プロローグ(5)
深夜3時。久我さんの事務所は、モニターの青白い光だけが揺らめき、まるで深海のようだった。
机の上に置かれたジュラルミンケースを前に、私達は息を呑んでいた。久我さんがケースのロックを外すと、中には緩衝材に守られた、掌サイズの美しい金属製の装置が収められていた。
いくつもの水晶発振子が組み込まれた、精密な円盤。それは、兵器というより、未来の科学が生んだ芸術品のようだった。添えられた祖父の手書きのメモには、その平和的な使用法が記されている。
『…対象物の共振周波数を正確に合わせることで、物理的な接触なしに、内部から構造を破壊し、精密な加工を可能にする…』
「すごい…おじいちゃん…」
自分の家族の偉大な才能に、私の胸は誇らしさでいっぱいになった。
その、時だった。 久我さんの目が、机の上に広げっぱなしにしていた、別の事件の資料に釘付けになった。彼が追っていた「IT社長・密室怪死事件」の資料だ。
「…密室、原因不明の毒ガス、そして現場に残された、不可解に砕けたガラスのオブジェ…」 彼は、事件の状況と、目の前にあるプロトタイプの「機能」…触れることなく、特定の物質だけを内部から破壊する、という祖父のメモの内容を、頭の中で結びつけていた。
「……そういうことか」
久我さんの声が、低く唸るようだった。彼は、事件資料の写真を私に見せる。そこには、粉々になったガラスの破片が写っていた。
「犯人は、部屋に入る必要すらなかったんだ。あらかじめ、このガラスのオブジェの中に毒ガスを封入しておき、ターゲットの社長にプレゼントとして贈る。そして、犯行時刻、犯人は隣の部屋か、あるいはビルの外から…この装置の完成品を使い、ガラスのオブジェだけが持つ共振周波数を照射したんだ」
「ガラスだけを、外から狙って…割った…?」
「ああ。そうすれば、ガラスだけが内側から弾けるように砕け散り、中の毒ガスが部屋に充満する。凶器は『音』か『電波』そのものだ。証拠は何も残らない。警察が、ガラスの破片をただの『容器』としか見ない限り、これは永遠に解けない、完璧な密室殺人になる…」
久我さんの言葉が、頭の中で反響する。
目の前にある、おじいちゃんの「最高傑作」。おばあちゃんが探してほしいと願った「かけら」。
さっきまで誇らしさでいっぱいだった胸が、今は氷のような罪悪感で軋んでいた。胃の中のコーヒーが、鉛みたいに重くなる。
美しいと思っていた装置が、今はまるで、獲物を待ち構える毒蛇のように見えた。
楽しかったはずの宝探しが、一人の人間の「死」に繋がってしまった。
その冷たい事実に、私は立っていることもできず、その場にへなへなと座り込んでしまう。私の胸を、氷のような罪悪感が支配していた。
「…立てるか」
久我さんの静かな声が、床に座り込む私の頭上から降ってきた。私は顔を上げられない。
「…おじいちゃんの、せいじゃ…」
「違うな」
彼の声は、きっぱりとしていた。
「お前の爺さんの発明は、人を幸せにするためのものだったんだろう。少なくとも、始まりは。それを捻じ曲げた奴がいる。…お前が見るべきなのは、そっちだ」
久我さんは、私の目の前にしゃがみ込むと、モニターの一つを私の目の高さに引き寄せた。画面には、古びた事件ファイルのリストが表示されている。
「お前は、これが最初の事件だと思ってる。…間違いだ。馬場崎は、ただ一番新しい被害者というだけだ」
彼がエンターキーを押すと、一つのファイルが開かれた。
【未解決事件ファイル:No.077】
事件名: 通称「見えざる指弾」事件
発生日時: 2023年9月7日
被害者: 政治家 長谷部公昭
状況: 厳重な警備下のホテルのスイートルームにて、胸に小さな孔を開けて死亡。弾丸は発見されず、銃声もなし。完全な密室。
警察の見解: 急性の心臓破裂。事件性なし。
久我のメモ: …壁に残っていた微小な金属粒子。タングステンか。弾丸そのものが目標到達と同時に蒸発する仕組みか。Xの仕業だ。
「次はこれだ」
久我さんは、間髪入れずに次のファイルを開く。
【未解決事件ファイル:No.091】
事件名: 通称「沈黙の崩落」事件
発生日時: 2024年2月3日
被害者: ジャーナリスト 篠田亮二
状況: 地下駐車場にて、頭上のコンクリート天井の一部だけが砂のように崩落し、圧死。予兆も、建物の老朽化も見られない。
警察の見解: 原因不明の建築構造上の欠陥による事故。
久我のメモ: …特定の構造物の周波数だけを狙い撃ちできる兵器か……?手口不明、証拠もない。篠田はXの金の流れを追っていた。消されたな。
「どういうことですか、これ…」
私の声は震えていた。
「見ての通りだ」
久我さんは、吐き捨てるように言った。
「お前のじいさんの発明品は、俺たちが知らないうちに、Xの手によって世界中にばら撒かれてる。そして、こうして人を殺し続けている。警察が『事故』や『原因不明の突然死』で片付けた事件の裏には、大抵こいつらがいる」
彼は、椅子に深くもたれかかり、私をまっすぐに見つめた。
その目は、これまでのどの瞬間よりも、冷たく、そして真剣だった。
「お前のじいさんの発明が、殺人に使われちまってるんだよ、美星宇宙。馬場崎は、その事実をお前に知らせるために死んだ。…これが、お前が足を踏み入れようとしている世界だ」
「……」
「俺は、Xを追う。そのために、あんたの爺さんが遺した暗号を解く必要がある。それには、お前の知識が不可欠だ。……お前を助手として雇いたいのが本音だ。だが、見ての通り、これは遊びじゃない。命のやり取りだ」
彼は、一度言葉を切った。まるで、私に最後の逃げ道を差し出すように。
「…できるか? 俺の助手として、この地獄に付き合う覚悟はあるか?」
私は、モニターに映る、いくつもの事件の記録を見つめた。
見えざる指弾。沈黙の崩落。そして、硝子の琴。
その全てが、私の祖父から始まっている。
誇らしさでいっぱいだった胸は、もうとっくに砕け散っていた。残っているのは、焼けるような痛みと、そして、ここで逃げてはいけないという、たった一つの、強い想いだけだった。
私は、自分の反射が映る、暗いモニターの向こうで、久我さんの顔を真っ直ギンに見つめた。
「…やります」
私の声は、もう震えていなかった。
「あなたの助手として。私に、できることなら」
久我さんは、何も言わずに、ただ静かに頷いた。
こうして、私の、本当の夏休みが始まった。
ただ星を眺めているだけでは終わらない、たった一度の夏が。