序章Ⅰ 最初の罪、彼の正義
俺の正義の始まりは、罪を背負うことだった。
靴底を濡らす赤い液体は、肉親の血潮だ。
背後には、怯えたように震えながら裾を掴む妹がいる。
「おにい、ちゃん……っ」
「……気にすんな。亜美は悪くない」
かつて父親だったものは、苦悶と憎悪を張り付けた顔で俺を睨みつけていた。絶命した肉体が何か言葉を発しようはずもないのに、こいつは俺に常の如く残酷で人の尊厳を無視した罵詈雑言を浴びせているかのように思えた。
――いいや。こいつが父親だったことなど一度もなかったか。
名前は忘れた。いいや、覚えていない。
物心ついた頃から暴力の痛みしか教えなかった奴ら。そんな人間の名前を覚えることすら、妹たちへの侮辱になるような気がしたからだ。
覚えている。俺は覚えている。
ただテレビの前を横切っただけで全身に痣が大量に出来るまで殴られた時の香澄の悲鳴を。
外で遊んで少し泥で汚れただけで、腹の中のものが無くなり胃液が出るまで蹴られ続けた亜美の絶叫を。
知らしめないといけない。叩き付けないといけない。
俺と香澄の生みの親。亜美の生みの親。
これ以上俺の大切な妹たちを傷つけさせないために。こんな不条理を許さないために。絶望を、諦観を、死の願望を断つために。
「亜美、香澄を守らないと」
「うん……」
言って俺は、握っていた包丁から手を放す。アパートの廊下に落ちた包丁が、虚しい金属音を響かせた。
父だったものが身に着けていた衣服のポケットからスマホを取り出すと、まず警察に連絡した。
――父親を殺した。どうにもできませんでした。
簡潔かつ正確に情報を伝え、その後学校にいる香澄を保護するようにお願いした。
警察は殺人犯である俺の願いだというのに二つ返事で快く受け入れてくれた。
怖かっただろう、安心していい、話はしっかり聞くから今は落ち着きなさい――警察官は、殺人犯の俺に優しい言葉を投げてくれる。
俺はそれらの言葉を聞いて――腹の底で暴れまわる不快感を自覚した。
それは罪悪感。人を、命を奪ったという罪が俺の心を削り始めたのだ。それが嘔吐感として肉体に負担をかけている。
この摩耗は、止まらない。一生終わらない。これから生きる半世紀以上、この罪悪感は俺の心に巣食い続けるだろう。
不意に、クラス替えの折に書いた自己紹介カードのことを思い出した。
『好きなものは正義と正しいこと。嫌いなものは悪と間違ったこと』
人の劣等種のような親を持ったことが原因なのか、これだけは生まれてこの方変わったことがない。
だがそれは今この瞬間に失われた。俺は人として犯してはいけない禁忌に手を染め、こいつらと同じ人でなしに変わってしまった。
ああ、だけど。後悔はない。あるはずがない。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……!」
まるで俺を安心させるために、血に濡れた右手を強く握ってくれる妹を守れたのだから。もしも殺すことを戸惑っていれば、亜美はきっとこの世にいない。この男に犯され穢され殺されていただろうから。
遠くからパトカーのサイレンが届いてきて、止まった二人の時を動かした。
「行こう、亜美。もう一度やり直すんだ。俺たちの人生を、次は正しい形で」
「うん……、あたし、お兄ちゃんのために頑張るよ。きっと、きっと幸せにしてみせるから。今は辛くても、一生一緒にいてあげる」
それが俺にとってどれほどの救いになったのか、亜美は気付いていない。
そして俺は知っている。亜美だけじゃない、香澄もきっとこう言ってくれることを。
「いい妹に恵まれたよ」
ありがとう。
お前たち二人がそう言ってくれるから、俺はまだ踏ん張れる。自分の正義を貫き通せる。この選択が最低なものだとしても、貫き通した己の正義なのだと信じられる。
十歳の夏。
西に沈み行く太陽の橙色の光を受けながら、俺たち二人は静かに絆を確かめ合った。




