妃と皇太子の攻防
(悪夢だ)
妃としての『凛風』に与えられた宮殿で、わたしは憂炎と二人向かい合う。凛風として憂炎と対峙するのは実に3ヶ月ぶりのことだ。侍女たちが嬉々として茶を用意してくれているが、正直言ってそれどころじゃない。わたしはこめかみに青筋を立てつつ、憂炎に向かって微笑みかけた。
「――――一体全体、急にどうなさったんです? もうここにはいらっしゃらないかと思ってましたけど」
幸い、今のわたしはわたし自身――――凛風としてここにいる。淑女ぶったりせず、存分に言いたいことが言えるのは有難い。嫌味だろうが苦情だろうが、何でも言い放題だ。
「自分の妃の宮殿に通って何が悪い。大体、全部おまえのせいだろう?」
憂炎はため息を吐きつつ、わたしのことを睨んだ。むすっと唇を尖らせたその表情は、実年齢より大分幼く見える。皇太子になったっていうのに、『凛風』に見せる本質の部分は何も変わっていないようだ。
「わたしのせい? 一体わたしが何をしたって言うんだ」
わたしはそう言って、憂炎を睨み返した。
華凛に限って下手をやらかすとは考えづらい。第一、入内して以降憂炎は後宮に通っていなかったのだ。一体いつ、どんなタイミングで、『わたし』が何をしでかしたのか詳しく教えてほしい。
けれど憂炎は再び大きなため息を吐くと、そのまま口を噤んだ。どうやら教えてくれる気はないらしい。
(面倒くさいなぁ)
長椅子に凭れ掛かったまま、憂炎は真っ直ぐにこちらを見つめてくる。目を背けたいけど、そうすると負けたような気がするので、必死に憂炎を睨み返す。
(それにしても憂炎の奴、一体いつ帰る気だろう?)
チラリと窓の外を見ると、空は綺麗な藍色に染まっていた。星が煌めき、月が輝く。もうすっかり夜だ。早く帰ってもらわないと困る。すっっっっっっごく困る。
たまたま華凛と入れ替わっただけのこんなタイミングで、もしも憂炎がその気になったりしたら――――――考えるだけでおぞましい。
「なぁ……仕事――――忙しいんだろう? さっき華凛が言ってた」
暗に『帰れ』と促すため、わたしはそんな話題を持ち掛ける。
「…………まぁ、そうだな」
(まぁ、そうだなじゃない!)
毎日毎日残業続きで眠そうにしていることをわたしはこの目で見ている。憂炎の執務室には今日も大量の書類の山が積み上がっているだろう。あまりの腹立たしさに、わたしは眉間に皺を寄せた。
「そろそろ戻った方が良いんじゃないか? 仕事、押しちまうぞ」
(むしろ帰れ)
心の中で付け加えながら、わたしは満面の笑みを浮かべる。恐らく憂炎にはわたしの心の声までばっちり聞こえていることだろう。だけど、侍女達は主人である『凛風』の元に憂炎が通うことを望んでいるみたいだし、わたし達の関係性を良く知らない宦官から不敬だのなんだの騒がれるのも面倒くさい。あくまで憂炎が『自発的に』帰ったという体を取りたかった。
「いや――――今日の分はもう片付けてきた」
(は⁉ )
けれど、憂炎が口にしたのは思わぬセリフだった。
(いや……絶対嘘だろ?)
あいつの業務量をきちんと把握しているわけじゃないけど、ここ数日の様子を見るに、まだまだ仕事はてんこ盛りだろう。きっとそうに違いない。
「最近働きづめだったからな。2~3日はゆっくり過ごせるように調整してある」
(はぁ⁉ )
追い打ちを掛けるかの如く、憂炎はそう言った。どこか勝ち誇ったように細められた瞳が小憎たらしい。
(ゆっくりすると言うなら、自分の宮殿でしろ!)
心の底からそう言ってやりたいと思うけど、憂炎はこの場から動く気はないらしい。黙ってわたしのことを見つめ続けている。
(まさか――――憂炎は本当にわたしと一夜を過ごすつもりなのだろうか)
いや。いやいやいやいや。あり得ない。本気であり得ない。
本気で『凛風』を妃にしたいなら、この2ヶ月の間にとっくにそうしていた筈だ。ここに来て翻意するとか無い。っていうか、心の底からそう思いたい。
(まだだ。まだどこかに逃げ道は残されているはずだ)
きっと憂炎はわたしの反応を見て楽しんでいるんだ。仕事に少し余裕ができたもんだから、嬉しくなって、それでわたしを揶揄いに来たんだ。きっとそうに違いない。
「――――良かったじゃないか。疲れてそうだし、今日はぐっすり眠ると良い」
暗に『一人で寝ろ』と伝えつつ、わたしはニコリと微笑んで見せる。
(さぁ帰れ。とっとと帰れ。マジで心臓に悪いから)
心の中で呟きながら、わたしは憂炎に念を送り続ける。
「――――――そうだな。今夜はここでゆっくり眠るとしよう」
けれど憂炎はそう言って、めちゃくちゃ邪悪な笑みを浮かべた。わたしの全身からサーーーッと勢いよく血の気が引く。
「おまえと一緒の寝台で、な」
最後の止めとばかりに憂炎が笑う。
(嘘だろ……?)
逃げ道を完全に塞がれてしまった。心臓が変な音を立てて鳴り響く。わたしは口をハクハクさせながら、呆然と憂炎を見つめた。