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Play the hero. ー3.蟷螂の斧ー  作者: 宝積 佐知
4.Ding dong bell.
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4.Ding dong bell.

「こんなものを、俺は野球と呼びたくないんだよ」




 ダイヤモンドを廻る長身の選手を差して、和輝がぽつりと零した。

 歓喜に包まれたベンチの中で、その周囲だけが切り離されたような静寂を保っている。俺の耳に届いた掻き消されそうな呟きは、まるで罪人の懺悔のようだった。




Ding dong bell.(1)




 眩暈がした。

 グラウンドに染みて行く赤黒い血液と、崩れ落ちる和輝の背中に最大のトラウマがフラッシュバックする。悲鳴のような声を上げて、転がるようにして駆け寄った。

 倒れ込んだ和輝を抱き上げて、狂ったように呼び続ける。其処で漸く周囲も異変に気付いたらしく、その惨状に慌てふためき集まって来た。

 夕暮れのグラウンドを染める真紅の血液。練習は強制的に中断されざるを得なかった。

 二人組でトスノックを行っていた。和輝は珍しく俺と組まず、一直線に体格的にも見合わない後輩へ率先して声を掛けに行った。その後ろ姿を見て、何と無くその思考が読めていたが放って置いた。その結果が、これか。



「孝助ええ!」



 視界が真っ白に染まった。

 無意識に振り上げた拳に、悲鳴を動揺を載せて振り下ろす。けれど、避けようともしない孝助の目の前で急ブレーキでも掛けられたように阻まれた。

 血塗れの掌が、縋るように二の腕を掴んでいた。



「止めろ、匠」



 血に濡れる顔面を押さえながら、呻くように和輝が言った。

 上半身だけを起こした和輝を支えるように、箕輪が横に膝を着いた。



「大丈夫かよ、和輝!」

「大丈夫も何も、ただの鼻血だろ。大袈裟なんだよ。さっさと練習再開しろ」



 言いつつ、和輝は鼻血の止まらない鼻を押さえ、痛ェと呻いた。

 青葉が素早くタオルに包んだ保冷剤を手渡す。和輝は鼻を押さえながら冷やし出すが、白いタオルが見る見る赤く染まって行くのを見て俺は冷静になれなかった。

 顔面を冷やしながら、仲間を練習へ促す和輝の背中を茫然と見詰める。何か言いたげな面々を押し遣って、和輝は最後に鳴海孝助に次のメニューを告げた。俺の両足は地面に縫い付けられたように動かない。振り返った和輝が呆れたように眉を寄せ、溜息を零した。



「匠、集合」



 集合も何も、俺は目の前にいるだろう。

 言葉を返さずにいれば、和輝は一旦タオルを外して具合を確かめる。如何やら骨にまで影響は無いようだった。



「お前の短気は知ってるけど、俺以外の相手にまで出すんじゃねーよ」



 冷静な口調は諭すようだった。返す言葉も無い。

 あの一瞬で冷静な判断なんて出来なかった。血塗れの幼馴染の姿は、俺の中で最大のトラウマだ。全ては二年前、和輝が自宅で自殺を図って手首をカッターナイフで切り裂いたことに起因する。俺はもう二度と、あんな光景を見たくない。

 黙った俺をじっと見詰め、和輝はまた一つ溜息を零した。



「ちょっと休んで様子見るから、付き合ってくれ」



 和輝が率先して休憩を取ろうということは少ない。それだけで掛けられた言葉の真意が解ってしまう。

 グラウンドの隅に、ドリンクを持って座り込む。此方へ気遣うような視線を時折投げる箕輪へ、放逐するように和輝が手を振る。緑色のフェンスに背を預け、和輝が大きく深呼吸をした。既に出血は止まったらしく血塗れの保冷剤は足元に転がされている。



「……で?」



 苛立ち逆上した頭が冷静でないことは、俺自身が誰より解っている。苛立ちを治めるには時間の経過が必要だと思う。けれど、生まれた時から一緒に過ごした俺の幼馴染はそれを自身よりも熟知している。

 和輝はまた一つ、これ見よがしな溜息を吐いた。



「トスノックで、俺のトスの位置が悪くて、孝助の打球が顔面に当たっちまったんだよ」



 それだけ、と和輝が苦笑いした。

 嘘だ。俺は思った。和輝がそんなミスを犯すとは思えない。

 足元の保冷剤を拾い上げ、和輝が立ち上がる。出血の後遺症も骨への影響もないようだ。既にキャプテンに顔に戻った和輝が此方を見て手を伸ばす。こいつの信念。伸ばされた手を絶対に離さない。



「今日は抜き打ち柔軟チェックするからな。最下位にはクソ不味いプロテインを進呈する」



 そういう爆弾をさらりと落として、和輝が笑った。

 練習を続ける皆の元へと歩き出す背中を見遣るけれど、ぶれない体幹は真っ直ぐ伸ばされている。心配なんて無駄だと漸く理解し、追い掛けるように立ち上がった。

 ちらちらと此方を窺う箕輪が、区切りが良かったのか集合を掛けた。

 先程の惨劇の興奮が冷めやらぬ様子で、何処か浮足立ったようにそわそわしながら仲間が一つに固まった。平然と皆の前に立った和輝を見る目は労りに満ちていたけれど、本人は至って平然と次のメニューを告げる。抜き打ち柔軟チェックとやらを行うらしく、傍にはバインダーを抱えた青葉が控えていた。

 再び二人組に分かれて行く。体格差を考慮した結果、和輝は醍醐と二人組になったようで安堵する。ちらりと孝助に視線を向ければ、前屈した背中を夏川にぐりぐりと押されていた。



「なあ、匠」



 横に目を向ければ、体格のそう変わらない箕輪が幾らか顔色を悪くして立っていた。

 体調でも悪いのだろうかと嫌な予感を覚えながら曖昧に声を掛ける。箕輪は周囲を窺うように視線を投げ、恐る恐るといった調子で言った。



「俺、あの時、聞いてたんだ」

「何を?」

「和輝と孝助が話してたこと」



 トスノックの最中にしていた会話をよく聞いていたな、と思いながら適当に返事をする。

 けれど、箕輪はまるで意を決したように言った。



「野球は楽しいか、って」



 如何いう意味だ。

 列になって順に計測されていく。両足を伸ばして座る横にメジャーを設置し、息を吐き出しながら前屈。トップバッターである醍醐の結果は思わしくないらしく、青葉が渋い顔をして記録していた。

 続く和輝がいそいそと座る。何処か嬉しそうなのは、恐らくきっと、罰ゲームが楽しみだからだ。クソ不味いと称するプロテインがどんなものかは解らないけれど、我慢すれば如何にかなるようなものではないのだろう。



「なあ、如何いう意味かな」



 箕輪が言った。そんなもの、俺が知りたい。

 けれど、思い返すのは先日の練習試合。武蔵商業との合宿明けに行った県内のチームとの試合は、全員が筋肉痛や疲労を引き摺って万全の体制とは言えなかった。ただ、それでも結果はコールド勝ちだった。

 昨年の夏に味わった屈辱をそのまま引っ繰り返すような状況に、早々に相手チームの監督が白旗を上げた。嫌な雰囲気の中で和輝は努めて明るく振る舞っていたけれど、相手チームは亡霊のような何処か虚ろな目でグラウンドを徘徊していたのを覚えている。

 晴海高校の精密な歯車のような打線の強力さは全国にも知られる程であるけれど、その勝利の立役者を一人挙げるのならきっとそれは、――鳴海孝助だった。

 打てば長打、ホームラン。走れば二盗、三盗。守れば鉄壁。たった一人で攻撃の軸も守備の要も務めてしまえるような選手だった。人は彼を、天才と、怪物と呼ぶ。

 まるで相手を蹂躙するかのような孝助の凄まじいプレーに仲間は沸き上がったが、その中でただ一人、和輝だけが泣き出しそうに顔を歪めていた。



――こんなものを、俺は野球と呼びたくないんだよ



 絞り出すように零された言葉を知っている。

 孝助が悪い訳じゃ、ない。

 だって、彼は思うままにプレーしただけだ。相手を嘗めて掛かった訳でも、ラフプレーに物を言わせた訳でもない。あの試合は正々堂々と実力差を示しただけだ。

 昨年の苦い思い出を振り返る。敗北が決定しているのに、投げ出すことも逃げ出すことも出来ない。それでも俺達は審判が試合終了を叫ぶまで、それこそ最後の一球まで欠片も後悔することのないよう全力でプレーした。思い返す俺達はきっとランナーズハイだったのだろう。

 一般的に俺達の行動は賞賛され得るものだったけれど、常識的な観点から捉えれば恐らくきっと異常な光景に相違なかった。どちらが悪い訳でも、許されない訳でも無い。絶対的な正義があるとするなら、勝者こそが正義だった。

 けれど。


 孝助の凍て付くような鋭い眼差しを、俺は知っている。

 一年前に対峙した嘗てのチームメイトと同じ目だ。

 それが和輝の言葉の全てであるような気がして、あと一歩及ばない思考回路を唸らせる。


 丁度、計測を終えたらしい和輝がにやにやと締まりの無い顔で寄って来た。嬉しそうな弾む口調で、次はお前等だぞ、なんてのたまう。先程の後遺症も見られない呑気な態度に、其処で考えることを放棄した。何でこんな馬鹿の為に一々悩まなきゃいけねーんだよ。

 和輝は過去を引き摺らない。振り返ることはあっても、立ち止まることはしない。そんなことは解っているのに、俺ばかりが二年前の冬から歩き出せていないままだ。

 和輝が自らの手首を切り裂き、自殺を図ったあの冬の日。リビングのフローリングを染めた鮮血が今も脳裏に焼き付いて離れない。生まれた時から一緒に過ごした幼馴染が、目の前から消えて無くなると思った。今の和輝が同じ愚行を犯すとは思わないのに、根付いたトラウマがふとした瞬間にフラッシュバックする。俺はきっと、怖いんだろう。

 どんな馬鹿をしてもいい。どんな失敗をしてもいい。でも、頼むから目の前から消えることはしないでくれ。それだけを、切に祈る。



 思考に囚われ上の空だった俺は、計測結果、断トツの最下位だった。

 和輝から進呈されたプロテインは、透明なグラスの中で異臭を放つ乳白色で、粒状のものをわざわざ水に溶かしたという悪ふざけの産物だった。皆の前で、鼻を抓んで一気に煽るがどろりとした触感はヨーグルトのように喉に纏わり付いて中々飲み下すことが出来なかった。

 口内に残る苦味と人工的な甘味が見事にミスマッチしていて、食品として法に触れるのではないかと危惧してしまうような代物は、その後の練習に影響を及ぼす程、正しくクソ不味かった。暫くは牛乳もヨーグルトも豆腐も見たくはない。

 噎せ返る俺を、和輝は指差して大笑いしていた。計測結果の思わしくなかったらしい醍醐も腹を抱えて隣で笑っていた。後で絶対にしめる。

 珍しく宗助も口元を押さえながら控えめに笑っていた。体格の見合わない、天才鳴海孝助の双子の弟だ。

 練習中も喉の奥からあの異臭がせり上がって来るような気がして水分補給を過度に行い、結局、俺は後半ばてた。こんなことは初めてだった。流石の和輝も悪ふざけが過ぎたと反省したのか、グラウンドの端で横たわる俺の顔色を何度も窺いに来ていた。

 赤く染まった空の端が紺色を帯びて行く。直に日が暮れるだろう。冬に比べて格段に長くなった日をぼんやりと感じながら、もたれている胃を撫でる。体中が倦怠感に包まれていた。



「おーい、匠」



 呼ばれた方に顔を向ければ、和輝が大きく手を振っていた。



「そろそろダウンするけど、出来るか?」



 練習後は柔軟をするのが晴海高校の固定メニューだ。けれど、この状況で前屈でもしようものなら嘔吐し兼ねない。手を振って参加を断れば、和輝が苦笑した。



「お前って味覚音痴の癖に、まずいものは徹底して駄目だよな」



 そんなの当然だろうと、俺は思う。

 奈々が度々買って来る話題のケーキ類に対する俺の評価は一定して「美味かった」だ。グルメリポーターでもあるまいし、クリームが如何とか、フルーツが如何とか、焼き加減が如何とか素人に解る訳がない。和輝と奈々がスイーツ談義に花を咲かせる横で俺は黙々と咀嚼するだけだ。



「馬鹿舌の癖に、胃が弱いなんて反則だろ」



 胃が弱い云々の前に、だったらお前もあのプロテイン飲んでみろと言いたかった。負け犬の遠吠えであることは明白なので口に出す気は無いけれど。



「しょーがねー奴だなー」



 ほら、起きろよ。加減してやっから。

 和輝が肩を揺らす。この状況でダウンしろと言うのは優しいのか厳しいのか紙一重だ。鉛のような身体を支えられながら、柔軟する輪に加わった。遅れた俺の登場に箕輪がほっとしたように笑った。



「練習中に考え事してるお前が悪い」



 そう言って、和輝は手加減無しに前屈する俺の背中を押した。

 全く以てその通りだ。素直に前屈することに集中する。



「いーち、にーい、さーん……」



 和輝の良く通るボーイソプラノがカウントする。



「よーん、ごーお、ろーく……」



 背中に感じる重みは、俺が勢い良く立ち上がれば跳ね飛ばされてしまうだろう。体格に恵まれなかったというのは、当然、筋肉量も少ないということだ。俺と和輝は20cm、孝助とは30cm近く身長が違う。細い腕も薄い身体もスポーツにおいて圧倒的不利だ。それでも、皆の前で背中を真っ直ぐに伸ばして歩いて行く幼馴染を誇らしいと思う。

 こいつはもう、いなくならない。



「なーな、はーち、きゅーう、じゅー。はい、交代」



 けろりと笑った和輝が隣に座った。

 薄い背中をカウント前に思いきり押してやったら、早々に和輝が悲鳴を上げた。

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