竜胆の香気 後編-愛の逃避行編
「平安異譚-恋敵は姫君だけじゃない」の「第19話-笑顔に騙されて」の裏側(表側)の時間軸になります。
2017/05/03 誤字脱字を修正しました。
禁断の恋に堕ちた二人の乗る牛車は、暗闇の中、従者達の松明の明かりに守られ先導されて進む。
どこからか響いてくる甘い琵琶の音が、二人を包み込むように思えて、女御はそっと満足気にため息を漏らした。
「ああ、椿の君。この今にも消えてしまいそうな弱くも甘い琵琶の音のように、あなたも消えてしまいそう」
「竜胆の姫、私は消えたりしないよ。でも、何もかも振り捨てて、こうしてあなたと二人で過ごせるなど夢のようだ」
月が牛車の行く手を照らし、雅やかな笛と琵琶の音が辺りに響く。その狭い牛車の中、恋し合う二人は身を寄せ合った。
「どこのお邸で奏でているのかしら? 月夜に琵琶だなんて、風流ね。素敵だわ。でもせっかくの鈴虫の音が消えてしまいそう」
「鈴虫よりも、あなたのお声をもっと聴きたいよ。こうしてやっとあなたのお側にいられるのだから」
ぱしん! ぱしん! と椿の君が扇を開いては閉じる。
「扇、二回です~! 扇、二回です~!」
「了解! 扇、二回!」
牛車に付き従う従者が、次々声を掛け合った。ピタリと琵琶の演奏が止んだ。
「ああ、鈴虫の音が良く聞こえます。まるで、私の悲しみを歌っているかのよう」
「何が悲しいの、竜胆の姫君? 私といるのに?」
「お怒りにならないで、椿の君。東宮様への申し訳なさに、胸が張り裂けそうなのです。お邸から離れるほどに、悲し過ぎて胸が苦しいの……」
パンパンパン! と今度は三度扇を手に打ち付ける音が響いた。
「三回! 進行停止!」
「了解、進行停止だ!」
二人の乗る牛車に合わせて、前後の牛車も停止した。
計三台の牛車を警護するため、大人数の従者が灯りと太刀を手にして厳重に隙無く周囲を取り囲む。統率のとれた無駄の無い動きだった。こんな夜中に牛車を停止しては、都の大きな邸が立ち並ぶ大通りと言えど、いつ夜盗などに襲われるか分からないからだ。
「ああ、どうか落ち着いて、竜胆の姫君。……後悔しておられるのか? こうして私と駆け落ちしていることを」
「私が後悔しているのは、私のためにあなたを罪に落としてしまったことです。ああ、ごめんなさい、椿の君! 私は人の妻、東宮妃! 私の夫は東宮様なのです!」
ぱしん!! 恋人といながら夫を想う姫君の深い悲しみに抗うかのように、椿の君は扇を強く床に打ち付けた。
「扇、強く一回! 強く一回です~!」
「了解!扇、強く一回!」
ビャランビャラン! と強い音色の琵琶の合奏が、前方の牛車から響きだした。
いくら権力者のする事だからといっても、こんな夜に外での合奏は迷惑だと腹を立てているご近所の人もいるだろうな、と従者の一人は思った。
許されぬ仲に悩み、想い合う心で寄り添い合う。その二人の貴人の揺れる心を現すかのように、牛車は何度も進んでは止まる。それに合わせて滑らかな調べが響いては止む。
「ああ、椿の君、私は戻らねば! ごめんなさい。あなたを罪に落とさぬためにも、東宮様のためにも私は戻りたい」
「もはや二人は罪人だ。あなたは私を愛しておられると。それなのにお戻りになられると言うのか? 私をお捨てになるのか?」
「初恋のあなたをお慕いしています。けれど、私の夫はやはりあのお方。あの方だけなの。……ねえ、私、やっぱり嫌よ。夫以外の方を好きというのは嫌だわ。ごめんなさい」
ぱしん! と扇を鳴らし、急に口調の変わった女御をそっと椿の君は抱きしめる。
「扇、一回です~!」
「了解! 扇、一回! 出立!」
ゴトゴトと三台の牛車はまた動き出した。楽も、穏やかで甘い音色に切り替わった。
「ときめきが欲しかったのではないのか?」
「そうなのですけど、でも、それは秘密の恋の事ではないの。急に現れた恋人の椿の君ではなく、私は私の大事な夫にときめきたかったんだわ。だって後宮では身分に従った決まりや礼儀作法で、息苦しいばかり。入内前の様に『あなた』に自由にときめきたかったの。……我儘でごめんなさい」
「いいや、嬉しいよ。だって夫を捨てて出ていくなんて、酷いじゃないか。あなたは私をどう思っているの? と疑いたくなる」
「酷い方。人妻に恋文なんて送っておいて。……でも私は、夫を……」
狭く細い灯りの牛車の中、二人はギュッと互いを慰め合うように抱きしめ合った。
「こうしよう! ……姫、私を見て。今、あなたを誑かし連れ去った妖はこの身から去ったんだ。姫の真実を見抜くお力で」
「……ああ、あなたは、本当のあなたは私の東宮様なのね! そうよ! あなただから私は誑かされたのよ!」
二人は抱擁を解いて、額を合わせて微笑みあった。夫を捨てる秘密の恋人の物語から、真実の愛の物語に変わったから。
女御は東宮の腕の中で、更に顔を紅くした。どうした? と東宮が目で問いかければ、上目遣いに見上げながら、モジモジする。
「ああ、どうしましょう。本当にドキドキしてきたわ。あの、東宮様、聞いて下さる?」
パンパンパン! と今度は三度扇を手に打ち付ける音が響いた。牛車が停止し、今にも途切れそうな弱くも甘い琵琶の音だけが二人を包む。
「……私、あなたを一番お慕いしています。あ、愛しておりますわ! きゃあ! 恥ずかしい! 言ってしまいましたわ!」
きゃあきゃあと恥ずかしがる女御を東宮はまた優しく抱き寄せた。
「ああ! 嬉しいよ、初めてきちんと『私』に言ってもらえた気がする。姫は私を護ると、大事にしているといつも言ってくれていたけど、正直なお気持ちは言ってくれたことは無かったから」
「もの凄くドキドキしています。これが『ときめき』だわ! もっと早く言えば良かった! 私って本当にのんびりね!」
「私も愛しているよ、姫!」
もう何度、この甘ったるい会話を繰り返しているのか。牛車の側にいる全員に丸聞こえである。
牛車を止めたり進めたり、気分を盛り上げるための琵琶演奏の牛車を引き連れて。付き従う家人や従者は、甘く語り合う貴人の若夫婦に呆れかえっていた。もう全員が、熱愛に当てつけられて、馬鹿馬鹿しい気分になっていた。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、大人数の太刀を持った従者がいることもあって、暗くても警戒心が緩む。さらに気合が抜けて途切れそうな琵琶の音が眠気を誘う。家人の何人かが、思わずあくびをしてしまった。
「済みません! そちらは右大臣家の牛車ですか?」
真夜中近くになって、闇から響く突然の声掛けに、緩んでいた警戒心が俄かに高まる。呑気さを装った夜盗かと、緊張が走り、何人かはいつでも抜けるようにと脇に差した太刀に手を掛ける。
「牛車のご家紋からすると、右大臣家で間違いないですよね。こちらは式部卿の宮家のご子息、桂木の宰相様です。東宮様の命を受けて参りました」
御所方面から先導する家人が灯りを掲げつつ、十数人の従者に守られた牛車が現れた。
三台の牛車を警護していた従者が互いに間違いない事を確認し合う。油断して近寄って見たら実は盗賊だった、なんてことになったら目も当てられない。暗い中での警護なだけに、お互いに慎重になる。
「ああ、聞いている! ようやくか……。おい! ご主人様に声をお掛けしろ!」
「はい!」
牛車の側に付いていた家人の一人が、中の貴人に声を掛ける。
「申し上げます。お迎えがまいりました」
「分かった。右大臣邸の門に着けてくれ」
長時間、牛車に乗り続けていただけに、かなり遠くまで来てしまったのでは?と女御は不安になった。右大臣邸に戻るまでどのくらい掛かるか見当もつかない。その点を尋ねたくて、そっと東宮の袖を引いた。
「ここがどこかは分かりませんが、戻るのは大変ではありませんか? だってかなり遠くまで来てしまったでしょう?」
「いいや、大丈夫だ。警備上の安全のため、牛車は右大臣邸の周りをぐるぐる回っていただけなんだ。だから門まで戻るだけさ。すぐお連れ出来るよ」
「あら、全然気付きませんでしたわ。どうりで、曲がってばかりいるものと……」
御所から東宮を迎えに来た桂木の宰相は、牛車から漏れ聞こえてきた会話に呆れた。
この二人の『秘密の逃避行』の遊び計画は前もって桂木の宰相には知らされていたので、東宮の牛車は確かに計画通り右大臣邸近くですぐ見つかった。
だが、本当に女御は気付いていなかったのか? あまりにも呑気かつ、気まま過ぎる。これも右大臣家一族特有の傲慢の一端かもしれない。
付き従っている従者や家人はウンザリ顔で疲れ切っていた。邸が目の前なので、適当に何度も交代しながら付き従っていたらしい。そこは良く考えられている。
後ろの牛車には女御を世話する女房が乗っており、こちらも疲れてうたた寝していた。前の牛車には東宮警護の代表として山吹の少将が乗っているらしい。実際の所は、東宮の命により、女御の気分を盛り上げるための演奏車だった。気の毒に思う。
甘々いちゃいちゃする東宮と女御が安全に右大臣邸に入るのを見届けてから、桂木の宰相は山吹の少将の乗る牛車の所に行った。
そこで、慣れぬ牛車の中での長時間の演奏に疲れ切ってうたた寝する可愛い桔梗の君と、その桔梗の君に『おいた』をしようとしていた山吹の少将を見つける事となった。
終わり。
迷惑なバカップルです。