プロローグ(7)
――ライバル企業の、金田社長
その名前を聞いた瞬間、私の背中に、冷たい汗が流れた。
耳元のイヤホンから、久我さんの、短く、しかし鋭い声が響く。
『…上出来だ、助手。もういい、そこまでだ。適当に理由をつけて、すぐにそこを出ろ。今すぐだ』
彼の声には、獲物を見つけた狩人のような、獰猛な響きが混じっていた。
私は、この時初めて、自分が足を踏み入れた世界の、本当の危険さを肌で感じていた。
その夜、事務所のモニターに映し出されていたのは、人の良さそうな笑顔でゴルフコンペのトロフィーを掲げる、初老の男の写真だった。
金田社長。馬場崎社長の長年のライバルであり、今回の事件で最も利益を得る人物。そして、私たちの「最初の容疑者」だ。
「金田は、馬場崎が死ぬことで、少なくとも50億規模の海外契約を横取りできる。動機としては十分すぎるほどだ」
久我さんは、キーボードを叩きながら、壁のホワイトボードに金田の写真と、馬場崎の写真、そして二つの会社を線で結んでいく。
「だが、証拠が足りない。倉田秘書の証言だけでは、警察は動かん。お前には、明日からこの金田と、彼の会社『カナダ・テック』を徹底的に洗ってもらう」
「今度は、どんな脚本で?」
「同じ手は二度使えん。次は、お前の通う高校の名前を正式に使う」
久我さんは、いつの間にか用意していたらしい、私の高校のロゴが入った「社会科見学申込書」のデータをモニターに映し出した。あまりの精巧さに、私は言葉を失う。
「『地域の先進企業について学ぶ』という名目で、カナダ・テックにアポイントを取れ。目的は、金田本人への直接インタビューだ」
「本人に、ですか!?」
「ああ。ライオンの檻に、直接頭を突っ込んでもらう」
彼は不敵に笑った。
「俺は、その間にカナダ・テックのサーバーに侵入し、金の流れを追う。お前は、金田という男の『人間』を観察しろ。馬場崎社長が亡くなった時の彼の反応、会社の雰囲気、経営状況…どんな些細な情報でもいい。奴が犯人だという仮説を、裏付ける材料を集めてこい」
数日後。私は、久我さんが作った完璧な「社会科見学申込書」のおかげで、カナダ・テックの広報担当者との面談にこぎつけていた。
……これじゃあ探偵じゃなくて詐欺師だよぉ……。
金田社長本人との面会は「多忙のため」と断られたが、これも久我さんの想定内だったらしい。
「社長は、馬場崎社長の訃報を聞かれた時、本当に残念がっていらっしゃいました。『長年の好敵手を失った』と、珍しく弱気なところを見せられて…」
人の良さそうな広報担当の女性は、私の「学生」という立場にすっかり油断し、様々なことを話してくれた。会社の経営が順調であること。
金田社長がいかに社員思いであるかということ。そして、馬場崎社長とは、ライバルではあったが、互いに尊敬しあう関係だった、ということ。
(嘘だ…)
私は、相槌を打ちながら、心の中で呟いた。この人たちは、何も知らない。自分たちの社長が、ライバルを殺害したかもしれない、冷酷な殺人犯だなんて。
耳元のイヤホンからは、久我さんの静かな指示が飛んでくる。
『経営状況を探れ。本当に順調なのか?』
「社長さん、本当にすごいんですね! この間の海外の大きな契約も、御社が獲得されたってニュースで見ました!」
「ええ、あれは本当に幸運でした。実は、直前までサイバーゲート社さんが優勢だったんですけどね。馬場崎社長がああいうことになって…結果的に、うちが契約を頂けることになったんです」
女性は、少しだけバツが悪そうにそう言った。
私は、数日間にわたって、カナダ・テックの社員や、会社の近所の飲食店にまで足を運び、地道な聞き込みを続けた。
集めた情報は、どれも金田社長が「犯人である」という状況を補強するものばかりだった。彼には動機があり、そしてアリバイはなかった。
全ての調査を終えた夜、私は久我さんの事務所で報告をしていた。
「これで、金田社長が犯人だって、ほぼ確定ですよね?」
私の言葉に、しかし、久我さんは黙って首を横に振った。彼の顔は、数日前よりもさらに疲弊しているように見えた。
「…おかしいんだ」
彼は、モニターに表示された、複雑な金の流れを示す図を指さした。
「金田の会社の金の流れは、あまりにクリーンすぎる。Xからあんなおもちゃを買うなら、必ずどこかに歪な金の動きがあるはずだ。だが、ない。金の流れだけを見れば、奴は聖人君子だ」
「でも、動機は…」
「ああ、動機も状況証拠も揃いすぎている。まるで、誰かが『犯人はこいつです』と、ご丁寧に道筋を立ててくれているみたいで、気味が悪い」
久我さんは深く息を吐き、別のウィンドウをモニターに表示させた。それは、追跡不能と言われる仮想通貨の、複雑な取引履歴だった。
「だから、発想を変えた。金田からXへの流れがないなら、逆はどうだ、と。つまり…」
彼の指が、ある一つのウォレットから、巨大な暗号資産がXの口座へと送金されている記録をハイライトした。
「被害者である馬場崎から、Xへの送金記録だ」
その瞬間、事務所の空気が凍った。
私が集めてきた、金田社長を犯人だと示す数々の情報が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
「馬場崎社長が…Xに…? どうして…自分で自分を殺すためにお金を払ったってことですか?」
私の声は、自分でも驚くほど上ずっていた。
「でも、それなら、もっとおかしいじゃないですか! 自殺するだけなら、あんな大掛かりな装置なんていらない! 自分で、あのガラスのオブジェを床に叩きつければ、それで終わりだったはずです!」
私の当然の疑問に、久我さんは初めて、どこか敬意に似た表情を浮かべた。彼はゆっくりと立ち上がり、事件の相関図が描かれたホワイトボードの前に立つ。
「…俺も、最初はそう思った。非合理的だ、とな。だが、間違っていたのは俺たちの方だ。馬場崎の本当の目的は、単に金田を殺人犯に仕立て上げることじゃなかったんだ」
彼は、マジックペンを手に取ると、馬場崎と金田を結んでいた線を、ぐしゃぐしゃと塗りつぶした。
「もし彼が、自分でオブジェを割って死んでいたら、どうなる? 警察は、現場の状況から、ほぼ間違いなく『悲観した社長の自殺』として処理するだろう。金の動きを調べても、馬場崎が大金を使っていれば、『何かに悩んでいたんだな』で終わりだ。事件は、そこで終わる。誰も、『X』の存在にも、この世にあり得ない超技術の兵器が存在することにも、気づかないままな」
久我さんは、ホワイトボードの中心に、大きく「X」と書き加える。
「だが、彼はそうしなかった。彼は、あえて『指向性共鳴装置』を使った。なぜか? それは、『物理的にあり得ない状況』を作り出すためだ。内側から施錠された完全な密室で、誰も触れていないはずのガラス容器が、内側から弾けるように砕け散る。そんな『奇跡』、あるいは『魔法』のような犯罪現場を、意図的に作り上げたんだ」
「それって…」
「ああ。彼は、自分の死そのものを、『この世界には、常識では計れない、異常なテクノロジーが存在する』という、動かぬ証拠として遺したんだ。普通の警察では迷宮入りするような、不可解な事件。そんな謎を前にすれば、必ず俺のような『裏の専門家』が嗅ぎつけると、彼は信じていた。彼は、自分の命を餌にして、俺たちを探偵として、この事件の舞台に強制的に引きずり出したんだよ」
馬場崎社長の本当の狙い。
それは、金田への復讐などという個人的なものではなかった。自分の命と引き換えに、祖父の技術を悪用する巨大な闇の存在『X』を、白日の下に晒すこと。
そのための、あまりにも悲しく、そして壮大な自殺計画。
私は、ホワイトボードに描かれた事件の全体像を見つめながら、静かに拳を握りしめた。
おじいちゃんが遺した「光の遺産」と、馬場崎さんが命を賭して遺した「告発状」。
二つの重みを、今、確かにこの両腕に感じていた。