婚約破棄は突然に
「——以上の罪状をもって。ファニー・グラティエール、君との婚約は破棄させてもらう」
体温を感じさせない声。私の婚約者である王太子、イザールの腕の中では、清廉な女が涙を流して縋っている。その女の名前はアンナ、私の実の妹だ。イザールが言うには、今から彼女が王太子の新たな婚約者になるらしい。
アンナに対し執拗な嫌がらせを繰り返したという、全く身に覚えのない罪。目の前の男は、今まで私が愛すべきだった男は、アンナの策謀にまんまと嵌ったのだ。
パーティー会場中の視線が、この場で唯一の悪役になった私に向いている。ひそひそと、今まで私に抱いていた不満や、見せかけの欠点を大げさに取り上げる声が聞こえる。
こんなにも屈辱的な目立ち方をするんだったら、数日もかけてこのパーティーに参加するための準備をしなければ良かった。美容のためにかけた時間も、新しく仕立てたドレスも、こんなことになったら全部無駄だ。
視界の端で、アンナの婚約者であるはずの商人の男、エドワールも驚愕の色を浮かべているのが見える。そりゃあそうだ、彼もまた、私と同じように婚約者に裏切られてしまったのだから。
しかし、公衆の面前でありもしない罪を仕立て上げられた私は、彼と同じように素直に驚いているわけにはいかない。ここで迂闊な行動を取ったら、観衆の目には愚か者に映るだろう。毅然とした態度で、この罪を否定せねば。
「お言葉ですが。私は、そのような罪を犯してなどいません。すべてでっち上げの情報です」
淡々と、できるだけ簡潔に。一切の笑みを捨てた私を見た観衆は一転、皆それぞれに驚いた顔を浮かべている。……当たり前だ、こんな状況でいつもの仮面を被っていられるほど、私の心は強くない。
私の態度に驚いたのはイザールも例外ではなく、彼は僅かに眉をピクリと動かす。しかし、彼の言葉は止まらなかった。
「口では何とでも言えるさ。こちらには証拠が揃っている、君に逃げ道はない。そして、婚約破棄は決定事項だ。君自身の処分について、こちらからは『貴族身分の剥奪』と『グラティエール公爵家からの追放』の二点を申し立てさせてもらう。……これでも、十分温情をかけている。牢に入れていないだけ、ありがたいと思ってくれ」
「っ……!」
思わず唇を噛んで、すぐに平静を取り繕う。
きっと今イザールにどれだけ苦言を呈したところで、彼が私の言葉を聞き入れることは無いだろう。ならば、みっともなくこの場に留まらず、さっさと会場から出て行ったほうが良い。
ドレスの裾を軽く持ち上げ、優雅に一礼。ピンと張った背を曲げずにターンを決め、わたしはパーティー会場の出口へと歩いていく。上品に、高潔に。
あんな悪事を働くなんてと蔑む目、新たなゴシップネタだと愉快そうな目、楽しいパーティーを中断するなと怒りを向ける目。様々な視線が、私の背中に突き刺さる。
そんな目、二度と向けさせない。全員顔は覚えたわ、一人残らず後悔させてやる。
そんな時、上記のどれでもないような、違和感のある視線を感じる。
それは私を値踏みするような、思惑のこもった目。どの道不快だが、他の視線よりはマシだった。
一体どこの誰が、と視線の方向を一瞥すれば、そこにはアンナの婚約者であったはずのエドワールが。カチリと目が合う。
彼の顔に浮かんでいるのは、いつもの爽やかで物腰柔らかな青年とはまるで違う表情だった。
……もしかして、あなたも私と同じなの?
すぐに視線を正面に戻す。彼とは会話もやりとりも無いまま、私はパーティー会場の外に出た。
集まりは王城の大広間で行われていたので、城の長い廊下に出る。私を家まで送り届ける手筈の公爵家の人間であるはずの御者は、どこか気まずそうでよそよそしい。
……私は結局、誰からも愛されていないのね。
城を出て、公爵家印の馬車に乗り込む。やっと訪れた一人の空間で、張りつめていた糸が切れたようにため息をついた。
きっと家に帰ったら。今日は夜遅いから眠らされて、明日の朝に現公爵であるお父様とこれからの処分について話し合うことになる。きっと王太子であるイザール直々の申し立てならば、お父様は間違いなくそれに従うだろう。そもそも父にとっては、イザールに嫁ぐのが私でもアンナでも、娘が未来の王に嫁ぐ点は何も変わらないので渋る理由がない。
家を追い出された後、私はどうすれば良いのかしら。
やるべきことは決まっている。アンナも、イザールも、あのパーティー会場で私を馬鹿にしてふんぞり返った人間たちも、あの地位から叩き落とす。今までの私の理想でいるための努力を仇で返したことも、あんな大衆の面前で赤っ恥をかかせたことも、絶対に許さない。
……けれど、私は貴族籍を失ってしまう。どんな手を使うとしても、地位の高い人間と関わるためには、それ相応の地位が必要というものだ。私一人だけの力で、どうやって解決しろというのか。……まあ、どれもこれも、明日になって、私の処遇が決まった後に考えるべきことだ。この馬車の中であれこれ考えたところで、取らぬ狸の皮算用である。
たった一人の空間で、私は指をくるりと回す。指先から光でできた蝶の幻影を生み出して、その可愛らしさで自分の心を少しだけ癒す。攻撃力や効果なんて無いけれど、子供の頃から大好きな魔法。
次期公爵である兄、エタンより優秀であってはならないと言いつけられていたから、私が何も気にせずに人前で使えた魔法はこれぐらいだった。本当は魔法分野の勉強をもっと深くしたかったけど、私にそれは許されていなかったのだ。けれど、生まれ持った才能は私の方が上であり、表に出るエタンをサポートするために、秘密裏に魔法を使ったことも少なくない。
でも、それももう終わりだ。この機会だし、今まで許されていなかったことを沢山しようか。「グラティエール公爵令嬢」を演じるのも、これで終わりだ。
確かな復讐心と、どことない喪失感。そして、ほんの少しの解放感を抱きながら、私は血を分け合った家族が住まう公爵家の邸宅に、人生最後の帰宅をした。