったのか?」と思うことがよくあります。それもほとんど小さな事。今回では、ルーラがお金がないためパンの耳をもらって弁当にしていることに引っかかりました。

 パン屋で格安、店によってはただで手に入るパンの耳は、私の年代ではお金がない人の食事の象徴みたいな物でした。しかし、サンドイッチを作るのにパンの耳を切り落とすのは日本だけと聞き、これでいいのかと思ったのです。海外旅行の経験が皆無なのでネットで調べたところ、確かに海外のサンドイッチは耳つきのままです。アメリカ人が日本のサンドイッチを見て、端まで白いパンを使っていると思い込み、そのパンの作り方を知りたがったなんて逸話もあったぐらいです。

 そのため、一時はパンの耳ではなく「固くなって売り物にならなくなったパン」にしようかと思いました。差し出されて口にしたものの、スノーレやオレンダはパンの固さに歯が立たないのに対し、ルーラだけは平気でもぐもぐ食べているという図ですね。

 かろうじてイギリスに、口当たりを柔らかくするため耳を切っている店があるそうですが、あくまで少数であり、やはりパンの耳を切るのは日本独自の作り方と言って良いようです。一応、日本人から見た西洋っぽいゲームっぽい雰囲気の本作。良いのかなと思いつつ、上記のイギリス式を採用しているため、ファウロ・ベーカリーでは耳を落としたサンドイッチを作っているということにしました。

 読む人からはどうでも良いようなことですが、気になるものは気になるもので。

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