華凛のお願い
(ここが後宮かぁ)
まるで京の中にもう一つ街が存在しているかのような豪奢で荘厳な宮殿。季節の花々が咲き誇る美しい庭園に、知らずため息が漏れる。
これでも、本殿――――現皇帝の後宮からは離れているというのだから信じがたい。
(まぁ、わたしは一生行くこと無いだろうけど)
現皇帝の後宮には恐ろしいと噂の皇后がいる。そうじゃなくても、この世の中で女同士のドロドロほど面倒で嫌なものはない。
(関わらずに済むならそうするのが一番だ)
出来れば華凛にもそうして欲しいと、わたしは密かに願っていた。
「こちらの宮殿でございます」
「ありがとう」
案内役の美しい宦官に礼を言って、わたしは中へと進んでいく。
「お嬢様!」
「お久しぶりです、華凛さま!」
宮殿に入るとすぐに、懐かしい顔ぶれがわたしのことを迎え入れてくれた。華凛に付いている侍女達は、殆どが実家から連れて行った少女たちだ。入内をしているのは『凛風』ということになっているため、彼女たちは当然、元々はわたし付の侍女である。
(あぁ……懐かしい! 可愛いっ! 本当は駆け寄って抱き締めたい!)
けれど、そんな些細な願い事も、華凛として存在している今、叶うことは無い。うずうずする身体を抱き締めながら、わたしは恭しく挨拶をした。
「いらっしゃい。久しぶりね」
「かっ……姉さま!」
己と同じ声音に声を上げれば、そこには華凛が立っていた。
入内前とは比べ物にならない豪奢なドレスと装飾品を身に纏い、綺麗に紅を引いた妹は、まるで別人のように見える。思わず言葉を失いながら、わたしは深々と礼をした。
「元気そうじゃない。安心したわ」
「はい、姉さまも……!」
華凛はわたしが言いたいことを、わたしが言いたい通りに喋ってくれる。それだけで本当の自分に戻れたような気がして、わたしはとても嬉しかった。
「少しの間、華凛と二人きりで話したいの。皆、席を外してくれる?」
華凛にはそんなことまでお見通しらしく、侍女たちに声を掛けてくれる。
すると、侍女たちは一斉にいなくなり、部屋にはわたしと華凛の二人きりになった。しばしの沈黙。それからわたしたちは、ゆっくりと顔を突き合わせた。
「姉さま、本当にお元気そうで何よりですわ。お父様やお母様、紀柳達も皆元気なのかしら?」
華凛は朗らかに微笑みつつ、そっとわたしのことを覗き込む。
「――――そんなことより、華凛! 一体どうなってんのよ!」
「……どう、とは? 家のことは恙無く引き継げたと思っておりましたが」
本当は華凛みたいに当たり障りのない内容から話し始めるべきだって分かっている。だけど、わたしにはどうしてもハッキリさせたいことがあった。
「家のことじゃないわ――――憂炎のことよ! あいつ何なの⁉ めちゃくちゃベタベタしてくるんだけど! 華凛が相手だといっつもああなの?」
「ベタベタ? …………あぁ! 憂炎のスキンシップのことですわね」
クスクス笑いながら、華凛はゆっくりと目を細める。
「憂炎の癖みたいなものだと思います。わたしを見ると、ついつい可愛がりたくなるんですって。まるで犬や猫を愛でるような――――そんな気持ちなのだと思いますわ」
「何よそれ!」
正直わたしは、憂炎が華凛に構う所を見たことが無かった。あいつが追いかけてくるのはいつもわたしの方ばかり。双子の妹である華凛とは会話をしている所すら見たことが無かったというのに、裏ではそんなやり取りが繰り広げられていたのか――――そう思うとお腹のあたりがモヤモヤした。
「バッカじゃないの、憂炎の奴! それだったら初めから華凛を妃にすればよかったのに……!」
わたしは開いた口が塞がらないまま、眉間に皺を寄せた。
「……うーーん、そうですねぇ。確かにそちらの方が良かったのかもしれません。
だって、実際問題憂炎ったら、わたくしが入内してから一度もこの宮殿には足を運んでくださらないんですもの」
「えっ⁉ 嘘……そうなの⁉ 」
言いながら、わたしはもう一度目を見開いた。
「ええ。お蔭でわたくしは張り合いのない毎日を送っていますわ。お食事も毒見後の冷たいものしか食べられませんし、姉さまの仰っていた『飼い殺し』って言葉がしっくりくる状況ですの」
華凛はそう言って悲し気に目を伏せる。気づけばわたしの怒りは頂点に達していた。
(あの男、『凛風は毎日元気にしている』なんて言ってたくせに)
その実、宮殿に顔すら見せていないとは――――とんだ嘘吐き野郎だ。その癖、妃じゃない『華凛』の方は猫っ可愛がりしているんだから意味が分からない。全く筋が通っていないと思う。
(そもそも、どうしてわたしが、あいつに振り回されなきゃならないんだ!)
不要なら今すぐ『凛風』をお役御免にしてほしい。そうすれば全てが丸く収まるのに――――そう思うと、今すぐあの涼し気な顔をぶん殴ってやりたくなった。
「――――ねぇ、姉さま。お願いがあるのです」
その時、華凛が申し訳なさそうに眉を八の字にして、わたしの瞳を覗き込んだ。
「お願い? 華凛が珍しいわね」
「はい……。自ら志願しておいて申し訳ないんですけれども」
華凛はわたしの手を取り、潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。わたしは小さく首を傾げた。
「わたくしを、後宮の外に出してはいただけませんか?」
「……え?」
けれど、妹が言い出したのは思いもよらないことだった。わたしは目を丸くしながら、大きく身を乗り出す。
「外に出たいって華凛……」
「ビックリさせてごめんなさい。でもわたくし、外の世界が恋しくなってしまって……」
華凛はそう言って悲し気に目を細めた。
(そりゃあそうだよなぁ)
望んで後宮入りしたとはいえ、夫である憂炎が来ないのでは後宮にいる意味がない。おまけに全ての自由を奪われているのだ。少しぐらい外で羽を伸ばしたくなるのも頷ける。
「もちろん、ずっとだなんて申しません。ほんの2~3日の間で構わないのです。入れ替わっている間、姉さまがしてくださっているお仕事は、当然わたくしが引き継ぎますわ。宮殿の地図と、簡単な引き継ぎさえあれば何とかなると思いますの」
「――――そうね。わたしの仕事の方は大丈夫だと思う。でも……」
(入れ替わっている間に、万が一憂炎が訪ねてきたらどうしよう)
そんな考えが頭を過る。
後宮の外で憂炎と会うのとは訳が違う。あいつが後宮を訪れること――――それは即ちわたしが妃としての務めを求められることを意味する。
(無理だ……あいつとどうこうなんて考えられない)
わたしにとって憂炎は、何処まで行っても従兄弟――――親友だ。受け入れられる筈がない。
「――――姉さま、きっと憂炎は参りませんわ。どうして彼が姉さまの入内を望んだかはわかりませんが、こうして2ヶ月の間、わたくしたちの間には何もなかったんですもの。それなのに、わたくし達が入れ替わっているたった2~3日の間にどうこうなるなんて考えられませんわ」
「そうね……確かにそうかも」
まるで独り言のようにわたしは小さく相槌を打つ。
だけどわたしの頭の中には、わたしを妃に望んだあの日の憂炎の姿が鮮明に残っていた。
『俺はずっと、凛風しかいないと思って生きてきた』
憂炎の言葉が、眼差しが胸を焦がす。
入内した『凛風』の元に通わないくせに。『凛風』でなく『華凛』を溺愛しているくせに――――。
そう思うけど、それでも心のどこかに引っかかるのだ。
「――――分かった」
気づけばわたしはそう口にしていた。自分の返答に驚きつつ『やっぱなし』と口を開きかけたわたしの手を、華凛はギュッと握りしめた。
「本当ですか⁉ 嬉しい……ありがとうございます、姉さま」
華凛はそう言って満面の笑みを浮かべる。こんな風に喜ぶのは珍しい。余程慣れない後宮生活が堪えたのだろう。
(3日間ぐらい交代してやらないとな)
わたしが華凛なら2か月間も耐えきれなかったと思う。そう思うと、このぐらいの罪滅ぼしして然るべきだろう。
(それにしても、『凛風』の元に憂炎が通っていないなら、いよいよ『華凛』を妃にするべく動かないと)
憂炎があの調子なら、華凛が一言『妃にしてほしい』とか『憂炎が好き』と囁くだけで目的を達成できそうだ。
(どうせなら入れ替わっている時、華凛に言って欲しいところけど)
嬉しそうな華凛に水を差すのは忍びない。この計画を打ち明けるのはもう一度華凛と入れ替わる時でも遅くはないし、わたしが頑張ればいいだけだ。そう結論付けて、わたしは小さくため息を吐く。
それから数時間後、華凛は後宮を出ていった。
(頭重っ)
慣れない服装、髪型、化粧の香りに戸惑いつつ、わたしは心の中で悪態を吐く。
(何だよ……簪なんて一本もあれば十分だろう?)
別に何処に出掛けるでも、誰に会うわけでも無いのに、妃というのはこんなにも着飾らなければならないのか――――そう思うと、入れ替わってたった数分間だというのにげんなりしてしまう。とはいえ、凛風は華凛みたいにいつもおりこうさんで居る必要はない。久しぶりに姿勢を崩して寛げることがわたしは嬉しかった。
(さぁーーて、これから3日間、めちゃくちゃ暇だろうなぁ)
後宮の醍醐味は他の妃とのバトルだろうが、憂炎の妃は現状『凛風』しか存在しない。現皇帝の妃達から招かれることも無かろうし、一人でお茶をしたところで、長い一日の一瞬しか時間は潰せない。退屈に決まっている。
(後宮の探索とかしちゃダメかな? あとは宦官たちに手合わせしてもらうとか)
今のわたしは凛風なのだし、よく考えたら誰に遠慮する必要もない。そちらの方が憂炎から離縁される日も早まりそうだし、案外楽しめそうだ――――そう思いつつ、わたしは小さく笑みを漏らす。
「凛風さま、大変です!」
だけどその時、侍女の一人が血相を変えて部屋に飛び込んで来た。この子がこんなに取り乱しているのは珍しい。わたしは小さく首を傾げた。
「一体どうしたの?」
「失礼をして申し訳ございません! それが……憂炎さまが」
「――――憂炎? 憂炎がどうしたの?」
わたしの問い掛けに、侍女は息を切らし興奮した面持ちでわたしのことを見上げる。
「東宮さまがただ今、こちらに向かっていらっしゃいるそうなんです!」
「――――はぁ⁉ 」
その瞬間、わたしは思わず声を荒げた。恐れていた事態の実現。頭がくらくらしてくる。
(憂炎がここに来る⁉ 何かの冗談だろう⁉)
信じられない――――信じたくない。
そんな気持ちのまま急いで窓の外を覗くと、遠くの方で数人分の灯りが揺れているのが見える。わたしは気が遠くなるような心地がした。