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夏の幻影譚

夏は百日紅の朱。

夏の空に滑り込んだ朱。


地面を蹴る度に空を切る足は縺れて、苦闘する。

ブランコはもがいて跳ね上がる。繰り返し、繰り返し。

額の汗に前髪が張り付き、呼吸が浅くなる。眼は虚ろに蒸し暑さを拒んだ。

夏の公園は特に、リリカには猥雑な空間に他ならない。こどもの喧騒と疲れた横顔のおとな達。過去と未來は混濁した時間の流れをものともせず、せせら笑いをしながらそこに漂っている。

軽くスカートの裾を手で払い、ブランコから立ち上がると唇に指をあてた。不安を感じると唇に触れる癖が彼女にはあった。

程よく厚みのある唇は、こどもの頃は嫌いだった。けれど、今はその唇が今では男達を喜ばせる小道具の一つになっている。

薄紙の向こうにある深淵をさ迷う不安の渦。そして、官能。リリカはうっとりとして歩き始めた。


公園を出て暫く歩くとリリカお気に入りの喫茶店がある。美しい磁器のカップで珈琲を出してくれる。そんな店は今では見つけ難い。彼女はスターバックスのような店は好きでなかった。紙コップ。だって、チープじゃないの、と思っていた。ロイヤル・コペンハーゲン、ウェッジウッド、マイセン。特にウェッジウッドのターコイズはリリカお気に入りの色。聖母のブルーマリン。シエナ派の碧。狂喜の夏の空。青は蒼、碧、藍、あお。どれが一番素敵かしら・・・思考の波。何も感じない。心というものが存在するのなら、それは美しい色の渦に満たされていた。

程なく珈琲がリリカの前に運ばれてきた。彼女の好みはモカ・マタリ。ワインのような香りがする、といつも思っていた。

匂い。色と同様、彼女には重要なファクターである。時に人は味覚のように匂いを味わったり感じたりするものではないだろうか。匂いは様々な記憶の中に旅をさせてくれる。味わいたくない記憶もあるだろうが、豊潤で至福の記憶も薄れる意識の向こうに刻み込まれている。カップに唇を充てながら、珈琲の香りの中に残る淡い記憶の海馬を手繰り寄せていた。

リリカは人が嫌いだった。それは人という器が嫌いなのではなく、思念、情念というものが嫌いだった。おおよそ、情念というものが彼女には理解出来なかった。だって、綺麗じゃない。真っ白なキャンバスに絵具をチューブごと握り潰して、塗りたくったような燃えかすのすえた匂い、美しくない。そう、人の情念が嫌いだった。

夏の日差しが日時計となり店内に差し込む。ラフマニノフの音が北欧の画家スワンベルクの複製に花を傾ける。彼女が店内に入り、LPレコードが一周した頃、背の高い青年が店に入ってきた。今時珍しい、チリンと音がドアと共に鳴る。飴色の見事な装飾の施されたチーク材の柱が天井に向かって真っ直ぐに伸びている。その横に立ちながら青年は店内をぐるりと見回した。リリカを見つけると、微笑んで足早にその傍らに立った。

「待ったかな。」と声を掛けて隣に腰を下ろし掛けたが、薄く眉間に皺を寄せた彼女に前に座るよう促された。ちょっと、不服そうな眼をリリカに向けたけれど、その顔は彼女に会えた喜びで満ち溢れていた。







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