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竜胆の香気 前編-禁断の人妻の恋編

「竜胆の香気」は前編・後編になりました。


※「平安異譚-恋敵は姫君だけじゃない」の第17話「子犬の咆哮」以降の時間軸です。

2017/05/03 誤字脱字を修正しました。

『竜胆の花の姫君へ

 いかに多くの草花の中に隠されようとも、奥ゆかしき花に魅かれずにはいられない』


 秋の野に咲く竜胆の花に添えられていた文を誰にも見つからないように、姫君はそっと胸に押し抱く。

 もはや人妻、しかも高貴な紫色の花に例えられた東宮妃、人妻なのに、このような恋文が贈られたことに心が波立つ。


 その文は、虫の音響く秋の夕暮を一人で楽しんでいた時、女房から人目を避けるように女御に手渡された。


 未だに二人の恋を忘れてはいないと伝えてくれている文。それどころか暗に会いたいと言ってくれているのだろうかと、心配にもなる。もしも文に仄めかされているように、無理に自分に逢いに来られたりしたら危険だ。ここは天下一の権力を持つ右大臣邸。密かに忍び込む者がいたりしたら大変な事になる。


 『高い垣根の向こうに咲いている花ですので……』とか何とか書いて、どうか二人の間の垣根を越えないようにと、サラサラと文の返事をしたためる。


 パシンと扇を鳴らして女御は、側に控えているであろう女房を呼ぶ。


「誰かいませんか? 庭にある、あの椿の一枝を採ってきて欲しいのだけれど……」


 女御の声に応えて、大柄な狩衣姿の誰かが静かに御簾の向こうに現れ、音も立てずに片膝を着く。

 

「お召しにより参上致しました、姫君。椿……、まだ咲いてもいない春宮の花を手折ることをお望みなのですね」

「ああ、あなたはもしや!」

「竜胆の花を忘れがたく……」


 狩衣姿の公達は、そっと御簾を上げて女御のいる部屋へと滑り込んだ。

 慌てて女御は几帳の陰で扇を広げ、少しでも姿を見られぬようにと身を小さくする。女御の顔を見ることができる殿方は、もはや夫である東宮だけだからだ。

 

「このような所に……。いけません! お願いです、誰にも見られないうちにお戻りになって!」

「女御様、いや、竜胆の姫君。どうしてもあなたにお会いしたかった……」

「いけませんわ!」

「禁断の恋と言われ、どんなお咎めを受けても構わない。二人で共に垣根を越えよう」


 いけないと言いつつも、募る想いに負けて形ばかりの弱々しい抵抗を示す竜胆の姫君を、椿の公達はそっとその広い胸に想いを込めて華奢な体を抱き締めた。そして、そっと女御の華奢ではない所に顔を埋め、さらにスリスリしてくる。

 

「ずっと恋しかった……」

「私を?」

「……」


 椿の君が熱の籠った熱い眼差しで見つめた後、微笑んだ。


 姫を宥めるかのように撫でる温かい手、小柄な姫を覆うかのような逞しい大きな体。後宮では感じられなかった恋のときめき。ずっと求めていたもの。

 女御ではない、一人の竜胆の姫君として愛され、深い想いを込めて恋人となった椿の君を愛した。


 部屋の奥で愛を込めて寄り添う二人を照らすのは、夕暮れの低い陽射しではなく頼りない燈台の明かりのみ。禁じられた恋に酔う二人を隠すように、夜が広がりつつあった。



 麗景殿の女御は、一人思い悩んでいた。人払いをしてはあるが、離れて控えているであろう女房達に聞こえぬように、そっと扇の陰で苦しいため息を漏らす。

 東宮妃となって住む麗景殿から御簾越しに外を見上げると、心惑わせる秋の三日月が、女御の憂う心を表しているかのように儚げに輝いている。


 夜空を流れる雲さえもが、その禁じられた心を隠せと責めるように月を時折隠していくが、まるで抑えられない想いが風になったかのように、輝きを阻んでいた雲を吹き除ける。隠れては出る三日月は、女御の揺れる心そのままだった。


 栄えある東宮妃として入内し、畏れ多くも深いご寵愛を頂く身となってはいた。だが、女御はまだ咲き始めたばかりの花の如き若さの18歳。乙女のときめく初恋の想いを捨てきれずにいたのだった。

 もはや人妻、しかも東宮妃。落ち着いて一心に東宮に妻として寄り添わねばならないのに、まだ乙女だった頃の恋を捨て去ることができずにいたのだった。


 いや、恋の『ときめき』を捨て去れずにいるのだった。


「いかがなさいましたか、女御様。失礼ながら、苦し気なため息が聞こえてまいりました。どこかお具合でも……?」


 やはり離れた所で控えていたのであろう。一番の側仕えの女房の小雪が、遠慮がちに御簾の向こうから心配そうに声を掛けてきた。


「心配させてしまったわね、小雪。ごめんなさい。近頃、気鬱で、何やら胸が苦しいの……」

「まあ! 食べ過ぎでしょうか? お元気が取り柄の女御様が! それでは、薬師か加持祈祷でも手配しましょう!」

「さりげなく無礼な心配の仕方ね? 大丈夫、加持祈祷は頼まないで。ただ、疲れているのかもしれないわ、この後宮での暮らしに。気を遣い過ぎたのかしら? 一度、右大臣邸に戻って、ゆっくりしたいわ」

「女御様は、のんびりなご気性なためか気疲れなど無縁と思っておりましたが?」


 真面目に悩んでいるというのに、側仕えの呆れた物言いに、のんびりと言われる女御もさすがにカチンときた。苛立ちを紛らわすために、ピシャリと音を立てて扇を手に打ち付ける。

 

「酷いわ! 私だって、気疲れするのよ! 後宮暮らしでは、いろいろあるのだから! 礼儀作法とか、礼儀作法とかよ!」

「はい、はい。のんびりお育ちでしたから窮屈なのですね。まあ、あの東宮様のご寵愛の様子では、お疲れも出るやもしれません。でも、今宵は梨壺へのお召しはございませんから、ゆっくりお休み下さい。女御様なら、一晩寝れば、お元気になられますよ」

「小雪! 人を遊び疲れた童女のように言わないでちょうだい! 寝たって気分が晴れないのよ。……決めたわ! 私、初めての里下がりを東宮様にお願いしてみるわ!」


 あの女御を溺愛する東宮が、そう簡単に実家である右大臣邸への里帰りを許すとは、小雪には思えなかった。暇さえあれば麗景殿に渡って来られ、梨壺への女御のお召しも頻繁だ。

 振り返って考えてみれば、父親の右大臣も溺愛なのか呆れなのか判断付かないが、入内前の姫を一人のんびり好きなように過ごさせていた。その女御が後宮で多くの人に囲まれて人付き合いするのだ、気疲れするのも仕方がないのかもしれない。女御が息抜きに右大臣邸に一度戻りたがるのも無理は無いとも思った。

 

 最近の女御は食欲も実は落ちており、側仕えとしては確かに気に掛かってはいたのだ。里下がりが改善に繋がるかもしれない。

 

 思い立ったが吉日とばかりに、女御はサラサラと東宮宛への『里下がりの願い文』と、後押ししてもらうために父右大臣に文を書いて願い出た。

 女御の初の里下がりに、東宮は大いに不満を示し散々ごねたが、結局、近頃元気の無い女御を労わってほしいという右大臣からの押しもあって、ようやく許された。


 姉の弘徽殿の女御と赤子の姫宮に里下がりの挨拶で訪問した時、この根性無し! と軽く怒られたが、もうじき後宮の緊張感から解放されるかと思うとお叱りも女御には堪えず、少し元気が出てきて、明るくなった。


 夫である東宮には非常に無礼ではあるが、内心、後宮を離れることに意気揚々うきうき気分で、麗景殿の女御は実家の右大臣邸へと帰った。


「実家って良いわね! 礼儀作法も身分も気にしなくていいし」

「いえ、どちらも気にして下さい! 女御様ともあろうお方が、そのような姿が見えそうな端近くにいてはなりません! だらだらしないで下さい、みっともないですわ!」

「いいではないの! 庭には誰もいないし。来たって、山吹の少将ぐらいじゃない。弟なら、顔を見られたって構わないはずよ」

「ご身分をお考え下さい! 姫様は東宮妃でいらっしゃいますのよ」


 小雪の小言に女御はきまり悪そうに顔をそむける。そういう決まり事が窮屈だったから、実家で気楽に過ごしたいのだ。再び胸が苦しくなってきて、気鬱になる。女御は扇の陰でため息を漏らした。気分転換がしたい。

 

「退屈なら、百合姫様や女五の宮様にお文でも書かれてはいかがですか? 気晴らしになりますよ」

「……良い事言うわね、小雪。そうよ、久しぶりに百合姫にお会いしたいわ! 度々後宮にお姿を現しておられる割に、ゆっくり会えなかったものね!」


 百合姫に久しぶりに遊びに来てほしいと桂木の宰相経由で文を送ると、用事が立て込んでいるのですぐには行けない、と返事がきた。親友の間柄のためか、女御宛の返信で遠慮の無い文だった。女御はがっかりした。


「女御様、そうがっかりしないで下さい。お文には、里下がり中に一度は必ず伺いますと書かれています。兄君の桂木の宰相様が出世されて、お忙しいのでは? 宰相様は独身でいらっしゃいますから、妹君が妻代わりに色々されているのではないでしょうか?」

「でも、暇な今だから百合姫のご自慢の舞が観たかったのに。後宮ではなかなか宴に参加できなんですもの。つまらないわ」

「身勝手な……。高貴なご身分になられたのですから、相応しいお振る舞いも望まれるのです。ご理解なさいませ」

「分かってるわ……」


 実家帰りして、すっかり独身の気楽な姫君に主が戻ってしまった事に小雪は呆れる。そこへ右大臣邸に使える文遣い役の女童が現れ、小雪に耳打ちした。どうやら右大臣が何やら用事があると言っているらしい。伝えられた内容に、また何事かあるのかと深いため息を零して、小雪は一度女御の前から下がって行った。

 だが何故か、女童は小雪について行かず、残っている。辺りを伺う風にキョロキョロしている。

 

「どうかしたの? 小雪について行かなくて良いの? 私は一人でも大丈夫よ」

「畏れ入ります、女御様。実はこれをこっそりお渡しするようにと……」


 女童の女房は袖の中に隠していた文が結ばれた竜胆の花を取り出し、女御に渡した。そして一礼すると、逃げるように女御の前から慌てて去って行った。

 

『竜胆の花の姫君へ』


 ときめきの始まりだった。


 

 垣根を越えて、互いの愛を確かめ合った後、脱ぎ捨てられていた袿で竜胆の姫君を椿の君がそっと包み抱き寄せた。その椿の君の身体を竜胆の姫君は悲し気にそっと押しやり、わずかに体を離す。もう既に恋人と別れねばならない悲しさに涙が浮かんでいた。


「椿の君、今宵は夢です、お忘れ下さい。私は後宮に戻らねばならない身ですから。東宮様のために、右大臣家のために……」

「いいや、竜胆の君、もうあなたを離せない。もう、あなたは私の妻だ。このまま二人でここを出よう。二人が夫婦になれる所へ行こう!」

「え? でも、東宮様や右大臣の父が!」

「この私を振り捨ててまで後宮に戻られるおつもりか? 私の事は、今宵は、お遊びだったのか?」

「そんな! 遊びではありません。お慕いしております、椿の君! 本当です、お信じ下さい!」

「ならば、行こう! 二人だけの所へ! さあ、駆け落ちしよう!」


 椿の君に手伝ってもらって身支度を整えるや、竜胆の君は椿の君に抱き上げられ、暗くなった庭へと連れ出される。


(ああ、親不孝な娘で申し訳ございません、お父様。山吹の少将、ごめんなさい)


 天下一の権力を持つ父右大臣の追手の恐怖に怯えつつ、竜胆の姫君は愛しい恋人の温かい広い胸に抱かれながら、零れる涙をそっと袖で拭った。


 夜、恋人を乗せた牛車はゴトゴト音を立てつつ、人目を憚り恐れながら右大臣邸から離れて行った。

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