プロローグ(6)
あの夜、久我さんの事務所で缶コーヒーを飲んでから、どれくらい経っただろうか。
私は、自分の部屋のベッドの上で、ほとんど眠れずに朝を迎えていた。窓の外が白み始め、鳥の声が聞こえてくる。学校は、今日から夏休み。
けれど、私の心は、昨日までの私とは全く違う、重たい決意と、ほんの少しの恐怖で満たされていた。
約束通り、午前十時に、私は再びあの古びた雑居ビルの301号室のドアを叩いた。
昨日とは違い、ドアはすぐに開いた。久我さんは、昨日と全く同じよれたTシャツを着て、欠伸を噛み殺しながら私を中に招き入れた。部屋の空気は、相変わらず古紙とコーヒーの匂いがした。
「…よく眠れたか、助手」
「いえ、全然」
正直に答えると、彼は「だろうな」とだけ言って、モニターの前に座った。画面には、私が知らない誰かの顔写真や、意味不明な文字列が、無数に表示されている。
「いいか。ここからは二手に分かれる」
久我さんは、キーボードを叩きながら、私に背を向けたまま言った。
「俺は、この部屋から一歩も動かずに、被害者・馬場崎の『デジタルの亡霊』を追いかける。SNS、会社の内部ネットワーク、金の流れ…ネットに残された痕跡は、俺が全て洗い出す」
彼は、冷めきったコーヒーを一口飲むと、椅子を回転させ、鋭い目で私を見た。
「お前にやってもらうのは、もっと泥臭い仕事だ。『生の人間』からしか得られない情報を、足で稼いでこい」
「生の、情報…?」
「ああ。俺が欲しいのは、データには現れない、人間の感情の揺れ動きや、現場の空気…そういう『違和感』だ」
彼は、私が来る前に調べておいたのだろう。馬場崎社長と、私の祖父の間に、過去に僅かな接点があったことを突き止めていた。20年近く前、馬場崎の会社がまだ小さかった頃、祖父の「共鳴技術」に投資しようと接触してきたことがあったらしい。
「この繋がりを使う。お前の脚本はこうだ」
久我さんは、私に一つの完璧な「設定」を授けた。
「『祖母の遺品整理をしていたら、祖父と馬場崎社長との古い手紙が出てきた。祖父がどんな人間だったのかを知りたくて、生前の彼を知る人に話を聞いて回っている』…これで行け。目的はあくまで、亡くなった祖父を偲ぶ、健気な孫娘だ。殺人事件の調査だとは、絶対に悟られるな」
彼は、米粒のように小さなイヤホンマイクを私に手渡した。
「何かあれば、これで指示を出す。ヤバくなったら、俺からお前のスマホに電話を入れる。母親からの電話だということにして、すぐに場を離れろ。いいな?」
「……はい」
「最初のターゲットは、馬場崎の秘書だ。社長のスケジュールから人間関係まで、全てを把握しているはずだ。特に、あの『ガラスのオブジェ』…あれが誰からの贈り物だったのかを、自然な会話の中で聞き出せ。最重要ミッションだ」
渡された脚本と、耳に仕込んだ小さな機械。
まるでスパイ映画の主人公にでもなったみたいだ。でも、これは映画じゃない。私の胸の中には、あの美しいプロトタイプが放っていた、冷たい輝きがまだ焼き付いている。
午後二時。私は、多摩地区にそびえ立つ、近代的なオフィスビルの前に立っていた。
被害者・馬場崎が社長を務めていた、IT企業「サイバーゲート・ソリューションズ」の本社だ。ガラス張りの壁が、真夏の太陽を容赦なく反射している。
私は、一番きちんとして見える、白いブラウスと紺色のスカートという、自分でも気恥ずかしくなるような優等生の格好をしていた。久我さん曰く、「相手が最も油断する格好」らしい。
受付で、震える声で用件を伝えると、私は応接室に通された。数分後、現れたのは、四十代くらいの、スーツを完璧に着こなした女性だった。馬場崎社長の第一秘書を務めていた、倉田さんという人だ。
「はじめまして。美星宇宙と申します。本日は、お忙しいところ、ありがとうございます」
練習してきた通りに、深く頭を下げる。
「倉田です。…それで、亡くなった社長と、あなたのおじい様が…?」
倉田さんは、私を訝しむというより、純粋に興味を惹かれているようだった。作戦は、今のところ成功している。
私は、久我さんに指示された通り、祖父の話を切り出した。
「はい。祖父の古い資料の中から、馬場崎社長と技術提携のお話をしていた頃の手紙が見つかりまして…。祖父のことは、小さい頃に亡くしているので、ほとんど知らないんです。だから、少しでも祖父のことを知っている方にお話が聞ければと…」
私の言葉に、倉田さんの表情が少し和らいだ。
「そうだったの…。社長も、昔のことを懐かしそうに話すことがあったわ。『昔、すごい技術を持った天才がいたんだ』って。きっと、あなたのおじい様の事ね」
会話は、思ったよりもスムーズに進んだ。倉田さんは、社長の思い出を、時折目を伏せながら、静かに語ってくれた。
その時、耳の中のイヤホンから、久我さんの低い声が囁いた。
『…いい流れだ。そろそろ本題に入れ。オブジェの話だ』
私は、心臓が跳ねるのを感じながら、一番自然なタイミングを計った。
「社長室、すごく素敵なところだったんでしょうね。私も、一度でいいから、おじいちゃ……、祖父の書斎みたいな、すごい人の仕事場っていうのを見てみたかったです」
「ええ、社長はセンスの良い方だったから。調度品にも、とてもこだわっていらしたわ」
「そういえば、ニュースの映像で少しだけ映っていたんですけど、棚の上に、ガラスの綺麗な置物みたいなのがありませんでしたか?」
「ああ、あの球体のオブジェね。ええ、ありましたわよ。社長、とても気に入っていらして…」
倉田さんは、そこで少しだけ言葉を区切り、悲しそうに目を伏せた。
「…本当に、お気の毒なこと。あれ、事件の少し前に、ライバル企業の金田社長から『和解の印に』って贈られてきたものだったのよ。社長、あれを飾って、『これで長年の懸案も一つ片付いた』って、本当に嬉しそうだったのに…」
――ライバル企業の、金田社長。
その名前を聞いた瞬間、私の背中に、冷たい汗が流れた。
耳元のイヤホンから、久我さんの、短く、しかし鋭い声が響く。
『…上出来だ、助手。もういい、そこまでだ。適当に理由をつけて、すぐにそこを出ろ。今すぐだ』
彼の声には、獲物を見つけた狩人のような、獰猛な響きが混じっていた。
私は、この時初めて、自分が足を踏み入れた世界の、本当の危険さを肌で感じていた。