File.1 硝子の琴
カナダ・テックから持ち帰った情報と、久我さんが掴んだお金の流れ。二つの事実は、一つの大きな矛盾を生み出していた。
「状況証拠は、金田が犯人だと叫んでいる。だが、金の流れは、馬場崎がXに大金を支払ったと示している…」
久我さんは、何日も寝ていないかのような赤い目で、ホワイトボードの相関図を睨みつけていた。
「馬場崎は、何かを伝えたがっている。自分の死をもってな。そのメッセージは、警察が見つけられない場所に隠されているはずだ。…つまり、奴の仕事場、サイバーゲート本社の社長室だ」
「でも、もう警察が調べて…」
「警察は『殺人事件の証拠』を探す。俺たちが探すのは『自殺した男の遺言』だ。視点が違う。必ず何か残っている」
彼はそう言うと、一枚のカードキーをテーブルに滑らせた。見慣れない、青いラインの入ったカードキー。
「日中に潜入して、あんたの演技力に頼るのもいいが、今度は時間との勝負だ。深夜、俺も一緒に行く」
「これ…」
「昨日のうちに、ビルのセキュリティシステムに挨拶してきた。数時間だけ有効な『VIPゲストカード』だ。これがあれば、正面玄関と役員フロアはフリーパスだ」
久我さんの口の端が、ニヤリと歪む。彼の言う「挨拶」が、決して合法的なものではないことは、私にも分かった。
「問題は、社長室のPCだ」と彼は続けた。「馬場崎ほどの男だ、重要なデータは幾重にもロックされている。すべてをコピーするには時間がかかりすぎる、そこでだ。」
彼は、今度は一本のUSBメモリを私に手渡した。一見、どこにでもある普通のUSBだ。
「これはただのメモリじゃない。差し込んでプログラムを起動すれば、PC内の隠しパーティションや、特定のキーワードに関連する暗号化ファイルを自動で検索し、高速で抽出するツールだ。俺の特製だ」
「引っこ抜きツール…」
「そうだ。所要時間は、約5分。その間に、俺はサーバー室でデータの最終アクセスログを洗う。馬場崎が死ぬ直前、何にアクセスしようとしていたかを探る。いいな?」
「…私が、社長室に一人で?」
「ああ。俺がサーバー室にいる方が、万が一警備システムが作動しても対処できる。お前は、ただUSBを差し込んで、5分待つだけだ。簡単だろ?」
簡単なものか。私の心臓が、またうるさく鳴り始めた。
深夜二時。
真夏の夜だというのに、サイバーゲート本社のビル内は、空調のせいでひんやりと肌寒かった。久我さんが偽造したカードキーは、まるで本物のように、ガラス張りの自動ドアとエレベーターのロックを次々と解除していく。
役員フロアは、静まり返っていた。ガラス張りの壁の向こうに、人気のないオフィスが、モニターの待機ランプの赤い光だけを点滅させている。まるで巨大な深海魚の体内に迷い込んだみたいだった。
「俺はサーバー室へ向かう。お前は社長室だ」
廊下の分岐点で、久我さんが短い指示を出す。
「例のUSBは、PCを起動して、パスワード入力画面のままでいいから差し込め。あとは自動で始まる。5分だ。5分経ったら、何があってもUSBを抜け。そしてここに戻ってこい」
「…はい」
「何かあれば、インカムで知らせろ。だが、喋るのは最小限にしろ」
そう言うと、彼は猫のように音もなく、廊下の闇に消えていった。
一人取り残された私は、心臓の音を抑えながら、重厚な社長室のドアノブに手をかけた。
社長室の中は、馬場崎さんの人柄が偲ばれる、上品で落ち着いた空間だった。大きな窓の向こうには、街の夜景が広がっている。
机の上には、家族の写真が置かれていた。こんな場所で、彼はたった一人で死んでいったんだ…。
感傷に浸っている時間はない。私は彼のデスクチェアに座り、PCの電源を入れた。静寂の中に響く起動音が、やけに大きく聞こえる。
パスワード入力画面が表示される。私は言われた通り、震える手でUSBをポートに差し込んだ。
すると、画面に黒いウィンドウが開き、緑色の文字が滝のように流れ始めた。
[K.U.G.A. EXTRACTOR Ver.3.2] >> STARTING SCAN...
SEARCHING FOR ENCRYPTED FILES... KEYWORD: X, GRANDFATHER, PROTOTYPE...
FILE FOUND. COPYING... 1%
1パーセント。
心臓がどくん、と鳴った。長い。あまりにも、時間が経つのが遅い。
私はただ、ゆっくりと進んでいくプログレスバーを、祈るように見つめることしかできなかった。
COPYING... 27%
その時、耳のインカムから、久我さんの押し殺した声が聞こえた。
『…宇宙、聞こえるか。警備員がフロアの巡回に来た。あと3分でそっちに着く』
3分。プログレスバーはまだ50%にも達していない。
冷や汗が背中を伝う。早く、早く、早く…!
COPYING... 81%
廊下の向こうから、かすかに足音が聞こえてきた。まずい、もう来た!
『…ログを掴んだ。馬場崎は死ぬ直前、一つの暗号化ファイルにアクセスしようとしていた。そのファイルだ、急げ!』
COPYING... 99%
足音は、もうドアのすぐ前で止まった。ガチャリ、とドアノブが回る音がする!
[COPY COMPLETE] >> REMOVE USB DRIVE NOW
私は表示と同時にUSBを引き抜き、モニターを消すと、椅子から転げ落ちるようにして、巨大なデスクの影に身を潜めた。
ドアが、ゆっくりと開く。
懐中電灯の光が、室内をゆっくりと、半円を描くように照らしていく。PCのファンが回る静かな音が、やけにうるさく感じる。
私のすぐ足元を、白い光が通り過ぎていく。心臓が止まりそうだった。
やがて、警備員は異常がないと判断したのか、ドアを閉めて去っていった。
私は、しばらく動けなかった。やがて、震える足で立ち上がり、USBを強く握りしめて、音を立てずに社長室を後にした。
事務所に戻った久我がさんは、私が持ち帰ったUSBを、まるで宝物のように受け取った。
「よくやった」
短いその一言が、なぜかとても心に沁みた。
彼がPCにUSBを差し込むと、一つの暗号化されたファイルだけがコピーされていた。ファイル名は「Lyr_αβγδε_009.dat」。
「……こと座の、あの暗号の番号」
私が呟くと、久我さんは「パスワードだ。入力しろ」と顎をしゃくった。
私は震える指で、パスワードを打ち込む。
「95831」
あの日、レンズで見た、こと座の星々の数字。
ロックが解除され、画面に現れたのは、一本の動画ファイルだった。
再生すると、そこに映し出されたのは、数日前の、生前の馬場崎社長だった。ひどく痩せているが、その目は、驚くほど澄んでいた。
『…この映像を君が見ているということは、私の計画は成功し、そして君が、彼が遺した真の継承者だということなのだろう』
映像の中の馬場崎社長は、全てを語り始めた。末期の病に侵されていること。長年の友人だった私の祖父の技術が、ライバルである金田によって盗まれ、Xという闇の仲介人を通じて、兵器として転用されていること。そして、警察も動かせないこの巨大な悪を告発するために、彼が自らの死を「殺人事件」に偽装する計画を立てたこと。
『金田を捕まえるだけでは意味がない。その背後にいるXと、盗まれた技術の全てを白日の下に晒さなくては。私はそのための、最初の駒だ。君に、この戦いを託したい』
動画の最後、彼は一枚の古い設計図を画面に見せた。
『これが、二つ目のかけらの在処を示す、新たな暗号だ。頼んだよ……』
映像が終わり、部屋には静寂が戻った。
それは、単なる自殺の真相ではなかった。死者が、未来を生きる私に託した、重く、そして悲しい「遺言」だった。
私は、モニターに映る自分の顔を見つめた。もう、ただの高校生ではいられない。
久我さんに向き直り、私は静かに、しかしはっきりと告げた。
「…次の暗号、解きます」
File.1『硝子の琴』 完