新たな暮らし
私を先導するエルワードの足は、一つの扉の前で止まった。
「ここが、アンタがこれから暮らす部屋だ。今までの貴族生活とは随分違う様式だろうが、人間が生活するにあたって必要な物は全て揃っている。文句は言うなよ」
「あら、誰に向かって物を言っているつもり? どんな生活にも必ず順応してみせるわ。今までの生活が恋しいわけでもないもの」
「ほぉ。馬車を降りるとき、随分エスコートを待っているように見えたがな?」
「そ、それは生まれた時からの習慣で……! それに、結局自分一人で降りたもの」
くっ、人の痛いところをついたわね。
エドワールは私の抗議がこもった視線をいなして、手鏡を差し出してくる。
「あら、これは?」
「商会からの支給品だ。すぐに連絡が取れないと困るからな」
「ありがとう。もう必要ないかと思って、実家に置いてきてしまったから助かったわ。どこの製品?」
「超大手、ポルト伯爵領の商業ギルド製だ。……本当は、うちの商会でも取り扱いたいんだがな」
「まあ、商品化するにはなかなか難しい技術だものね。仕方がないわ」
手鏡を受け取る。
この手鏡は、ただの鏡ではない。魔法が施された現代の魔道具だ。はたらきとしては、遠く離れた相手と会話を繋げるというもの。つまり、通信用の魔道具なのである。
使い方は簡単。話したい相手の名前を鏡に向かって呼びかけ強く念じ、相手がそれに応じれば、鏡にお互いの居る場所が映り、会話ができるようになるというものだ。誰でも使える便利な魔道具だ。
鏡を媒介として遠くの地を写す魔法は古来より存在し、その魔法を施した鏡自体は庶民含めどの家庭にも姿見ほどの大きさで存在していた。そんな中数年前に、ポルト伯爵領の商業ギルドが手鏡サイズのコンパクトなものを開発したのだ。その時は、通信技術が持ち運べるなんてどれほど画期的だろうかと、多くの人々が歓喜した。
しかし、制作に使用している素材と技術がとても貴重なものであるため、価格が非常に高く、現在は幅広い普及には至っていない。貴族や裕福な庶民だけが使っている状況だ。
とはいえ通信魔道具を開発する機関はどこもエリート揃いなので、これから研究が進んでいくことで安価なものが開発され、一般家庭にも流通するようになるだろう。
しかし、まだまだ高価な魔道具であることは事実だ。壊してしまわないように、できるだけ丁寧に扱おうと心に決める。
私が無事に手鏡を受け取ったことを確認すると、エドワールは扉にそっと指先で触れた。
「この扉には、瘴気を遮断する結界が張ってある。だから、中に入ればアンタの不快感は収まるはずだ。とはいえ瘴気の影響で下がった室温はそのままだから、火鉢の炭に火をつけて暖を取ってくれ。木炭には魔除けの実も混ぜてある。瘴気に中てられた体には効果があるはずだ」
「分かったわ、ありがとう」
「他に、シャワールームとトイレは併設、備え付けのキッチンでは宿舎の端にある売店で売っている食材で調理ができる。料理ができないんだったら、売店では完成している飯を買え。分かったか?」
「ええ。ご親切にどうも」
彼の腕から手を離す。体を駆け巡る悪寒は止まらないが、室内に入れば落ち着くだろう。
エルワードは懐から懐中時計を取り出して、時刻を確認する。
「では、明日の朝九時半、中央の本部棟の玄関で」
「分かったわ。それでは、ごきげんよう」
「ああ、また明日」
軽く頭を下げてから、去っていく彼の背中を見送る。見える背中が随分と小さくなってから、私は自分の自室である小さな部屋の扉を開けた。
*****
「何、何、何これ!? 全っ然分からないわ!」
数分後。私は火鉢の前で、情けない叫び声をあげていた。なぜか? 使い方がまるで分からず、色々といじってみても火鉢に何の反応もないからだ。
幼い頃から使用人に囲まれて不自由ない生活をしてきた私には、火鉢を使った経験なんて無い。完全に八方塞がりだった。
私は頭を抱える。どうしましょう、エドワールに連絡するしかないかしら? ……いいえ、それは嫌ね。どんな生活にも順応すると言った手前、のこのこ連絡するのは恥だわ。せめて明日の朝にそれとなく訊いてみましょう。今日の夜はひとまず、火鉢なしで過ごしてみせるわ。
ふーっと息を吐く。そして、気合を入れて顔をあげた。
この部屋に入って、すぐに火鉢とのにらめっこを始めていたから、私はまだよく室内にあるものを確認していなかった。まずは、この部屋への理解を深めるべきね。
膝に手をついて立ち上がると、私はようやく室内をぐるりと見渡した。
壁も床も天井も全て、部屋の外と同じ黒に近い灰色の石造り。壁にかけられた燭台の蝋燭が、より重厚感を演出している。蝋燭の炎の色は廊下とは違い、見慣れた赤色だったから、所在なく彷徨っていた心も落ち着いた。
窓は一つ。意外と大きいけれど、あいにく今は夜なので、暗闇しか見えなかった。
部屋の内部に視線を戻す。隅にぽつんと置かれた執務机は実用一点張りで、椅子もシンプルなデザイン。座面は固めだ。キッチンの天板に描かれた魔法陣は、想像していたよりもずっと禍々しい。謎のスイッチやつまみがあるが、火鉢同様私には何も分からなかった。……まあ、ここで暮らしていくうちに自然と覚えることでしょう。
ベッドは小さく、ふかふかの羽毛も天蓋もない。試しにマットレスを軽く手で押してみても、びくともしない。私はこの固い寝具で眠れるのだろうかと、少し不安になった。
壁際にあった小さなクローゼットを開けると、この商会の制服とバスローブが二着ずつ入っていた。体にあてて確認したところ、サイズは見事にぴったり。他の家の貴族からドレスが贈られることがあったため、調べようと思えば知ることはできるだろうが……、この商会、いや、エドワールは準備が良い。
窓の反対側の壁にある、入口では無いもう一つの扉を開けてみる。その扉の向こう側には、シャワールームとトイレ、見慣れない魔導機械があった。
「うーん、これは何かしら? ……ちょっと失礼」
私は機械に手を添えて、施されている魔法を調べる。水流魔法に風起こしの魔法、皮脂分解に復元魔法などなど。おまけに上蓋には結界が張られており、機械内部で前述の魔法を発生させる機械だと分かった。
結局なんの用途かは分からないけれど、随分と強力な魔道具ね。職員が誰も住んでいない空き部屋だから、倉庫代わりに置きっぱなしにしていたのかしら。魔道具を放置するなんて随分と危険な行動だわ。明日の朝、エルワードに伝えましょう。
しかもただ強力なだけじゃなくて、皮脂分解というニッチな魔法も搭載しているんだから驚きだわ。確か、あれは二百年ほど前に王宮のメイドが生み出した魔法で、洗濯に使っていたものだったかしら? 水に晒しながら皮脂汚れを分解する魔法を使用することで、大幅に作業時間を短縮していたのよね。本当に優秀な人物だわ。……ん?
「まさか、この機械の用途って、洗濯?」
そういえば、実家に居た頃使用人から『洗濯は機械で行っていることが多い』と聞いたことがある。けれど、持っている小説に載っていたのは魔法を使用しつつ手洗いをしている場面ばかりで、当時は私をからかっているのだと思っていた。けれど、あのメイドが話していたのは嘘じゃなかったのね。
要は、着た後の衣服はこの機械で洗えば良いのね。正直ボタンが沢山あって操作の見当がつかないけれど、それもきっとここで暮らしていれば、いずれ覚えられることでしょう。
……さて。
壁にぶら下がった時計を見る。現在時刻は20時。夜も深まり、この部屋もどんどん冷え込んでいく。
まずは体を温めたい。しかし、火鉢は使えない。なら、まずは湯浴みをしようではないか。
この部屋にバスタブは無く、あるのはシャワーだけなので、どれほど体が温まるかは分からない。けれど、公爵家を出た時のまま、現在の自分の身分に会わないドレスを着続けるより、よっぽど良いことだと思った。
顔をあげる。
「よし。私、シャワーを浴びたいわ——」
沈黙。
「……そうね。服も自分で脱がなければいけないんだったわ」
つい、いつもの習慣が出た。生まれた時から当たり前だったんだもの、抜けるには相当時間がかかりそうね。
ドレスに視線を落とす。コルセット、分厚い生地、背中で何重にも縛られた紐。当然、貴族が着るドレスは、一人で脱ぐことが想定されているものではない。
しかし、今の私には「服を脱ぐのを手伝いなさい」と命じられる人間はいない。一応コルセットに手を伸ばしてみたけれど、当然、びくともしない。
……今の私に、できることは一つね。
「はぁっ!」
威力を抑えた風魔法で、布地を引き裂く。私の巧みなコントロールによって、風魔法は肌を傷つけずに衣服を切り裂いた。
……ちょっと床に傷がついてしまったけれど、まあ、このぐらいの掠り傷なら普通に生活していてもつくでしょう。誤差ね。
ドレスの残骸はどうしましょ。もうこのドレスを着ることはないから、躊躇なく引き裂いてしまったけど、処分するにはどうしたら良いのかしら。……明日エドワールに聞くことがまた一つ増えたわね。
私はボロボロになったドレスを脱ぎ捨てて、シャワールームに足を踏み入れる。
壁には簡素なシャワーが立て掛けられており、足元には排水溝が。シャワーヘッドには小さな魔法陣が描かれていて、側面には二つボタンがあった。
赤いボタンが一つに、青いボタンが一つ。
ふむ、どうしたものか。
大体、この手のものは、赤い方を押すのは注意が必要だと相場が決まっている、と私は思う。なぜなら、赤は危険な色として商品デザインに扱われることが多いと、私は身を持って学んでいるからだ。幼少のころ、屋敷の人間に隠れて興味本位で触れた魔道具の赤いスイッチたちは、たいてい、危険なものばかりだったのである。
よし、きっと青が正解ね。ほら、この私なら新しい生活にだって自力で順応できるのよ。せいっ!
「つめったぁぁぁい! はぁ!? 何これ、おかしいじゃない!」
慌ててシャワーの水流を排水溝に向ける。冷水で冷やされた体には鳥肌がたち、体が一層冷えていく。
何、どういうこと? 私、青を押したわよね?
……落ち着きなさい、ファニー。あなたはこれから一人で生きるのよ。青を押して駄目だったなら、赤を押せば良いじゃない。青は寒色、赤は暖色。きっと良い温度のお湯が出るわ。
ポチ。
「熱っつぅぅぅい!」
肌を焼くような熱湯が体を焼き付ける。反射的にシャワーヘッドの噴射口を排水溝に向けると、そこからモクモクと白い蒸気が上がってきた。先ほどまでの寒さなら有り難かっただろうが、今の私にはそれすらも疎ましかった。
「もう、シャワーは良いわ。さっさと寝ましょ」
あまりにも上手くいかなかったので、私は諦めてシャワールームを出る。びしょびしょの体でどうしたものかとしばらく立ち尽くして、ああそうだ、今の私には体を拭く使用人は居ないし、タオルやバスローブも自分で用意しなければいけないんだと思い出した。
この場にある布は、引き裂いたドレスぐらい。しかし当然だが、これで体を拭くわけにはいかない。
それなら、強行手段にはなってしまうが、魔法で風を出し水分を吹きとばしてしまおうか。
……ん?
そうだ、私には魔法があるじゃないか。そもそも、自分には市販の魔道具なんて頼らなくても、魔法を使う才能があるのだ。丁度いい温度のお湯も、体を乾かすのだって、魔法でやってしまえば良いのよ。
気づきを覚えた、私の脳はクリアになっていく。
ああ、なんでもっと早く気が付かなかったのかしら。火鉢の炭にだって、直接火を灯してしまいましょう。使い方が分からないなら、自分の力でどうにかしてしまえば良いんだわ。 うん、どうにかなりそうね!
庶民の生活に適合するのは難しくても、私は私のやり方で、庶民の生活に馴染んでみせるわ!
私は気合を入れ直して、意気揚々とシャワールームに足を踏み入れた。
——数十分後、私はこの決意を後悔することになる。