練習
じりじりと太陽が肌を焼く。だけど気まぐれに吹き抜ける風が物凄く気持ち良くて、わたしは思いっきり天を仰いだ。
(やっぱ身体動かすと気持ち良いなぁーーーー)
今日は公休日。わたしは京のはずれにある、とある道場に来ていた。
本当はわたしや憂炎が通っていた道場に行きたかったのだけど、『華凛』として行っても思う存分身体を動かすことができない。師範や周囲に違和感を抱かせてはいけないからだ。
(華凛も十分強いんだけどねぇ)
華凛は非力なため、どちらかというと武器で力を補うタイプだ。動き方も効率重視で、わたしのように全力で身体を動かしたりはしない。
だけど、折角好きなことをするんだもん。思う存分楽しみたい。
だから、わたしのことを全然知らない別の道場を紹介してもらって、こうして良い汗を流した、というわけだ。
(暑い……頭がくらくらする)
修練を終えた今、わたしは道場を離れ、少し離れた石段の上にひとりで座っている。
二ヶ月に及ぶ後宮生活は、わたしの体力をすっかり奪っていた。そりゃあ、後宮内で鍛錬をしたこともあるけど、今日のそれは、あれとはちっともレベルが違う。
そもそも、華凛として生活をすることになって、以前よりも大人しい生活を送っていたのだ。身体が鈍って当然だ。
季節やペース配分を考えずに飛ばしたため、罰が当たった。好きなことを楽しんだ結果だし、ここで倒れても後悔はないけど、己の馬鹿さ加減に嫌気が差す。
「――――ほら」
ため息を吐いたその時、頬に冷やりとした何かが押し当てられた。青臭い竹の香りと、嫌って程聞き慣れた声。見上げれば、憂炎が呆れたような表情を浮かべ、佇んでいた。
「まぁ、憂炎。どうしてここへ?」
「……良いから。早く水分補給しないと倒れるぞ」
問いかけには答えないまま、憂炎は竹筒をわたしの唇へと押し付ける。そのまま勢いよく水が流れ落ち、唇を濡らす。程よく冷えた液体。口を開けて飲み干せば、枯渇した身体が潤うような心地がした。
「少しは落ち着いたか?」
そう言って憂炎は、わたしの額をそっと撫でる。風のおかげで表面は乾いているけど、内側は火照っていて、まだまだ熱い。憂炎は傍らに控えていた白龍から新しい竹筒を受け取ると、もう一度わたしの唇に押し当てた。
「憂炎ったら……過保護ですわね。水分補給位、自分でできますわ」
「嘘吐け。熱中すると、他のことはすぐ忘れるだろう?」
憂炎はキッパリとそう言い切り、再び雑に竹筒を傾ける。おかげで服がビショビショだ。
「替えの服は? 持ってきてるのか?」
「えっと……」
そんなもの、当然持ってきていない。
水でビショビショになるなんて想定外だし、汗ぐらいなら気にしない。その辺をブラブラしながら乾かして帰れば、それで済む話だったんだもん。
だけど、それは『凛風』なら、の話だ。
『華凛』は絶対そんなことはしない。事前にきちんと替えの服を用意して、身体を動かしてきたことなんて微塵も感じさせない、涼しい顔で京を歩くのだ。
だって、憂炎が来るなんて思ってもみなかったし。そんな小道具にまで気が回らなかったのだから仕方がない。
「それが、うっかり着替えを忘れてきてしまいまして」
苦しい言い訳。
憂炎が白龍に目配せをする。白龍は何も言わずにコクリと頷くと、そっとその場を離れた。
「白龍がすぐに着替えを持ってくる」
「助かりますわ。ありがとうございます」
本当は着替えが必要になったのは憂炎のせいだし、お礼なんて言う必要ないと思うけど。今のわたしは『華凛』だ。腹は立てども仕方がない。
憂炎は帰るのかと思いきや、わたしの隣に腰を落とし、こちらをじっと見つめてきた。
「なんですの? わたくしの顔をじっと見つめたりして」
「――――いや、可愛いなぁと思って」
(はぁ⁉)
暑さで頭がやられたのだろうか――――そう思いかけたけど、そういえば今のわたしは華凛だった。『凛風』に対して言うなら変な言葉でも、華凛に対してなら別に変じゃない。
「まぁ、嬉しい。だったら憂炎は、姉さまのことも可愛いと思われたりしますの? 同じ顔ですもの。少しぐらい褒めても罰は当たらないと思いますわ」
『華凛』である今だからこそ言える皮肉。
憂炎はわたしを褒めたためしがない。可愛いとか、綺麗みたいな表面的な褒め言葉でさえ、吐いたためしがないのだ。
だけど、この間の白龍の例もある。憂炎が『凛風』のことをどんな風に話すのか、少しだけ興味があった。
(まぁ、どうせボロクソに言うんだろうけど)
それは予感じゃなくて確信。
だけど憂炎は、とても穏やかに目を細めた。
「当然、誰よりも可愛いと思ってる」
「…………え?」
目の前で紡がれた信じ難いセリフに、言葉を失う。心臓がドクンと大きく跳ねて、体温が一気に熱くなった。
(嘘だろう?)
憂炎が『凛風』のことをそんな風に思っているなんて、これまで一度だって感じたことは無い。いつだって『仕方がない奴』みたいな顔でわたしを見ていたし、女というより男友達みたいに思われてるって。そんな風に思っていたのに。
「今日は楽しかったか?」
わたしの頭を撫でながら、憂炎はそう尋ねた。えぇ、と答えながら頷くと、憂炎は目を細めて笑う。何故だか胸がざわざわと騒いだ。
「あの……姉さまは元気ですか? 毎日通われているんでしょう?」
何となく居た堪れなくなって、そんなことを尋ねてみた。
再び入れ替わりを果たしてから一ヶ月。
噂によれば、憂炎はあれ以降も毎日、『凛風』――――華凛の元に通っているらしい。
憂炎が通わなければ、入内当初と同様、華凛は退屈しただろう。だが、今は違う。
華凛はわたしとは違ってあの生活に乗り気だったのだし、満ち足りた日々を送っているのだろう。
「――――そうだな。毎日会ってはいるよ」
憂炎はため息を吐きながらそう言った。微笑んではいるが、どことなく浮かない表情に見える。わたしはそっと身を乗り出した。
「上手くいっていないのですか?」
「――――――いつになったら凛風は、俺の本当の妃になってくれるんだろうな」
質問に遠回しに答えながら、憂炎はギュッと膝を抱いた。
「凛風の意志を無視したのは俺だ。だから、あいつが元々俺との結婚に乗り気じゃないことは分かっている。だけど俺は、それでもあいつのことを――――」
憂炎の言葉がわたしの心を締め付ける。
そんな切なげな顔をしないでほしい。泣きそうな声音を出さないで欲しい。憂炎に対して罪悪感なんて覚えたくない。
わたしにはもう、どうしてやることも出来ない。憂炎の望みを叶えることは出来ないのだから。
(それにしても)
唐突に態度を変えたら怪しまれると、華凛は憂炎に対し、慎重な態度を取っているのだと思う。妃であることを厭うているような、そんな態度を。
だけど、華凛は元々妃になることを望んでいたのだし、そろそろ態度を軟化させても良い頃合いだろう。そう助言してやれたら良いのだけど、後宮に行くことはどうしても憚られる。わたしは小さくため息を吐いた。
「ねぇ、憂炎。どうして憂炎は、『姉さま』を妃に望まれたのですか?」
風が音を立てて吹きすさぶ。潤ったはずの喉が渇いて、耳の奥でざわざわとした不協和音が響き渡る。
聞きたくて。でも聞きたくない。
それはこの数か月間、ずっと疑問に思っていたこと。凛風として後宮にいた間も、ずっとずっと避けていた話題だった。
「――――――そんなの、理由は一つしかないだろう?」
憂炎はそう言って、困ったように笑った。その顔がなんだか苦し気で、今にも泣きだしそうで、こっちまで胸が苦しくなる。
「そんなことはございません。家格や容姿、跡継ぎ問題や政治的背景……妃を決める要素はいくらでもありますわ」
それらは、わたしが憂炎から妃に指名されたとき、真っ先に思い浮かんだ理由だった。これに加え、よく知っている人間の方がやりやすいから、というのがわたしが必死で落とし込んだ『凛風が妃でなければならない理由』だった。だけど――――。
「そんなこと、ひとつも関係ないよ」
憂炎は首を横に振ると、小さく俯いた。
「そうだよな。そんな風に言うぐらいだ。俺の気持ちはきっと、ちっとも伝わっていなかったんだよな」
そう言って憂炎はわたしを見る。
まるで時が止まったみたいに静かだった。風も日差しも何にも感じなくて。憂炎の紅い瞳から目が離せなくて。わたしはゴクリと息を呑む。
「俺は凛風が好きなんだ」
心臓が抉られるようだった。憂炎の熱い眼差しに、わたしのこころと身体が悲鳴を上げる。
違うのに。
わたしはもう『凛風』じゃないのに。
どうしてこんなにも心が揺さぶられるんだろう。胸が痛くなるんだろう。
「凛風が好きだ」
バカ憂炎。ここには『凛風』はいない。
だから、そんな苦しそうに、想いを吐露しないでほしい。
「――――姉さまと同じ顔のわたくしで練習したら、ちゃんと本人に伝えられます?」
こんなところで、わたしに伝えたって何の意味もない。早く後宮に。『凛風』――華凛の元に行ってほしいと切に願う。
「――――――そうだな。伝えたいって……伝わって欲しいって心から思うよ」
憂炎はそう言ってわたしをギュッと抱き締めた。
囁くように、何度も何度も「凛風が好きだ」と口にして、身体が軋むほど抱き締められる。
喉が焼けるように熱い。心の中で訳の分からない感情が暴れて、一気にせり上がってくるみたいだった。苦しくて、辛くて、涙が滲む。
『凛風』への気持ちを吐露しながら『華凛』を抱き締めるなよ――――そう思うのに、今は憂炎にわたしの顔を見られたくなくて。
憂炎の胸に身体を預けながら、わたしはこっそりと涙を流した。




