『凛風』との別れ
女官用の清楚で質素な衣装。けれど、着る人が着れば、それは極上の一枚になり得る。
ピンと伸びた背筋。流れるような所作。儚げ且つ凛とした雰囲気を纏う一人の少女を、わたしは急いで呼び止めた。
「華凛! 待って、華凛! 華凛、よね?」
「まあ――――お久しぶりです、姉さま」
「華凛! 華凛、華凛、華凛~~~~!」
宴の開始から数時間後のこと。念願だった華凛との再会がようやく実現した瞬間だった。
だけどそれは、決して平坦な道程ではない。他の妃への挨拶と称し、侍女達を引き連れてあちこち探し回った、わたしの努力の賜物だった。
その中には当然、あのおっかない皇后も含まれている。遠目から見れば、微笑ましく挨拶を交わしているように見えた筈だ。だけど実際は、皇后の毒みたいな嫌味を散々聞いて、ようやく解放された。応酬しても良かったけど、面倒だから聞き流した。そんなもんだから、内容は殆ど覚えていない。
「会いたかったわ、華凛!」
傍から見れば感動の再会。侍女達は微笑ましく、わたし達の様子を見守っている。
「姉さまったら……ほんの二ヶ月ぶりですのに」
「またまた! ほんとうだったらわたしたち、三日で会えるはずだったのよ?」
「あっ……と、そうでしたわね」
忙しさのせいか、当初の約束を忘れていたらしい。酷い話だ。おかげでこっちは大変な目に遭ったというのに――――そう思うと、口の端がひくひくと引き攣る。
「仕事は? もう終わりよね? 憂炎もさっきお偉方への挨拶に立っていたし」
「えぇ、まぁ。だけど姉さま……わたくしまだ片づけが…………」
「妃命令よ! 今はわたしを優先して!」
滅茶苦茶なことを言っている自覚はあるけど、二ヶ月も我慢したんだもん。このぐらいは許してほしい。
華凛は躊躇いがちに視線を彷徨わせつつ、小さくため息を吐いた。持っていた盆をわたしの侍女へと託し、用意された天幕へと戻る。
それから人払いをし、私たちは二人きりになった。
「華凛……良かった。もう会えないかと思ってた」
もう一度華凛を抱き締めながら、ポロポロと涙が零れ落ちる。
久しぶりに会う華凛は、頭のてっぺんからつま先迄、わたしが知ってる華凛そのもので。安心したし、すごく嬉しかった。
「すみません、姉さま。まさか、こんなにお待たせすることになるとは思わなくて」
華凛は心底すまなそうに眉を八の字に曲げる。
「良いの、良いの! ――――ううん、良くはない。けど! こうしてまた入れ替われるんだもの! 結果オーライだわ」
言えば、華凛は少しだけ困惑した様子で息を呑んだ。
「姉さま……本気でもう一度、入れ替わるおつもりなのですか?」
「当然でしょ!」
重たい宝飾品を外しながら、勢いよくそう答える。
人払いをしているとはいえ、一体いつ人が来るか分からない。化粧だって変えなきゃならないし、入れ替わりは時間との勝負だ。立ち止まっている時間はない。
「だけど姉さま――――あれから憂炎は、姉さまの元に通っていらっしゃるのでしょう?」
「――――憂炎から聞いたの?」
何だか気まずくて、わたしは華凛から顔を背ける。華凛はコクリと頷きながら、そっとわたしを見つめた。
「……姉さま、わたくしたちが入れ替わったあの時と、今とでは状況が全く異なりますわ。今や姉さまは名実ともに憂炎の妃。わたくしと入れ替わって、本当に良いのでしょうか?」
心に直接訴えかけるような声音。少しだけ胸が痛む。
「華凛――――後宮に戻りたくなくなったの?」
「いいえ。わたくしというより、姉さまと憂炎の問題ですわ」
華凛は大きく首を横に振りながら、わたしを真っ直ぐに見つめている。
「わたしは戻りたい。自由な生活に戻りたいの」
知らず涙が零れ落ちる。
好きな場所に行けて、好きなことができて、誰に縛られることも無く、なんにだってなれる。わたしは、そんな自由な生活が、恋しくて恋しくて堪らなかった。
豪華な食事も、衣装も、気の利く侍女や宦官達も、美しい妃達とのやり取りだって、何も要らない。欲しくなんてない。
それに、これ以上訳の分からない感情に振り回されたくない。
あんな風に憂炎に見つめられるのも、触れられるのもごめんだ。心臓がいくつあっても足りない程、ざわざわ騒いで、苦しく、熱くなって――――そんなの、馬鹿みたいじゃないか。
「そうですか」
華凛はもう、何も言わなかった。
わたしと同じように服を脱ぎ、『凛風』に戻るための準備を始める。
複雑に結われた髪を解き、ドレスを脱ぎ捨てたところで、わたしは右腕に輝くブレスレットに気づいた。今朝、憂炎に貰ったばかりのものだ。
(わたしは『華凛』になるんだもんな)
外そうと手を掛けて――――何故か躊躇われて、それから静かに目を背けた。
私は髪を結い直し、化粧を落としてから、女官用の服を身に纏う。
この瞬間からわたしはもう『凛風』じゃない――――『華凛』だ。
「ありがとうね、華凛」
最後にもう一度華凛を抱き締めてから、わたしは天幕に手を掛ける。すると、服の裾からチラリとブレスレットが目に入った。
『凛風が持っていてくれ』
頭の中で、憂炎の切実な声音が響き渡る。
本当なら、これは華凛に渡すべき物なのだろう。今なら返しに戻ることだってできる。だけど、何故だかそうしたくなかった。
(憂炎に見られないようにしないとな)
紅と白に輝くブレスレットを胸元に仕舞いこみ、わたしは再び『凛風』に別れを告げたのだった。




