返さなくていい傘
雨の日に、誰かと一本の傘に入ったことはありますか。
これは、駅の忘れ物預かり所にある、少し不思議な傘のお話です。
駅前の忘れ物預かり所に、返さなくていい傘が一本あった。
持ち手は木製で、布地は紺色。閉じるときに少し引っかかる、ごく普通の傘だった。
ただ、札に名前がなかった。
『必要な方へ。返却不要』
私がこの窓口で働き始めた日に、先輩の三浦さんが教えてくれた。
「雨が降ったら貸していいの。でも、こちらから勧めないこと」
「返却不要なら、貸すとは言わないんじゃないですか」
「そうね。あげる、かな」
三浦さんは札の端を指で撫でた。何度も触られた紙は、そこだけ灰色になっていた。
預かり所には毎日、いろいろなものが届く。
片方だけの手袋。電源の切れた携帯電話。食べかけのパン。
高価なものほど持ち主が戻ってくるとは限らない。千円もしないぬいぐるみを、泣きながら捜しに来る人もいた。
私は品物の特徴を聞き、台帳をめくり、本人確認をする。
それを、できるだけ早く済ませる。
私自身、ここに長くいるつもりはなかった。
以前は旅行会社で働いていた。
あるとき、耳の遠いお客さんの説明に付き合って、電話を取るのが遅れた。上司から効率が悪いと言われた。その次は話を切り上げるのが早すぎると苦情が来た。
何を直せばいいのか、わからなくなった。
最後には、電話が鳴るだけで指が冷たくなった。
ここなら、忘れ物を返すだけでいい。
求人票を見たとき、私はそう思った。
紺色の傘が最初に出ていったのは、六月の金曜日だった。
窓口に来たのは、制服を着た高校生だった。教科書の入った袋を胸に抱え、外の雨を見ている。
「忘れ物は何ですか」
「あ、違います。雨、待ってるだけです」
それから棚の傘に気づいた。
「あれ、もらえるんですか」
私は札を確かめて頷いた。
「返さなくていいそうです」
「ほんとに?」
二度聞かれたので、二度頷いた。
高校生は傘を開き、こちらに小さく頭を下げて走っていった。
翌週の月曜日、傘は棚に戻っていた。
「あの子、返しに来たんですね」
「ううん。清掃の人が届けてくれたの。二番線のベンチにあったって」
返さなくていいと言ったのだから、置き忘れても責められない。
私は布地が乾いていることを確認し、元の位置に戻した。
次は、買い物袋を提げた女性だった。
その次は、革靴をびしょ濡れにした会社員。
どちらも雨宿りに来て、札を見つけた。
傘はそのたびに、数日後、駅のどこかで拾われた。
改札の脇。切符売り場。ホームのベンチ。
不思議なのは、ほかの駅では一度も見つからないことだった。
借りた人たちは、わざわざここまで持ってきて置いていくのだろうか。
七月になり、私は持ち手の裏に小さな傷を見つけた。
高校生に渡したときにも、同じ傷があった。
「同じ傘ですよね、これ」
「そうよ」
「何でみんな、直接返してくれないんでしょう」
三浦さんは少し考えた。
「返さなくていいって書いてあるからじゃない?」
私は笑った。答えになっていないと思った。
八月の終わり、仕事帰りに大雨が降った。
ロッカーの折り畳み傘は、前の週に骨が折れていた。買い直すのを忘れていた。
三浦さんはもう帰っていた。
棚には、あの傘があった。
職員が使ってもいいのだろうか。
札には、必要な方へ、としか書かれていない。
私は傘を取り、窓口の鍵を閉めた。
外へ出ると、雨の音が急に遠くなった。
傘の内側だけが静かだった。
水たまりを踏む音は聞こえる。車も通っている。それなのに、頭上の雨音だけが、厚い壁の向こうから響くようだった。
交差点で信号を待っていると、隣に女の子が立った。
黄色い長靴。赤いランドセル。
傘を持たず、軒下からはみ出さないように、両足を揃えている。
「どこまで帰るの?」
自分から声をかけたことに、私が驚いた。
「郵便局のとこ」
「じゃあ、途中まで一緒に行こうか」
女の子は私の顔を見てから、傘の下に入った。
歩き始めてすぐ、女の子は言った。
「今日ね、私の絵、選ばれなかった」
「絵?」
「教室の後ろに飾るやつ。三枚だけ」
「そっか」
「みんな上手だったから、しょうがないけど」
私は、次は選ばれるよ、と言いかけた。
選ばれるかどうかなんて、わからない。
「何の絵を描いたの?」
「お父さんの靴」
予想していない答えだった。
「靴?」
「玄関にあったの。お父さん、遠くでお仕事してて、たまにしか帰ってこないから。帰ってきたら、靴が増えるでしょ」
女の子は長靴の先で、水たまりの縁を踏んだ。
「それが嬉しいから描いたんだけど、先生に、人も描けばよかったねって」
私は返事を探した。
探しているうちに、次の信号に着いた。
「でも、靴が描きたかったんだね」
女の子が私を見上げた。
「うん」
それから郵便局まで、靴の話をした。
黒い靴なのに、光っているところは青く塗ったこと。紐が難しかったこと。消しゴムを使いすぎて、紙が薄くなったこと。
別れ際、女の子は言った。
「明日、家に持って帰るんだ。お父さんの靴の横に置いてみる」
雨の中を、残り数歩だけ走っていった。
家に着いて傘を閉じると、途端に雨の音が大きくなった。
閉じるときの引っかかりもなくなっていた。
翌朝、傘を持って駅へ向かった。
窓口に返そうと思っていたのに、途中のベンチで鞄を整理した拍子に、脇へ置いたことを忘れた。
思い出したのは、仕事を始めて一時間後だった。
そのころにはもう、清掃の人が届けてくれていた。
「私も忘れました」
三浦さんに話すと、彼女は笑った。
「みんな、そう言うのよ」
「あの傘、何なんですか」
三浦さんは椅子に座り、眼鏡を外した。
「私の夫の傘」
夫、という言葉は初めて聞いた。
「十年前に亡くなったの。人に傘をあげて帰ってくる人だった。自分はずぶ濡れでね。何本買ったかわからない」
「これは、最後の一本ですか」
「そう。この駅に忘れていったの。それを受け取る前に亡くなってしまったから、私がもらった」
持って帰っても使わないので、ここに置いたのだという。
「でも、変なんです。雨の音が……」
「小さくなるでしょう」
私は頷いた。
「夫も言ってた。この傘だと、人の話がよく聞こえるって」
それ以上、三浦さんは説明しなかった。
私も聞かなかった。
その日の午後、老人が財布を捜しに来た。
特徴を尋ねても、なかなか答えが出ない。
茶色だったと思う。いや、黒だったかもしれない。
私は台帳から顔を上げた。
「中に、何か入っていましたか」
「妻の写真が」
老人は言った。
「若いときの。財布は買い直せるんですが、あれは、もう」
棚の奥に、古い茶色の財布があった。
中の写真を見せると、老人は両手で受け取った。
「これです」
その声を聞いて、私は初めて、ここが忘れ物を返すだけの場所ではないのかもしれないと思った。
秋になっても、紺色の傘は戻ってきた。
時々、持ち主になった人が窓口まで来る。
「あの傘、またありませんか」
私は理由を聞かず、棚を指す。
ある日、最初の高校生が来た。今度は晴れていた。
「お礼、まだだったので」
「傘のこと?」
「あの日、帰りに母と電話できたんです。喧嘩して、ずっと出てなかったんですけど」
彼は持ち手の傷を確かめて、少し笑った。
「あれ、いい傘ですね」
私は今も、この窓口で働いている。
忙しいときには、話を急かしてしまうこともある。電話が鳴ると、指が冷たくなる日もある。
それでも、ときどき顔を上げる。
財布の色を思い出せない人や、片方の手袋を握っている人の顔を見る。
閉館間際、雨宿りに来た青年が棚を指した。
「これ、借りてもいいですか」
「どうぞ。返さなくていい傘です」
青年は戸惑った顔をした。
「じゃあ、お礼はどうすれば」
私は傘を渡した。
「誰かと一緒に入ったら、その人のほうに少し傾けてください」
青年は外へ出ていった。
しばらくして、窓越しに見えた紺色の傘が、ゆっくり右に傾いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
うまく励ませなくても、答えが見つからなくても、相手の話を聞くことはできる。
そんな小さな優しさを、一本の傘の物語に込めました。
もし心に残った場面がありましたら、感想などで教えていただけると嬉しいです。




