今日もまた、夜が来る
瞼を開けると、そこには見慣れぬ天井があった。
いつも使っているよりずっとふかふかの敷布と豪奢な寝台。窓からは眩い光が射し込んでいる。
(もう朝か)
そう思ったけれど、外の様子や太陽の射し込み方を見るに、実際は昼に近いらしい。どうやら随分長い間眠っていたようだ。
起きなきゃいけないと思っているのに、身体が言うことを利いてくれない。全身に燻った熱、中心の鈍痛がこれは現実だと教えてくれた。
(憂炎のバカ野郎)
隣には人一人分の空いたスペース。昨夜わたしを良いように扱った男が眠っていた跡が残っている。まるで存在感を主張するかの如く、昨日覚え込まされたばかりの憂炎の香りが残っていて、なんだかとても腹立たしい。
(でも、あいつがいなくて良かった)
あんなことをしてすぐに、憂炎と普通に接する自信がわたしにはない。
ずっと従兄弟だと思っていた。好敵手だと思っていた男に欲をぶつけられて、自分が自分じゃないみたいになって。恥ずかしくて堪らないし、物凄く居た堪れない。
憂炎の紅い瞳を思い出すだけで、身体の中の熱が一気に再燃するかのようだった。
(やめやめっ。こんな場所にいるからいけないんだ)
首を横に振りつつわたしは身体を起こした。
遠くに投げ捨てられた寝着を拾い、袖を通す。胸元に散らばった幾つもの鬱血の痕。肌を吸われた時のチリチリと痺れるような感覚を思い出し、強い敗北感を感じる。手首だってそう。あいつに押さえつけられた所が未だヒリヒリしていた。
(全然敵わなかったなぁ)
あいつが望んだ以上、そういう行為を拒否できないことは分かっていた。身代わりになってくれる筈の華凛は居ないし、他に逃げ道も無かったから。
だけど、せめてもの抵抗で、憂炎の好き勝手にはさせないって――――わたしにはそれが可能だと思っていた。
だけど実際は違ってた。ちっとも歯が立たなくて、全部晒されて、翻弄されて。正直言って悔しくて堪らない。
ふと見れば、寝台の側にある卓の上に丁寧に畳まれた紙が置かれていた。開いてみると、そこには見慣れた憂炎の文字が並んでいる。歯の浮くようなセリフが並んでいたら嫌だなぁなんて思っていたけど、そこは憂炎。書かれていたのはたった数文字だけだった。
『また今夜』
シンプルかつ、誤解のしようもない憂炎の手紙。
(そうか……あいつ、今夜も来るのか)
腹立たしいことに、そんな数文字にすらわたしの心臓は反応してしまう。
嫌なのに。嫌で嫌で堪らないのに、憂炎の温もりや眼差しを思い出して、身体が疼く。
華凛が後宮に戻ってくるのは二日後。連絡を取ろうにも、手紙は中身を確認されてしまうし、約束を違えるのは気が咎める。事態が変わったと知れば、華凛は許してくれるかもしれないけど、伝える術が無いのだからどうしようもない。
(一体、どこで間違ったんだろうなぁ?)
深いため息を吐きながら、わたしは頭を抱えた。
(なんで! どうして来ないの!)
わたしは一人、愕然としていた。
今日は待ちに待った後宮生活四日目。なのに、待てど暮らせど華凛は来ない。
今日で解放されると思ったのに。だからこそ、この三日間耐えられたというのに。
無情にも空は暗闇に染まっていく。
あれから憂炎は、ご丁寧に三日連続でこの宮殿に通ってきた。名前も知らないでっかい宝玉や、滑らかな絹織物を土産に持参して、いっちょまえに機嫌を取ろうとしているあたりがまた腹立たしい。
『そんなものは要らん』
だから帰れと言外に伝えても、あいつは全く意に介さない。仏頂面のまま、片時もわたしを離さないのだ。そんな顔をするぐらいなら、大好きな華凛のところに行けば良いのに――――この三日の間に、何度となくそう言ってやりたくなった。
腹立たしいことはそれだけじゃない。
二日目、三日目ともなれば、少しぐらい抵抗できるようになるだろうと踏んでいたのに、ちっとも歯が立たないままだ。それどころか、身体が憂炎に手懐けられている感すらあって、忌々しくて堪らない。
(だが、憂炎の奴も、さすがに今夜は来ないだろう)
憂炎は最初の夜、『2~3日はゆっくりと過ごせる』と言っていた。今日はもう四日目。あいつの働きっぷりを思い出すに、今頃は仕事が溢れかえっているに違いない。
明日になればきっと、華凛はここに戻って来る。そしたらわたしは、こんな所とはさっさとおさらばして、『華凛』として、自由に生きていくんだ。
そう思っていたというのに。
「なんでおまえは来るんだよ」
夜も更けようという頃合い。しれっとした顔で宮殿を訪れる憂炎に、わたしは恨みがましい視線を容赦なく浴びせる。
「……どうして、『おまえは』なんだ?」
憂炎は眉間に皺を寄せつつ、上衣を手渡した。今夜は疲れているらしく、頻りに目を瞬かせている。
「……今日、華凛が遊びに来てくれるはずだったんだ。三日前、約束したのに来なかった。連絡もないし」
「あぁ、そうだったのか。華凛なら具合が悪いらしい。今日は仕事も休んでたよ」
「休み? そうか、それなら……いや、心配だな」
本当は両手を上げて喜びたいところだけど、変な疑念を抱かせるわけにはいかない。心配そうな表情を無理やり作る。
だけど、原因が分かったんだもの。安堵してしまうのは仕方ないだろう。
憂炎は長椅子に腰掛けた。余程きついのか目元を手のひらで覆いながら、小さくため息を吐いている。
(華凛がいなかったから、仕事が捌けなかったのかな)
理由が分かった今なら、少しだけ優しい気持ちになれる。憂炎の隣に腰掛けると、そっと彼の頭に手を伸ばした。
「え?」
憂炎は心底ビックリしたらしく、目を丸くし、わたしのことを凝視する。青白かった頬が人間らしい色合いに戻っていた。
「なんだよ」
二日目、三日目と寝室以外の場所――――素面の状態で憂炎と接することが苦痛で、照れくさくて。正直何を話したかなんて覚えていない。
だけどさすがに、こんな珍獣でも見るような表情をされる謂れはない。
唇を尖らせ、わたしは憂炎を睨み返した。
「まったく、ちょっと労わってやろうと思ったらこれだもんなぁ」
慣れないことはするもんじゃない。そう思って手を退けようとしたら、憂炎の手がわたしをガシッと掴んだ。しばしの沈黙。それからなにを思ったのか、憂炎はほんの微かに己の頭を動かした。
「…………だから、何なんだよ?」
そんな風に黙り込まれたら居た堪れない。
憂炎は数秒間、もの言いたげにこちらを見つめたかと思うと、思い切りわたしを抱き締めた。
「えぇっ?」
突然のことに素っ頓狂な声が上がる。憂炎はわたしを抱き締めたまま、肩口に顔を埋めていた。
(なに? なんなの、憂炎の奴)
わたしたちの触れ合いと言えば、従兄弟としての他愛ない接触や、好敵手としての手合わせ、妃として――――夜伽に必要なあれこれで、こんな風に脈略なく抱き締められたことなんてない。
そりゃあ、わたしがここに来てまだ四日だけど。本来なら別に必要ない接触な気がするし。
「……って」
「え?」
その時、憂炎が何事かを囁いた。聞き返すと、憂炎は更に腕の力を強め、わたしのことを抱き締める。
「労わってくれるんじゃなかったのか?」
耳元で響く、甘えるような声音。その途端、背筋がぞくりと震え、胸の奥底から何かが勢いよく湧き上がってくる心地がした。
鼓動が驚くほどに速い。身体が熱くて、ムズムズして堪らない。
(なんだ、これ?)
これまで経験したことのない浮遊感。心の中で炎が暴れているみたいな感覚だった。今すぐ吐き出したくて、でもどうしたら良いのか分からなくて、すごくすごくもどかしい。
「……仕方がない奴」
それは、わたし達どちらに向けた言葉なのか――――自分でもよく分からない。
だけど、ひとまず今は望みどおり、憂炎を労わってやることにする。
手持無沙汰になっていた手で頭を撫でてやると、奴は嬉しそうに身体を揺らした。スリスリと擦り寄られ、まるで母猫にでもなったような気分だ。
(どうせ明日には、『華凛』に戻るんだ)
空いているもう片方の腕で、憂炎のことを抱き返してやる。この数日で少しずつ馴染みつつある温もりが、一気に全身に染み込むような心地がした。
「凛風」
耳元で響く、甘えるような、けれど欲を孕んだ声音。憂炎の燃えるような瞳がわたしを捕らえ、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
(……これが最後になるんだよな)
焔がチリチリと胸を焼く。ため息を一つ、わたしは憂炎の口付けを受け入れたのだった。




