アンナは笑う
『それじゃあアンナ、また明日。そして、これからよろしくね』
「ええ、イザール様」
語尾を可愛らしく上げ、昨晩ようやく婚約者となった男との通話を切る。無理やり笑顔を作っていた口角から力が抜け、私は疲労のままにベットの上で寝ころんだ。
……よし! よし、よし! やりきった、やりきったわよ!
膨れ上がる喜びと達成感に、私は身を捩りながら高笑いした。
ファニーを王太子の婚約者の座から降ろすのは、本当に骨が折れる作業だった。
ファニーは頭が良かった。決して人の不快になるところまで踏み込まず、他者が嫌がらない程度に、あざとく可愛さを振りまいていた。私にはそれが作り物だと分かっていたけれど、あれを素だと思って翻弄された人間は多かったはずだ。
結果として、彼女を好む者は非常に多かった。そんな者たちは罪のでっち上げに使えないので、まず私はファニーを良く思わない人間を探し出さねばならなかった。
幸いなことに、本腰を入れて探せば、ファニーを悪く思っている人間はそれなりに見つかった。
婚約者の男がファニーに恋をしていたことが判明し修羅場になった者。彼女の愛らしさに心を奪われてしまい、まともな生活を送ることができなくなった者。彼女の美貌に勝てないせいで、自分はいつも二番手なんだと苦しむ者。……まあ、逆恨みも含めて色々だ。
そうした人々に、私は「裏でファニーから虐めを受けている」と相談し、それらしく見える物品を見せた。すると、彼らは『やはりあの女はそういう人間だったのだ』と容易く帳尻を合わせ始め、実際の虐めの現場を見ていなくても証言をしてくれたり、社交界で悪評を広めてくれたり、ついでに私を褒めてくれるようになった。
ああ、愛おしいわ。馬鹿ばかりだけれど、私のために動いてくれる大切なお友達。ちゃんと大事にしてあげなくちゃね。
一方で、ファニーを失脚させるのは本当に大変だったが、王太子の心に取り入るのは簡単だった。
パーティーやお茶会で接点を増やし、お忍びの逢瀬を重ねる。彼は潜在的に寂しさを抱えていたらしく、あっさり私に嵌った。そのおかげで、ファニーとの婚約破棄と同時に私との婚約が成立。世間には「公務で疲れた王子と、虐げられた令嬢が互いに寄り添い合って結ばれた婚約」という美談が広がっている。かつて沢山いたファニーを好む人間たちも、私のお友達が広めた悪評によってすっかり数が少なくなっていた。
大丈夫、世論も全て私の見方だ。
……これで、お母様も褒めてくれるわよね。
母から命じられた「王太子との婚約」は、ちゃんと達成できたもの。
コンコン、と部屋のドアがノックされる。
扉の向こうから「エタンだ。少し良いだろうか」と声がした。エタンお兄様ね、夜遅くに何の用かしら。
返事をしながら立ち上がり、崩れた服を整える。そしてドアを開け、随分と浮かない顔のエタンを招き入れた。
机を挟んで向かい合って座る。落ち着かない様子で目を泳がせる彼に、話を催促した。
「どうしたんですか、こんな夜更けに。何か気になることでも?」
「……今回の件についてだ。長い間虐められていたことに気が付かなくて、本当にごめん。辛かったよな」
そう言い、エタンは深く頭を下げた。額が机につくほどの角度だ。
彼の謝罪の言葉によって、私の心に暖かなものが広がっていく。ああ、私は今、この空間では『正しい』存在なんだ。尊ばれるべき存在なんだ。渇望した承認欲求が満たされていく感覚がある。
「そんな、別に良いんですよ。王太子様からも説明をしてくださいましたし、私だって、お姉様のことを恨みたいわけではありません。どうか謝らないでください」
嘘よ。皆お姉様のことを優遇してばかりだったんだもの、こんな謝罪じゃ足らないわ。恨んでいるし、大嫌いよ。
そんな私の胸中に気付くはずもなく、エタンは安心したように優しく微笑んだ。
この人は善良すぎる。他者の善性を信じきっていて、騙されやすい。だからこうして、今も簡単に騙されている。……本当に馬鹿な人。
しかし、その口から予想外の言葉がこぼれた。
「……ファニーは、本当にお前を虐めていたのか?」
「え」
思わず漏れた一音。彼は慌てて言葉を取り消す。
「あ、いや……今のは間違えた。すまない。『ファニーが他者を虐めていた』という事実を、俺が信じたくないだけなんだ。私情が混じった。忘れてくれ」
「ああ……まあ、仕方ありませんわ。お姉様は、とても可愛らしい方ですもの。私にとっては、とても怖い人でしたけど……」
俯き、ハンカチを目元に当て、声を震わせる。もちろん涙はない。それでもエタンは簡単に騙されて、私の背中をさすってくれた。
エタンは、ファニーを可愛がっていた側の人間だった。少し不安に思っていたが、やはり罪のでっち上げを無意識ながら疑っていたらしい。でも、ここまで騙されやすいなら大丈夫ね。いざとなったら色仕掛けで篭絡してしまえば良いし。
兄妹なのに良いのかって? 大丈夫。エタンお兄様はお父様の妹の息子で、直接血を分けた兄妹じゃないから。ただ家督を継ぐ男児として、この家に迎えられた人間にすぎないのよ。
しばらくして落ち着いてから、彼に向き直る。エタンはまたも優しい笑顔を浮かべて、私に語りかけてきた。
「この家の子供は、もう俺たちだけだ。グラティエール公爵家の名は、二人で守っていこう」
「はい。このアンナ、全身全霊で努めさせていただきます」
私も、力強く宣言する。この言葉ばかりは本音だった。視線がぶつかり、互いに笑い合う。
つくづく、この男は馬鹿だと思う。
時計の針が十一時を回った。
エタンは立ち上がり、「夜も更けてきたから、そろそろ自室に戻らせてもらう」と告げられた。
「ええ、来て下さって嬉しかったですわ。良い夜を」
彼を見送るため、席から立ち上がる。エタンはその間も扉へと歩みを進めていたが、ふと立ち止まった。
「……一つ、聞いても良いか?」
「何でしょう?」
「エドワールとの婚約は、破棄したんだよな?」
「ええ。申し訳ないことをしてしまいましたわ」
弱々しい声色で話せば、エタンは「そうか」とだけ呟いた。背中越しでは、その表情は読めない。
エタンは話を続ける。
「お前は本当に良く頑張っているし、王太子様の婚約者にも相応しい人間だと思う。だから……今度こそは、婚約者を愛し通せよ」
それじゃあ、また明日。エタンはそう言い一度も振り返らず、この部屋から出て行った。
静寂が灯る。
「……愛し通す、ね」
そんな器用なこと、私にできるわけないじゃない。だって、他者の愛し方すら分からないのよ。
ぼそりと誰もいない空間で、私は一人呟いた。
窓の外の夜空は曇天で、星は一つも見えなかった。