華凛と憂炎
翌日、わたしは父様と一緒に宮廷へと向かった。
(相変わらずデカい建物だなぁ)
鮮やかな色彩の荘厳な建物。国の中心に鎮座した城は、至極立派で近寄りがたい。とはいえ、子どもの頃は無鉄砲だったから、探検と称して憂炎と一緒によく遊びに来ていた。
(結局中に入ることは一度も無かったけど)
あの時憂炎はどんな想いで宮廷を見上げていたのだろう――――そう思うと、胸が痞えるような心地がした。
「さすがのおまえでも緊張するのか?」
わたしの顔を見ながら、父様がそんなことを尋ねる。か弱い見た目をしているが、華凛は柳のようにしなやかで強かな娘だ。珍しいと受け取られたのだろう。
「もちろんですわ」
答えながら、ブルりと武者震いがした。
(考えてみたら、悪いことばかりではない)
妃とは違って、官女は自由が利く。どこに出掛けても構わないし、皇帝にも東宮にも操を立てる必要はない。お給金も貰えるし、仕事中は華凛の侍女達に入れ替わりがバレるんじゃないかとビクビクする必要もない。
元々、スローライフを楽しむなんて柄じゃないし、人生は刺激的な方が楽しいと思う。こんな形で仕事を得られたのは、結構ラッキーなことなのかもしれない。
それに、下手すりゃ二度と会えないと思っていた憂炎と会えることだって嬉しいことだ。妃とか、妻として接しなくて済むのならそれで良い。わたしにとってあいつは、一番の親友だったのだから。
(まぁ、言いたいことをポンポン言えない息苦しさはあるかもしれないけど)
それは華凛と入れ替わった以上仕方がないことだ。
これから数年を掛けて、『華凛』をわたし色に染めていく。それまでの間は、妹の考え方、立ち居振る舞いをなぞって生きていかなければならない。
「さぁ、着いたぞ」
父様が案内してくれたのは、宮殿の東に位置する棟にある一室だった。護衛の武官たちが数人、父様を見て、恭しく頭を下げる。父様は彼等を一瞥しつつ、わたしの肩をポンと叩いた。
「ここから先は一人で大丈夫だな」
「ええ。東宮さまはわたくしの従兄弟――――いえ、幼馴染でございますから」
わたしの言葉に、父様は満足そうに微笑みながら、その場を後にした。
(さて、と)
大丈夫とは言ったものの、心の準備は必要だ。重苦しい大きな扉からは、部屋の中の様子は窺えない。
(……本当に、憂炎がここに居るのだろうか)
ここに来てなお、わたしはあいつが皇太子になったことを受け入れられずにいるらしい。
何度も深呼吸を繰り返し、ドクドクと騒がしい心臓を落ち着かせてから、わたしは部屋の戸を軽くノックした。
「誰だ?」
そう尋ねたのは、憂炎ではない男のものだった。凛とした低い声で、既にこの場にいない父様にまで聞こえるのではないかという程よく響く。
「張 高宗が娘、華凛にございます」
わたしはそう口にし、扉の前で頭を下げた。どれぐらい経っただろうか。扉が開く音が聞こえる。ゆっくりと顔を上げると、そこには声の主ではなく憂炎が立っていた。
「よく来たな!」
そう言って憂炎は勢いよくわたしのことを抱き締める。思わぬことに、わたしは目を見開いた。
(えっ……何してんの、憂炎の奴⁉ 憂炎と華凛ってこんな距離感だったっけ⁉ 一体どういうこと⁉)
頭に浮かぶいくつもの疑問をわたしは必死で呑み込む。
「東宮さま、お久しぶりです」
憂炎をそっと押し返しながら、わたしは微笑んだ。憂炎はわたしの頭を撫でながら、満面の笑みを浮かべている。まるで目に入れても痛くないとでも言いたげな愛し気な表情だ。
(なんなのよ、その表情は)
凛風の時には向けられたことのない表情に、わたしは戸惑いを禁じ得ない。けれど、これが憂炎と華凛が二人きりの時の距離感ならば、そうと悟られるわけにもいかない。いつの間にか握られていた手のひらにドギマギしながら、わたしは必死に深呼吸を繰り返した。
「すまないな、急に呼び立ててしまって」
「いえ……東宮さまのお仕事を補佐できるなんて、光栄ですわ」
言いながら、わたしは密かに口の端を引き攣らせる。
(憂炎の奴……わたしに『妃になれ』って言ってきたときは、そんな風に気遣ってくれなかったくせに)
華凛に対しては違うのか――――そう思うと、妙に腹立たしかった。
「さぁ、中に入ってくれ。侍女に茶を用意させよう」
そう言って憂炎はわたしの腰を抱き寄せる。
(おかしい。明らかに距離感がおかしい)
これではまるで従兄弟や友人ではなく、恋人や夫婦のようだ。しかも、周りからベタベタし過ぎだと揶揄されるレベルのそれである。
(くそぅ……凛風だったら手の甲を思い切り抓ってやるのに)
残念ながら今のわたしは華凛だ。華凛はそんなことをしない。
案内された長椅子に腰掛けながら、わたしは気もそぞろだった。憂炎の反応がおかしいせいで、予め用意しておいたシナリオが殆ど機能していない。
室内には憂炎の他に、長身の男性が一人しか見当たらなかった。恐らく、先程わたしに声を掛けてきたのが彼なのだろう。憂炎に促され、男性はわたしの前に躍り出ると、ゆっくり深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります。李 白龍と申します。以後、お見知りおきを」
「初めまして……白龍さま、とお呼びしても?」
白龍はわたしの問いにコクリと頷く。
白龍は憂炎とはまた違った、柔和な雰囲気の持ち主だった。けれど、決してボーっとしているわけではなく、神秘的で近寄りがたい印象を受ける。白龍という名前に良く似合った白銀の長髪を持ち、京でも珍しい翠色の瞳をしていた。
なによりわたしの興味を引いたのは、無駄なく引き締まった彼の肉体だった。それは観賞用ではない、実戦向けの筋肉――――わたしたちが通っていた道場では見たことがないものの、白龍は何か武道をやっていたに違いない。
(――――手合わせしてほしいなぁ)
じゅるりと涎を垂らしそうになり、わたしは慌てて気持ちを引き締める。
けれど、ほんの数秒でわたしの意識はまた白龍へと向かった。
(無手派? 剣術? 弓使いだろうか? どれでも良いから今度目の前でやってみせてほしい。っていうか筋肉を直接触らせて欲しい――――)
「それで、おまえに頼みたい仕事だが」
憂炎の声でわたしは一気に現実に引き戻される。彼の眉間には小さく皺が刻まれていた。改めて居住まいを正しつつ、わたしは「はい」と返事をする。
「――――別に難しいことを頼むつもりはない。書類の仕分けや整理、定型的な文書の作成や取次関係をお願いしたい」
憂炎はそう言って目を細めた。
科挙試験を受けたわけでもない完全な縁故採用のわたしに、官僚の仕事をさせるわけにはいかないらしい。父様の言っていた通り、本当に補佐的な仕事を任せたいということのようだ。
(このぐらいならわたしでもできる)
そう思うと、少しだけホッとした。
「今日は初日だから、城の中を見て回ろう。今後、色々な部署に遣いに行ってもらうだろうから」
そう言って憂炎はゆっくりと立ち上がる。どうやら自分も一緒について回る気らしい。わたしの手を握ったまま、立ち上がるように促してきた。
「まぁ……! お心遣い、ありがとうございます。けれど、東宮さまのお手を煩わせるわけには参りませんわ。ただでさえ公務が立て込んでいらっしゃるのです。わたくしの案内は他の者にお任せ下さい」
そう言って微笑みながら、わたしはやんわりと憂炎の手を退ける。
(いや、マジで何なんだよ憂炎のやつ)
出迎えの時だけでなく、憂炎のわたしへのちょっかいは凄まじかった。
奴は当たり前のように隣に腰掛けたかと思うと、馴れ馴れしく頭を撫で、腰に腕を回し、挙句の果てに指を絡めてきた。繰り返しになるが、こんなこと、わたしが『凛風』の時にはされたことがない。
(こいつ、妃になれって言う人間を間違えたんじゃない?)
心の中で悪態を吐きながら、わたしはそっと憂炎を睨みつける。
初めから憂炎が華凛を妃に指名していれば、こんな面倒な事態に陥らなかった。わたしはわたしのまま、華凛は華凛のまま、好きなように生きることができた。そう思うと、憂炎に対して、怒りにも似た感情が込み上げてくる。
「そうか。――――仕方がない。もっとお前の側にいたかったが、明日からは毎日一緒だしな」
憂炎はそう言って目を細めて笑うと、わたしの指先にそっと口づけた。その瞬間、身体中の毛がゾワリと逆立つ。
(憂炎の奴~~~~~~! 女を口説くなら後宮でやれ!)
心の中でこぶしを突き上げながら、わたしは必死に怒りを抑える。
後宮内なら、妃だろうが宮女だろうが侍女だろうが皇族のものと相場が決まっている。口説き放題、手出しし放題だ。今のところ、妃は『凛風』一人らしいが、そんなに女好きならとっとと増やしてしまえば良いと切実に思う。
(あり得ない。マジで、本気で、あり得ない)
ニコニコと楽しそうな表情の憂炎を見つめつつ、わたしはゆっくりと深呼吸をする。ここで気持ちを落ち着けなければ、近い将来正体がバレてしまう。眉間に皺が寄りそうなのを必死で我慢し、わたしはニコリと微笑み返した。
「……ところで東宮さま。姉は――――姉さまは元気にしておりますか?」
そうしてわたしは、憂炎に一番尋ねたかったことを口にした。
憂炎は紅色の瞳を少しだけ見開き、それから穏やかに細める。先程までとは違うどこか妖艶な空気を感じて、わたしは思わず息を呑んだ。
「もちろん。毎日元気に過ごしているよ」
「そうですか……! それは良かった」
言いながら、わたしはホッと胸を撫で下ろす。
後宮に入って2ヶ月。華凛からは未だに手紙が来ていない。便りが無いのは元気な知らせというけど、正直わたしは華凛のことを心配していた。望んで入内したとはいえ、後宮内には色んな柵があるらしいし、『凛風』として振る舞う以上、憂炎との距離の取り方も難しかっただろう。何と言っても、わたしは入内を拒否していたのだから。
(でも、この様子なら、わたしたちの入れ替わりはバレていないみたい)
それに華凛のことだから恐らく、妃としての務めもきちんと果たしているのだろう。先程の憂炎の雰囲気からもそうと察せられた。
「――――姉さまが元気で安心しました。本当は直接話が出来ると嬉しいのですが……」
華凛が後宮を出ることはできない。簡単に出入りを許可すれば、妃が密通をする危険性があるからだ。もっと悪ければ、不義の子が皇子と偽って育てられる可能性だってある。だから、わたしたちが会話を交わすことは恐らく困難だろう。そう思ったのだけれど。
「構わないよ。許可を出すから、近々会いに行くと良い」
予想に反し、憂炎はやけにアッサリと面会を許可してくれた。俄かには信じられず、わたしはそっと身を乗り出す。
「本当に、良いのですか?」
「もちろん。暇をしているようだし、行って元気づけてくれると俺も嬉しい」
「嬉しい……! ありがとうございます」
微笑みつつ、わたしは心の中でガッツポーズを浮かべる。
(良かった! 手紙だと誰かに見られたらマズイもの)
聞きたいこと、話したいことが山ほどある。
(だけど、一番聞きたいのは……)
憂炎は未だ、わたしの手をギュッと握っている。
華凛に会えたら、憂炎との関係――――距離感について色々と聞いておこう。そう心に決めたのだった。




