後の祭り
翌朝、わたしは少しだけドキドキしていた。
『華凛』として憂炎の前に立つのは実に二ヶ月ぶりのこと。しかも、父のように久しぶりに顔を会わせるわけじゃなく、相手は『凛風』として毎日会っていた憂炎だ。
(まぁ、見た目じゃ絶対バレないだろうけど)
わたしたちの入れ替わりは、今まで誰にもバレたことがない。
わたし達姉妹は、これまで何度となく入れ替わりを経験してきた。
けれど、父も母も、侍女たちだって、わたしたちの入れ替わりに気づかなかった。だから、外見や風貌でバレることはないは筈だ。
どちらかというと、仕事で使い物にならないことの方が心配だった。
わたしが華凛として憂炎の側で働いたのはたったの一週間。残念ながら仕事を覚える時間なんて無かった。
それに対し、わたしが暇でたまらない後宮生活を送っていた二か月間もの間、華凛は憂炎の補佐として忙しく働いていた。昨日までできていたことができないせいで、怪しまれるなんてことはあっちゃいけない。
(なんかあったら『ウッカリ間違えた』って言って乗りきろう)
華凛に激甘な憂炎なら、それで見逃してくれるはずだ。きっとそうに違いない。
そう思っていたのだけど。
「遅かったな」
執務室に到着したわたしを待っていたのは、満面の笑みを浮かべた憂炎だった。華凛に会えたことを喜んでいるのだろうか――――そう思いたいけれど、背後に漂うオーラは何やらどす黒い。
憂炎はわたしの手を取ると、ゆっくりと目を細めた。
「昨日は疲れただろう? 俺への挨拶もなしに帰ってしまうぐらいに」
(ん?)
発言の中に仕込まれた棘を敏感に察知しながら、わたしは急いで頭を下げる。
「もっ、申し訳ございません。忙しそうにしていらっしゃいましたし、声を掛けるのが忍びなくて」
本当は入れ替わってすぐに、あいつと対峙する自信がなかっただけだ。万が一バレて、後宮に連れ戻されたら嫌だし。何より心の準備が出来ていない。
長椅子に誘導され、わたしは憂炎の隣に腰掛ける。
何だろう。やっぱり目が笑っていない。心臓に掛かるプレッシャーが凄まじかった。
「そうか……そうだね。つまり、ちゃんと声を掛けやすい雰囲気を作っていなかった俺が悪いんだよね」
「なっ⁉」
思わず素になりかけて、わたしは必死に口を噤んだ。
(一体なんなんだ、憂炎の奴!)
元々嫌味っぽい奴だけど、『華凛』でいる時に、こんな態度を取られるのは初めてだ。
よしよしって頭なんか撫でちゃって、表向き『華凛』を甘やかしている風を装っているのが更に悪質。部屋の隅の方で白龍がめちゃくちゃ渋い顔をしている。
「違いますわ! 悪いのは全部わたくしで……」
「うん、そうだね」
憂炎はハッキリきっぱりとそう言い放った。わたしのことを真っ直ぐに見下ろし、不機嫌そうに唇を引き結ぶ。
(何なんだよ、憂炎の奴)
ちょーーっと挨拶しなかった位でこんなに怒るんだもん。皇族への敬意って言うのは何よりも優先されるべきものらしい。
わたしに対してならまだしも、ここにいるのは『華凛』なんだぞ。
憂炎のくせに。なんかムカつく。
「憂炎……ごめんなさい。本当に、反省してますわ」
だけど、機嫌損ねたままじゃ仕事がしづらい。ここはわたしが頭を下げるしかない。
「まったく」
憂炎はそう言って、唐突にわたしを抱き寄せた。
「頼むから、勝手にいなくなるな」
小刻みに震えた身体、苦し気な声音に、なんだか胸が騒ぐ。もう一度ごめんなさい、と口にしたら、憂炎は小さくため息を吐いた。
「体調は?」
「へ?」
「悪いところは無いのか?」
「えっ? ……ええ。ピンピンしておりますけど」
体調不良でも訴えていたのだろうか。頬をペタペタ触り首を傾げると、憂炎は腕に力を込めた。
「無茶をするな。心臓がいくつあっても足りない」
「? ……? はい、そう致します」
(変な憂炎)
心配されているのはわたしじゃなくて『華凛』だって分かっている。華凛が一体何をしでかしたのかも分かっていない。だけど、心と身体が奇妙に騒めいて、落ち着かなかった。
ブランクにもかかわらず、仕事は案外順調だった。
元々華凛の役割は憂炎の小間使いだし、頼まれた仕事を淡々と熟せば良いっていう事情もある。けど、やっぱり後宮生活が退屈過ぎたんだろうな。色んなことが新鮮で、楽しくて、ついつい張り切ってしまう。そうすると、憂炎や白龍が次に何を望んでいるか自然と分かるもので、仕事が物凄く捗った。
「おまえは本当に楽しそうに仕事をするな」
憂炎がそう口にする。何故かその表情は、あまり嬉しくなさそうに見えた。
「えぇ、楽しいですわ。家でじっとしているより、ずっと性に合っていますもの」
わたしはそう言って穏やかに微笑む。
華凛は大人しそうに見えて活発な娘だし、わたしのこの返答に違和感はないはずだ。
憂炎はため息を吐きつつ、書類を決裁済みの箱へと投げ入れる。
「意外だな。俺は華凛は家に入りたいタイプだと思っていたが」
驚くことに、そう口にしたのは白龍だった。わたしに興味がないどころか、必要以上に会話をすることが無かったというのに、この二ヶ月で少しは距離が近づいたのだろうか。
「そうですね。いずれはわたくしも、姉のように幸せな結婚をしたいと思っていますわ」
資料を書棚に片付けながら、そう答える。すると、憂炎がピクリと眉を上げて反応した。
(おっ、食いついたな)
今後妹が『華凛』に戻ることは無いけど、あの娘の評価をわたしが下げたままじゃ申し訳ない。ずっとずっと、名誉挽回の機会を窺っていたのだ。
「憂炎のような素敵な旦那様がいて、何不自由ない生活が送れて、姉さまが羨ましい限りです」
ニコニコと満面の笑みを浮かべつつ、わたしは言う。
「本当にそう思うのか」
「えぇ、もちろん」
憂炎の問いかけに、わたしは思い切り頷く。
本当は羨ましいなんてちっとも思ってないけど。嘘も方便。お偉いさんは持ち上げるに限る。
「……本当はわたくしが憂炎の妃になれたら良かったのに。憂炎ったら姉さまが良いって言うんですもの。今でもとても残念に思っていますわ」
『凛風』じゃなくて『華凛』が妃になる。そんなわたしの目論見が実現する可能性は限りなく低いだろう。
けれど、可愛がってる華凛にこんな風に言われたら、憂炎だってきっと嬉しい。機嫌だってきっと直るはずだ。そう思っていたのだけど――――。
「そんなの当たり前だろう」
「え……?」
実際に返ってきたのは、想定していたものと全然違う言葉と声音だった。
(どうして……?)
憂炎はちっとも喜んでなんかいない。寧ろ物凄く怒っていた。
眉間に皺を寄せ、真っ直ぐにわたしを睨み、歯を喰いしばっている。
「俺の妃は凛風だけだ。今までも、これからも、凛風ただ一人だ」
憂炎はそう言うと、静かに執務室を後にした。白龍が何も言わず憂炎を追う。部屋にはわたし一人が取り残された。
「なんだよ、憂炎の奴」
憂炎が何と言おうと、あいつの妃は二人存在している。
昨日まで期間限定の妃をしていたわたしと、これから先ずっと、憂炎の妃として生きていく華凛。あいつが想い描く『凛風』という虚像の中に、二人存在しているんだ。
そんなこと、憂炎は当然知らない。だけど、事実は絶対変わらない。
(どうして憂炎はあんなに怒ってるんだ?)
普通、これまで散々可愛がってきた妹分に『妻になりたい』なんて言われたら喜ぶものだろう。不敬と受け取った可能性は無きにしも非ずだけど、それにしたって変な怒り方だ。あいつの考えが、わたしにはちっとも理解できない。
(でも、これで良いんだよな)
これでもう、憂炎がわたしを求めることはない。
だって、わたしは『華凛』だ。これから『華凛』として一生、生きていくんだもん。
憂炎は思う存分、華凛を――――『凛風』を求めてくれれば良い。
「憂炎のバカ」
呟きながら、訳もなく胸が痛んだ。




