矛盾
※20話分割エピソード。
それから数日後、帝が譲位を考えているという噂が飛び込んできた。
我が国において譲位は殆ど例を見ない特例中の特例。おかげで宮廷は混乱を極めていた。
現帝が譲位をした後に皇帝となるのは、皇太子である憂炎だ。わたしたちも混乱の煽りをもろに喰らい、毎日慌ただしく過ごしていた。
「もっと人を雇えないのですか?」
咎めるような白龍の言葉。
憂炎の側近くで働いているのは未だ、白龍と『華凛』の二人だけだ。
「誰に皇后の息がかかっているか分からないからな。不便でも致し方ないだろう?」
憂炎はそう言ってため息を吐く。全てはあの、野心家で嫉妬深い皇后が原因だ。
まだ三十代で子の望める年齢である皇后は、自分が男児を産めば、今からでも憂炎から皇太子の座を奪えると思っていた。
けれどそんな矢先、帝が譲位をほのめかした。焦った皇后が、今後何をしでかすか分からない。だから、信頼できない人間を側に置くことは難しいのだ。
「けれど憂炎。皇帝になったら、嫌でも他の人間を側に置かなければなりませんわ。わたくしも、いつまでも側にはいられませんし」
積み上がった書類を整理しつつ、わたしはそう口にする。
着任したばかりの皇太子ならいざ知らず、皇帝となって以降、官女の身分を持たない『華凛』を側に置くのは難しい。
「……そのぐらいの意向は、皇帝ならばいくらでも通せるだろう」
憂炎にも迷いがあるのだろう。珍しく歯切れが悪い。
あの日から、わたしと憂炎の仲はギクシャクしたままだ。あまりの忙しさ故、表面上、何とか均衡を保ててきた。けれど、いつまでもこのままって訳にもいかない。
「ですが、憂炎。結婚したら、さすがにこのまま働き続けることはできませんわ。どちらにしても、今のうちに新しい方を入れていただきませんと……」
その瞬間、バサッと大きな音を立てて、憂炎が資料を取り落とした。大きく目を見開き、呆然と立ち尽くす憂炎に、何だか胸が痛くなる。
「――――白龍、吏部に資料を取りに行って欲しい」
「承知しました」
白龍は躊躇いがちにわたしと憂炎を交互に見てから、そっと執務室を後にした。残ったのはわたしと憂炎の二人きり。奇妙な沈黙が横たわる。
「――――結婚するのか? おまえが?」
やがて、憂炎が徐に口を開いた。コクリと頷き、ゆっくりと大きく深呼吸をする。
「…………まだハッキリと決まったわけではないのですが、父にも勧められていて、話も幾つか戴いていますから。出来る限り早くと――――そう願っています」
華凛に『憂炎の気持ちに応えてほしい』と伝えたあの日から――――ううん、憂炎に『妃になって欲しい』と言われた日からずっと、わたしは自分の中のよく分からない感情とずっと戦い続けていた。
憂炎の顔を見るだけで、訳も分からず苦しくて。胸が痛くなったり、身体が熱くなったり、自分でちっとも制御できない。
それなのに会いたいだなんて――――憂炎の声が聴きたくて、笑顔が見たくて、前みたいに抱き締められたいって思ってしまう。
あいつはわたしじゃなくても良いのに。
自分から華凛に全てを託したのに。
馬鹿みたいだ。自分が嫌で嫌で堪らなかった。
「おまえ自身が、結婚を望んでいるのか?」
「もちろんですわ」
この結婚に多くを望みはしない。
ほんの少しの自由があれば最高で、愛情なんて望まないし、他に女を作っても構わない。わたしを憂炎から引き離してくれればそれで良かった。
「許さない」
「……え?」
気づけば憂炎はわたしの目の前にいた。眉間に深く皺を寄せ、唇を真一文字に引き結んだその表情は、怒っているのか悲しんでいるのか、よく分からない。
「俺以外の男と結婚するなんて、許すわけがないだろう」
あまりにも身勝手な発言。怒りで胸が熱くなった。
(どうして『華凛』になってまで、そんなこと言われないといけないんだ!)
悔しくて、腹立たしくて、目頭がグッと熱くなる。
もう我慢なんて出来なかった。
「許さない? どうして憂炎の許可が必要なのです⁉ わたくしはあなたにとって、ただの妹分でしょう? 妃でもなければ、恋人でもありませんもの! 指図される謂れはありませんわ!
お願いですから、わたくしのことはもう放っておいてください! 姉さまと仲良く暮らしてくだされば、わたくしはそれで――――」
けれど、わたしの言葉は唐突に遮られた。
さっきよりもずっと近くに憂炎の瞳が見えて、唇を温かな何かが包み込む。触れた唇、肌がジンジン疼いて、甘くて苦くて堪らない。
(どうして⁉ どうしてこんなことするんだ⁉)
わたしは『華凛』だ。憂炎が妃にしたいのは『凛風』であって、わたしじゃない。
『凛風』が唯一の妃だって言ったじゃない。
あんなに好きだって。想いに応えてほしいって言ってたくせに。
(どうして『華凛』にキスなんてするの?)
必死に押し留めようとしたのに、憂炎はわたしの手を掴み、指先を絡めて繋ぎとめる。
イヤイヤと首を横に振っても、ちっとも止めてくれなくて、何度も何度も唇を吸われた。
このまま心臓を奪い取られるんじゃないかって位に、深く口づけられて、息もまともに吸えなくて。顔なんか涙でぐちゃぐちゃで。
このまま死んだ方が良いんじゃないかってぐらい悲しくて。
その癖、心の奥底で『嬉しい』って思っている自分が居る。
あぁ、わたしは。
わたしは本当はずっと。
(憂炎のことが好きだったんだ)
胸が張り裂けそうに痛かった。喉から手が出そうな程、身体中の血液が沸騰するほど、全身が憂炎を求めていた。
だから、憂炎には『凛風』を好きでいてほしかった。『凛風』だけを好きでいてほしかった。
だけど『凛風』はもう、わたしじゃない。
これ以上、憂炎と『凛風』を見ていたくなかった。
華凛から想いを受け取って、幸せになってほしい――――そう思うのと同じぐらい、憂炎にはわたしだけを想っていてほしい――――そんな、矛盾した醜い感情を抱いていた。
だから今、こうしてわたし――――『華凛』を求める憂炎が悲しくて、嬉しくて、最早どうしようもない。
ようやく唇が解放されて、憂炎がわたしの頬をそっと撫でる。
「凛――――」
その瞬間、わたしは憂炎の頬を思い切り叩いた。室内に響く大きな音。手のひらがめちゃくちゃヒリヒリして、熱くて痛い。
涙が止め処なく流れて、わたしの頬と憂炎の手のひらを濡らす。
「憂炎のバカ!」
不敬なんてレベルじゃ済まされないって分かってる。だけど、わたしは自分を止めることが出来なかった。
「憂炎なんて大っ嫌い!」
それは本当で、嘘だ。
大っ嫌いだと思う以上に、本当は憂炎が好きで堪らない。だけど、これ以上自分に嘘は吐けそうにない。
(今度こそさよならだ、憂炎)
憂炎の手を振りほどき、わたしは部屋の入口へと走った。
けれどその時、ほんの少しだけ開いた扉の隙間から、キラリと光る何かが見えた。そうと気づいた瞬間、それは憂炎目掛けて勢いよく、真っ直ぐに飛んでくる。
声を上げる暇なんてなかった。わたしは矢の向かう方目掛けて腕を広げた。すぐにドスッて鈍い音が聞こえて、胸の辺りがボワッと熱くなる。湿った紅い液体が胸元を汚して、ようやく鋭い痛みが走った。
「凛風!」
憂炎の叫び声がわたしのすぐ後で聞こえる。瞳から涙が零れ落ちた。




