瘴気の宿舎
「エドワール様、ファニー様、商会に到着いたしましたよ」
御者の声。どうやら、商会の本部についたようだ。
窓の外には、乾燥地帯らしい丈の短い草原と、澄んだ空に満天の星空が広がっている。公爵邸の建つ標高の高い地域とはまるで違う気候だ。
目的地に着いたのでエドワールを起こそうと視線を向けたら、なんと彼はもう目覚めており降りる準備を始めていた。
「あら、随分と目覚めが良いのね」
「ああ。眠ることだけは得意なんだ。起きることもな」
彼はトランクを持ち上げ、御者が開けた扉から馬車の外に出ていく。私は少しの間馬車の中で立ち尽くしていたけれど、振り向いた彼の不思議そうな顔でようやく、今の私が馬車から降りる時に、手を差し伸べてくれる使用人は居ないということを思い出した。
……別に、貴族だからといって奢っているわけじゃない。生まれた時から当たり前だったから、サポートされるのが習慣になっていただけよ。すぐに慣れるわ。
胸に手を置き深呼吸をしてから、私は足を踏み出した。
生まれて初めて、一人の力で馬車から降りる。思ったよりも段差があって、足を降ろすのが少し怖い。それでもどうにか地面に足をつけて、目の前に広がる商会の本部に目を向けることができた。
商会の本部である建物は、一見、貴族が住まう屋敷のようだった。四角い庭を囲むように三棟の屋敷が建っており、真ん中の赤い建物には一際大きな玄関が見えた。
エドワールは屋敷を指す。
「真ん中の建物が、俺たちが商会の仕事をしている本部だ。右の建物が品物を一時的に保管する倉庫棟で、左の建物が職員が住む宿舎になっている。今日は宿舎に準備した、アンタの自室まで案内する。それで明日の朝になったら、アンタに仕事を紹介する。良いな?」
「ええ。これからお世話になるわ、よろしくお願いします」
私はエドワールに連れられて、宿舎へと足を進めた。
*****
宿舎の中は壁も床も石造りで、調度品は深い緑色、ところどころの装飾に金色がさすゴシックな雰囲気で統一された空間だった。壁にかけられた燭台に灯る、青色の炎が物寂しい。
そして一つ、この屋敷の中に入ってから付き纏う違和感があった。
なんだか肌寒い。ここは乾燥地帯のはずであり、実際、馬車から降りた時には汗ばむようなじんわりとした暑さがあった。しかし、この屋敷の中に一歩踏み入れた瞬間、冷気が肌を撫で始めた。
ただ、気温が下がっただけではない。どこか不快で、身の毛がよだつ悪寒。胃の奥が重くなるような、じんわりとした嫌悪感。
段々とそれが耐え難いものになっていって、私は早足で前を歩くエドワールに近づき、話しかける。
「ねえ、エドワール。この宿舎内はなんでこんなに寒いの? それに、ちょっと気持ち悪いんだけど……」
エドワールは立ち止まり、くるりと私に向き直る。そして、大変愉快そうに笑みを浮かべた。
「ほぉ。『魔法に自信がある』ってのは、ハッタリじゃ無かったんだな」
「? ええ。だって、商会で役立てる能力を伝えろと言ったじゃない。貴方は味方。この私が、必要ではない場面で嘘をつくとお思いなの? ……で、それが今の会話に何の関係があるわけ?」
体を浸蝕する不快感から、語気が焦った、機嫌の悪さを滲ませたものになってしまう。この間も私の悪寒は止まらず、体のいたる所から冷たい脂汗が滲みだす。
エドワールは肩をすくめ、すっかり体に力が入らなくなった私に腕を貸して歩み出した。私は彼の腕にしがみついている状態だ。これは紳士のエスコートというより、足腰が弱くなった老人の介護と言う方が近い。……おとなしくそのサポートを受け入れたものの、誰かの手を借りなければ歩けないなんて屈辱的だ。
「くっ……」
「はは、悔しいか? 俺は面白いぞ。だって、まさか初日から組織の長の腕を借りる新米が居るなんて、そうそう居ないからな。でも安心しろ、アンタがこれから向かう自室には、その不快感を失くすための物品がいくつもある」
彼の言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。
「あぁ……それなら良かったわ。でも当然よね、ここで暮らしている人は沢山いるんだもの。部屋の中でまで不快な思いをするなんて、たまったもんじゃないわよね」
私の言葉に、エドワールは不思議そうに首を傾けた。
「いや? 不快な思いをしている職員はほとんど居ねぇよ。何なら、俺も嫌悪感一つ感じてない。見ての通りピンピンだ。肌寒さぐらいは感じるがな」
「え?」
驚いて、エドワールの姿をまじまじと見る。確かに、彼の顔色は良く、気分が悪そうな様子もない。何より、こうして不快感を感じている私を支えて歩いているのだ。今まで頭が回っていなかったけれど、この環境が要因なら私だけが不調というのはおかしい。
この不調は決して私が軟弱だからという訳ではないだろう。では、何だ?
困惑する私に向かって、彼は原因をさらりと言った。
「ほら、アンタでも知ってるだろ。『瘴気』だよ」
「!」
経験は無い、けれど耳なじみのある恐ろしい言葉。
——瘴気。
『瘴気』とは、空気中に漂う生物に有害な魔力のことだ。魔力量が多い人間ほど受ける悪影響は大きく、嫌悪感に始まり、吐き気や頭痛、めまい、ひいては各臓器のはたらきの低下へと症状が進行していく。瘴気に中てられた人間の治療にはとにかく療養が大切で、しっかりした休息を取れば日常生活を送れるようになる。
また、瘴気の濃度が濃い場合、空気が緑色に淀んで見えるという特性がある。職員たちに影響が出ないということは、屋敷内に漂う瘴気の濃度は薄いのだろうし、事実、視覚的な違和感はない。
実際に瘴気を感じるのなんてこれが初めてだけど、実際に感じてみるとどんなものなのか分かるわね。とても不快だわ。
——けれど。
「『瘴気には、必ず発生源がある』。私はそう記憶しているのだけど、つまりこの屋敷の敷地内に発生源があるってこと? どうしてそんな土地に本部を建てたの?」
「違う、発生源は土地じゃない。つい最近屋敷内に持ち込んだものが原因だ」
エドワールは私に貸してない方の手をひらひらと動かして、庭の方を指さした。
「瘴気の発生源は、倉庫棟で管理している『魔導アーティファクト』群が原因だ」
「……あぁ、なるほどね」
私は自分の記憶の中にある情報と照らし合わせて、私はこの異常事態に納得することができた。
彼の言う『魔導アーティファクト』とは、古代の人類が生み出した魔道具のことであり、そのほとんどは現代でも解析不可能な謎に満ちた存在だ。
例えば、この国で有名なのは『シノスのオルゴール』。一度も巻き戻されることなく二千年以上も音を奏で続けるかつての神殿から出土した遺物で、現代では王国が運営する博物館の目玉展示だ。
しかし、『シノスのオルゴール』は神殿という聖なる場所で放置されたため無害なアーティファクトのままだったというだけで、そういった安全な魔導アーティファクトというものは稀だ。大抵は人の手を離れた長い年月のうちに、瘴気を撒き散らす災いへと変容する。
人間に作られた魔道具は、長い時間誰にも手を加えられなかった場合、例外を除いて二つの道に別れていく。
一つは、施された魔法の風化。物にかけられた魔法や結界は、時がたつごとに徐々に力を失い、やがては風化していく。一般家庭に置かれていたような小さな魔道具群はほとんどがこの道を辿っており、このように魔法が風化したかつての魔道具は、現代で『魔導アーティファクト』と定義されることはない。
そして、二つ目こそが『瘴気を発生させる危険物への変容』である。
『瘴気』には、必ず発生源がある。その多くは自然の中で発生するものに加え、人間の放置した遺物の成れの果ての姿、まさに『魔導アーティファクト』であることが多い。
魔道具に施された強靭な魔法は、そう簡単には風化しない。けれど、やはり人の手が加えられない環境であることには変わりないため、魔力ごと徐々に腐食していく。やがて、屈強な魔力は人々に害がある『瘴気』へと変貌し、邪な力を放出するようになるのだ。
そんな『魔導アーティファクト』だが、ごく稀に優秀な研究者が解析に成功し、無害化することがある。しかしそれは奇跡のようなもので、ほとんどの場合は解決が難しく、厳重な結界をいくつも張って徹底的に管理するのが基本だ。おそらく、この商会で管理している物品も、そのように結界を張られているのだろう。
……まあ、それにしても。
「この商会、そんな厄ネタも商材にしているの? 随分と色々な業界に手を出したものね。国家反逆者とでも取引するつもり?」
「別にこっちも商品として扱ってるわけじゃねぇよ。アレらの扱いには手を焼いてんだ」
「じゃあ、何で魔導アーティファクトなんて所有してるのよ。どこで手に入れたの?」
エドワールは眉を顰める。
「公爵サマからのプレゼントだよ。『カルメッサにある遺跡の所有権を全て譲渡する』って、馬車で見せた契約書に書かれてただろ? 実は、あそこはアバズレ女との婚約時点で、結婚した暁には正式に譲渡されることが決まっていたんだ。もう決まったことだったから、半年ほど前から商会側で遺跡にテコ入れをすることも許されていた。それで調査を進めていく中で、今からちょうど三カ月前、うちで雇った調査チームの人間がアーティファクトを見つけたってわけだ」
「なるほど。カルメッサにある遺跡は完全に手つかずだと考古学界では有名だものね。未だ見つかっていなかった『魔導アーティファクト』が出土したのも頷けるわ」
カルメッサは貧困層が住む街であり、インフラの整備も、学習の場や医療施設もない、治安が悪い灰色の街だ。そんな街の中にある遺跡なので中々調査が進まず、管理は長年放置されてきた。公爵もよく、遺跡の扱いに手を焼いていた。
つまりエドワール商会への譲渡は、公爵にとって厄介払い、商会にとっては火の粉を被った形なわけだ。
「発掘された魔導アーティファクトは四つ。何とかうちの商会で利用できないか、研究チームが解析を進めている。施されている魔法の数が多くて複雑らしく、解析はなかなか難航しているそうだがな」
「へぇ、そうなの。……楽しそうね」
私の発言に、エドワールは目を細める。
「『楽しそう』か。お前もそっちタイプなんだな。魔法の適性がある人間は、やはり頭がおかしいらしい」
「あら、そういった知り合いでもいるの?」
「まぁな。少なくともうちの研究チームの人間は、えらく解析作業を楽しんでいる。あんな複雑な作業が楽しいだなんて、俺には全く理解できないがな」
エドワールはそう言いつつも、どこか楽しそうに口元を緩めていた。