Prolog
人生は小説よりも奇なり。
「……あー、つかれた。もう限界、です」
帰宅するなり、その体を決して柔らかいとは言えぬ布団に倒れ込むような形で沈ませた。電気の付いていない部屋には、カーテンの隙間から淡い光が差し込んでいる。今宵は月が美しいのだと上司どもが楽しげに話し込んでいるのを思い出し、すぐに舌打ちをする。易々と、月をツマミに一杯しゃれこんでいる姿が想像できてしまったからだ。
私はスーツ姿のまま、ごろんと転がる。うつ伏せから仰向けになって、薄暗い視界の中で今日一日を振り返った。日が昇るより早くから出社、徹夜明けで死にそうな同僚たちに挨拶を交わしてパソコンに向かい合う。事務処理を済ませた後は後輩を指導しながら完成した書類を片手に違う部署へ移動し、文句を受け流し、客の対応に頭を下げ、また持ち場に戻りクレームの対処をし……残業、残業、残業の嵐。
そう、会社にいいように使われている彼女は、立派な社蓄の一人であった。思えばなん日ぶりの帰宅なのだろう、先月は確か帰ってきた筈だが会社に寝泊まりすることが多く記憶が定かではない。しかし! 歓喜しなければならない! 私はなんと、明日、恐らく3ヶ月ぶりのちゃんとした休日が貰えたのだ! 同僚の睨むような羨むような視線すら気にならなかった。
「……休みだ! ばんざ、い!」
感極まって両手を万歳すると、全く機能していない目覚まし時計に左手がぶつかった。──いたい。ああ、ついでに息苦しい。空気が悪い。ろくに換気もしていないのだから当たり前なのだけれど。
疲労しきった身体を無理矢理起こして、窓でも開けて空気の入れ換えでもしようとカーテンを軽く引いたところで、窓から見えた景色に手を止めた。
────月明かりと思われたそれは、あまりにもそれとかけ離れたネオンの光。
ここは月明かりよりも絢爛な人々が住む、眠らぬ町、東京。先程この中を歩いて帰ってきたというのに、何を勘違いしたのか月明かり等と……しかし、空を見れば確かに月も輝きを溢していた。それは真っ白だった。驚くほどに、真っ白に。
「満月なんて、いつぶりだろう」
もしかしたら初めてだったのかもしれない、こんなに綺麗な月夜は。
ふと、激務に追われている私たちを尻目に語られていた上司の言葉が晩酌のイメージもそのままに蘇ってきた。明日は休みなのだし、たまには自分にご褒美を与えてもいいのではないか? それに、ほら。今日はこんなにも綺麗な空が迎えてくれているし、この町は物騒でもあるが夜も明るいのだ。
よく通う、あの居酒屋にしよう。思う存分、今日ばかりは上司にも負けぬくらい、飲みまくってやる!
思い立ったが早く、私はスーツ姿のまま慌ただしく家を飛び出したのであった。